根原神殿と種取り(共通語)

概要

種取り祭りの世持御嶽(よもちうたけ)と火の神の両方の神は、一箇所に祀ってあって、種取り祭りは、この世持御嶽の前で施行しておりますけれども、どういういわれで、ここに持って来たかと言うと、この種取り祭を作ったのは、世持御嶽の側の方の玻座間御嶽に祀ってある根原神殿(ねはらかんどぅ)という神様がこの種取り祭りを作り出したということで、玻座間御嶽の近くにあるんですね。この根原神殿という人は、農業にも大変詳しく、農業を指導する立場にあったみたいな人だったんでしょう。で、この人は、経験上から、暦の戊子(つちのえね)に、この稲とか、粟の種を蒔いたものが、物凄く出来るということで、種取り祭は、戊子(つちのえね)に行うようにしたんですよ。それで、「毎年、戊子(つちのえね)に種取り祭りをしよう。」と根原神殿が言っても、仲筋御嶽、幸本御嶽、花城御嶽、細原御嶽、波利若御嶽とかに今祀られている五ヵ所のお宮の方々は、今、神と祀っておられる方は、根原神殿とは違って、「自分たちは、甲丑(きのえうし)で蒔いたのが一番良かった。」とか言うて、物凄く対立して、なかなか調整が取れなっ
たらしいんですよね。この暦の日は、甲(きのえ)とか、乙(きのと)、丙(ひのえ)、丁(ひのと)とか、戊(つちのえ)、己(つちのと)、庚(かのえ)、辛(かのと)とあって、それに十二支が組合わさって六〇日でずうっと一回、回るわけ。
 そしたら、根原神殿は、知恵があるもんだから、自分の姉を幸本御嶽の神様にお嫁に行かしたそうです。そして、この姉は、幸本御嶽の神様の所に行くと、幸本御嶽の神様が、丙(ひのえ)で蒔いて作っている粟が、ずうっと何年と試験をしてきて、それから、幸本御嶽の神様に、「こっちの出来具合がどうも良くない。」と説明したんだけど、最初のころは、「ああそうかあ。それでも、そんなより甲丑(きのえうし)で蒔いた自分なんかの方がいい。」と、頑張って意地を張っていただろうけど、そのうちに、根原神殿は、もう大きな蔵に粟とお米を収穫してもうお祝いをしておられるから、嫁に行った根原神殿の姉が、「あんたが甲(きのえ)で蒔いて作る粟は、こんだけしか取れないから収穫も少ないし、御神酒のミシャクも良くないよ。私のお兄さんは、毎年、戊子(つちのえね)で作ってあんなに良く出来て粟の収穫も多いし、ミシャクも物凄く良く出来る。」と話したらしいんですね。そしたら、幸本御嶽の神様も、つくづく考えて、「ああそうか、そんなに出来具合が違うか。もうじゃあこれは考慮せんといかない。そんなら何とかして戊子(つちのえね)の種取り祭りに合流して、一緒になって種も同じ日に蒔こうじゃないか。」ということになって、また、兄さんの方の根原神殿も、幸本御嶽の神様をなだめたから、幸本御嶽の神様は、他の神々は話し合ったらですね。六山(ムーヤマ)の他の神々も話し合ったら、「恥ずかしいが、自分らが作る日取りは悪い。」と思ったが、もう負けたということは言いたくないし、祭りに行くのも非常に恥ずかしいから、この根原神殿の姉に誘われて来て、ほおかぶりをして行ったら、根原神殿は、「もう今ここに入って来た人は、ほうかぶりもはずしなさい。一緒に踊ろう。」と言うから、これに仲筋御嶽、幸本御嶽、久間原御嶽、波利若御嶽、花城御嶽の合流して一緒に祭りをやったのがこの島の種取りの始まりなんですよね。それで、これは、こっちの種取り祭りの世乞い(ユークイ)って、種取りの晩に世送りって回るってのがあるでしょう。そのときの歌にも、「こっちの殿内の殿様は、米蔵(こみぐら)、粟蔵を後ろにしてこうしてがっと座っておられる姿は羨ましい。自分らは大変恥ずかしいけれどもほおかぶりして、一緒にやりたいという気持ちで今日は来たよ。」と歌って、全部、この話の筋道がこの種取りの歌に歌われてるんです。で、以前は、種取り祭りの日には、一日は三等分にして、余興もね、三等分にして、朝九時から始まったら、三時ぐらいまでは玻座間部落、三時から五時まではね、仲筋部落というよにしてね、踊ったのよ。だけど、今は、それを合流してしまってね、一緒になってやってるんですよ。
