念仏者の始まり(方言)

概要

この沖縄が、いつ日本の時代になったかというとね。明治十二年の時になった。その年になったがね。今は乞食が出たという話でしょう。そう、その乞食というのがね。ある人が大和からこうしてここ(沖縄)に戦い寄せて来た敵にね、国頭では大変戦ったが、国頭の人たちは怖さ知らずだった。それから、昔の鉄砲に短筒というのがあって、それは私達も持ってみたことがあるがね。(それは)弾を三十発も撃った後は、銃を掃除しなければ使えない。破裂する恐れがあるので、手入れしなければならない。そういうわけで、昔はそれを持って戦ったそうだ。大和からこの武器を持ってやってきたが、国頭の人たちは怖さ知らずだった。この武器は短発といったが、長さもこの位あって(話者が手で示す)私達もそれは使ったことがある。短発というものを使ってみたが、弾を一発込めては、またこうして一発と、取り付けて使っていた。戦争の時もこんなことをくり返していた。一発づつはずしたり、取りつけたりする時間も待てずにいた。国頭の人たちは物おじしない怖さ知らずの人たちだったので、国頭ではだいぶ手こずったようだ。酒屋で酒を造る薪のことを長切りといっていたが、長さがこれ位あった。そして、その大さはこの茶碗の位あった。小さい丸木で、それを長切りと呼び、酒屋が買っていた。その丸木の薪は、たくさん切られて、どこにでも積まれてあった。それで、長切りの大さは茶碗ぐらいある薪で、敵が鉄砲をこちらに向ける前に急いで行って、相手の目頭をめったうちにして、だいぶ戦ったようだ。ちょっとでも油断していると、側にいる味方が鉄砲を撃つと、またみんなもやられるからね。それで、しまいにはもうどうにもできなくなり、首里にいって、「棒(鉄砲)の先から火が出て、私の鼻を射て私にはもうできません。」と公儀へ申し出に行ったそうだ。「それは大変なことだ。これが鉄砲というものだ。それから出るものは弾だから用心しなさい。」と言った。その時からは恐れてできなかったそうだ。ところで、その乞食がどうして出たかというとね、戦いが済んで、国頭と首里の間が片付いて後のことだ。首里には城があるでしょう。そこへ行く途中に天川坂というのがあった。〈あの港までの間は、今は真っ直ぐになっているが、その頃の天川坂はこんなに急坂だったよ。あなたたちは覚えてないでしょう。分らないねそこは。そこは天川坂と呼んでいた。〉そこであるひとりの人に出会ったそうだ。それでその人に「首里へ行く道を探しているのだが。」と言うと、「そうか、首里への道は、どこそこからこんなふうにして行きます。」と敵に教えたそうだ。(すると、敵は)「ではあなたに知行をあげよう。」と言った。〈知行をあげるというのは、年金を与えるということだ。年金というのはいくらというのか。〉日本から年に一万円づつ、それだけを与えると、この人(乞食)には聞かせた。もう、この人はそれだけ貰えるものと喜んだそうだ。 しかし、日本からはお金はくれなかったそうだ。国に命令したそうだ。乞食には僅かばかりを与えるようにと。また、沖縄の国にも、知行を与えるように命令したが、国としては「お前には、こんなにたくさんのお金を与えることはできない。お前は乞食にでもなれ。」と言ったそうだ。今は乞うて食えと言ったそうだ。これは念仏者の話だよ。乞食の話。寺といって、あのような円いものの中に、これくらいの大きさのものを作って、こうして穴をあけて付けて、それをかぶって、「サー、小鳥さしを見なさい。一万貫の知行は耳の端にぞ納めた。」と唄いながら(物乞いした。)乞食になって食えと、国から許可されていた。だからすべて金持ちの家や官舎などからお金を貰って歩いていた。乞食とはいえ、大変な金持ちになっていた。乞食になって、沢山のお金を貰っていたからだ。この人が住んでいるところは、アンナ村といって首里の東の方にあった。

