
まあ、東恩納当といったら、今からですね、約三百年ぐらい前と思っていますがね。というのは、元禄時代に一代目の人が亡くなった記録がありますよ。元禄何年だったかなあ。元禄四年ぐらいに亡くなっている人が一代で、二代目で話は始まるわけですがね。一代の時代は、非常に貧乏者であったらしいですよ。この人は、読谷村大湾按司の子孫なんですがね、読谷村から石川市の東恩納に家を移ってきたわけですね。それで東恩納にきた当時は、非常に貧乏であったんだけども、二代目の人がですね、百三歳までも長生きしておる長寿者がおるのです。この人の時代にですね、この黄金をもらったんですよ。この百三歳になる人がですね、これは百三歳まで生きておったという話は聞いているんですがね。その人が黄金をもらったわけです。で、黄金をもらったいきさつはですね、この人は、非常に親孝行者であったらしいですよ。一代の人は非常に貧乏者であったんだから、それに非常に孝行してですね、どんな孝行者であったかということはですね、あまり家がまずしいもんだから、身売りされたらしいですよ。この二代目の百三歳まで生きた人はですね、身売りされたんです。どこに身売りされたかといったらね、首里に身売りされたというんですね、首里に。そうしたから、首里にですね、身売りされて、むこうで働いておるんだけども、毎晩ですねえ、自分が食べるご飯を半分食べてですねえ、自分の親に持ってきてあげていたそうですよ。毎晩、奉行先で、食べるご飯の半分は自分で食べてですよ、半分は家に持ってきて自分の親にあげるぐらいね孝行者であったらしいですよ。それがもうこの遠い道でしょう。ずっと首里から、石川まで歩いてくるんですからね。そして毎日、それが一日でなくして、時々でもなくして、ほとんど毎日、雨の日も風の日もかかさずですね、そういう風にして、そのう、自分の食べ物を半分残して、親に持ってきてくれるといったような、非常に孝行者であったわけです。それが、ある日ですね、ちょうど、大晦日の晩にですね、帰ってくる途中に、普天間でですね、今の普天間ですよね、普天間権現の近くでしょうなあ。クワンチェー箱をですね、人の死骸を入れてある箱ですね、それを担いでくるお爺さんに出会ったというんですよ。そうしたもんだからね、この人がですね、「あんたは、こんな夜の夜中に、どうしてこんな箱、重い箱を担いでね、どこに行くんですか。」と、こう聞いたんだそうですよ。そしたら、そのお爺さんがいうにはですね、「いや、私はですね、どこそこの何だけどね、今、自分の子どもが死んでね、これをね、葬りに行くんだが、私も非常に貧乏者でね、誰も私に協力してくれるのもおらんからね、私は自分一人で、このようにして、夜ですね、自分の子どもを葬りに行くんだよ。」といったそうですよ。そして、その百三歳まで生きたお爺さんはね、この人も非常に忙しい人で、自分はもう自分の親の所に飯(めし)を持って行ってあげようとして、あせっているんですよ。ところが、このお爺さんの話を聞くと、気の毒に思ってですね、「それは気の毒ですね、じゃ、手伝ってあげましょうか。」といったそうですよ。「私は今、自分の親にですね、夕飯を持って行く途中だけどもね、あなたも、子どもを亡くして、非常に困っているんだから、食べ物も食べてないでしょう。この食べ物をあなたにあげましょう。」といって、自分が親にあげようとして持っているものをですね、このお爺さんにあげたそうですよ。そうしたら、ありがとうというわけでね。このお爺さんは、これをいただいてね、そして話をしながら、この箱を、お爺さんからあずかってですね、担いで歩いておったというんですよ。そしたら、それが途中で、時間も経たないうちにですね、このお爺さんの姿がなくなってしまって、消えてしまっていたというんですよ。それからこの人はですね、「これは困った。どうしてもこれはもう肝心の主がおらなくなってしまっては、もうどうにもならん。」といって、どうしたら良いかと、途方にくれておったというんですよ。仕方がないから、じゃあ、自分の家までいっしょに持って行ってですね、自分の親も、相談してから、処理しようというわけで、急いで自分の家に帰ったそうですよ。そうして、帰ってきて、自分の親にですね、「こうこうの事があったんですよ。」といろいろ話を聞かしたらですね、「それは不思議ね。」というわけでですね、親子とも、非常にもうどうしたら良いかねといって思い悩んでおったというんですよね。ところがその親がですね、「まず何でも良いから、一応開けてみて見ようじゃないか。」