殷元良と自了(方言)

概要

 殷元良は唐の名です。その人はすぐれた絵書きであり、また書道にも秀れていたそうだ。それがある時、虎の絵を書いて、それに目をつけたところ、絵なんだがぬけ出して歩き、首里、那覇の人達、町方の人達を驚かしていた。「これは誰の仕業か。」「殷元良の仕業だ。」ということになり、殷元良は呼ばれて行った。「この虎は君が持って来たそうだな。」と言うと、「はい、私が持って参りました。しかし、これは絵であって、本物ではないので、驚くことはありません。」と殷元良は答えた。「いいえ、今にも人をかみつきそうで、仕方がないから、今すぐに絵を持ち去りなさい。」「片付けなさい。」と言われて、片付けさせられてしまった。それでもう、殷元良は、絵の中の虎に乗って、筆を持ち、墨をつけ、その虎の目玉を塗りつぶしてしまうと、その虎の絵はなくなったそうだ。それで、虎が無くなったところが山だったので、その山の名は首里の、「虎じゅ山」という。汀良町の上の方、石嶺との境に「虎じゅ山」というのがあるがね。その山で無くなったということで、そこで虎が姿を消したということで、「虎じゅ山」と、名が付いたそうだ。それから、自了はその殷元良の弟子だが、自了は七歳だったそうだ。七歳の時に字を書かせられた。唐の国から、「金の屏風に字を書いてくれ。」と頼まれ字を書かされた。唐のように広い国でも、自了のように字を書ける人は居なかった。「唐人の代わりに、国という字を書いて欲しい。」と頼まれた。国という字を書くことになり、天井に額縁を上げておいて、父親に肩車をしてもらって字を書いた。国という字を書くには書いたが、その中の点を打ち終わらないうちに肩から降ろされてしまった。それで、筆に墨をつけて、天井に自了が投げると、国という字の外側に筆はくっついたそうだ。それは、点としては立派だったが、国という字の外側になってしまった。すると、父親は、「私の子ではないな。」と思った。点が国の外側に出たので、「これは私の子どもではないな。」と、父親は言ったそうだ。それに、母親もまた、「こんな子が成功するとすれば、どんなに偉い人になっていたことでしょうね。」と悩み、食事もしないくらいに哀れそうだった。それで、父親は、「哀れむな、私が自了に唐から来た屏風に字を書かせた時に、国という字を書かせると、国の字の外側に点がついてしまった。それでその時から、自分の子どもではないと、私は自信を持っているから、君もそんなに泣いているより、四十九日が終われば、あの墓を開けて棺箱を見せてあげるよ。ほんとうに死体が、棺箱に入っているのであれば、私達の子どもである。死体がなかったら、私達の子どもではないということで、君も諦めきれるでしょう。」と、妻に言い聞かせたそうである。そして、四十九日が終わり、墓を開けてみると、棺箱にはゆずり葉という。大和の正月には縁起の良い物として、ゆずり葉というのがあるがね。これは下葉の方から次第に枯れてしまい、伸び芽の緑はいつも残って、その木が伸びるにつれて下葉は枯れていくそうだ。木の葉だけが、棺箱に入っていて、自了が死んで入れられた形跡はそこにはなかった。そんなことで、「どうだ!ここにはゆずり葉が入っているだけで、自了が死んだ形はないでしょう。やっぱり、自分達の子どもではない。神の手なのだから泣く必要はない」と父親は言った。その時から母親はあまり泣かなかったそうだ。それから、肩車にして書いた字は、国の外に点は出ていたので、「これは書き損ねたが、もうどうしようか。」と言った。そうしたら、「かえって、書き損ねたのが上等だ。」と言われた。肩車で、子どもがそれだけ字が書けるという事を、世の中に伝えるひとつの遺書になるからである。それで「上等である。」と、書き直さずに持って行ったという話である。

