平田、屋比久と尚巴志王(方言)

概要

尚巴志王というものはそれは中山王だった。沖縄には、今帰仁〈北山〉、中山、南山があった。国頭、中頭、島尻の各郡に王が一人づついたそうだ。それから、その頃の年頭の挨拶といえば、唐に行っていたそうだよ。支那にね、そしてその時に、支那の皇帝から、「沖縄というこんなに小さい島に、王が三人もいては困るので、一人にしてくれないか。」と言われた。それで、「はい。」と答えた。そこで、尚巴志というのはなかなか頭が良いので、悪知恵を働かせてすぐ、この船は割れているから急いで八重山に引き返しなさいと言ったので、南山と今帰仁の按司はすぐに沖縄に引き返して来たそうだ。すると、尚巴志は再びあの支那の皇帝の前に行き、「考えるに沖縄の王は私にしか出来ません。」と言い、「もう他の南山、北山の二人は納得させて決定したので、沖縄の王は私にさせて下さい。」と言った。それで、この尚巴志の字の「尚」という文字は、支那の皇帝から恩賞として賜わったものであるそうだ。しかし、その時から南山も今帰仁もこんな自分勝手では合点がゆかない。そんな一人だけが相談ではなかった。あなたはこの船は割れているから今すぐ八重山に引き戻るように言いながらも、自分はすぐ支那の方へ一人で行き、自分勝手に王を決めたんだからそんなことは許せない、戦争するんだと…。一人が三山に申し出たそうだ。それで、南山は「では、何を勝負するのか。」と言った。尚巴志は頭がきくので、「そうだね、こんなに大勢揃ったことがないので、何とか二ケ所(南山、北山)かたづけるために方法を変えてみよう。」と言った。「島尻は馬国だから、どうだ!今度は、その勝負をして負ける者は王位を落し、勝つ者に王はさせよう。」と、南山の按司が威張ったそうだ。「ああそういうことか!」と、だが中部は昔から牛の方が多くて走る馬というのは数少ないから、もし馬が勝負してそれで王位を決めるとなると、中山王は、「もうどうすれば良いのだろう。」と考えても考えつかなかった。それは中部には島尻ほどには、走れる馬がいなかったから。それから、この急な時の考えは女の方が良いという考え方は、この尚巴志の伴侶で、妻が、「どうしてそんなことで心配するんですか、お休み下さい。十分に睡眠をとらなければ何も出来ませんよ。」と妻が叱ったそうだね、「そう言ったって、いったいどうすれば良いのだ。だって馬勝負して負けることにでもなれば南山に沖縄の王位は奪われることになるのだ。」と言った。「私が勝つように考えるから、何も心配しないで下さい。」と、奥さんは張り切っていたそうだよ。ところで、今度はその馬勝負だといったので、「首里三箇は雌馬が多い所だから三箇雌馬で勝負させて下さい。」と教えた。その馬勝負はいつの何日、シチヌマガイで馬勝負をさせても良いと許しが出た。それで三箇雌馬に鞍を乗せて行った。すると何と、相手の馬は雌馬の後方から尻に追いて来た。それで、「何だね、君の馬勝負はこんなことでいいのか。」とやじった。すると、「私(南山)のものは雄馬で君(尚)のものが雌馬であれば、もちろん雄馬が先になることはあり得ない。」とくやしがった。そこで、「何だと!雌馬、雄馬の区別があったか。」ということで二人して公儀の尚巴志に負けてしまった。そしてそのまま少しの内乱は起きたはずだが、馬勝負で王位争いは止めたそうだ。それに南山城趾も尚巴志王にぶち負けたそうだよ。それから、今帰仁城は、本部大原達や大宜味金城という武士が集まっているから、なかなか落し難くあれはがっかりしたためであったようですが、しまいには尚巴志に負けてしまって南山も今帰仁も負けてしまって、沖縄の王は首里城に決まったそうだね。すると、南山も今帰仁も、「こんな奴、悪魔みたいな人がいなければ、自分達も今までは按司の位に座っておれたのに。この尚巴志は悪が強いから、どうだ、両方揃ってこの尚巴志の遺骨を墓から出して焼きつくしてしまいたいが。」と話し合った。その後は、龕(がん)という物をあなた達は覚えているかね、戦前のことだが、その龕には、沖縄王が死ぬとすぐそのまま体を折り曲げて、龕に納めたそうだ。