西塘(共通語)

概要

その西塘さんが帰って来た時の話よね、だからこっちに帰っていらした時にね、首里から彼女も連れて来たら、昔はほら、大きい船
で来たら、この島に来るには、また天馬船に乗り換えて来るしかないでしょ。その伝馬船に乗ってこの島のあっちに下りてね、向こう海岸の方からね、こう部落に上がってらしたら、このこっちにいらしたのは、本妻さあね。この西塘さんの家では犬を養っておったんだって。その西塘さんが養っていた犬がおってね、この本妻が浜の方の畑に行ったら、浜の方からまた西塘さんが来てね、お互い何十年ぐらいになっとって、西塘さんはまたほら向こうで偉くなっているからちょっと人相も変わっていたはずね。またこっちの奥さんは百姓だったから、西塘さんとこの奥さんは出会って、「おかしいね。」とは思ったけど、お互いにあまり分からん。そして、本妻がこう畑に行く時に、この西塘さんが飼っといた犬がね、後をついて畑に行っているわけさね。海岸の方からは西塘さんが来て、お互いにね、分からんかったら、犬がね、この西塘さん見てね、この西塘さんにもうじゃれてね、もう着物にこうぶらさがったから、それを見て、お互いによく見たら、自分の奥さんで自分の旦那でしょ。そしたけれども、西塘さんは、首里から連れてきた彼女も一緒だったから、その首里から来た奥さんは、その嫉妬でよ、「こっちに奥さんがおったんだね。自分はこっち来るべきじゃなかったね。」と思ってね、すぐそこの部落のすぐ後にね深い井戸があったから、その井戸に身を投げてね、自殺をやらかしたらしいね。この首里から来た奥さんが、身を投げて亡くなった井戸は今ないの。この人が亡くなってからすぐ塞いだらしい。
 それで、その西塘さんが、この島で生んでおった子供はね、ウザーっていう名だったらしいのね。これは、こっちの本妻の子さ。西塘さんは、この男の子を産んどいてから、首里のまでいらしたあるわけさね。それで、西塘さんが、首里に行っている間に、この子も大きくなっているんでしょう。それで、この子がね、夜釣りによく行ったらしいですね。ある晩ね、ウザーは、夜釣りに行ってそのまま帰ってこないんだって。このお母さんは、夫も首里に行ったまま帰ってこんでしょ。また、このウザーも夜釣り行って帰って来ないから、このお母さんはずっと、部落からずっと行った海岸端にね、今もちょっとこうなったお宮みたいなのあるんですよね。あそこでね、畑に行くたんびに、「もしウザーが生きてたら、守って下さい。」願かけてね、いつもね、あそこで祈りしとったって。そしたらある日、お母さんが、「もしどこかにおったら知らせてください。」とお祈りしとったら、烏がね、「ウザーおん、ウザーおん。」って鳴いたって。そのお母さんになんでも、「ウザーおる。ウザーおる。」とそんなに聞こえたんだろうね。そしたらこのお母さんとっても喜んでね。どこかにおるんだねえと思っておったら、またずっと後で、八重山からまた首里にと向かっとった役人が、嵐に遭って、南方のね、台湾の近くのどこかの島にたどり着いた。役人はよ、流れ着いたところには、もう水もないし、こう嵐に遭ってもう何日かかかっているから、食料もない。そして、人に会ったら、もう水でも食べ物でも少しでもいいからもらいたいと思ってね、また、何かもらったら、この島から出ようとしてその島の海岸におったらね、ずうと山の奥の方でよ、遠くの方で、八重山の歌を歌ってる人がおるって。「おかしいね。なんでこっちに八重山の歌を歌っている人がおる。」って言ってね、こう歌のところに聞きに行ったらね、「自分は竹富島の西塘の子供のウザーっていう者で、こっちに嵐に遭って流れ着いたけど、今はこっちの王様になっておるからもう自分は戻られない。もし八重山に帰ったら、竹富島には、自分の母親が一人でいるから、親に自分はこっちに無事おるよって言ってちょうだい。」と言っていたって。やっぱし、ほら西塘の子供だから、頭も良かったんでしょうね。この八重山から行ったこの役人達は、お水とか食べ物とかをもらってね、「すぐ今のうちに逃げなさい。」って逃がされて、また八重山に来たっていう話もある。んで、こっちの西塘のこっちから向かって左側にね、そこにまたそこのウザーのところにってお線香焚いたりする香炉があるんですよ。