再生時間:5:35

民話詳細DATA

レコード番号 47O370131
CD番号 47O37C006
決定題名 念仏者の始まり(方言)
話者がつけた題名 念仏者の始まり
話者名 渡嘉敷兼求
話者名かな とかしきけんきゅう
生年月日 18800619
性別
出身地 沖縄県読谷村喜名
記録日 19770619
記録者の所属組織 読谷村民話調査団第1班
元テープ番号 読谷村喜名T07A07
元テープ管理者 読谷村立歴史民俗資料館
分類 20,80
発句(ほっく)
伝承事情
文字化資料 読谷村民話資料集2喜名の民話 P143
キーワード 物乞い,首里,国頭,天川坂,念仏者,安仁屋村
梗概(こうがい) この沖縄が、いつ日本の時代になったかというとね。明治十二年の時になった。その年になったがね。今は乞食が出たという話でしょう。そう、その乞食というのがね。ある人が大和からこうしてここ(沖縄)に戦い寄せて来た敵にね、国頭では大変戦ったが、国頭の人たちは怖さ知らずだった。それから、昔の鉄砲に短筒というのがあって、それは私達も持ってみたことがあるがね。(それは)弾を三十発も撃った後は、銃を掃除しなければ使えない。破裂する恐れがあるので、手入れしなければならない。そういうわけで、昔はそれを持って戦ったそうだ。大和からこの武器を持ってやってきたが、国頭の人たちは怖さ知らずだった。この武器は短発といったが、長さもこの位あって(話者が手で示す)私達もそれは使ったことがある。短発というものを使ってみたが、弾を一発込めては、またこうして一発と、取り付けて使っていた。戦争の時もこんなことをくり返していた。一発づつはずしたり、取りつけたりする時間も待てずにいた。国頭の人たちは物おじしない怖さ知らずの人たちだったので、国頭ではだいぶ手こずったようだ。酒屋で酒を造る薪のことを長切りといっていたが、長さがこれ位あった。そして、その大さはこの茶碗の位あった。小さい丸木で、それを長切りと呼び、酒屋が買っていた。その丸木の薪は、たくさん切られて、どこにでも積まれてあった。それで、長切りの大さは茶碗ぐらいある薪で、敵が鉄砲をこちらに向ける前に急いで行って、相手の目頭をめったうちにして、だいぶ戦ったようだ。ちょっとでも油断していると、側にいる味方が鉄砲を撃つと、またみんなもやられるからね。それで、しまいにはもうどうにもできなくなり、首里にいって、「棒(鉄砲)の先から火が出て、私の鼻を射て私にはもうできません。」と公儀へ申し出に行ったそうだ。「それは大変なことだ。これが鉄砲というものだ。それから出るものは弾だから用心しなさい。」と言った。その時からは恐れてできなかったそうだ。ところで、その乞食がどうして出たかというとね、戦いが済んで、国頭と首里の間が片付いて後のことだ。首里には城があるでしょう。そこへ行く途中に天川坂というのがあった。〈あの港までの間は、今は真っ直ぐになっているが、その頃の天川坂はこんなに急坂だったよ。あなたたちは覚えてないでしょう。分らないねそこは。そこは天川坂と呼んでいた。〉そこであるひとりの人に出会ったそうだ。それでその人に「首里へ行く道を探しているのだが。」と言うと、「そうか、首里への道は、どこそこからこんなふうにして行きます。」と敵に教えたそうだ。(すると、敵は)「ではあなたに知行をあげよう。」と言った。〈知行をあげるというのは、年金を与えるということだ。年金というのはいくらというのか。〉日本から年に一万円づつ、それだけを与えると、この人(乞食)には聞かせた。もう、この人はそれだけ貰えるものと喜んだそうだ。 しかし、日本からはお金はくれなかったそうだ。国に命令したそうだ。乞食には僅かばかりを与えるようにと。また、沖縄の国にも、知行を与えるように命令したが、国としては「お前には、こんなにたくさんのお金を与えることはできない。お前は乞食にでもなれ。」と言ったそうだ。今は乞うて食えと言ったそうだ。これは念仏者の話だよ。乞食の話。寺といって、あのような円いものの中に、これくらいの大きさのものを作って、こうして穴をあけて付けて、それをかぶって、「サー、小鳥さしを見なさい。一万貫の知行は耳の端にぞ納めた。」と唄いながら(物乞いした。)乞食になって食えと、国から許可されていた。だからすべて金持ちの家や官舎などからお金を貰って歩いていた。乞食とはいえ、大変な金持ちになっていた。乞食になって、沢山のお金を貰っていたからだ。この人が住んでいるところは、アンナ村といって首里の東の方にあった。
全体の記録時間数 5:35
物語の時間数 5:35
言語識別 方言
音源の質
テープ番号
予備項目1

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