といってですね、その箱を開けてみたというんです。そしたら、開けてみたらですね、前に話があった、これは自分の子どもが死んで、これを葬るために死骸を入れてあるんだよといったのがね、その自分の家に持ってきて、開けて見たらですね、死骸じゃなくしてですね、金塊とね、黄金であったというんです。それからですね、ちょうど、夜があけたらもう正月ですよね。それでその当は、親と二人ですね、これはもう神様からのお恵みだというわけでですね、もう親子とも今日はお正月でもあるしね、お祝いしようというわけでですね、親戚の人も皆集ってですね、お祝いをしたというんですよね。それ以来ですね。この家は、今まではもう貧乏者で子どもも身売りするくらいであったんだけど、それからは、黄金もたくさんできたものだから、金持ちになって、代々繁栄してきたわけですよ。それが、まあ、黄金の始まりですね。それから東恩納ではね、それで、人の屍(しかばね)を入れた箱をですね、宝もんというんですよ。屍(しかばね)が入っていると、預った箱にですね、黄金が入っていた。宝が入っていたもんだからね、それから、死骸が入っている箱を、宝道具という。こういう風に名を付けたというんです。それが当の宝道具ということの始まりです。まあ、これは東恩納当の話で、それからも、末代栄えてこの家はですね、十五代まで栄えていますよ。私の本家ですがね。十五代まで栄えておるが、その間にはもうたくさんのほうびももらっておるし、それから、球陽という本にもですね、表彰されていますよ。尚泰王から、尚球王からですね、いろんな表彰を受けています。飢鐘の年に米を配ってやったり、金をあげたりしてですね、困窮しておる字民をですね、助けたという御褒美(ほうび)をたくさん頂いておりますよ。今でも、それで、その当時の黄金は、ひとつあるんです。ひとつは小判があります。一両小判が残っていますよ。本当はあの時にもらった黄金はですね、三十七枚あったと私は聞いています。三十七枚あったんですけどもね、これはどういう風にしてなくなったかといえばですねえ、戦争の時ですね、物質の総動員法というのが出たわけ。今度の大東亜戦争の場合ですね、その時に黄金とか鉄類とか銅とかいうのは、みんな日本軍が集めたんですよ。その時にですね、持って行ってしまったんですよ。この黄金は、嘉手納警察署に持って行ったというんですがね。果たしてどこに行ったのか、嘉手納警察署までは届けたというんですよ。その頃の主人のお母さんがですね、警察がきて、嘉手納警察に持ってこいということになって、持って行ったというんです。「何枚持って行ったかあ。」と聞いたら、まあそこも、「さあ、いくつだったのか、あるだけ持って行った。ただ一つだけはね、もうこれは、こんなものがあったということを知らすためにね、残しておこうと思って、一枚だけは残して、残りは全部持って行ってしまった。」というんです。で、私が聞いた話は、そのお爺さんから聞いた話は、前の十三代目ぐらいのお爺さんから聞いた時はですね、三十七枚あったということを私に話しておったよ。そのようないわれも私に話しておったです。「こうこうで黄金も頂いたよ。」ということをね。そして今でもですね、その当はですね、普天間権現を毎年八月十五日には、お参りに行くんです。その御恩があるというわけでですね。親戚みんな行きますよ。 まあ普天間権現は、そういった非常に慈悲深い神様であられただろうと思うんですね。その外、当以外にもまた中城にもそういうような話があるよね。安谷屋にも黄金をもらったという話を聞いていますよね。黄金をもらった時のその屋号は、西石川。それが後になってですね、当という名前になって、当という字は支那の唐という字ですよ。それをあて字にしているんじやないかと思いますよ。それを使ってみたり、唐船の唐を使ってみたり、当の屋といっている、昔の屋号はみんな当の屋といっていますからね、何屋というんです。
| レコード番号 | 47O412316 |
|---|---|
| CD番号 | 47O41C089 |
| 決定題名 | 東恩納当と普天間権現(共通語) |
| 話者がつけた題名 | - |
| 話者名 | 比嘉喜八 |
| 話者名かな | ひがきはち |
| 生年月日 | 19090821 |
| 性別 | 男 |
| 出身地 | 石川市東恩納 |
| 記録日 | 19820314 |
| 記録者の所属組織 | 沖縄口承文芸学術調査団 |
| 元テープ番号 | 石川市T06A01 |
| 元テープ管理者 | 沖縄伝承話資料センター |