 この西塘さんのモリアンマー(お守り役)と言って、お守りしたのが私(うち)の本家の細原屋の祖先がだった。それで、西塘さんが首里城を築いて、沖縄からこの島に帰っていらっしゃる時に、昔はほら、あまり着物も着られないでしょ。だからこの西塘さんがね、「お守りあんまあの物(もん)。」って言ってね、着物を買っていらしたということなのね。あの頃はもうこっちの人なんか絶対に紅型なんか買えないけど、四百年、五百年も前にこの人がモリアンマーに買って来たのが、これがうちの本家に最近まであったんです
よね。私の学校時代にもね、よく学校の先生がね、「細原家にね、西塘の持ってきた着物のきれがあるっちゅうの、みんな見たことある。」って、私(うち)なんかあの時、細原家にお嫁に行くっても分からんから、どんなのだろうと思ったわけ。そしてね、主人に、「先生が細原家には着物があるって言ったけど、やっぱしあるの。」と聞いたことあるんです。それで、昔はあったけど、今、これがあんなに重宝されるもんだったらね、ちゃあんときれいにね、虫干ししたり、またナフタレン入れたりしただろうけど、昔のそのまま
置いて、みんな虫に食われたんだって。だから、虫に食われた所を切って捨て、これぐらい残っといたのちょこっと見たよ。今のね、紅型みたいなね。端布があった。それでそれをね、またあそこの蒐集館に持って行って、今は、あっちに置いてあるっていう話なんだけど。今考えたらね、紅型みたい。
 西塘さんは、さっき言ったように、八重山の役人では、初代の役人になって帰って来て、あっちのずっと南のコンドイの方にいらして、あっちを役所として、政治を治めておったけど、こんな小さい島だから、結局中央からは八重山に来たら、石垣に来て、またこっちにこないといかないから、また結局石垣に渡って、石垣の今の大きい地方役所があるでしょう。そこで、あの与那国もみんな八重山中だから、その八重山を統一する八重山の初代の頭主(かしらしゅう)って言うの役をして、治めたわけさ。だから、こっちから島は小さいけど、八重山初代の頭主というのは、こっちから出たということで、西塘さんはこっち祀られているんです。私(うち)なんか戦前に見た時に、西塘さんの後ろのもうこっちにね、西塘さんのお墓があるんですよね。この墓の石は、首里城を築いたときの石の余りをもらって、その石を伝馬船(てんません)に乗せて、こっちもっていらして、自分のお墓を築いたって言われてますね。だからね、終戦後には皆ね、「この墓を開けてみたら、何か宝物が出てこないか。」という話がよくあったけど、こっちの墓は開けたことないですよ。
・西塘‥‥文明一八年に誕生と推定。八重山竹富島に生まれる。非凡な才能が認められ、三司官に使えた。国王の祈願所園比屋武御嶽の創建にあたり、石門築造主任として首里城城壁の設計、弁ケ門の石門(久高島遙拝所)も築造した。その功績が国王に認められ、一五二四年竹富首里大屋子の頭職に任命される。帰郷して竹富島浦皆治原に蔵元を創建、八重山を統治した。施政一九年後土地の狭さ交通の不便のため、蔵元を石垣に移設。六年後六五歳で死去した。西塘は竹富島の住民が最も誇りとする人物であり、「西塘に続け」が島の合言葉になっている。西塘は幼名石戸といい、西塘という名は首里王府から戴いたものではないかといわれている。