武士の家(共通語)

概要

 武士(ぶし)ん家(や)の話は小さいとき、小浜が家元(やぁもと)の私(うち)の婆ちゃんから聞いた話ですから、小浜に言い伝えられてきたんでないかなって思うんです。元々海賊の武士たちが住んでいたから武士(ぶし)ん家(や)っちゅうんだと思うんですよね。今は海賊は悪いものとしか考えていませんが、その当時は島建ちをしてこの島を守り支配するためにね、力でね、いわば海賊の頭いわば鶴の一声ですべて支配していたじゃなかったかなあと思うんですよ。あの当時の航海は今みたいにコースが頻繁に変わるじゃなくて、帆でもって航海をしていた帆船ですから、季節によって航海する方角がきまっていて、この島でよく海を見渡せる所は、島の中心の火番盛しかないから、そこに見張りがいて冬場は向こうの南の方辺りに船が着くからそこに武士(ぶし)ん家(や)があって、宝物とかいろいろ向こうのあるものをこっちに持ってきて、夏場になると南風を頼りにこの鳩間から石垣や沖縄、それから本土の方に行っていたんですね。だから、鳩間の武士(ぶし)ん家(や)がここにあるっちゅうことは、元々はこっちからあがってくるものを打ち落とす一つに秘密の場所で兵力的なものでなかったんでないかなあと思うんすよ。だから私が聞いたところによると、そこにはいわゆる番人が居たっちゅうことで、この島の人は必ず海から捕ったタコなんかを差し上げたっちゅういわれがあるんですよね。私たちの畑は武士(ぶし)ん家(や)のすぐ近くですので、畑の名前も武士(ぶし)ん家(や)の畑だといっていて、我々はお母さんの手伝いとかいうときは、あの石垣の上よく登ってさ、あそこを覗いたりしておりましたよ。だから、これはその武士(ぶし)ん家(や)の実際の形っちゅうものはね、どういった所になにがあったっちゅうことは記憶に残っておりますから、復元するにしても問題ないと思うんですよ。戦後その石が取り崩されない前に一二月にクリスマスの祭りをやってるときに、何とかという博士が来て、「これはちゃんと写真を撮っておかなくちゃいかない。」と部落の方に、武士(ぶし)ん家(や)に生えていたアダンを一応伐採してくれと頼まれたので、それで我々も一緒に向こうを伐採して、それから火をつけてみんなこう焼いたんですよね。そこで、「じゃあ部落の方たちにお礼をしよう。」ということで、博士はですね、四〇ドルを部落にあげたんです。それを二十ドルは受けて、残りは島の偉い人たちが、今の西原さんの近くの木の下でお酒も買って飯も買ってきてブガリ直しをした記憶がある。なぜその武士の家が崩されたかっちゅうと、これは昭和三二、三年ごろからね、鳩間の護岸工事を大浜実業が請け負っているんですよね。それで、各屋敷の石垣をほとんど提供することになって、その時に無縁墓地の石も武士(ぶし)ん家(や)の石もすべて取られているわけですね。だから、武士(ぶし)ん家(や)が消えてしまったっちゅうことですよね。今現在我々はあそこに石を置いてあるんですけども、あれも復元するための期成会を組織しなければ、出来ないんじゃないかなっちゅうこともありますよね。
①武士の家‥‥鳩間島島北西部、島中浜と立原浜の間にある城跡。要塞風に石垣を積みあげてあったが、岸工事の際にここの石垣を使ったため、現在では形跡も認められない。近々復元しようとの動きある。②ブガリ直し‥‥打ちあげ。慰労会。

