
西隣に古見(コミ)という家があるんだよ。向こうからの分家が、私の家で、すぐ東に分家しているもんだから、最初は前古見(マエコミ)と言ってました。ところが僕のところの祖先が、「この島は、山もなければ川もない、あまり農業もできない。西表に渡ってお米でも作ろう。」ということで、西表で出作りをしてうちに、高那の人と大変親しくなってですね、高那でいろいろ米を作ったり、今度は向こうで本当に親子みたいな友達になって、その地名を取って高那にしたんじゃないかと言われております。それで、前は本当、前古見といったらしいですよ。これでもそうですね、僕で五代目ぐらいですから、今から考えてみるとちょっと二百年前ぐらいなんですがね。それでもう今は、僕のところは、屋号は前高那であっても姓は高那ですよ。それでね、僕ら西表の高那に畑や田圃がもう一町歩余りぐらいあるんですよ。また、僕らの先祖が分家したという古見にも田圃が相当あるんですよ。
出作りは、こっちからは大きな真っすぐの木を彫り抜いたくり舟で行きますから、そのくり舟は、もうほとんど竹富の各家庭が持っていましたよ。あれはもう出作りに行くのにもう自転車の代用だからね。行くときは、いつもやっぱりこの一週間ぐらいの食糧を持ってですね行くんです。それで、西表で泊まります。あんときは西表はマラリアもあるしね、みんなもうマラリアの持病もちなんですよ。僕たちの親の時代は、みんなマラリアで死んだ人が多いですね。出作り小屋は、小さな茅葺きでですね。それをもう隣り近所で二軒ぐらいで共同で作ってですね、一緒に寝泊まりして、また、後でもうどんどん米を余計作ろうとすれば自分だけで作ったりして、農具やなんかはそこに置いてしまうわけです。で、作った米は、以前はだいたいはモミに出来なくてですね、みんなもう長く刈ったままこれくらいの束にして、そしてもう島に持って帰ったらきれいに干して、それからシラといって、これを積み上げてですね、そして必要なときだけ引き抜いて、これをみんなこういちいち穂を落として、それで臼で食べるだけです。
そうして、もう終戦後は改良のお米が来たもんだから、もうこの外来米を作らないで、あれからは、向こうで誰もみんな籾にして俵に入れて持ってきて、こっちで干して、俵にしたりあるいは、ちゃんと入れて置いて、それから少しずつ精米をして食べた。自分の島では、粟を作ってましたよ。それで、種取りの御馳走というのはお米をつくか、餅米とここで作った餅粟、あれを一緒にしてこねて、お餅にしものニンニクとが種取りの御馳走なんですよ。以前はお米なんてのはもうお盆とか種取りしかお米は食べられなかったですよ。ここはほとんど、お芋を作ったり、粟を作ったり、キビを作ったり、麦を作ってたりして、麦を粉にしてからお粥にしたり、もういろいろこうしてお芋と、雑穀食べたりしてました。
こっちでは、ほとんどあちらに出作りに行っていますね。それで、海が荒れるときもあって、こっちに帰れないときもあります。普通は無理はしないけれども、今日が種取りだとかいうと、少々の天気を無理して、帰って来るときもあります。また無理をして遭難することもあるんです。だから、「今日から種取りだから、あれには間に合わんと帰らんといかん。」と思って、帰って来る途中にですね、舟がひっくりかえって、もう幾人かは助かったり、ほとんどは死んだりしてるのも数多いですよ。だから、田圃作るのに相当もう
犠牲を払った人がここは多いですね、また、マラリアで死んだ人だとかですね。それで、もう昭和三十年頃までは、西表で稲を作っていましたが、その後はもうどんどん米もたくさん出回りが多いし、作らなくても幾らでも米も買っても食べれるもんだから、田圃を持っとてももう作らなくなったんです。今の年寄りはこうゆうので育てられたから長命しているんじゃないかね。
・町歩‥‥町。尺貫法で、田畑・山林の面積の単位。一町は一〇反(約九九・二アール)。・サバニ‥‥沖縄を代表する伝統的な漁船。刳舟とハギ舟がある。・ケン‥‥間。尺貫法で、長さの単位。主として土地・建物などに用いる。一間は六尺(約一・八メートル)・マラリア‥‥原生動物の大血胞子虫類に属するマラリア原虫によって起こる病気。
| レコード番号 | 47O200312 |
|---|---|
| CD番号 | 47O20C019 |
| 決定題名 | 竹富の出作り(共通語) |
| 話者がつけた題名 | - |
| 話者名 | 高那石吉 |
| 話者名かな | たかないしきち |
| 生年月日 | 19080714 |
| 性別 | 男 |
| 出身地 | 沖縄県八重山郡竹富町字竹富 |
| 記録日 | 19950910 |
| 記録者の所属組織 | 沖縄口承文芸学術調査団 |
| 元テープ番号 | 竹富町字竹富T25B6 |