 この根原神殿は、体ががっちりと物凄く大きくてですね、この人は与那国に彼女を作って、与那国までも、一晩でこう艪で漕いで彼女に会って来たとと言われるくらいの大力の武士だったらしいんですよ。それはもう嘘かとも思うけど、本当にそういう話もあるわけ。で、ここの竹富から与那国までの間で、竹富のすぐ西の方の潮が早く流れる海峡をね、ナナヨーっていうですが、このナナヨーっていうのは、この根原神殿が一晩で彼女に会いに行くときに、この海峡を櫓で七回漕いで渡ったということで七櫓(ナナヨー)って言われてるよ。 で、この人がですね、与那国に通って来るもんだから、与那国の人が根原神殿を警戒して、征伐しようといくら押し寄せても、もうどうしても根原神殿にはかなわないもんだから、「この人を征伐するのにいかにして征伐するか。」と与那国の連中は考えたるわけですよね。だけども、もう根原神殿は武士だからね、殺す人を指示したりするかも知らんけども、これがもうみんな怖いと反対してあるわけさあね。それで、「これを殺すのにはどうしても彼女を作らしてやらんといかん。」と言うて、彼女を作ってやって一緒にして、そのときにあとはもうこの人に酒もあげて、酔わしておいて、彼女には、「一緒に寝とって、こ根原神殿が寝静まった時に、短刀で刺し殺しなさい。」というふうに指示されたでしょうね。その与那国の人の娘は、だからこの人の身体を調べてみたら、どこをさわってももう固かったらしいんですね。だけど一番ここだけがね、柔らかいところだと分かったら、彼女は、その柔らかいところを刺して殺したら、そのときに、根原神殿は、むくうっと立ち上がってですね、それから立ったまま一週間も倒れなかったっていう話もあるわけよ。それで、与那国の人は、怖くて寄りきらずにいたら、後からは、根原神殿の身体が腐って蛆がわいたら、蛆が口からぽろぽろぽろ落ちて来たから、与那国の人は、その蛆を見てからね、「やあ、これは生米を噛んでもう我々を殺しに来るんだ。さあ、大変だ。」と、それから逃げ回ったりして、自分ら同士でももうぶっつかったりしてけが人を出したりして、大変だったらしいよ。
・根原神殿(ねはらかんどぅ)‥‥玻座間御嶽に祀られた神。屋久島から渡来されたと伝わる。竹富島で最も有力な神。水田がないために米が作れなかった竹富島に、故郷から粟の種を取り寄せて粟作に力をそそいだといった、種子取り祭に関する話も有名である。・世持御嶽‥‥竹富島の集落内にある。・種子取り祭‥‥稲粟の播種儀礼。タントウィ・タナドゥイ・種子取祭とも称する。竹富島では節祭より四九日目にあたる旧暦九月から一○月の甲申の日から一○日間の戊子(つちのえね)の日に及ぶ。祓い清めた土地に種子を蒔き始める祭である。苗代おろしの祈願をし、蒔き入れる種子が一粒万培となって豊作豊年であるよう、太平の御代の神として崇めている弥勒様に祈願する。そして世持御嶽の神前で行列踊り、舞踊が演じられる。竹富島の年中行事の中で最も大きな祭である。クライマックスの七、八日目には豊年を祈る厳粛な儀式のあと、数々の奉納芸能が行われる。国指定重要無形民俗文化財。・幸本御嶽‥‥仲筋部落の西にあり、久米島から渡来した幸本節瓦殿が祀られている。・花城御嶽‥‥竹富島の東方にある御嶽で、沖縄本島より渡来した他金殿が祀られている。・細原御嶽‥‥竹富島の東方にある御嶽で、沖縄本島より渡来した久間原発金が祀られている。