阿麻和利(シマグチ)

概要

阿麻和利は北谷屋良村の生まれである。七歳まで歩くことができなかった。八歳の時、高盆(高いおぜん)の縁をハシでたたいたので、夫婦が「チョテハニタテテ(座ってうちわをたたいて)」と言った。十歳になったらゆっくり歩くことができたが、隣近所の子供たちからカタヒチムン(片輪者)扱いされた。地面から石を拾い、その石を金持ちの子の頭へぶつけた。そこでケンカになったので、阿麻和利の母が「竹づちで他人の子供をなぐるとは何事か」とおこったので山へ逃げた。そこで阿麻和利はくもの巣作りを見た。阿麻和利はこんなに小さいくもからこんなにたくさんの糸が出るものだとおどろいた。家に帰ってきて、十五歳のとき、他の子供達と一緒に女の子を押し倒す悪戯をしていた。それを見た母親は怒り、竹ムチで阿麻和利をしたたかたたいた。そのため阿麻和利は今帰仁城へと逃げのび、そこで馬の草刈りとして雇われた。ある日、阿麻和利はここの布織りの婦人からトゥダグー(糸巻き)を盗んだ。夜な夜な馬小屋の天井でこれを結びつけていた。二尺ほど仕上げた時、布織りの婦人に見つかったので、そこからまた知念シキナに逃げた。そこで一年間百姓をした。大家から「今日は大晦日だから自分の家に帰りなさい」といわれたので親類の知念安座間へ行った。そこで他人の家から糸を盗み、網一ヒロを作った。それを海岸に仕掛けて魚をとり、その魚を知念、佐敷、大里、西原、美里の住人に毎日無料で配った。人々はたいへん恩義をこうむったので「このお返しに何をしたらよいでしょう」と阿麻和利に尋ねた。「何日の日私が言うが。その時助けてくれ」と言った。二十一歳の時、4月15日ムシバレー、住民は阿麻和利に言われていたとうり、知念から美里までの海岸線にタイマツ警備をつけた。恩義を返すためであった。南山城から多数攻めに来たと思い、勝連按司はこれを見ておどろいて城をすてて諸見里に逃げたが、そこで殺された。一ヶ月後(阿麻和利が?)勝連城主となった。勝連城主となった後は、どうしたら首里城をおとすことができるのかといつも思案していた。護佐丸のいる間は首里城をおとすことができないので、だましうちにすることを考えた。勝連浜取からシンドゥースーと一緒に舟を出して与那原へ渡った。首里城へ護佐丸の謀反を訴えるためであった。このシンドゥースーはこの計画を知っていたのでばれないように与那原のタマイーのアガリで殺された。そこは今でもシンドゥースーの幽霊がでる。阿麻和利は王に報告した。王はまさか自分の娘を妻にしている人が親の家に攻めてくるかと合点しなかった。護佐丸の妻は中城御殿の三女だった。現地には行かないでその辺を行って戻ってきた。それで大城がともをひいて戦をよせたので護佐丸は戦わないで手紙を書いた。阿麻和利はそこに来ていたので乳母にこの坊主を私にください。二つの男の子だから罪はないのだからといって連れて東に出て今の摩文仁の丘に行った。その子が大きくなって豊見城御殿になった。それから女の子をつれに大城大主のつれに行ったからあそこは登っていく道は一つの道で上から石を投げたのでこの人は死んだ。この女の子を育てた人がいつのいつ自分が連れて行くから待っておきなさいといったのでムナヤーも一緒に大主のところまでおぶって中城の石平というところに行って阿麻和利が乗っている馬に石が落ちたので馬はビックリして前立ちしたので阿摩和利は落ちておききれなかった。そこでこの部落は石平(イシンダ)とつけられている。二番目の戦を寄せた時、村々の豪力を3人頼んで彼らに松の木を使ってたててその上に登って石をころがした。それで津堅親方が怒って登ろうとしたら上から石がおちて勝連城で即死した。阿麻和利はここは誰が来ても石をおとして殺そうと思っていた。北なかぐすくで女が帯をつないで家のうしろから下がっておりて下で待っている人に殺された。そこで比嘉という姓ができた。それでこの人は沖縄ではとても罪深い人だったといっていつになっても滅ぶことがなかった。(以下聞きとり困難)

