吉屋チルーの歌 紺染みぬ糸(シマグチ)

概要

吉屋チルーは、大宜味(おおぎみ)津波(つは)村の生まれだが、七つの歳に子守りをしていた。子守りをしながらじゅずを作ったが、首にかけたじゅずだまがちぎれて落ちてしまったので、「紺(くん)染(じゅ)みぬ糸(いとう)ぬ いな朽(くち)ゅんとぅみば〔紺染の糸がこんなに早く朽ちてしまうものなら〕百八(ひゃくはち)ぬ玉(たま)や貫(ぬ)かんたしが〔百八の玉など貫かなかったのに〕。」と歌ったそうだ。それから、家が貧乏になったんで、ぜひ遊郭売りをしなければならないといって、遊郭に売られることになったんだ。那覇の辻に親たちが連れて行くといって家から出る時に、「行(い)く先(さち)や夜闇(ゆやみ) 後(あとう)や花(はな)ざかり〔行く先はまっ暗闇、後は花ざかり〕大宜味(うじみ)津波村(ちはむら)に 思(うむ)い残(ぬく)ち〔大宜味津波村に思いを残して〕。」この吉屋はこのようにして歌って、家から出たんだよ。
比謝橋‥‥昔の道だから何もない。遠く山原(やんばる)からでも那覇まで歩いて行かなければならないんだ。歩く道だって今のようにりっぱな道でもない。山道と、それから雨道をやっとの思いで歩いたんだ。なん時であっても那覇まで行くつもりだが、行く途中に嘉手納(かでな)比謝(ひじゃ)橋に来たので、この橋を渡る時に、「比謝橋(ひじゃばし)ぬ橋(はし)や誰(た)が架(か)きてぃ置(う)ちぇら〔比謝橋という橋は誰が架けてあるのか〕情(なさき)無(ね)ん人(ひとう)ぬ 我(わん)渡(わた)さとぅむてぃ架(か)きてぃ置(う)ちぇさ〔情のない人が私を渡すために架けてあるのだ〕。」嘉手納の比謝橋を通る時に歌ったんだが、いろいろとあって、このようにして辻に身売りされた。
返歌客‥‥吉屋チルーは辻のアンマーと仲が悪かったんだ。なぜ仲が悪いかというと、アンマーがいいつける客には全然買われなかったからなんだ。吉屋は、上句を詠んで下句を返しきれる客だったら誰にでも買われるような性格だったんだ。そしたら、「おい、お前は金持ちのお客が来たからその人に買われなさいとアンマーは言っているのにことわるのか。ここに来た以上はアンマーの言いつけをきかなきゃいけないのに、お前はこんなに勝手なことをするのか。」といって、いつもいつも毎日アンマ-に嫌われて日々を暮らしていた。それから(ある日)乞食みたいな若者が、那覇の吉屋を訪ねて来て、吉屋のところに訪ねて来たので、吉屋が歌ったそうだ。「うゆばらんむんぬ 天(てぃん)に橋(はし)かきてぃ〔及びもしないのに天に橋を架けて〕落(う)てぃてぃすくなゆる 赤毛(あかぎ)わらび〔落ちてけがをするなよ子供〕。」このようにして吉屋がこの若者に、歌を詠むと、この若者は又、吉屋に返して歌ったそうだ。「吉屋思鶴は親ほども年は上だが 抱いてしまえば下になる女子供だ。」といって、歌を返したので、もう歌を返されてね、この青二才に吉屋は買われたそうだ。買われたので、それで、アンマーはよけいに腹をたててね、おこってね(吉屋が)必ず自分の歌の下句を返してくれる人には、どんなに金が無い人にでもただで買われるやり方をしているので、「お前は、元手を多く出してお前の親から買って来ているのだから、お前が儲ければ、私は元金を取り返して、日々の暮しをすることもできるが、今のようなやり方で、お前が面白いままにさせていてはならん、これではいかん。」といって、いつもいつもアンマーに文句を言われて、文句だけでなく、蹴られたりいじめられたりしたので、この吉屋は、とうとう暮らせなくなって、病気になり、その熱のためにこの世を去って、墓に葬られたそうだ。葬った後からアンマーが墓参りをしに行ったらしいがね、墓の中で死んでいる吉屋が墓の中で、「生(い)ちちうる間(えだ)や 我(わん)すそにしちょてぃ〔生きている間は私を粗末にしておいて〕死(し)にばかんしゃうじょに 通(かゆ)てぃぬすが〔死んでから墓に通っても何になるものか〕。」と、このように死んだ死体がアンマーに歌を詠んだそうだ。それから数年して山原から、親兄妹が葬ったままにしてはいけないから、洗骨して山原に持って行こうといって、やって来て、親兄妹が洗骨して、遺骨をふろしきに包んだそうだ。そして、せっかくはるばる山原から来ているのだし、芝居というのは生まれてこの方見たこともない、上の芝居、中の芝居と、那覇の芝居はあるが、中の芝居がいいよという話もあるので、中の芝居を見ていこうねといって、吉屋の親と兄妹は、芝居を見るために、人に知られないように、ふろしきに包んで、それがさも遺骨ではないそぶりで側に置いて芝居を見ていたそうだ。すると、そこで役者たちがいろいろな芝居をしたり、歌をしている途中に(遺骨が)、「とぅりぬ伊平屋岳(いひやだき)や うちゃがてぃる見(み)ゆる〔なぎの時の伊平屋島は浮き上がって見える〕遊(あし)びうちゃがゆる 御茶屋(うちゃや)御殿(うどぅん)〔歌遊びで抜きん出るのは御茶屋御殿である〕。」とこのようにその芝居の途中で歌ったので、那覇の芝居の役者たちはたいそうよろこんで、「このように私たち役者を嘗めて歌を歌ってくれる人もいるんだなあ。」と目をきょろきょろしても、歌は聞こえるが目には見えない、役者たちはそのへんで生きている人が歌っていると考えて、遺骨が歌っているなんて考えもしないので、目をきょろきょろしても見つけだすことはできない、見つけだせなかったが、みんな喜んだそうだ。それで時も遅くなっているし、今日は那覇に泊って明日朝早くたとうといって、そして翌日、遺骨を持って、こそこそ自分の部落へ帰ったそうだ。