そして龕から引っぱり出して粉々に砕こうとした。それから、平田、屋比久というのはこの尚巴志の甥になるそうだ。平田子と屋比久子は、それでこの人の親も王だったが、弱体のために国を治めることが出来なかったので、その人をこの尚巴志が抑圧して自分が王になったという物語である。こんな弱体では国を治めるのは不可能だということだった。抑圧された腹いせに、今度は、火事を出して遺骨を墓から出して全部焼き上げて粉々に砕いてしまえという吟味になってしまった。しかし、この平田、屋比久は尚巴志の甥になるので、「まさか叔父でありながらみすみすフニシン(骨神)を焼き上げさせてはならぬ。」と考え、首里のお墓から骨を運んでここ読谷村に逃げて来たそうだ。だからこの人達は昼間は歩けず、夜しか歩けなかったそうだ。この浦添ユードレの話だがね。あれは今はユードレ、ユードレと言っているが、実際は、「ユートリ」というそうだ。それがこの平田、屋比久の物語には、「自分達の親の時代までは沖縄の王にもなったがね。世の中が静かになって再び自分達の時代が来る日もあるだろうか。」と嘆く。この浦添ユードレは、朝は向う首里から出て来て、昼はここで隠れたという物語からして浦添ユードレは「ようどれ」と付けられたそうだ。昼間は隠れてまた夜になると、御轎をかついで読谷村のサシジャーの森(現伊良皆)にやって来た。ここは佐敷の森とも呼んでいるがね。やはりこの人(尚巴志)は佐敷大主の長男だから。それでその井戸も佐敷井戸と名付けられ、その森も佐敷の森と名付けられているが、今はそこに尚巴志は祀られている。そのため首里ではこの尚巴志の遺骨は読谷山に運ばれているそうだから、「どうだ、そこへ行って彼のフニシンを集めて焼き上げてこようじゃないか。」とここまで来たそうだ。次に、平田、屋比久といえば、沖縄の武勇も頑丈だし、腕力もあり知恵もある人だったそうだ。そこで、今の佐敷井戸の下の方に大きな田んぼがあるがね。そこで牛を飼って使っていたそうだ。そしてこの平田子に、役人が、「おい青年よ!」と呼ばれて、「はい。」と答えた。するともう公儀の命令でこの平田、屋比久を殺しにと来たんだが、「ここに平田、屋比久という人が百姓になって来ているというが知らないか。」というと、「どうして何があったのですか。」と聞いた。「平田、屋比久というのは死刑の罰で殺して来るように言われたが、どうして探せないんだ。」と言った。すると田圃で午を使っている者が百姓に扮した平田であるが。「ああ、いけませんよ、平田、屋比久のような人はあなたたちだけでは無理だね。」と言うと、「何だと!」と、平田は、「私でさえもこうして牛を田んぼから持ち上げて外へ出せるんだから。ましてそれは本当の平田、屋比久だともっと力がある。あなたたちそれだけでは平田、屋比久には勝てないね。」と言うと、「えっそんなに強いか。」と役人は、「ではもう、諦めて平田、屋比久は殺して来ましたと公儀へ行き報告を申し上げよう。」ということで公儀に嘘の報告をしたそうだ。その後、この平田子、屋比久子は読谷山の人になったそうだよ。もうむこうには士族としての籍はなくなって、そして伊良皆に平田子というのがあるが、今のサシージャーに祀られているのがそうである。そこには尚巴志、尚忠〈もう一人は誰だったかな〉三体の神が祀ってある。一人は思い出せないね。三人がそこに祀られているがね。それで、三人のこの元祖は伊良皆の百姓になってしまったので、伊良皆の根人(屋号)という所で崇(あが)められているそうだよ。平田、屋比久という人は沖縄の大武士だったという物語。これは尚巴志の伝え話ですね。

再生時間:12:57

民話詳細DATA

レコード番号 47O370045
CD番号 47O37C003
決定題名 平田、屋比久と尚巴志王(方言)
話者がつけた題名 尚巴志
話者名 松田栄清
話者名かな まつだえいせい
生年月日 18950220
性別
出身地 沖縄県読谷村喜名
記録日 19761017
記録者の所属組織 読谷村民話調査団第二班
元テープ番号 読谷村喜名T03A01