・波利若御嶽‥‥花城御嶽の南にある御嶽で、徳之島より渡来した塩川殿が祀れている。・ミシャク‥‥ミシャグとも言う。米や粟で作った濁酒のことで、材料によって米(マイ)ミシャク、粟(アー)ミシャクと呼ぶ。・世乞い(ユークイ)‥‥ユー(稲粟・豊年・富貴)を招き寄せる儀礼や呪術。南島の稲作儀礼では、播種、初穂の儀礼に予祝性が強く、刈り上げ神事のウマチーよりも、稲作畑作の複合的、二次的収穫儀礼の豊年祭に〈世乞い〉の行事が集中する。八重山でも、旧暦六月のプーリーの二日目を〈世願い〉といい、願解きの〈結願〉を〈来年の世の願い〉、〈節〉の正日をユークイと称して、綱引き・船漕ぎ・狂言・巻踊・稲作過程の模擬行為などを豊年招来のために演じる。・種子取りの歌‥‥種子取り祭世乞い歌。道中歌、卷歌、しきどぅーよーは、いぬがだにあよう、にーういぬゆんたの五つ。・与那国‥‥方言ではゆーん。地元ではどぅなんともいう。那覇港の南西約四五○キロの東シナ海上に位置する日本最西端の島。石垣島の西方一二八キロ、竹富島からは約一二二キロの東シナ海に浮かぶ日本最西端の島。方音はドゥナン、またはユノーン。久部良バリ・トゥング田・島民の南与那国への逃亡など、人頭税制にまつわる数多く
の悲惨な伝説がある。・七櫓(ナナヨー)‥‥西桟橋から一キロほど沖の方の潮流の激しい所。根原神殿が七回櫓を漕いで渡った所なので、そう呼ばれるようになった。

再生時間:8:37

民話詳細DATA

レコード番号 47O200299
CD番号 47O20C017
決定題名 根原神殿と種取り(共通語)
話者がつけた題名
話者名 赤山喜介
話者名かな あかやまきすけ
生年月日 19190420
性別
出身地 沖縄県八重山郡竹富町字竹富
記録日 19950322
記録者の所属組織 沖縄口承文芸学術調査団
元テープ番号 竹富町字竹富T07A13
元テープ管理者 沖縄伝承話資料センター
分類 20
発句(ほっく)
伝承事情
文字化資料 沖国大国文学科平成8度卒業論文 竹富島の民話 p37
キーワード 世持御嶽,農業,嫁,与那国
梗概(こうがい) 種取り祭りの世持御嶽(よもちうたけ)と火の神の両方の神は、一箇所に祀ってあって、種取り祭りは、この世持御嶽の前で施行しておりますけれども、どういういわれで、ここに持って来たかと言うと、この種取り祭を作ったのは、世持御嶽の側の方の玻座間御嶽に祀ってある根原神殿(ねはらかんどぅ)という神様がこの種取り祭りを作り出したということで、玻座間御嶽の近くにあるんですね。この根原神殿という人は、農業にも大変詳しく、農業を指導する立場にあったみたいな人だったんでしょう。で、この人は、経験上から、暦の戊子(つちのえね)に、この稲とか、粟の種を蒔いたものが、物凄く出来るということで、種取り祭は、戊子(つちのえね)に行うようにしたんですよ。それで、「毎年、戊子(つちのえね)に種取り祭りをしよう。」と根原神殿が言っても、仲筋御嶽、幸本御嶽、花城御嶽、細原御嶽、波利若御嶽とかに今祀られている五ヵ所のお宮の方々は、今、神と祀っておられる方は、根原神殿とは違って、「自分たちは、甲丑(きのえうし)で蒔いたのが一番良かった。」とか言うて、物凄く対立して、なかなか調整が取れなっ たらしいんですよね。この暦の日は、甲(きのえ)とか、乙(きのと)、丙(ひのえ)、丁(ひのと)とか、戊(つちのえ)、己(つちのと)、庚(かのえ)、辛(かのと)とあって、それに十二支が組合わさって六〇日でずうっと一回、回るわけ。  そしたら、根原神殿は、知恵があるもんだから、自分の姉を幸本御嶽の神様にお嫁に行かしたそうです。