与那国の土地争い(共通語)

概要

この島の大屋三郎という方は、男だけ七名の子供がいて、その人は釣りが好きであったらしい。釣りに行ったら大物釣られたから、その大きな魚担いで、自分の奥さんの実家の門の前まで行ったら、舅(しゅうと)さんが姑(しゅうとめ)さんに、「うちの婿は、子供を七人も生んでいるのに、魚釣ってぶらぶらしおる。何を食べさすつもりか。」とに話しているのが聞こえたからね、もうその家に入れずに、すぐ家に帰ると、子ども達七人全部呼んでね、「舅(しゅうと)さんさえ、そう言って自分を笑っていらっしゃる。だから、世間は、自分をどう笑ってるか分からない。だけど我々は何も財産も何もなくて、あんたなんかに譲るのは何にもない。親から譲れるのは、今は鍬(くわ)と箆(へら)とあんたなんかの手足だけだから、それだけがあんたなんかの財産よ。田圃が欲しければちゃんとまた水が引けるところであるから、そこを耕せばいい。」と言って、鍬(くわ)と箆(へら)を作ってやったそうだ。それが七人兄弟の遺言になったから、長男が主体になって満田原(まんたばる)で水田開拓に入るわけさね。その同じころにその七人に負けない体力がある東里(あがりざと)の五人の兄弟がやはり満田原を開拓をしよるわけさね。一方が上から開拓すれば、一方は下からこうして田圃を開拓したから両方の開拓の競走になったから、そこを全部開拓し終わった後はお互いにもう小作しておったらしい。その七人兄弟は、一番末っ子にちょっと学問を勉強させておったから、その末っ子は字が書けたらしい。それで、その七人兄弟の末の弟は、こっちでフルシと言う砂岩でちゃんと自分の判の印を作ると、それを焼いて持ってきた竹に焼印をつけたそうだ。それから夜中に兄弟七名でこっそり行くと、東里(あがりざと)の五人兄弟が開拓した南と北を掘って、その焼印をつけた竹を埋めたらしいよね。四、五年前に五人兄弟が開拓したそこは、もう草がぼうぼうと生えて、どこがどうなのか分からなくなっているわけさね。その後で今度は七人兄弟は、東里(あがりざと)の五人の兄弟に話をぶっかけたわけさな。「ここは誰の財産と思う。自分の財産だからここを開拓していいか。」ってもちかけたらしい。だけど、向こうの東里(あがりざと)の兄弟は、何も証拠がないわけさなけど、相手に、「あんたなんかは何が証拠か。」と言うと、「我々はちゃんとと証拠があってやってるよ。」って言って、焼印をつけた竹は自分が埋めたところだから分かるでしょ。それを掘ってきて、「我々は、お墓の祖先からそういう譲りがあって、ここを開拓してる。」と言うたから、とうとう東里(あがりざと)氏は負けたらしい。それから東里(あがりざと)氏は、こちらではどうもできないということで、五人兄弟のうちの一人か二人は唐に行ってるわけさな。今の東里(あがりざと)氏は前盛と玉村とかそういう一門だから、そういうふうなことで、戦後は、与那国と台湾の闇商売が流行って、台湾の一門が与那国に来たとき、ちょうど江戸時代に一門の人が航海して台湾に行ったとか、中国の福州に来たとか伝えてきてるわけさな。そのとき、自分の義兄の兄さんの話では、本家の大俣という家(うち)を見せてくれと言ってから、大俣の家に連れて行くと、大きいしゃこ貝があるんですね。それを見て、しゃこ貝の一つは自分の唐にあると言って、自分の親の写真を見ると、その人は、「ああ、祖先の写真と全くよく似てる。」と言って、「こっちは本家だから、自分達が材木を持ってきてやる。」という話まで出たそうだ。そのうちに昭和の二三、四年頃この島に、共産党が入ってきとるってことで、アメリカがばんと入って来てからは、もう台湾貿易が出来なくなったから、こっちに材木持ってくるってことも全部、そのままぱあになってるさ。

