多山フェーレーと喜名タカハンジャー(方言)

概要

 首里から来て、多幸山の手前の喜名番所の近くで日が暮れると、「多幸山にはフェーレーがいるから、是非、喜名番所に泊って、それから名護ヘ行こう。」と言うし、「女だから番所に泊れないから、急いで村へ行こう。」という計画だったが、多幸山を無理に通る人がいた。昔の首里の侍の中で、おちぶれた者が多幸山のフェーレーになっていたそうだが、そのフェーレーを、「ぜひ退治しなければいけない。」と言って、喜名タカハンジャーに公儀から命令すると、そのタカハンジャーが、三味線を弾いて、多幸山の歌を歌って通ったが、ところがちっとも出て来ない。すると、タカハンジャーは、「これは私を怖れているのだな。」と知恵を出して、女の人に頭の上に砂俵を載せてそこを通って、フェーレーは岩の上に立っているのだから、鉤で引っ掛けさせて、そのときに砂俵を投げ出すと、フェーレーは岩から落ちて、頭を打って死んだ。それから、タカハンジャーというものは、もう沖縄で大変な力持ち、武士といわれている。いまは、その歌の意味なんだな。その後、このタカハンジャーは公儀に勤めるようになったという話を先祖から聞いたよ。それからまた、勤めの半ばごろ、今の宜野湾のユックイ岳では、フェーレーが追いつめられて、左右に股を引き裂いて投げたというゲングン話があるが、それは本当のことか。それくらい力持ちだったといわれている。また、自分達が幼なかった頃は、ここに一三五斤のシチシー(力石)というものがあったが、田を耕やして戻る時、鍬にのせて青年達が、力勝負をした、それがあった。戦後になって無くなった。これはタカハンジャーが青年達の力比べをさせるために一三五斤のものを置いてあった。四〇キロあったそうです。そうだが、自分たちが大きくなったら、欠けて一三五斤になっていた。

再生時間:4:32

民話詳細DATA

レコード番号 47O370002
CD番号 47O37C001
決定題名 多山フェーレーと喜名タカハンジャー(方言)
話者がつけた題名 多山フェーレーと喜名タカハンジャー
話者名 比嘉正貞
話者名かな ひがせいてい
生年月日 19000925
性別
出身地 沖縄県読谷村喜名
記録日 19761017
記録者の所属組織 読谷村民話調査団第一班
元テープ番号 読谷村喜名T01A01
元テープ管理者 読谷村立歴史民俗資料館
分類 20
発句(ほっく)
伝承事情
文字化資料 読谷村民話資料集2喜名の民話 P247
キーワード 多幸山フェーレー,喜名タカハンジャー,久良波首里殿内
梗概(こうがい)  首里から来て、多幸山の手前の喜名番所の近くで日が暮れると、「多幸山にはフェーレーがいるから、是非、喜名番所に泊って、それから名護ヘ行こう。」と言うし、「女だから番所に泊れないから、急いで村へ行こう。」という計画だったが、多幸山を無理に通る人がいた。昔の首里の侍の中で、おちぶれた者が多幸山のフェーレーになっていたそうだが、そのフェーレーを、「ぜひ退治しなければいけない。」と言って、喜名タカハンジャーに公儀から命令すると、そのタカハンジャーが、三味線を弾いて、多幸山の歌を歌って通ったが、ところがちっとも出て来ない。すると、タカハンジャーは、「これは私を怖れているのだな。」と知恵を出して、女の人に頭の上に砂俵を載せてそこを通って、フェーレーは岩の上に立っているのだから、鉤で引っ掛けさせて、そのときに砂俵を投げ出すと、フェーレーは岩から落ちて、頭を打って死んだ。それから、タカハンジャーというものは、もう沖縄で大変な力持ち、武士といわれている。いまは、その歌の意味なんだな。その後、このタカハンジャーは公儀に勤めるようになったという話を先祖から聞いたよ。それからまた、勤めの半ばごろ、今の宜野湾のユックイ岳では、フェーレーが追いつめられて、左右に股を引き裂いて投げたというゲングン話があるが、それは本当のことか。それくらい力持ちだったといわれている。また、自分達が幼なかった頃は、ここに一三五斤のシチシー(力石)というものがあったが、田を耕やして戻る時、鍬にのせて青年達が、力勝負をした、それがあった。戦後になって無くなった。これはタカハンジャーが青年達の力比べをさせるために一三五斤のものを置いてあった。四〇キロあったそうです。そうだが、自分たちが大きくなったら、欠けて一三五斤になっていた。
全体の記録時間数 4:32
物語の時間数 4:32
言語識別 方言
音源の質
テープ番号
予備項目1

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