数明親雲(シマグチ)

概要

昔、伊波部落の中から出た数明親雲上という人の話ですがこの人は、おもろの名人であって首里の王様に呼ばれてある時王様の久高島参拝の時にお供して、その帰りの時、波があらわれて非常に困った時に数明親雲上が舟のへ先に立って「波も風も静かになれ。」といっしょうけんめいに歌った。王はその後無事に与那原に帰りつくことができた。その後王は非常に喜んで、大島のスメオという所の地頭代にとりたててやった。この数明親雲上の出た家は伊波城の下の方のナーカという家の出身であった。たぶんここでは百姓をしていたと思うのですが、首里に行ってからは侍に取り立てられ、最後には親雲上にまでなったらしい。この人の墓はダンジ原(座武次原)という所のあるのが本当だと言われているが、大正時代に、首里や那覇から変な男のユタが来て、これは源為朝の墓だと言っていた。なぜかというと昔、伊波部落には、源(ゲン)又やーという名と為朝に源は同じであるとして、又この地の話に弓矢の話が残っているが、その弓矢の話にも、それは為朝であると言っていた。しかし、その墓(それをここでは「ヤカバカ」と呼ばれている)は、中は絶対に開けてはいけないと言うので、この人達にも開けさせなかった。しかし、戦争の前に、自分が校長をやっている時に天皇の写真をどこかへ隠すということになって、ここへ隠した。それで開けてみると(これは岩を彫り込んで作った墓である。)そこには石がんがあって、それには数明夫婦と書いてあった。それでここはやはり数明親雲上の墓だと思った。しかし自分は大正時代のセレイクニオという詩人(マダンのかげに)、この人は伊波に蟹入りしてきたのだが(出身は平安山の人である。)、に「スメオペーチンとは誰か。」と聞くと、彼はおもろも少し研究していたので、これは球陽に出ている数明親雲人であると知った。今度もう一度その墓を開けて調査するつもりである。その墓には、首里から運ばれて来たのかどうかは知らないが、けんりゆう35年に作られたと書かれている。

再生時間:8:10

民話詳細DATA

レコード番号 47O412930
CD番号 47O41C117
決定題名 数明親雲(シマグチ)
話者がつけた題名
話者名 伊波信光
話者名かな いはしんこう
生年月日 19010221
性別
出身地 石川市伊波
記録日 19820803
記録者の所属組織 沖縄口承文芸学術調査団
元テープ番号 石川市T33A01
元テープ管理者 沖縄伝承話資料センター
分類 20
発句(ほっく)
伝承事情
文字化資料
キーワード 数明親雲上,首里の王様,久高島参拝,大島のスメオ,ナーカ,源為朝の墓
梗概(こうがい) 昔、伊波部落の中から出た数明親雲上という人の話ですがこの人は、おもろの名人であって首里の王様に呼ばれてある時王様の久高島参拝の時にお供して、その帰りの時、波があらわれて非常に困った時に数明親雲上が舟のへ先に立って「波も風も静かになれ。」といっしょうけんめいに歌った。王はその後無事に与那原に帰りつくことができた。その後王は非常に喜んで、大島のスメオという所の地頭代にとりたててやった。この数明親雲上の出た家は伊波城の下の方のナーカという家の出身であった。たぶんここでは百姓をしていたと思うのですが、首里に行ってからは侍に取り立てられ、最後には親雲上にまでなったらしい。この人の墓はダンジ原(座武次原)という所のあるのが本当だと言われているが、大正時代に、首里や那覇から変な男のユタが来て、これは源為朝の墓だと言っていた。なぜかというと昔、伊波部落には、源(ゲン)又やーという名と為朝に源は同じであるとして、又この地の話に弓矢の話が残っているが、その弓矢の話にも、それは為朝であると言っていた。しかし、その墓(それをここでは「ヤカバカ」と呼ばれている)は、中は絶対に開けてはいけないと言うので、この人達にも開けさせなかった。しかし、戦争の前に、自分が校長をやっている時に天皇の写真をどこかへ隠すということになって、ここへ隠した。それで開けてみると(これは岩を彫り込んで作った墓である。)そこには石がんがあって、それには数明夫婦と書いてあった。それでここはやはり数明親雲上の墓だと思った。しかし自分は大正時代のセレイクニオという詩人(マダンのかげに)、この人は伊波に蟹入りしてきたのだが(出身は平安山の人である。)、に「スメオペーチンとは誰か。」と聞くと、彼はおもろも少し研究していたので、これは球陽に出ている数明親雲人であると知った。今度もう一度その墓を開けて調査するつもりである。その墓には、首里から運ばれて来たのかどうかは知らないが、けんりゆう35年に作られたと書かれている。
全体の記録時間数 8:45
物語の時間数 8:10
言語識別 方言
音源の質
テープ番号
予備項目1

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