波照間の村(共通語)

概要

話は、二、三回ぐらいあったということは、津波の話もあるんだがね、これは、いつごろの、この津波であったか、それは分からんさ、これは。このジュゴンのことのあれはね。明和からずっと前の話じゃないかな、とこう思ってる。明和のぐらいであったらどの島とはっきりしておる。明和の津波はあれなんかはちゃんと、あれは、二〇〇年、まだ三〇〇年は、ならんはずよ。なるか、ならんか、ぐらいだ、明和八年かな、明和の津波っていうのは。あれは何百年、まだ三〇〇年はまだと思うさ。だから、はっきりしとるから、それから前の話じゃないかなあと思う。この島でも津波の話は、この来たのこれは事実なんだから。津波の話は、これは、石カンパー、石カンブヤーのね、その話にこうこのこれは長くなるんだが、これはそのアリドウ山の部落が最初建って、また北にまたあっちは、何パーと、ペーフタツパー、ペーフタツパーじゃなくして、ブシシパーという、ブシシというまた部落が、第二回目にブシシという、最初は人間発祥の地のあれの、最初部落建てたのがアリドウ山という、アリドウ部落だったからね、次にブシシ部落が建つんですよ。それからまた三回目に、何パーかな、下地井戸があるでしょう、今現在。あれの東に、何か、ペーフタツパーというんですよ、ペーフタツパーの部落が、その三回目に出来て四回目で、シムス村、シムス村の次が、タカツ村、タカツ村の次に、マシュク村というのがあるんですね。それから、どんどん西に西に、こうこうこう潮の引くところにどんどん、こう西に行って、一番西ではミシュク村までで、海岸端はこうなるんですがね、ミシュク村で、終わるんですが、それが、部落に津波の関係であったのか分からんが、こう部落が中央にこの島現在は。大体津波に追われたというのが、普通の、はっきりその言えばあの当時は、何も学問というのは無いし、記録する人もいないし、ああいうその、ただ口伝えだけで来てるから、はっきりしたあれはいつに何回来たということなんかあったことは、事実はあったわけさ。話なんかも昔話もたくさん、いろいろあるんだが、何月だというのは分からん、この島に、津波の来たのは。だから、その年代がね、私達には、これが分からん。んで明和の津波ごろからは、ちゃんとその役人がおってね、ちゃんと記録はされているさ。そして、記録はあるが、詳しい文献としてこの作ってないのがね、残念であるわけ。ただ簡単に記録だけは、簡単な文献は、あるんだが、詳しいのが無いわけ。一番大きいのが、それからもっと前のものだったらどのくらい大きいのがあったか分からん、この島では大きい石なんか、海岸の大きい石なんかよく転がしてあるんだから、これなんかあるとこれはどういうこの、また、大昔は、どういうその津波があったか、それも分からん。明和の大津波が、あれが八重山では、あれが一番大きいの。私なんかの青年時代に、いや終戦後さ。津波が、そのあって、沖縄のね屋嘉地の大橋まで崩したのが、あれはチリ津波じゃないかなあと、こう思うんだがね。あれが、一番被害の最近大きいのは、チリ、あれはチリ津波だと私はこう思うんだがね。屋嘉地の、屋嘉地の大橋まで崩した。あんた達は、あれ話聞かなかった。いや、文献は見ないよ。ただ、私達は、話を聞いただけよ。あれも調べる必要があると思うさ。

再生時間:0:00

民話詳細DATA

レコード番号 47O201482
CD番号 47O20C077
決定題名 波照間の村(共通語)
話者がつけた題名
話者名 勝連文雄
話者名かな かつれんふみお
生年月日 19170518
性別
出身地 沖縄県八重山郡竹富町波照間
記録日 19971122
記録者の所属組織 竹富町口承文芸学術調査団
元テープ番号 捜索中
元テープ管理者 沖縄伝承話資料センター
分類 20
発句(ほっく)
伝承事情
文字化資料
キーワード 石カンパー,石カンブヤー
梗概(こうがい) 話は、二、三回ぐらいあったということは、津波の話もあるんだがね、これは、いつごろの、この津波であったか、それは分からんさ、これは。このジュゴンのことのあれはね。明和からずっと前の話じゃないかな、とこう思ってる。明和のぐらいであったらどの島とはっきりしておる。明和の津波はあれなんかはちゃんと、あれは、二〇〇年、まだ三〇〇年は、ならんはずよ。なるか、ならんか、ぐらいだ、明和八年かな、明和の津波っていうのは。あれは何百年、まだ三〇〇年はまだと思うさ。だから、はっきりしとるから、それから前の話じゃないかなあと思う。この島でも津波の話は、この来たのこれは事実なんだから。津波の話は、これは、石カンパー、石カンブヤーのね、その話にこうこのこれは長くなるんだが、これはそのアリドウ山の部落が最初建って、また北にまたあっちは、何パーと、ペーフタツパー、ペーフタツパーじゃなくして、ブシシパーという、ブシシというまた部落が、第二回目にブシシという、最初は人間発祥の地のあれの、最初部落建てたのがアリドウ山という、アリドウ部落だったからね、次にブシシ部落が建つんですよ。それからまた三回目に、何パーかな、下地井戸があるでしょう、今現在。あれの東に、何か、ペーフタツパーというんですよ、ペーフタツパーの部落が、その三回目に出来て四回目で、シムス村、シムス村の次が、タカツ村、タカツ村の次に、マシュク村というのがあるんですね。それから、どんどん西に西に、こうこうこう潮の引くところにどんどん、こう西に行って、一番西ではミシュク村までで、海岸端はこうなるんですがね、ミシュク村で、終わるんですが、それが、部落に津波の関係であったのか分からんが、こう部落が中央にこの島現在は。大体津波に追われたというのが、普通の、はっきりその言えばあの当時は、何も学問というのは無いし、記録する人もいないし、ああいうその、ただ口伝えだけで来てるから、はっきりしたあれはいつに何回来たということなんかあったことは、事実はあったわけさ。話なんかも昔話もたくさん、いろいろあるんだが、何月だというのは分からん、この島に、津波の来たのは。だから、その年代がね、私達には、これが分からん。んで明和の津波ごろからは、ちゃんとその役人がおってね、ちゃんと記録はされているさ。そして、記録はあるが、詳しい文献としてこの作ってないのがね、残念であるわけ。ただ簡単に記録だけは、簡単な文献は、あるんだが、詳しいのが無いわけ。一番大きいのが、それからもっと前のものだったらどのくらい大きいのがあったか分からん、この島では大きい石なんか、海岸の大きい石なんかよく転がしてあるんだから、これなんかあるとこれはどういうこの、また、大昔は、どういうその津波があったか、それも分からん。明和の大津波が、あれが八重山では、あれが一番大きいの。私なんかの青年時代に、いや終戦後さ。津波が、そのあって、沖縄のね屋嘉地の大橋まで崩したのが、あれはチリ津波じゃないかなあと、こう思うんだがね。あれが、一番被害の最近大きいのは、チリ、あれはチリ津波だと私はこう思うんだがね。屋嘉地の、屋嘉地の大橋まで崩した。あんた達は、あれ話聞かなかった。いや、文献は見ないよ。ただ、私達は、話を聞いただけよ。あれも調べる必要があると思うさ。
全体の記録時間数 0:00
物語の時間数 0:00
言語識別 共通語
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テープ番号
予備項目1

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