| 元テープ管理者 | 沖縄伝承話資料センター |
| 分類 | 80 |
| 発句(ほっく) | - |
| 伝承事情 | - |
| 文字化資料 | 沖国大国文学科平成8度卒業論文 竹富島の民話 p29 |
| キーワード | 古見,西表,田圃,マラリア |
| 梗概(こうがい) | 西隣に古見(コミ)という家があるんだよ。向こうからの分家が、私の家で、すぐ東に分家しているもんだから、最初は前古見(マエコミ)と言ってました。ところが僕のところの祖先が、「この島は、山もなければ川もない、あまり農業もできない。西表に渡ってお米でも作ろう。」ということで、西表で出作りをしてうちに、高那の人と大変親しくなってですね、高那でいろいろ米を作ったり、今度は向こうで本当に親子みたいな友達になって、その地名を取って高那にしたんじゃないかと言われております。それで、前は本当、前古見といったらしいですよ。これでもそうですね、僕で五代目ぐらいですから、今から考えてみるとちょっと二百年前ぐらいなんですがね。それでもう今は、僕のところは、屋号は前高那であっても姓は高那ですよ。それでね、僕ら西表の高那に畑や田圃がもう一町歩余りぐらいあるんですよ。また、僕らの先祖が分家したという古見にも田圃が相当あるんですよ。 出作りは、こっちからは大きな真っすぐの木を彫り抜いたくり舟で行きますから、そのくり舟は、もうほとんど竹富の各家庭が持っていましたよ。あれはもう出作りに行くのにもう自転車の代用だからね。行くときは、いつもやっぱりこの一週間ぐらいの食糧を持ってですね行くんです。それで、西表で泊まります。あんときは西表はマラリアもあるしね、みんなもうマラリアの持病もちなんですよ。僕たちの親の時代は、みんなマラリアで死んだ人が多いですね。出作り小屋は、小さな茅葺きでですね。それをもう隣り近所で二軒ぐらいで共同で作ってですね、一緒に寝泊まりして、また、後でもうどんどん米を余計作ろうとすれば自分だけで作ったりして、農具やなんかはそこに置いてしまうわけです。で、作った米は、以前はだいたいはモミに出来なくてですね、みんなもう長く刈ったままこれくらいの束にして、そしてもう島に持って帰ったらきれいに干して、それからシラといって、これを積み上げてですね、そして必要なときだけ引き抜いて、これをみんなこういちいち穂を落として、それで臼で食べるだけです。 そうして、もう終戦後は改良のお米が来たもんだから、もうこの外来米を作らないで、あれからは、向こうで誰もみんな籾にして俵に入れて持ってきて、こっちで干して、俵にしたりあるいは、ちゃんと入れて置いて、それから少しずつ精米をして食べた。自分の島では、粟を作ってましたよ。それで、種取りの御馳走というのはお米をつくか、餅米とここで作った餅粟、あれを一緒にしてこねて、お餅にしものニンニクとが種取りの御馳走なんですよ。以前はお米なんてのはもうお盆とか種取りしかお米は食べられなかったですよ。ここはほとんど、お芋を作ったり、粟を作ったり、キビを作ったり、麦を作ってたりして、麦を粉にしてからお粥にしたり、もういろいろこうしてお芋と、雑穀食べたりしてました。 こっちでは、ほとんどあちらに出作りに行っていますね。それで、海が荒れるときもあって、こっちに帰れないときもあります。普通は無理はしないけれども、今日が種取りだとかいうと、少々の天気を無理して、帰って来るときもあります。また無理をして遭難することもあるんです。だから、「今日から種取りだから、あれには間に合わんと帰らんといかん。」と思って、帰って来る途中にですね、舟がひっくりかえって、もう幾人かは助かったり、ほとんどは死んだりしてるのも数多いですよ。だから、田圃作るのに相当もう 犠牲を払った人がここは多いですね、また、マラリアで死んだ人だとかですね。それで、もう昭和三十年頃までは、西表で稲を作っていましたが、その後はもうどんどん米もたくさん出回りが多いし、作らなくても幾らでも米も買っても食べれるもんだから、田圃を持っとてももう作らなくなったんです。今の年寄りはこうゆうので育てられたから長命しているんじゃないかね。 ・町歩‥‥町。尺貫法で、田畑・山林の面積の単位。一町は一〇反(約九九・二アール)。・サバニ‥‥沖縄を代表する伝統的な漁船。刳舟とハギ舟がある。・ケン‥‥間。尺貫法で、長さの単位。主として土地・建物などに用いる。一間は六尺(約一・八メートル)・マラリア‥‥原生動物の大血胞子虫類に属するマラリア原虫によって起こる病気。 |
| 全体の記録時間数 | 8:50 |
| 物語の時間数 | 8:50 |
| 言語識別 | 共通語 |
| 音源の質 | ○ |
| テープ番号 | - |
| 予備項目1 | - |