四島の主(共通語)

概要

四島の主の主は童名を百佐盛という。当時、仲宗根豊見親の時代、宮古中から武力のある人を20名くらいを(仲宗根豊見親が)引き連れて、与那国の鬼虎を征伐に行った時、強い人物が全部宮古を離れてしまうので、頭脳、統率力に優れた四島の主が宮古で留守を預かることになった。狩俣からも武力に優れた三人が出征していたが、四島の主は墨筆(学問)に優れていたという。しかしその当時、誰からそういう文筆学問を習ったのかは分からない。四島の主の墓といわれるものは四つある。一つは現在史跡に指定されている島尻の近くの墓。しかし、四島の主の系統の人達はそこは拝まず、ツトゥバリ嶺という場所にある墓を拝んでいるという。また、三つ目は駐在所の道路を挟んだ正面にあり、四つ目はアラスクという畑の側にある墓である。しかし、アラスクの墓は四島の主の子供の子守を葬ったと言われていて、本当の墓はやはり現在史跡に指定されている墓だという。その本物だと思われる墓からは、20体もの人骨が出てきて、特に古い骨2柱が四島の主のものではないかと思われる。四島の主は八重山の古見で造船をしていたので、古見の主とも言われており、「古見の主」という歌にそのことがうたわれている。しかし神謡ではパギ嶺の世勝り主が仲宗根豊見親に使われて八重山で造船をしたとうたわれているが、民謡では他の部分は全く変わらないが、マヤーの四島の主がという部分だけ異なっているので、二人はもしかすると同一人物かも知れない。「古見の主」にうたわれているのは四島の主自身のことではなく、その妻の素晴らしさがうたわれている。四島の主の部下が、古見の浜で亀を捕まえて食べようとしていたら、四島の主の妻が現れて「今は主人が外出中だからそういうことをして血を流してはいけない」と言って、亀を逃がしてやった。すると四島の主が古見へ戻ってくる途中に船が遭難したが、大きな亀が現れて助けてくれたという。これは歌の内容だが、また違う話では、四島の主の船が沈没しそうになった時に、ユタが「誰かが海に飛び込んで犠牲にならないといけない」と言ったので、くじを引いたところ、四島の主に当たってしまった。仕方がないので四島の主が海に飛び込んだところ、大きな亀が助けてくれたのだが、船は結局、沈没して全滅してしまい、四島の主だけが助かったという。四島の主はこうして素晴らしさを称えられているが、半面よくない噂もあった。仲宗根豊見親が八重山を平定して、その一門が八重山を統治することになり、古見の人々は宮古の豊見親のために造船の木を伐り出さなければならなかった。ある時、宮古の豊見親が死んだという情報が入った時、古見の人々は喜んで歌い、踊ったという。しかし四島の主は造船の指示をしていたが豊見親ではなかったので、これは四島の主ではないかも知れない。仲宗根豊見親は四島の主を大変信頼しており、大きな船を造って八重山から戻ってきたので、我が生す子だき思い(私が生んだ子のように思って)」と言って抱擁したという歌の文句がある。また四島の主は荷物を運ぶ百姓が辛くないようにと、市内から狩俣までの間に井戸と休憩所を三箇所作った。一つは狩俣中学校の前、二つ目は四島の主の墓の側、三つ目は野田部落の近くである。またバタラズという橋を狩俣と島尻の間に架けたが、これは納税の面の便を考えてのことだと思われる。現在白川氏恵常の子孫が四島の主の子孫であるといわれているが、年代などから考えると疑わしい。

