荻道貝塚(共通語)

概要

荻堂部落の後(北側)は少し山になっている。その中頃から東側は岩が多い。その北側は崖になっている。その崖の下はナンジャジー(銀岩)と言っていた。また俗名イリグチ(入口)とも言っている。多分この部落は少し高いので荻堂後原の畑にいくにはだいたい降りて行く道が多い。だから入口という風に呼んだのだろう。それで貝塚というのはこの銀岩の一体の土地で東西で200メートル、南北の幅が約30メートルある。明治37年に東京大学のトリイユウゾウ博士が沖縄に来て銀岩の貝塚を発掘した。その時の案内役は教員をしていたトクメイという人であった。部落の青年たちは助手としてお手伝いをした。その時に出たのがまずイノシシの骨、それから魚の骨、貝殻、それから石器(岩で作った道具名の斧など)石の臼、土器、道具のかけらなどが出たそうです。トリノ先生は人類学の先生で今でも研究室にその時発掘したのがあるそうです。この崖下は自然の洞窟がたくさんあって、一か所だけでなくずーっと並んでいる。今から34年も昔だが、そこの洞窟に住んでいた人が寝起きをしたところではないかと言われている。今はどうかというと墓になっている。洞窟だから前に石を積み重ねると墓になる。墓の無い人は仮の墓づくりをしてそこに葬った。また仲元家の家を作るとき、そこからも石器がたくさん出てきた。その時、発掘に携わった人は興南高校のタケモトさんであった。その時も相当な石器が出ている。今度石器が出たのは上の部落の方である。従来は住宅地付近には貝塚はでないと考えていたが、それも発掘され、上もずっと貝塚であるという事がわかった。先史時代の人が、銀岩にも上の現在の部落にも住んでいたということがわかる。沖縄ガーデンという花木屋があるが、そこの地域内に沖縄シカの頭と骨とか、あっちこっちの骨が発掘された。それを発掘したのは大山セイホウという人であった。その人は化石学の沖縄の権威者であった。沖縄本島にもシカはいたという証明である。

再生時間:9:55

民話詳細DATA

レコード番号 47O361543
CD番号 47O36C058
決定題名 荻道貝塚(共通語)
話者がつけた題名 荻道貝塚の話
話者名 安里永昌
話者名かな あさとえいしょう
生年月日 18940826
性別
出身地 沖縄県北中城村字荻道
記録日 19810924
記録者の所属組織 沖縄口承文芸学術調査団
元テープ番号 北中城村字荻道調査班T21A01
元テープ管理者 沖縄伝承話資料センター
分類 90
発句(ほっく)
伝承事情
文字化資料
キーワード 荻道貝塚,遺跡,貝塚
梗概(こうがい) 荻堂部落の後(北側)は少し山になっている。その中頃から東側は岩が多い。その北側は崖になっている。その崖の下はナンジャジー(銀岩)と言っていた。また俗名イリグチ(入口)とも言っている。多分この部落は少し高いので荻堂後原の畑にいくにはだいたい降りて行く道が多い。だから入口という風に呼んだのだろう。それで貝塚というのはこの銀岩の一体の土地で東西で200メートル、南北の幅が約30メートルある。明治37年に東京大学のトリイユウゾウ博士が沖縄に来て銀岩の貝塚を発掘した。その時の案内役は教員をしていたトクメイという人であった。部落の青年たちは助手としてお手伝いをした。その時に出たのがまずイノシシの骨、それから魚の骨、貝殻、それから石器(岩で作った道具名の斧など)石の臼、土器、道具のかけらなどが出たそうです。トリノ先生は人類学の先生で今でも研究室にその時発掘したのがあるそうです。この崖下は自然の洞窟がたくさんあって、一か所だけでなくずーっと並んでいる。今から34年も昔だが、そこの洞窟に住んでいた人が寝起きをしたところではないかと言われている。今はどうかというと墓になっている。洞窟だから前に石を積み重ねると墓になる。墓の無い人は仮の墓づくりをしてそこに葬った。また仲元家の家を作るとき、そこからも石器がたくさん出てきた。その時、発掘に携わった人は興南高校のタケモトさんであった。その時も相当な石器が出ている。今度石器が出たのは上の部落の方である。従来は住宅地付近には貝塚はでないと考えていたが、それも発掘され、上もずっと貝塚であるという事がわかった。先史時代の人が、銀岩にも上の現在の部落にも住んでいたということがわかる。沖縄ガーデンという花木屋があるが、そこの地域内に沖縄シカの頭と骨とか、あっちこっちの骨が発掘された。それを発掘したのは大山セイホウという人であった。その人は化石学の沖縄の権威者であった。沖縄本島にもシカはいたという証明である。
全体の記録時間数 10:17
物語の時間数 9:55
言語識別 共通語
音源の質
テープ番号
予備項目1

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