・首里城‥‥那覇市当之蔵(とうのくら)町にある城跡。一四世紀頃察度(さっと)によって築城されたといわれる。・園比屋武御嶽(そなやんおたけ)‥‥西塘が首里在勤中に築造した。園比屋武御嶽の神は、那覇市首里真和志にある守礼之門の後方の位置にある。第二尚氏の祖、尚円王の生誕地といわれる伊是名島にある「田の上御嶽」の「ソノヒヤブ神」を勧請して創建したと伝えられる。本来、同神は降雨を司る神といわれている。御嶽は、かつて国王出御の折重要な儀式によって祈願したといわれ、今でも大切な拝所として祈願に訪れる人は多い。御嶽に石門があり、沖縄の代表的な石造建築のひとつである。琉球固有の宗教建築で奈良の三輪神社、信州の諏訪神社と同様、神籬(ひもろぎ)形式をとっている。昭和四七年五月一五日、国指定重要文化財に指定された。・伝馬船‥‥ティンマともいう。櫂や帆を持って物資運搬、人員輸送に使われた船のこと。・ウザー‥‥西塘の一人息子の宇座。ウザーが歌っていた歌は八重山の「カチニアヨー」であったという。また母が祈ったところは、シュムザーシュ御嶽として今も残る。・紅型(びんがた)‥‥沖縄の代表的な染物。着用は王族・士族に限られていた。・蒐集館‥‥喜宝院蒐集館のこと。上勢頭亨氏が六○年をかけて収集した八重山地方の民俗・民芸資料約四千点を展示している。・コンドイ‥‥竹富島の西方に位置する。現在はコンドイ浜は海水浴場として賑わう。

再生時間:9:46

民話詳細DATA

レコード番号 47O200252
CD番号 47O20C015
決定題名 西塘(共通語)
話者がつけた題名
話者名 細原千代
話者名かな くまばらちよ
生年月日 19200124
性別
出身地 沖縄県八重山郡竹富町字竹富
記録日 19950322
記録者の所属組織 沖縄口承文芸学術調査団
元テープ番号 竹富町字竹富T3B01
元テープ管理者 沖縄伝承話資料センター
分類 20
発句(ほっく)
伝承事情
文字化資料 沖国大国文学科平成8度卒業論文 竹富島の民話 p50
キーワード 伝馬船,本妻,犬,妾,井戸,宇座
梗概(こうがい) その西塘さんが帰って来た時の話よね、だからこっちに帰っていらした時にね、首里から彼女も連れて来たら、昔はほら、大きい船 で来たら、この島に来るには、また天馬船に乗り換えて来るしかないでしょ。その伝馬船に乗ってこの島のあっちに下りてね、向こう海岸の方からね、こう部落に上がってらしたら、このこっちにいらしたのは、本妻さあね。この西塘さんの家では犬を養っておったんだって。その西塘さんが養っていた犬がおってね、この本妻が浜の方の畑に行ったら、浜の方からまた西塘さんが来てね、お互い何十年ぐらいになっとって、西塘さんはまたほら向こうで偉くなっているからちょっと人相も変わっていたはずね。またこっちの奥さんは百姓だったから、西塘さんとこの奥さんは出会って、「おかしいね。」とは思ったけど、お互いにあまり分からん。そして、本妻がこう畑に行く時に、この西塘さんが飼っといた犬がね、後をついて畑に行っているわけさね。海岸の方からは西塘さんが来て、お互いにね、分からんかったら、犬がね、この西塘さん見てね、この西塘さんにもうじゃれてね、もう着物にこうぶらさがったから、それを見て、お互いによく見たら、自分の奥さんで自分の旦那でしょ。そしたけれども、西塘さんは、首里から連れてきた彼女も一緒だったから、その首里から来た奥さんは、その嫉妬でよ、「こっちに奥さんがおったんだね。自分はこっち来るべきじゃなかったね。」と思ってね、すぐそこの部落のすぐ後にね深い井戸があったから、その井戸に身を投げてね、自殺をやらかしたらしいね。この首里から来た奥さんが、身を投げて亡くなった井戸は今ないの。この人が亡くなってからすぐ塞いだらしい。  