再生時間:10:11

民話詳細DATA

レコード番号 47O341692
CD番号 47O34C129
決定題名 与那国の土地争い(共通語)
話者がつけた題名
話者名 西銘行雄
話者名かな にしめゆきお
生年月日 19160623
性別
出身地 沖縄県八重山郡与那国町祖納
記録日 19960918
記録者の所属組織 沖縄口承文芸学術調査団
元テープ番号 与那国町祖納 T04 B08
元テープ管理者 沖縄伝承話資料センター
分類 20
発句(ほっく)
伝承事情
文字化資料
キーワード 大屋三郎,七人兄弟,満田原,水田開拓,東里,五人兄弟,競走,学問,フルシ,竹,焼印,財産,証拠,唐,与那国,台湾,闇商売,中国,福州,大俣
梗概(こうがい) この島の大屋三郎という方は、男だけ七名の子供がいて、その人は釣りが好きであったらしい。釣りに行ったら大物釣られたから、その大きな魚担いで、自分の奥さんの実家の門の前まで行ったら、舅(しゅうと)さんが姑(しゅうとめ)さんに、「うちの婿は、子供を七人も生んでいるのに、魚釣ってぶらぶらしおる。何を食べさすつもりか。」とに話しているのが聞こえたからね、もうその家に入れずに、すぐ家に帰ると、子ども達七人全部呼んでね、「舅(しゅうと)さんさえ、そう言って自分を笑っていらっしゃる。だから、世間は、自分をどう笑ってるか分からない。だけど我々は何も財産も何もなくて、あんたなんかに譲るのは何にもない。親から譲れるのは、今は鍬(くわ)と箆(へら)とあんたなんかの手足だけだから、それだけがあんたなんかの財産よ。田圃が欲しければちゃんとまた水が引けるところであるから、そこを耕せばいい。」と言って、鍬(くわ)と箆(へら)を作ってやったそうだ。それが七人兄弟の遺言になったから、長男が主体になって満田原(まんたばる)で水田開拓に入るわけさね。その同じころにその七人に負けない体力がある東里(あがりざと)の五人の兄弟がやはり満田原を開拓をしよるわけさね。一方が上から開拓すれば、一方は下からこうして田圃を開拓したから両方の開拓の競走になったから、そこを全部開拓し終わった後はお互いにもう小作しておったらしい。その七人兄弟は、一番末っ子にちょっと学問を勉強させておったから、その末っ子は字が書けたらしい。それで、その七人兄弟の末の弟は、こっちでフルシと言う砂岩でちゃんと自分の判の印を作ると、それを焼いて持ってきた竹に焼印をつけたそうだ。それから夜中に兄弟七名でこっそり行くと、東里(あがりざと)の五人兄弟が開拓した南と北を掘って、その焼印をつけた竹を埋めたらしいよね。四、五年前に五人兄弟が開拓したそこは、もう草がぼうぼうと生えて、どこがどうなのか分からなくなっているわけさね。その後で今度は七人兄弟は、東里(あがりざと)の五人の兄弟に話をぶっかけたわけさな。「ここは誰の財産と思う。自分の財産だからここを開拓していいか。」ってもちかけたらしい。だけど、向こうの東里(あがりざと)の兄弟は、何も証拠がないわけさなけど、相手に、「あんたなんかは何が証拠か。」と言うと、「我々はちゃんとと証拠があってやってるよ。」って言って、焼印をつけた竹は自分が埋めたところだから分かるでしょ。それを掘ってきて、「我々は、お墓の祖先からそういう譲りがあって、ここを開拓してる。」と言うたから、とうとう東里(あがりざと)氏は負けたらしい。それから東里(あがりざと)氏は、こちらではどうもできないということで、五人兄弟のうちの一人か二人は唐に行ってるわけさな。今の東里(あがりざと)氏は前盛と玉村とかそういう一門だから、そういうふうなことで、戦後は、与那国と台湾の闇商売が流行って、台湾の一門が与那国に来たとき、ちょうど江戸時代に一門の人が航海して台湾に行ったとか、中国の福州に来たとか伝えてきてるわけさな。そのとき、自分の義兄の兄さんの話では、本家の大俣という家(うち)を見せてくれと言ってから、大俣の家に連れて行くと、大きいしゃこ貝があるんですね。それを見て、しゃこ貝の一つは自分の唐にあると言って、自分の親の写真を見ると、その人は、「ああ、祖先の写真と全くよく似てる。」と言って、「こっちは本家だから、自分達が材木を持ってきてやる。」という話まで出たそうだ。そのうちに昭和の二三、四年頃この島に、共産党が入ってきとるってことで、アメリカがばんと入って来てからは、もう台湾貿易が出来なくなったから、こっちに材木持ってくるってことも全部、そのままぱあになってるさ。
全体の記録時間数 10:16
物語の時間数 10:11
言語識別 共通語
音源の質
テープ番号
予備項目1

トップに戻る

TOP