そして、この姉は、幸本御嶽の神様の所に行くと、幸本御嶽の神様が、丙(ひのえ)で蒔いて作っている粟が、ずうっと何年と試験をしてきて、それから、幸本御嶽の神様に、「こっちの出来具合がどうも良くない。」と説明したんだけど、最初のころは、「ああそうかあ。それでも、そんなより甲丑(きのえうし)で蒔いた自分なんかの方がいい。」と、頑張って意地を張っていただろうけど、そのうちに、根原神殿は、もう大きな蔵に粟とお米を収穫してもうお祝いをしておられるから、嫁に行った根原神殿の姉が、「あんたが甲(きのえ)で蒔いて作る粟は、こんだけしか取れないから収穫も少ないし、御神酒のミシャクも良くないよ。私のお兄さんは、毎年、戊子(つちのえね)で作ってあんなに良く出来て粟の収穫も多いし、ミシャクも物凄く良く出来る。」と話したらしいんですね。そしたら、幸本御嶽の神様も、つくづく考えて、「ああそうか、そんなに出来具合が違うか。もうじゃあこれは考慮せんといかない。そんなら何とかして戊子(つちのえね)の種取り祭りに合流して、一緒になって種も同じ日に蒔こうじゃないか。」ということになって、また、兄さんの方の根原神殿も、幸本御嶽の神様をなだめたから、幸本御嶽の神様は、他の神々は話し合ったらですね。六山(ムーヤマ)の他の神々も話し合ったら、「恥ずかしいが、自分らが作る日取りは悪い。」と思ったが、もう負けたということは言いたくないし、祭りに行くのも非常に恥ずかしいから、この根原神殿の姉に誘われて来て、ほおかぶりをして行ったら、根原神殿は、「もう今ここに入って来た人は、ほうかぶりもはずしなさい。一緒に踊ろう。」と言うから、これに仲筋御嶽、幸本御嶽、久間原御嶽、波利若御嶽、花城御嶽の合流して一緒に祭りをやったのがこの島の種取りの始まりなんですよね。それで、これは、こっちの種取り祭りの世乞い(ユークイ)って、種取りの晩に世送りって回るってのがあるでしょう。そのときの歌にも、「こっちの殿内の殿様は、米蔵(こみぐら)、粟蔵を後ろにしてこうしてがっと座っておられる姿は羨ましい。自分らは大変恥ずかしいけれどもほおかぶりして、一緒にやりたいという気持ちで今日は来たよ。」と歌って、全部、この話の筋道がこの種取りの歌に歌われてるんです。で、以前は、種取り祭りの日には、一日は三等分にして、余興もね、三等分にして、朝九時から始まったら、三時ぐらいまでは玻座間部落、三時から五時まではね、仲筋部落というよにしてね、踊ったのよ。だけど、今は、それを合流してしまってね、一緒になってやってるんですよ。  この根原神殿は、体ががっちりと物凄く大きくてですね、この人は与那国に彼女を作って、与那国までも、一晩でこう艪で漕いで彼女に会って来たとと言われるくらいの大力の武士だったらしいんですよ。それはもう嘘かとも思うけど、本当にそういう話もあるわけ。で、ここの竹富から与那国までの間で、竹富のすぐ西の方の潮が早く流れる海峡をね、ナナヨーっていうですが、このナナヨーっていうのは、この根原神殿が一晩で彼女に会いに行くときに、この海峡を櫓で七回漕いで渡ったということで七櫓(ナナヨー)って言われてるよ。 で、この人がですね、与那国に通って来るもんだから、与那国の人が根原神殿を警戒して、征伐しようといくら押し寄せても、もうどうしても根原神殿にはかなわないもんだから、「この人を征伐するのにいかにして征伐するか。」と与那国の連中は考えたるわけですよね。だけども、もう根原神殿は武士だからね、殺す人を指示したりするかも知らんけども、これがもうみんな怖いと反対してあるわけさあね。それで、「これを殺すのにはどうしても彼女を作らしてやらんといかん。」と言うて、彼女を作ってやって一緒にして、そのときにあとはもうこの人に酒もあげて、酔わしておいて、彼女には、「一緒に寝とって、こ根原神殿が寝静まった時に、短刀で刺し殺しなさい。」