再生時間:6:41

民話詳細DATA

レコード番号 47O376542
CD番号 47O37C264
決定題名 吉屋チルーの歌 紺染みぬ糸(シマグチ)
話者がつけた題名
話者名 吉山盛太
話者名かな よしやませいた
生年月日 18960731
性別
出身地 沖縄県恩納村塩屋
記録日 19760627
記録者の所属組織 沖縄口承文芸学術調査団
元テープ番号 恩納村T47A15
元テープ管理者 沖縄伝承話資料センター
分類 20
発句(ほっく)
伝承事情
文字化資料 『恩納村の民話・伝説編』P181
キーワード 吉屋チルー,大宜味津波村,貧乏,遊郭売り,那覇の辻,比謝橋,上句,下句,乞食,墓参り,墓の中から歌,遺骨,御茶屋御殿
梗概(こうがい) 吉屋チルーは、大宜味(おおぎみ)津波(つは)村の生まれだが、七つの歳に子守りをしていた。子守りをしながらじゅずを作ったが、首にかけたじゅずだまがちぎれて落ちてしまったので、「紺(くん)染(じゅ)みぬ糸(いとう)ぬ いな朽(くち)ゅんとぅみば〔紺染の糸がこんなに早く朽ちてしまうものなら〕百八(ひゃくはち)ぬ玉(たま)や貫(ぬ)かんたしが〔百八の玉など貫かなかったのに〕。」と歌ったそうだ。それから、家が貧乏になったんで、ぜひ遊郭売りをしなければならないといって、遊郭に売られることになったんだ。那覇の辻に親たちが連れて行くといって家から出る時に、「行(い)く先(さち)や夜闇(ゆやみ) 後(あとう)や花(はな)ざかり〔行く先はまっ暗闇、後は花ざかり〕大宜味(うじみ)津波村(ちはむら)に 思(うむ)い残(ぬく)ち〔大宜味津波村に思いを残して〕。」この吉屋はこのようにして歌って、家から出たんだよ。 比謝橋‥‥昔の道だから何もない。遠く山原(やんばる)からでも那覇まで歩いて行かなければならないんだ。歩く道だって今のようにりっぱな道でもない。山道と、それから雨道をやっとの思いで歩いたんだ。なん時であっても那覇まで行くつもりだが、行く途中に嘉手納(かでな)比謝(ひじゃ)橋に来たので、この橋を渡る時に、「比謝橋(ひじゃばし)ぬ橋(はし)や誰(た)が架(か)きてぃ置(う)ちぇら〔比謝橋という橋は誰が架けてあるのか〕情(なさき)無(ね)ん人(ひとう)ぬ 我(わん)渡(わた)さとぅむてぃ架(か)きてぃ置(う)ちぇさ〔情のない人が私を渡すために架けてあるのだ〕。」嘉手納の比謝橋を通る時に歌ったんだが、いろいろとあって、このようにして辻に身売りされた。 返歌客‥‥吉屋チルーは辻のアンマーと仲が悪かったんだ。なぜ仲が悪いかというと、アンマーがいいつける客には全然買われなかったからなんだ。吉屋は、上句を詠んで下句を返しきれる客だったら誰にでも買われるような性格だったんだ。そしたら、「おい、お前は金持ちのお客が来たからその人に買われなさいとアンマーは言っているのにことわるのか。ここに来た以上はアンマーの言いつけをきかなきゃいけないのに、お前はこんなに勝手なことをするのか。」といって、いつもいつも毎日アンマ-に嫌われて日々を暮らしていた。それから(ある日)乞食みたいな若者が、那覇の吉屋を訪ねて来て、吉屋のところに訪ねて来たので、吉屋が歌ったそうだ。