元テープ管理者 読谷村立歴史民俗資料館
分類 20
発句(ほっく)
伝承事情
文字化資料 読谷村民話資料集2喜名の民話 P177
キーワード 平田、屋比久,尚巴志王,中山,南山,支那,今帰仁城址,浦添ユードゥリ,サシジャーぬ森,佐敷大主,
梗概(こうがい) 尚巴志王というものはそれは中山王だった。沖縄には、今帰仁〈北山〉、中山、南山があった。国頭、中頭、島尻の各郡に王が一人づついたそうだ。それから、その頃の年頭の挨拶といえば、唐に行っていたそうだよ。支那にね、そしてその時に、支那の皇帝から、「沖縄というこんなに小さい島に、王が三人もいては困るので、一人にしてくれないか。」と言われた。それで、「はい。」と答えた。そこで、尚巴志というのはなかなか頭が良いので、悪知恵を働かせてすぐ、この船は割れているから急いで八重山に引き返しなさいと言ったので、南山と今帰仁の按司はすぐに沖縄に引き返して来たそうだ。すると、尚巴志は再びあの支那の皇帝の前に行き、「考えるに沖縄の王は私にしか出来ません。」と言い、「もう他の南山、北山の二人は納得させて決定したので、沖縄の王は私にさせて下さい。」と言った。それで、この尚巴志の字の「尚」という文字は、支那の皇帝から恩賞として賜わったものであるそうだ。しかし、その時から南山も今帰仁もこんな自分勝手では合点がゆかない。そんな一人だけが相談ではなかった。あなたはこの船は割れているから今すぐ八重山に引き戻るように言いながらも、自分はすぐ支那の方へ一人で行き、自分勝手に王を決めたんだからそんなことは許せない、戦争するんだと…。一人が三山に申し出たそうだ。それで、南山は「では、何を勝負するのか。」と言った。尚巴志は頭がきくので、「そうだね、こんなに大勢揃ったことがないので、何とか二ケ所(南山、北山)かたづけるために方法を変えてみよう。」と言った。「島尻は馬国だから、どうだ!今度は、その勝負をして負ける者は王位を落し、勝つ者に王はさせよう。」と、南山の按司が威張ったそうだ。「ああそういうことか!」と、だが中部は昔から牛の方が多くて走る馬というのは数少ないから、もし馬が勝負してそれで王位を決めるとなると、中山王は、「もうどうすれば良いのだろう。」と考えても考えつかなかった。それは中部には島尻ほどには、走れる馬がいなかったから。それから、この急な時の考えは女の方が良いという考え方は、この尚巴志の伴侶で、妻が、「どうしてそんなことで心配するんですか、お休み下さい。十分に睡眠をとらなければ何も出来ませんよ。」と妻が叱ったそうだね、「そう言ったって、いったいどうすれば良いのだ。だって馬勝負して負けることにでもなれば南山に沖縄の王位は奪われることになるのだ。」と言った。「私が勝つように考えるから、何も心配しないで下さい。」と、奥さんは張り切っていたそうだよ。ところで、今度はその馬勝負だといったので、「首里三箇は雌馬が多い所だから三箇雌馬で勝負させて下さい。」と教えた。その馬勝負はいつの何日、シチヌマガイで馬勝負をさせても良いと許しが出た。それで三箇雌馬に鞍を乗せて行った。すると何と、相手の馬は雌馬の後方から尻に追いて来た。それで、「何だね、君の馬勝負はこんなことでいいのか。」とやじった。すると、「私(南山)のものは雄馬で君(尚)のものが雌馬であれば、もちろん雄馬が先になることはあり得ない。」とくやしがった。そこで、「何だと!雌馬、雄馬の区別があったか。」ということで二人して公儀の尚巴志に負けてしまった。そしてそのまま少しの内乱は起きたはずだが、馬勝負で王位争いは止めたそうだ。それに南山城趾も尚巴志王にぶち負けたそうだよ。それから、今帰仁城は、本部大原達や大宜味金城という武士が集まっているから、なかなか落し難くあれはがっかりしたためであったようですが、しまいには尚巴志に負けてしまって南山も今帰仁も負けてしまって、沖縄の王は首里城に決まったそうだね。すると、南山も今帰仁も、「こんな奴、悪魔みたいな人がいなければ、自分達も今までは按司の位に座っておれたのに。この尚巴志は悪が強いから、どうだ、両方揃ってこの尚巴志の遺骨を墓から出して焼きつくしてしまいたいが。」