というふうに指示されたでしょうね。その与那国の人の娘は、だからこの人の身体を調べてみたら、どこをさわってももう固かったらしいんですね。だけど一番ここだけがね、柔らかいところだと分かったら、彼女は、その柔らかいところを刺して殺したら、そのときに、根原神殿は、むくうっと立ち上がってですね、それから立ったまま一週間も倒れなかったっていう話もあるわけよ。それで、与那国の人は、怖くて寄りきらずにいたら、後からは、根原神殿の身体が腐って蛆がわいたら、蛆が口からぽろぽろぽろ落ちて来たから、与那国の人は、その蛆を見てからね、「やあ、これは生米を噛んでもう我々を殺しに来るんだ。さあ、大変だ。」と、それから逃げ回ったりして、自分ら同士でももうぶっつかったりしてけが人を出したりして、大変だったらしいよ。 ・根原神殿(ねはらかんどぅ)‥‥玻座間御嶽に祀られた神。屋久島から渡来されたと伝わる。竹富島で最も有力な神。水田がないために米が作れなかった竹富島に、故郷から粟の種を取り寄せて粟作に力をそそいだといった、種子取り祭に関する話も有名である。・世持御嶽‥‥竹富島の集落内にある。・種子取り祭‥‥稲粟の播種儀礼。タントウィ・タナドゥイ・種子取祭とも称する。竹富島では節祭より四九日目にあたる旧暦九月から一○月の甲申の日から一○日間の戊子(つちのえね)の日に及ぶ。祓い清めた土地に種子を蒔き始める祭である。苗代おろしの祈願をし、蒔き入れる種子が一粒万培となって豊作豊年であるよう、太平の御代の神として崇めている弥勒様に祈願する。そして世持御嶽の神前で行列踊り、舞踊が演じられる。竹富島の年中行事の中で最も大きな祭である。クライマックスの七、八日目には豊年を祈る厳粛な儀式のあと、数々の奉納芸能が行われる。国指定重要無形民俗文化財。・幸本御嶽‥‥仲筋部落の西にあり、久米島から渡来した幸本節瓦殿が祀られている。・花城御嶽‥‥竹富島の東方にある御嶽で、沖縄本島より渡来した他金殿が祀られている。・細原御嶽‥‥竹富島の東方にある御嶽で、沖縄本島より渡来した久間原発金が祀られている。・波利若御嶽‥‥花城御嶽の南にある御嶽で、徳之島より渡来した塩川殿が祀れている。・ミシャク‥‥ミシャグとも言う。米や粟で作った濁酒のことで、材料によって米(マイ)ミシャク、粟(アー)ミシャクと呼ぶ。・世乞い(ユークイ)‥‥ユー(稲粟・豊年・富貴)を招き寄せる儀礼や呪術。南島の稲作儀礼では、播種、初穂の儀礼に予祝性が強く、刈り上げ神事のウマチーよりも、稲作畑作の複合的、二次的収穫儀礼の豊年祭に〈世乞い〉の行事が集中する。八重山でも、旧暦六月のプーリーの二日目を〈世願い〉といい、願解きの〈結願〉を〈来年の世の願い〉、〈節〉の正日をユークイと称して、綱引き・船漕ぎ・狂言・巻踊・稲作過程の模擬行為などを豊年招来のために演じる。・種子取りの歌‥‥種子取り祭世乞い歌。道中歌、卷歌、しきどぅーよーは、いぬがだにあよう、にーういぬゆんたの五つ。・与那国‥‥方言ではゆーん。地元ではどぅなんともいう。那覇港の南西約四五○キロの東シナ海上に位置する日本最西端の島。石垣島の西方一二八キロ、竹富島からは約一二二キロの東シナ海に浮かぶ日本最西端の島。方音はドゥナン、またはユノーン。久部良バリ・トゥング田・島民の南与那国への逃亡など、人頭税制にまつわる数多く の悲惨な伝説がある。・七櫓(ナナヨー)‥‥西桟橋から一キロほど沖の方の潮流の激しい所。根原神殿が七回櫓を漕いで渡った所なので、そう呼ばれるようになった。
全体の記録時間数 9:27
物語の時間数 8:37
言語識別 共通語
音源の質
テープ番号
予備項目1

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