幸地の伊芸のお爺の話(共通語)

概要

幸地の力持ちって言ったら、伊芸のウスメーという人は、もう較べられる人はなかったね。体も頭も大きいしよ、立ってみたら、体は、一メートル八十四方(一間)もあるところに、こっちの角々に全部つきによったって。平敷のお爺はよ、この人の話をしょっちゅうやっておる。それで、その人が畑に行くとき、普通はモッコに入れて担ぐ堆肥は、いつもこの小指一つだけで持っていたって。そして、その人の仕事やりっぷりもですね、斜めになっている畑を耕したらよ、普通は上から下に耕すが、そうすると土があんまり逃げるから、みんなと反対に下から上に向かってやりよったよ。なんせ、鍬先が三メーター五十ないし、四メーターぐらいあったというんですよ。その鍬で畑はこう流されないようにしてですね、まあ約三メーター五十ないし、四メーターぐらいですね、区切りをつけて、井戸みたいよ掘っておいてですね、その下で耕してですよ、これを三つ越えてですね、上の方に土を投げよったって。こう鍬を打ち込んでからね、投げる力で、幅三メーター五十ぐらい幅を三つ越えるというのはですね、ちょうど戦前の畑というのは、畑道は筋通しておる、それの一つの幅がこれが普通は二間さあ。これの二間の三つを越して下から上に向かって、耕した土を投げよったって。そのころの人はですねえ、砂糖を那覇に売りに行くときには、中城から幸地を通って行きよった。それで、そのときにこの人がいつも呼びよって、そのお爺のそのくら力持ちだから、その人と中城の力持ちと勝負でいつもいつも一緒に行きよったって。その人達はですねえ、必ず砂糖を天秤で担ぐでしょう。そうしたら、この人はこうして背中に担いだらよ、砂糖を一応必ず持って、片一方は必ず弁当だったって。弁当は軽いから釣合いが取れないわけだが、そのくらい力があるから、こう担いで持って行きよったんだよ。昔のことは覚えているんだが、昔は主食は芋でしょう。あの人一人でだいたい、いくらぐらい食べたかと言えばですねえ、その量にびっくりなさるはずですよ。どうしてもそういういい体格をしている方だから、一食でまあ四キロ以上、十斤近くでなかったかねえ。親子三名でよ、昔は豆腐炊くときには、必ず二升ヒダ鍋に作りよったが、二升豆全部たいらげよった。そいで、今のお店で売っている豆腐一丁のちょうど二十分さ。昔のご飯茶碗,この御汁茶碗をちょっと小さくしたもの、これ七杯ですよ。本当に食べたかわからんけど、そのぐらい力もあるし、食べもしよった。それで、お家造る場合でもですねえ、昔のお家は茅葺きでしょう。あの場合でも、お家は造ってからよ、その裏手が山なんですよ。そこが崩れたもんだから、壁って言って竹の格子で編んだ建物なんですよ。そこを取り外して、もうお家のところまで床は取らなくて、その壁だけを取って、後ろから前のい庭に行ってね、土も投げてくい止めたと言うよ。今もとても有名だったよなあ。子孫も残っておるし、結局はその人の元気だった時分のことも大体のことは分かるよ。

再生時間:7:45

民話詳細DATA

レコード番号 47O361020
CD番号 47O36C036
決定題名 幸地の伊芸のお爺の話(共通語)
話者がつけた題名
話者名 与那嶺誠二
話者名かな よなみねせいじ
生年月日 19201201
性別
出身地 沖縄県西原町字幸地
記録日 19830813
記録者の所属組織 沖縄口承文芸学術調査団
元テープ番号 西原町字幸地調査班T35B12
元テープ管理者 沖縄伝承話資料センター
分類 20
発句(ほっく)
伝承事情
文字化資料 西原町史 別巻西原の民話P508
キーワード 力持ち,伊芸,幸地,力自慢
梗概(こうがい) 幸地の力持ちって言ったら、伊芸のウスメーという人は、もう較べられる人はなかったね。体も頭も大きいしよ、立ってみたら、体は、一メートル八十四方(一間)もあるところに、こっちの角々に全部つきによったって。平敷のお爺はよ、この人の話をしょっちゅうやっておる。それで、その人が畑に行くとき、普通はモッコに入れて担ぐ堆肥は、いつもこの小指一つだけで持っていたって。そして、その人の仕事やりっぷりもですね、斜めになっている畑を耕したらよ、普通は上から下に耕すが、そうすると土があんまり逃げるから、みんなと反対に下から上に向かってやりよったよ。なんせ、鍬先が三メーター五十ないし、四メーターぐらいあったというんですよ。その鍬で畑はこう流されないようにしてですね、まあ約三メーター五十ないし、四メーターぐらいですね、区切りをつけて、井戸みたいよ掘っておいてですね、その下で耕してですよ、これを三つ越えてですね、上の方に土を投げよったって。こう鍬を打ち込んでからね、投げる力で、幅三メーター五十ぐらい幅を三つ越えるというのはですね、ちょうど戦前の畑というのは、畑道は筋通しておる、それの一つの幅がこれが普通は二間さあ。これの二間の三つを越して下から上に向かって、耕した土を投げよったって。そのころの人はですねえ、砂糖を那覇に売りに行くときには、中城から幸地を通って行きよった。それで、そのときにこの人がいつも呼びよって、そのお爺のそのくら力持ちだから、その人と中城の力持ちと勝負でいつもいつも一緒に行きよったって。その人達はですねえ、必ず砂糖を天秤で担ぐでしょう。そうしたら、この人はこうして背中に担いだらよ、砂糖を一応必ず持って、片一方は必ず弁当だったって。弁当は軽いから釣合いが取れないわけだが、そのくらい力があるから、こう担いで持って行きよったんだよ。昔のことは覚えているんだが、昔は主食は芋でしょう。あの人一人でだいたい、いくらぐらい食べたかと言えばですねえ、その量にびっくりなさるはずですよ。どうしてもそういういい体格をしている方だから、一食でまあ四キロ以上、十斤近くでなかったかねえ。親子三名でよ、昔は豆腐炊くときには、必ず二升ヒダ鍋に作りよったが、二升豆全部たいらげよった。そいで、今のお店で売っている豆腐一丁のちょうど二十分さ。昔のご飯茶碗,この御汁茶碗をちょっと小さくしたもの、これ七杯ですよ。本当に食べたかわからんけど、そのぐらい力もあるし、食べもしよった。それで、お家造る場合でもですねえ、昔のお家は茅葺きでしょう。あの場合でも、お家は造ってからよ、その裏手が山なんですよ。そこが崩れたもんだから、壁って言って竹の格子で編んだ建物なんですよ。そこを取り外して、もうお家のところまで床は取らなくて、その壁だけを取って、後ろから前のい庭に行ってね、土も投げてくい止めたと言うよ。今もとても有名だったよなあ。子孫も残っておるし、結局はその人の元気だった時分のことも大体のことは分かるよ。
全体の記録時間数 8:09
物語の時間数 7:45
言語識別 共通語
音源の質
テープ番号
予備項目1

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