再生時間:48:32:00

民話詳細DATA

レコード番号 47O233650
CD番号 47O23C185
決定題名 四島の主(共通語)
話者がつけた題名
話者名 平良新亮
話者名かな たいらしんりょう
生年月日 19190424
性別
出身地 平良市字狩俣
記録日 19961119
記録者の所属組織 沖縄国際大学口承研
元テープ番号 平良T103A01
元テープ管理者 沖縄伝承話資料センター
分類 20
発句(ほっく)
伝承事情
文字化資料 平良市北部の民話H8卒論P101
キーワード 四島の主,仲宗根豊見親,造船,亀,遭難,パタラズ
梗概(こうがい) 四島の主の主は童名を百佐盛という。当時、仲宗根豊見親の時代、宮古中から武力のある人を20名くらいを(仲宗根豊見親が)引き連れて、与那国の鬼虎を征伐に行った時、強い人物が全部宮古を離れてしまうので、頭脳、統率力に優れた四島の主が宮古で留守を預かることになった。狩俣からも武力に優れた三人が出征していたが、四島の主は墨筆(学問)に優れていたという。しかしその当時、誰からそういう文筆学問を習ったのかは分からない。四島の主の墓といわれるものは四つある。一つは現在史跡に指定されている島尻の近くの墓。しかし、四島の主の系統の人達はそこは拝まず、ツトゥバリ嶺という場所にある墓を拝んでいるという。また、三つ目は駐在所の道路を挟んだ正面にあり、四つ目はアラスクという畑の側にある墓である。しかし、アラスクの墓は四島の主の子供の子守を葬ったと言われていて、本当の墓はやはり現在史跡に指定されている墓だという。その本物だと思われる墓からは、20体もの人骨が出てきて、特に古い骨2柱が四島の主のものではないかと思われる。四島の主は八重山の古見で造船をしていたので、古見の主とも言われており、「古見の主」という歌にそのことがうたわれている。しかし神謡ではパギ嶺の世勝り主が仲宗根豊見親に使われて八重山で造船をしたとうたわれているが、民謡では他の部分は全く変わらないが、マヤーの四島の主がという部分だけ異なっているので、二人はもしかすると同一人物かも知れない。「古見の主」にうたわれているのは四島の主自身のことではなく、その妻の素晴らしさがうたわれている。四島の主の部下が、古見の浜で亀を捕まえて食べようとしていたら、四島の主の妻が現れて「今は主人が外出中だからそういうことをして血を流してはいけない」と言って、亀を逃がしてやった。すると四島の主が古見へ戻ってくる途中に船が遭難したが、大きな亀が現れて助けてくれたという。これは歌の内容だが、また違う話では、四島の主の船が沈没しそうになった時に、ユタが「誰かが海に飛び込んで犠牲にならないといけない」と言ったので、くじを引いたところ、四島の主に当たってしまった。仕方がないので四島の主が海に飛び込んだところ、大きな亀が助けてくれたのだが、船は結局、沈没して全滅してしまい、四島の主だけが助かったという。四島の主はこうして素晴らしさを称えられているが、半面よくない噂もあった。仲宗根豊見親が八重山を平定して、その一門が八重山を統治することになり、古見の人々は宮古の豊見親のために造船の木を伐り出さなければならなかった。ある時、宮古の豊見親が死んだという情報が入った時、古見の人々は喜んで歌い、踊ったという。しかし四島の主は造船の指示をしていたが豊見親ではなかったので、これは四島の主ではないかも知れない。仲宗根豊見親は四島の主を大変信頼しており、大きな船を造って八重山から戻ってきたので、我が生す子だき思い(私が生んだ子のように思って)」と言って抱擁したという歌の文句がある。また四島の主は荷物を運ぶ百姓が辛くないようにと、市内から狩俣までの間に井戸と休憩所を三箇所作った。一つは狩俣中学校の前、二つ目は四島の主の墓の側、三つ目は野田部落の近くである。またバタラズという橋を狩俣と島尻の間に架けたが、これは納税の面の便を考えてのことだと思われる。現在白川氏恵常の子孫が四島の主の子孫であるといわれているが、年代などから考えると疑わしい。
全体の記録時間数 48:32:00
物語の時間数 48:32:00
言語識別 共通語
音源の質
テープ番号
予備項目1

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