再生時間:21:35

民話詳細DATA

レコード番号 47O360031
CD番号 47O36C002
決定題名 阿麻和利(シマグチ)
話者がつけた題名
話者名 泉川寛三
話者名かな いずみかわかんぞう
生年月日 19030310
性別
出身地 沖縄県西原町仲伊保
記録日 19810614
記録者の所属組織 沖縄口承文芸学術調査団
元テープ番号 西原町字兼久調査14班T02A04
元テープ管理者 沖縄伝承話資料センター
分類 20
発句(ほっく)
伝承事情
文字化資料 『西原町史 別巻 西原の民話』P586
キーワード
梗概(こうがい) 阿麻和利は北谷屋良村の生まれである。七歳まで歩くことができなかった。八歳の時、高盆(高いおぜん)の縁をハシでたたいたので、夫婦が「チョテハニタテテ(座ってうちわをたたいて)」と言った。十歳になったらゆっくり歩くことができたが、隣近所の子供たちからカタヒチムン(片輪者)扱いされた。地面から石を拾い、その石を金持ちの子の頭へぶつけた。そこでケンカになったので、阿麻和利の母が「竹づちで他人の子供をなぐるとは何事か」とおこったので山へ逃げた。そこで阿麻和利はくもの巣作りを見た。阿麻和利はこんなに小さいくもからこんなにたくさんの糸が出るものだとおどろいた。家に帰ってきて、十五歳のとき、他の子供達と一緒に女の子を押し倒す悪戯をしていた。それを見た母親は怒り、竹ムチで阿麻和利をしたたかたたいた。そのため阿麻和利は今帰仁城へと逃げのび、そこで馬の草刈りとして雇われた。ある日、阿麻和利はここの布織りの婦人からトゥダグー(糸巻き)を盗んだ。夜な夜な馬小屋の天井でこれを結びつけていた。二尺ほど仕上げた時、布織りの婦人に見つかったので、そこからまた知念シキナに逃げた。そこで一年間百姓をした。大家から「今日は大晦日だから自分の家に帰りなさい」といわれたので親類の知念安座間へ行った。そこで他人の家から糸を盗み、網一ヒロを作った。それを海岸に仕掛けて魚をとり、その魚を知念、佐敷、大里、西原、美里の住人に毎日無料で配った。人々はたいへん恩義をこうむったので「このお返しに何をしたらよいでしょう」と阿麻和利に尋ねた。「何日の日私が言うが。その時助けてくれ」と言った。二十一歳の時、4月15日ムシバレー、住民は阿麻和利に言われていたとうり、知念から美里までの海岸線にタイマツ警備をつけた。恩義を返すためであった。南山城から多数攻めに来たと思い、勝連按司はこれを見ておどろいて城をすてて諸見里に逃げたが、そこで殺された。一ヶ月後(阿麻和利が?)勝連城主となった。勝連城主となった後は、どうしたら首里城をおとすことができるのかといつも思案していた。護佐丸のいる間は首里城をおとすことができないので、だましうちにすることを考えた。勝連浜取からシンドゥースーと一緒に舟を出して与那原へ渡った。首里城へ護佐丸の謀反を訴えるためであった。このシンドゥースーはこの計画を知っていたのでばれないように与那原のタマイーのアガリで殺された。そこは今でもシンドゥースーの幽霊がでる。阿麻和利は王に報告した。王はまさか自分の娘を妻にしている人が親の家に攻めてくるかと合点しなかった。護佐丸の妻は中城御殿の三女だった。現地には行かないでその辺を行って戻ってきた。それで大城がともをひいて戦をよせたので護佐丸は戦わないで手紙を書いた。阿麻和利はそこに来ていたので乳母にこの坊主を私にください。二つの男の子だから罪はないのだからといって連れて東に出て今の摩文仁の丘に行った。その子が大きくなって豊見城御殿になった。それから女の子をつれに大城大主のつれに行ったからあそこは登っていく道は一つの道で上から石を投げたのでこの人は死んだ。この女の子を育てた人がいつのいつ自分が連れて行くから待っておきなさいといったのでムナヤーも一緒に大主のところまでおぶって中城の石平というところに行って阿麻和利が乗っている馬に石が落ちたので馬はビックリして前立ちしたので阿摩和利は落ちておききれなかった。そこでこの部落は石平(イシンダ)とつけられている。二番目の戦を寄せた時、村々の豪力を3人頼んで彼らに松の木を使ってたててその上に登って石をころがした。それで津堅親方が怒って登ろうとしたら上から石がおちて勝連城で即死した。阿麻和利はここは誰が来ても石をおとして殺そうと思っていた。北なかぐすくで女が帯をつないで家のうしろから下がっておりて下で待っている人に殺された。そこで比嘉という姓ができた。それでこの人は沖縄ではとても罪深い人だったといっていつになっても滅ぶことがなかった。(以下聞きとり困難)
全体の記録時間数 21:58
物語の時間数 21:35
言語識別 混在
音源の質
テープ番号
予備項目1

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