「うゆばらんむんぬ 天(てぃん)に橋(はし)かきてぃ〔及びもしないのに天に橋を架けて〕落(う)てぃてぃすくなゆる 赤毛(あかぎ)わらび〔落ちてけがをするなよ子供〕。」このようにして吉屋がこの若者に、歌を詠むと、この若者は又、吉屋に返して歌ったそうだ。「吉屋思鶴は親ほども年は上だが 抱いてしまえば下になる女子供だ。」といって、歌を返したので、もう歌を返されてね、この青二才に吉屋は買われたそうだ。買われたので、それで、アンマーはよけいに腹をたててね、おこってね(吉屋が)必ず自分の歌の下句を返してくれる人には、どんなに金が無い人にでもただで買われるやり方をしているので、「お前は、元手を多く出してお前の親から買って来ているのだから、お前が儲ければ、私は元金を取り返して、日々の暮しをすることもできるが、今のようなやり方で、お前が面白いままにさせていてはならん、これではいかん。」といって、いつもいつもアンマーに文句を言われて、文句だけでなく、蹴られたりいじめられたりしたので、この吉屋は、とうとう暮らせなくなって、病気になり、その熱のためにこの世を去って、墓に葬られたそうだ。葬った後からアンマーが墓参りをしに行ったらしいがね、墓の中で死んでいる吉屋が墓の中で、「生(い)ちちうる間(えだ)や 我(わん)すそにしちょてぃ〔生きている間は私を粗末にしておいて〕死(し)にばかんしゃうじょに 通(かゆ)てぃぬすが〔死んでから墓に通っても何になるものか〕。」と、このように死んだ死体がアンマーに歌を詠んだそうだ。それから数年して山原から、親兄妹が葬ったままにしてはいけないから、洗骨して山原に持って行こうといって、やって来て、親兄妹が洗骨して、遺骨をふろしきに包んだそうだ。そして、せっかくはるばる山原から来ているのだし、芝居というのは生まれてこの方見たこともない、上の芝居、中の芝居と、那覇の芝居はあるが、中の芝居がいいよという話もあるので、中の芝居を見ていこうねといって、吉屋の親と兄妹は、芝居を見るために、人に知られないように、ふろしきに包んで、それがさも遺骨ではないそぶりで側に置いて芝居を見ていたそうだ。すると、そこで役者たちがいろいろな芝居をしたり、歌をしている途中に(遺骨が)、「とぅりぬ伊平屋岳(いひやだき)や うちゃがてぃる見(み)ゆる〔なぎの時の伊平屋島は浮き上がって見える〕遊(あし)びうちゃがゆる 御茶屋(うちゃや)御殿(うどぅん)〔歌遊びで抜きん出るのは御茶屋御殿である〕。」とこのようにその芝居の途中で歌ったので、那覇の芝居の役者たちはたいそうよろこんで、「このように私たち役者を嘗めて歌を歌ってくれる人もいるんだなあ。」と目をきょろきょろしても、歌は聞こえるが目には見えない、役者たちはそのへんで生きている人が歌っていると考えて、遺骨が歌っているなんて考えもしないので、目をきょろきょろしても見つけだすことはできない、見つけだせなかったが、みんな喜んだそうだ。それで時も遅くなっているし、今日は那覇に泊って明日朝早くたとうといって、そして翌日、遺骨を持って、こそこそ自分の部落へ帰ったそうだ。
全体の記録時間数 6:41
物語の時間数 6:41
言語識別 方言
音源の質
テープ番号
予備項目1

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