それで、その西塘さんが、この島で生んでおった子供はね、ウザーっていう名だったらしいのね。これは、こっちの本妻の子さ。西塘さんは、この男の子を産んどいてから、首里のまでいらしたあるわけさね。それで、西塘さんが、首里に行っている間に、この子も大きくなっているんでしょう。それで、この子がね、夜釣りによく行ったらしいですね。ある晩ね、ウザーは、夜釣りに行ってそのまま帰ってこないんだって。このお母さんは、夫も首里に行ったまま帰ってこんでしょ。また、このウザーも夜釣り行って帰って来ないから、このお母さんはずっと、部落からずっと行った海岸端にね、今もちょっとこうなったお宮みたいなのあるんですよね。あそこでね、畑に行くたんびに、「もしウザーが生きてたら、守って下さい。」願かけてね、いつもね、あそこで祈りしとったって。そしたらある日、お母さんが、「もしどこかにおったら知らせてください。」とお祈りしとったら、烏がね、「ウザーおん、ウザーおん。」って鳴いたって。そのお母さんになんでも、「ウザーおる。ウザーおる。」とそんなに聞こえたんだろうね。そしたらこのお母さんとっても喜んでね。どこかにおるんだねえと思っておったら、またずっと後で、八重山からまた首里にと向かっとった役人が、嵐に遭って、南方のね、台湾の近くのどこかの島にたどり着いた。役人はよ、流れ着いたところには、もう水もないし、こう嵐に遭ってもう何日かかかっているから、食料もない。そして、人に会ったら、もう水でも食べ物でも少しでもいいからもらいたいと思ってね、また、何かもらったら、この島から出ようとしてその島の海岸におったらね、ずうと山の奥の方でよ、遠くの方で、八重山の歌を歌ってる人がおるって。「おかしいね。なんでこっちに八重山の歌を歌っている人がおる。」って言ってね、こう歌のところに聞きに行ったらね、「自分は竹富島の西塘の子供のウザーっていう者で、こっちに嵐に遭って流れ着いたけど、今はこっちの王様になっておるからもう自分は戻られない。もし八重山に帰ったら、竹富島には、自分の母親が一人でいるから、親に自分はこっちに無事おるよって言ってちょうだい。」と言っていたって。やっぱし、ほら西塘の子供だから、頭も良かったんでしょうね。この八重山から行ったこの役人達は、お水とか食べ物とかをもらってね、「すぐ今のうちに逃げなさい。」って逃がされて、また八重山に来たっていう話もある。んで、こっちの西塘のこっちから向かって左側にね、そこにまたそこのウザーのところにってお線香焚いたりする香炉があるんですよ。  この西塘さんのモリアンマー(お守り役)と言って、お守りしたのが私(うち)の本家の細原屋の祖先がだった。それで、西塘さんが首里城を築いて、沖縄からこの島に帰っていらっしゃる時に、昔はほら、あまり着物も着られないでしょ。だからこの西塘さんがね、「お守りあんまあの物(もん)。」って言ってね、着物を買っていらしたということなのね。あの頃はもうこっちの人なんか絶対に紅型なんか買えないけど、四百年、五百年も前にこの人がモリアンマーに買って来たのが、これがうちの本家に最近まであったんです よね。私の学校時代にもね、よく学校の先生がね、「細原家にね、西塘の持ってきた着物のきれがあるっちゅうの、みんな見たことある。」って、私(うち)なんかあの時、細原家にお嫁に行くっても分からんから、どんなのだろうと思ったわけ。そしてね、主人に、「先生が細原家には着物があるって言ったけど、やっぱしあるの。」と聞いたことあるんです。それで、昔はあったけど、今、これがあんなに重宝されるもんだったらね、ちゃあんときれいにね、虫干ししたり、またナフタレン入れたりしただろうけど、昔のそのまま 置いて、みんな虫に食われたんだって。