| 分類 | 20 |
| 発句(ほっく) | - |
| 伝承事情 | - |
| 文字化資料 | いしかわの民話伝説編P314 |
| キーワード | 東恩納当,貧乏者,読谷村大湾按司の子孫,石川市の東恩納,黄金,親孝行者,首里に身売り,大晦日の晩,普天間権現,クワンチェー箱,お爺さん |
| 梗概(こうがい) | まあ、東恩納当といったら、今からですね、約三百年ぐらい前と思っていますがね。というのは、元禄時代に一代目の人が亡くなった記録がありますよ。元禄何年だったかなあ。元禄四年ぐらいに亡くなっている人が一代で、二代目で話は始まるわけですがね。一代の時代は、非常に貧乏者であったらしいですよ。この人は、読谷村大湾按司の子孫なんですがね、読谷村から石川市の東恩納に家を移ってきたわけですね。それで東恩納にきた当時は、非常に貧乏であったんだけども、二代目の人がですね、百三歳までも長生きしておる長寿者がおるのです。この人の時代にですね、この黄金をもらったんですよ。この百三歳になる人がですね、これは百三歳まで生きておったという話は聞いているんですがね。その人が黄金をもらったわけです。で、黄金をもらったいきさつはですね、この人は、非常に親孝行者であったらしいですよ。一代の人は非常に貧乏者であったんだから、それに非常に孝行してですね、どんな孝行者であったかということはですね、あまり家がまずしいもんだから、身売りされたらしいですよ。この二代目の百三歳まで生きた人はですね、身売りされたんです。どこに身売りされたかといったらね、首里に身売りされたというんですね、首里に。そうしたから、首里にですね、身売りされて、むこうで働いておるんだけども、毎晩ですねえ、自分が食べるご飯を半分食べてですねえ、自分の親に持ってきてあげていたそうですよ。毎晩、奉行先で、食べるご飯の半分は自分で食べてですよ、半分は家に持ってきて自分の親にあげるぐらいね孝行者であったらしいですよ。それがもうこの遠い道でしょう。ずっと首里から、石川まで歩いてくるんですからね。そして毎日、それが一日でなくして、時々でもなくして、ほとんど毎日、雨の日も風の日もかかさずですね、そういう風にして、そのう、自分の食べ物を半分残して、親に持ってきてくれるといったような、非常に孝行者であったわけです。それが、ある日ですね、ちょうど、大晦日の晩にですね、帰ってくる途中に、普天間でですね、今の普天間ですよね、普天間権現の近くでしょうなあ。クワンチェー箱をですね、人の死骸を入れてある箱ですね、それを担いでくるお爺さんに出会ったというんですよ。そうしたもんだからね、この人がですね、「あんたは、こんな夜の夜中に、どうしてこんな箱、重い箱を担いでね、どこに行くんですか。」と、こう聞いたんだそうですよ。そしたら、そのお爺さんがいうにはですね、「いや、私はですね、どこそこの何だけどね、今、自分の子どもが死んでね、これをね、葬りに行くんだが、私も非常に貧乏者でね、誰も私に協力してくれるのもおらんからね、私は自分一人で、このようにして、夜ですね、自分の子どもを葬りに行くんだよ。」といったそうですよ。そして、その百三歳まで生きたお爺さんはね、この人も非常に忙しい人で、自分はもう自分の親の所に飯(めし)を持って行ってあげようとして、あせっているんですよ。ところが、このお爺さんの話を聞くと、気の毒に思ってですね、「それは気の毒ですね、じゃ、手伝ってあげましょうか。」といったそうですよ。「私は今、自分の親にですね、夕飯を持って行く途中だけどもね、あなたも、子どもを亡くして、非常に困っているんだから、食べ物も食べてないでしょう。この食べ物をあなたにあげましょう。」といって、自分が親にあげようとして持っているものをですね、このお爺さんにあげたそうですよ。そうしたら、ありがとうというわけでね。このお爺さんは、これをいただいてね、そして話をしながら、この箱を、お爺さんからあずかってですね、担いで歩いておったというんですよ。そしたら、それが途中で、時間も経たないうちにですね、このお爺さんの姿がなくなってしまって、消えてしまっていたというんですよ。それからこの人はですね、「これは困った。どうしてもこれはもう肝心の主がおらなくなってしまっては、もうどうにもならん。」といって、どうしたら良いかと、途方にくれておったというんですよ。仕方がないから、じゃあ、自分の家までいっしょに持って行ってですね、自分の親も、相談してから、処理しようというわけで、急いで自分の家に帰ったそうですよ。