再生時間:8:07

民話詳細DATA

レコード番号 47O200550
CD番号 47O20C032
決定題名 武士の家(共通語)
話者がつけた題名
話者名 鳩間昭一
話者名かな はとましょういち
生年月日 19240514
性別
出身地 沖縄県八重山郡竹富町鳩間
記録日 19960915
記録者の所属組織 竹富町口承文芸学術調査団
元テープ番号 竹富町字鳩間T121A3
元テープ管理者 沖縄伝承話資料センター
分類 20
発句(ほっく)
伝承事情
文字化資料 沖国大国文学科平成9度卒業論文 鳩間島の民話 p24
キーワード 小浜,海賊
梗概(こうがい)  武士(ぶし)ん家(や)の話は小さいとき、小浜が家元(やぁもと)の私(うち)の婆ちゃんから聞いた話ですから、小浜に言い伝えられてきたんでないかなって思うんです。元々海賊の武士たちが住んでいたから武士(ぶし)ん家(や)っちゅうんだと思うんですよね。今は海賊は悪いものとしか考えていませんが、その当時は島建ちをしてこの島を守り支配するためにね、力でね、いわば海賊の頭いわば鶴の一声ですべて支配していたじゃなかったかなあと思うんですよ。あの当時の航海は今みたいにコースが頻繁に変わるじゃなくて、帆でもって航海をしていた帆船ですから、季節によって航海する方角がきまっていて、この島でよく海を見渡せる所は、島の中心の火番盛しかないから、そこに見張りがいて冬場は向こうの南の方辺りに船が着くからそこに武士(ぶし)ん家(や)があって、宝物とかいろいろ向こうのあるものをこっちに持ってきて、夏場になると南風を頼りにこの鳩間から石垣や沖縄、それから本土の方に行っていたんですね。だから、鳩間の武士(ぶし)ん家(や)がここにあるっちゅうことは、元々はこっちからあがってくるものを打ち落とす一つに秘密の場所で兵力的なものでなかったんでないかなあと思うんすよ。だから私が聞いたところによると、そこにはいわゆる番人が居たっちゅうことで、この島の人は必ず海から捕ったタコなんかを差し上げたっちゅういわれがあるんですよね。私たちの畑は武士(ぶし)ん家(や)のすぐ近くですので、畑の名前も武士(ぶし)ん家(や)の畑だといっていて、我々はお母さんの手伝いとかいうときは、あの石垣の上よく登ってさ、あそこを覗いたりしておりましたよ。だから、これはその武士(ぶし)ん家(や)の実際の形っちゅうものはね、どういった所になにがあったっちゅうことは記憶に残っておりますから、復元するにしても問題ないと思うんですよ。戦後その石が取り崩されない前に一二月にクリスマスの祭りをやってるときに、何とかという博士が来て、「これはちゃんと写真を撮っておかなくちゃいかない。」と部落の方に、武士(ぶし)ん家(や)に生えていたアダンを一応伐採してくれと頼まれたので、それで我々も一緒に向こうを伐採して、それから火をつけてみんなこう焼いたんですよね。そこで、「じゃあ部落の方たちにお礼をしよう。」ということで、博士はですね、四〇ドルを部落にあげたんです。それを二十ドルは受けて、残りは島の偉い人たちが、今の西原さんの近くの木の下でお酒も買って飯も買ってきてブガリ直しをした記憶がある。なぜその武士の家が崩されたかっちゅうと、これは昭和三二、三年ごろからね、鳩間の護岸工事を大浜実業が請け負っているんですよね。それで、各屋敷の石垣をほとんど提供することになって、その時に無縁墓地の石も武士(ぶし)ん家(や)の石もすべて取られているわけですね。だから、武士(ぶし)ん家(や)が消えてしまったっちゅうことですよね。今現在我々はあそこに石を置いてあるんですけども、あれも復元するための期成会を組織しなければ、出来ないんじゃないかなっちゅうこともありますよね。 ①武士の家‥‥鳩間島島北西部、島中浜と立原浜の間にある城跡。要塞風に石垣を積みあげてあったが、岸工事の際にここの石垣を使ったため、現在では形跡も認められない。近々復元しようとの動きある。②ブガリ直し‥‥打ちあげ。慰労会。
全体の記録時間数 8:07
物語の時間数 8:07
言語識別 共通語
音源の質
テープ番号
予備項目1

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