だから、虫に食われた所を切って捨て、これぐらい残っといたのちょこっと見たよ。今のね、紅型みたいなね。端布があった。それでそれをね、またあそこの蒐集館に持って行って、今は、あっちに置いてあるっていう話なんだけど。今考えたらね、紅型みたい。  西塘さんは、さっき言ったように、八重山の役人では、初代の役人になって帰って来て、あっちのずっと南のコンドイの方にいらして、あっちを役所として、政治を治めておったけど、こんな小さい島だから、結局中央からは八重山に来たら、石垣に来て、またこっちにこないといかないから、また結局石垣に渡って、石垣の今の大きい地方役所があるでしょう。そこで、あの与那国もみんな八重山中だから、その八重山を統一する八重山の初代の頭主(かしらしゅう)って言うの役をして、治めたわけさ。だから、こっちから島は小さいけど、八重山初代の頭主というのは、こっちから出たということで、西塘さんはこっち祀られているんです。私(うち)なんか戦前に見た時に、西塘さんの後ろのもうこっちにね、西塘さんのお墓があるんですよね。この墓の石は、首里城を築いたときの石の余りをもらって、その石を伝馬船(てんません)に乗せて、こっちもっていらして、自分のお墓を築いたって言われてますね。だからね、終戦後には皆ね、「この墓を開けてみたら、何か宝物が出てこないか。」という話がよくあったけど、こっちの墓は開けたことないですよ。 ・西塘‥‥文明一八年に誕生と推定。八重山竹富島に生まれる。非凡な才能が認められ、三司官に使えた。国王の祈願所園比屋武御嶽の創建にあたり、石門築造主任として首里城城壁の設計、弁ケ門の石門(久高島遙拝所)も築造した。その功績が国王に認められ、一五二四年竹富首里大屋子の頭職に任命される。帰郷して竹富島浦皆治原に蔵元を創建、八重山を統治した。施政一九年後土地の狭さ交通の不便のため、蔵元を石垣に移設。六年後六五歳で死去した。西塘は竹富島の住民が最も誇りとする人物であり、「西塘に続け」が島の合言葉になっている。西塘は幼名石戸といい、西塘という名は首里王府から戴いたものではないかといわれている。・首里城‥‥那覇市当之蔵(とうのくら)町にある城跡。一四世紀頃察度(さっと)によって築城されたといわれる。・園比屋武御嶽(そなやんおたけ)‥‥西塘が首里在勤中に築造した。園比屋武御嶽の神は、那覇市首里真和志にある守礼之門の後方の位置にある。第二尚氏の祖、尚円王の生誕地といわれる伊是名島にある「田の上御嶽」の「ソノヒヤブ神」を勧請して創建したと伝えられる。本来、同神は降雨を司る神といわれている。御嶽は、かつて国王出御の折重要な儀式によって祈願したといわれ、今でも大切な拝所として祈願に訪れる人は多い。御嶽に石門があり、沖縄の代表的な石造建築のひとつである。琉球固有の宗教建築で奈良の三輪神社、信州の諏訪神社と同様、神籬(ひもろぎ)形式をとっている。昭和四七年五月一五日、国指定重要文化財に指定された。・伝馬船‥‥ティンマともいう。櫂や帆を持って物資運搬、人員輸送に使われた船のこと。・ウザー‥‥西塘の一人息子の宇座。ウザーが歌っていた歌は八重山の「カチニアヨー」であったという。また母が祈ったところは、シュムザーシュ御嶽として今も残る。・紅型(びんがた)‥‥沖縄の代表的な染物。着用は王族・士族に限られていた。・蒐集館‥‥喜宝院蒐集館のこと。上勢頭亨氏が六○年をかけて収集した八重山地方の民俗・民芸資料約四千点を展示している。・コンドイ‥‥竹富島の西方に位置する。現在はコンドイ浜は海水浴場として賑わう。
全体の記録時間数 10:04
物語の時間数 9:46
言語識別 共通語
音源の質
テープ番号
予備項目1

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