そうして、帰ってきて、自分の親にですね、「こうこうの事があったんですよ。」といろいろ話を聞かしたらですね、「それは不思議ね。」というわけでですね、親子とも、非常にもうどうしたら良いかねといって思い悩んでおったというんですよね。ところがその親がですね、「まず何でも良いから、一応開けてみて見ようじゃないか。」といってですね、その箱を開けてみたというんです。そしたら、開けてみたらですね、前に話があった、これは自分の子どもが死んで、これを葬るために死骸を入れてあるんだよといったのがね、その自分の家に持ってきて、開けて見たらですね、死骸じゃなくしてですね、金塊とね、黄金であったというんです。それからですね、ちょうど、夜があけたらもう正月ですよね。それでその当は、親と二人ですね、これはもう神様からのお恵みだというわけでですね、もう親子とも今日はお正月でもあるしね、お祝いしようというわけでですね、親戚の人も皆集ってですね、お祝いをしたというんですよね。それ以来ですね。この家は、今まではもう貧乏者で子どもも身売りするくらいであったんだけど、それからは、黄金もたくさんできたものだから、金持ちになって、代々繁栄してきたわけですよ。それが、まあ、黄金の始まりですね。それから東恩納ではね、それで、人の屍(しかばね)を入れた箱をですね、宝もんというんですよ。屍(しかばね)が入っていると、預った箱にですね、黄金が入っていた。宝が入っていたもんだからね、それから、死骸が入っている箱を、宝道具という。こういう風に名を付けたというんです。それが当の宝道具ということの始まりです。まあ、これは東恩納当の話で、それからも、末代栄えてこの家はですね、十五代まで栄えていますよ。私の本家ですがね。十五代まで栄えておるが、その間にはもうたくさんのほうびももらっておるし、それから、球陽という本にもですね、表彰されていますよ。尚泰王から、尚球王からですね、いろんな表彰を受けています。飢鐘の年に米を配ってやったり、金をあげたりしてですね、困窮しておる字民をですね、助けたという御褒美(ほうび)をたくさん頂いておりますよ。今でも、それで、その当時の黄金は、ひとつあるんです。ひとつは小判があります。一両小判が残っていますよ。本当はあの時にもらった黄金はですね、三十七枚あったと私は聞いています。三十七枚あったんですけどもね、これはどういう風にしてなくなったかといえばですねえ、戦争の時ですね、物質の総動員法というのが出たわけ。今度の大東亜戦争の場合ですね、その時に黄金とか鉄類とか銅とかいうのは、みんな日本軍が集めたんですよ。その時にですね、持って行ってしまったんですよ。この黄金は、嘉手納警察署に持って行ったというんですがね。果たしてどこに行ったのか、嘉手納警察署までは届けたというんですよ。その頃の主人のお母さんがですね、警察がきて、嘉手納警察に持ってこいということになって、持って行ったというんです。「何枚持って行ったかあ。」と聞いたら、まあそこも、「さあ、いくつだったのか、あるだけ持って行った。ただ一つだけはね、もうこれは、こんなものがあったということを知らすためにね、残しておこうと思って、一枚だけは残して、残りは全部持って行ってしまった。」というんです。で、私が聞いた話は、そのお爺さんから聞いた話は、前の十三代目ぐらいのお爺さんから聞いた時はですね、三十七枚あったということを私に話しておったよ。そのようないわれも私に話しておったです。「こうこうで黄金も頂いたよ。」ということをね。そして今でもですね、その当はですね、普天間権現を毎年八月十五日には、お参りに行くんです。その御恩があるというわけでですね。親戚みんな行きますよ。 まあ普天間権現は、そういった非常に慈悲深い神様であられただろうと思うんですね。その外、当以外にもまた中城にもそういうような話があるよね。安谷屋にも黄金をもらったという話を聞いていますよね。黄金をもらった時のその屋号は、西石川。それが後になってですね、当という名前になって、当という字は支那の唐という字ですよ。それをあて字にしているんじやないかと思いますよ。それを使ってみたり、唐船の唐を使ってみたり、当の屋といっている、昔の屋号はみんな当の屋といっていますからね、何屋というんです。 |
| 全体の記録時間数 | 3:52 |
| 物語の時間数 | 3:20 |
| 言語識別 | 共通語 |
| 音源の質 | △ |
| テープ番号 | - |
| 予備項目1 | - |