と話し合った。その後は、龕(がん)という物をあなた達は覚えているかね、戦前のことだが、その龕には、沖縄王が死ぬとすぐそのまま体を折り曲げて、龕に納めたそうだ。そして龕から引っぱり出して粉々に砕こうとした。それから、平田、屋比久というのはこの尚巴志の甥になるそうだ。平田子と屋比久子は、それでこの人の親も王だったが、弱体のために国を治めることが出来なかったので、その人をこの尚巴志が抑圧して自分が王になったという物語である。こんな弱体では国を治めるのは不可能だということだった。抑圧された腹いせに、今度は、火事を出して遺骨を墓から出して全部焼き上げて粉々に砕いてしまえという吟味になってしまった。しかし、この平田、屋比久は尚巴志の甥になるので、「まさか叔父でありながらみすみすフニシン(骨神)を焼き上げさせてはならぬ。」と考え、首里のお墓から骨を運んでここ読谷村に逃げて来たそうだ。だからこの人達は昼間は歩けず、夜しか歩けなかったそうだ。この浦添ユードレの話だがね。あれは今はユードレ、ユードレと言っているが、実際は、「ユートリ」というそうだ。それがこの平田、屋比久の物語には、「自分達の親の時代までは沖縄の王にもなったがね。世の中が静かになって再び自分達の時代が来る日もあるだろうか。」と嘆く。この浦添ユードレは、朝は向う首里から出て来て、昼はここで隠れたという物語からして浦添ユードレは「ようどれ」と付けられたそうだ。昼間は隠れてまた夜になると、御轎をかついで読谷村のサシジャーの森(現伊良皆)にやって来た。ここは佐敷の森とも呼んでいるがね。やはりこの人(尚巴志)は佐敷大主の長男だから。それでその井戸も佐敷井戸と名付けられ、その森も佐敷の森と名付けられているが、今はそこに尚巴志は祀られている。そのため首里ではこの尚巴志の遺骨は読谷山に運ばれているそうだから、「どうだ、そこへ行って彼のフニシンを集めて焼き上げてこようじゃないか。」とここまで来たそうだ。次に、平田、屋比久といえば、沖縄の武勇も頑丈だし、腕力もあり知恵もある人だったそうだ。そこで、今の佐敷井戸の下の方に大きな田んぼがあるがね。そこで牛を飼って使っていたそうだ。そしてこの平田子に、役人が、「おい青年よ!」と呼ばれて、「はい。」と答えた。するともう公儀の命令でこの平田、屋比久を殺しにと来たんだが、「ここに平田、屋比久という人が百姓になって来ているというが知らないか。」というと、「どうして何があったのですか。」と聞いた。「平田、屋比久というのは死刑の罰で殺して来るように言われたが、どうして探せないんだ。」と言った。すると田圃で午を使っている者が百姓に扮した平田であるが。「ああ、いけませんよ、平田、屋比久のような人はあなたたちだけでは無理だね。」と言うと、「何だと!」と、平田は、「私でさえもこうして牛を田んぼから持ち上げて外へ出せるんだから。ましてそれは本当の平田、屋比久だともっと力がある。あなたたちそれだけでは平田、屋比久には勝てないね。」と言うと、「えっそんなに強いか。」と役人は、「ではもう、諦めて平田、屋比久は殺して来ましたと公儀へ行き報告を申し上げよう。」ということで公儀に嘘の報告をしたそうだ。その後、この平田子、屋比久子は読谷山の人になったそうだよ。もうむこうには士族としての籍はなくなって、そして伊良皆に平田子というのがあるが、今のサシージャーに祀られているのがそうである。そこには尚巴志、尚忠〈もう一人は誰だったかな〉三体の神が祀ってある。一人は思い出せないね。三人がそこに祀られているがね。それで、三人のこの元祖は伊良皆の百姓になってしまったので、伊良皆の根人(屋号)という所で崇(あが)められているそうだよ。平田、屋比久という人は沖縄の大武士だったという物語。これは尚巴志の伝え話ですね。
全体の記録時間数 12:57
物語の時間数 12:57
言語識別 方言
音源の質
テープ番号
予備項目1

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