再生時間:5:31

民話詳細DATA

レコード番号 47O370194
CD番号 47O37C008
決定題名 殷元良と自了(方言)
話者がつけた題名 殷元良と自了
話者名 吉田新太郎
話者名かな よしだしんたろう
生年月日 19021110
性別
出身地 沖縄県読谷村喜名
記録日 19780610
記録者の所属組織 読谷ゆうがおの会
元テープ番号 読谷村喜名T10B04
元テープ管理者 読谷村立歴史民俗資料館
分類 20
発句(ほっく)
伝承事情
文字化資料 読谷村民話資料集2喜名の民話 P198
キーワード ,殷元良,絵書,書道,虎の絵,絵からぬけ出し,虎じゅ山,自了,金の屏風,墓,棺箱,ゆずり葉
梗概(こうがい)  殷元良は唐の名です。その人はすぐれた絵書きであり、また書道にも秀れていたそうだ。それがある時、虎の絵を書いて、それに目をつけたところ、絵なんだがぬけ出して歩き、首里、那覇の人達、町方の人達を驚かしていた。「これは誰の仕業か。」「殷元良の仕業だ。」ということになり、殷元良は呼ばれて行った。「この虎は君が持って来たそうだな。」と言うと、「はい、私が持って参りました。しかし、これは絵であって、本物ではないので、驚くことはありません。」と殷元良は答えた。「いいえ、今にも人をかみつきそうで、仕方がないから、今すぐに絵を持ち去りなさい。」「片付けなさい。」と言われて、片付けさせられてしまった。それでもう、殷元良は、絵の中の虎に乗って、筆を持ち、墨をつけ、その虎の目玉を塗りつぶしてしまうと、その虎の絵はなくなったそうだ。それで、虎が無くなったところが山だったので、その山の名は首里の、「虎じゅ山」という。汀良町の上の方、石嶺との境に「虎じゅ山」というのがあるがね。その山で無くなったということで、そこで虎が姿を消したということで、「虎じゅ山」と、名が付いたそうだ。それから、自了はその殷元良の弟子だが、自了は七歳だったそうだ。七歳の時に字を書かせられた。唐の国から、「金の屏風に字を書いてくれ。」と頼まれ字を書かされた。唐のように広い国でも、自了のように字を書ける人は居なかった。「唐人の代わりに、国という字を書いて欲しい。」と頼まれた。国という字を書くことになり、天井に額縁を上げておいて、父親に肩車をしてもらって字を書いた。国という字を書くには書いたが、その中の点を打ち終わらないうちに肩から降ろされてしまった。それで、筆に墨をつけて、天井に自了が投げると、国という字の外側に筆はくっついたそうだ。それは、点としては立派だったが、国という字の外側になってしまった。すると、父親は、「私の子ではないな。」と思った。点が国の外側に出たので、「これは私の子どもではないな。」と、父親は言ったそうだ。それに、母親もまた、「こんな子が成功するとすれば、どんなに偉い人になっていたことでしょうね。」と悩み、食事もしないくらいに哀れそうだった。それで、父親は、「哀れむな、私が自了に唐から来た屏風に字を書かせた時に、国という字を書かせると、国の字の外側に点がついてしまった。それでその時から、自分の子どもではないと、私は自信を持っているから、君もそんなに泣いているより、四十九日が終われば、あの墓を開けて棺箱を見せてあげるよ。ほんとうに死体が、棺箱に入っているのであれば、私達の子どもである。死体がなかったら、私達の子どもではないということで、君も諦めきれるでしょう。」と、妻に言い聞かせたそうである。そして、四十九日が終わり、墓を開けてみると、棺箱にはゆずり葉という。大和の正月には縁起の良い物として、ゆずり葉というのがあるがね。これは下葉の方から次第に枯れてしまい、伸び芽の緑はいつも残って、その木が伸びるにつれて下葉は枯れていくそうだ。木の葉だけが、棺箱に入っていて、自了が死んで入れられた形跡はそこにはなかった。そんなことで、「どうだ!ここにはゆずり葉が入っているだけで、自了が死んだ形はないでしょう。やっぱり、自分達の子どもではない。神の手なのだから泣く必要はない」と父親は言った。その時から母親はあまり泣かなかったそうだ。それから、肩車にして書いた字は、国の外に点は出ていたので、「これは書き損ねたが、もうどうしようか。」と言った。そうしたら、「かえって、書き損ねたのが上等だ。」と言われた。肩車で、子どもがそれだけ字が書けるという事を、世の中に伝えるひとつの遺書になるからである。それで「上等である。」と、書き直さずに持って行ったという話である。
全体の記録時間数 5:31
物語の時間数 5:31
言語識別 方言
音源の質
テープ番号
予備項目1

トップに戻る

TOP