
昔、今からたぶん五百年前ごろの話。赤蜂の乱の頃。当時、人々は部落もない山奥に点在して住んでいた。最初は水嵩のところにいたが、水を頼って、フタラマのところに行ったり二転三転と移動した。当時は弱肉強食の時代で争いが絶えなかったが、西嘉和良(いるか ー ら)と東嘉和良(あるか ー ら)という兄弟二人は大変睦まじくみんなに慕われていた。人々は彼らのように立派になろうと寄り集まってきた。それで兄の西嘉和良(いるか ー ら)は宮良、弟の東嘉和良(あるか ー ら)は白保の部落を建てた。そのころは、牛馬やイノシシ、その他あらゆる動物が畑を荒すので、シシガキを作ろうということになった。弟の方はトドロキ川から宮良に向かって、兄は西の方から宮良川上流の絶壁があるところから、こちらに向かって、部落民を動員して、両方からシシが越えられないシシガキを積んできた。東の弟のところは、珊瑚礁地帯で石がたくさんあったが、兄のところには、あまり石がなくて仕事がはかどらなかった。だから弟が積んだ方が長くて、兄の倍ぐらいあるんですね。その両方が出会ったところをビルカメまたは、宮嶺(めーんに)という。二人が積んだシシガキは、当時としては大工事だったから、みんなで集まってこの工事の完成を祝った。シシガキができてからは田畑を猪に荒らされることもなく、宮良も白保もずいぶん豊かになった
シシガキができて宮良と白保の人が喜んでお祝いしていると、沖縄で一番高い山の於茂登山(お も とやま)から於茂登(お も と)テラスの神が下りてきて、ビルカメの祝いをしている六人の女性に乗り移って宮良と白保の守護神になった。宮良の三人の女性に乗り移った神は、仲嵩御嶽(なかたけおたけ)、外本御嶽(ふかもとおたけ)、山崎御嶽(やましきおたけ)という三つの御嶽(おたけ)の神になり、白保の三人の女性に乗り移った神は、真謝御嶽(まじゃ おたけ)、嘉手苅御嶽(か で かるおたけ)、多原御嶽(たばる おたけ)の三つの御嶽(おたけ)の神になった。宮良も白保もこの三つの御嶽の神様が部落の氏神になった。ところが明和八年に大津波で白保はほとんどが流され、宮良も千人以上も亡くなって生き残った方は、男が百十何名、女が四十四名で、二百人にも足らなくなった。その津波のとき波照間は被害なくて人口が多かったので、琉球王の命令で、被害が多かった白保と大浜に強制移民があった。そのとき白保に来た方は波照間御嶽を建てて拝むようになった。小浜から来たのは男の百何十名、女が百何十名で、女の方が多かった。小浜から来た人は、国道沿いの赤馬の像と対向してるところに小浜御嶽(こはま おたけ)を建てて拝んだ。それから四つの御嶽になった。第二次大戦のときに生活改善とかいろいろあって、郷里のお宮を一つにまとめるという話があったが、そうならないうちに戦争が終わった。その後、部落のすべての行事はイルカーラ、アルカーラを中心にして、四つの御嶽が一堂に会して進めている。 イルカーラ、アルカーラのどちらかの遺体の一体は公民館に葬っている。初めは「元祖の墓」として昭和二年に建てられた。その時は小屋があって、香炉があるだけの墓だったが、それではいけないということで石碑が建てられた。石碑には「西瓦」「東瓦」とあり、昭和38年か39年に上の部分だけ取り替えた。しかし、司が村占いをして、「以前の碑でないといけない」と言った。実際、祟りがあったらしい。結局、前の碑も置くことにした。石碑の場所は部落の総決議で決めたのだが、実際はもっと奥にあり、昔は、木々が茂っていて気味の悪いところだったらしい。今考えれば、この場所には、公民館などではなく、社などを建てるべきだった。
| レコード番号 | 47O340668 |
|---|---|
| CD番号 | 47O34C047 |
| 決定題名 | カーラ兄弟の島分け(共通語) |
| 話者がつけた題名 | - |
| 話者名 | 東成底光秀 |
| 話者名かな | ひがしなりそこみつひで |
| 生年月日 | 19130127 |
| 性別 | 男 |
| 出身地 | 沖縄県石垣市字宮良 |
| 記録日 | 19960913 |
| 記録者の所属組織 | 沖縄口承文芸学術調査団 |
| 元テープ番号 | 石垣市字宮良 T111 A04 |
| 元テープ管理者 | 沖縄伝承話資料センター |
| 分類 | 20 |
| 発句(ほっく) | - |
| 伝承事情 | - |
| 文字化資料 | - |
| キーワード | 五百年前,赤蜂の乱,山奥,点在,水嵩,フタラマ,西嘉和良,東嘉和良,兄弟,慕われていた,宮良,白保,部落を建てた,イノシシ,畑を荒す,シシガキ,トドロキ川,ビルカメ,宮嶺,めーんに),於茂登山,於茂登テラスの神,六人の女性,乗り移って,仲嵩御嶽,外本御嶽,山崎御嶽,真謝御嶽,嘉手苅御嶽,多原御嶽,氏神,明和八年,大津波,波照間,琉球王の命令,強制移民,波照間御嶽,小浜,小浜御嶽,遺体,公民館,「元祖の墓」,昭和二年,小屋,香炉,墓,石碑,西瓦,東瓦,司,村占い,祟り |
| 梗概(こうがい) | 昔、今からたぶん五百年前ごろの話。赤蜂の乱の頃。当時、人々は部落もない山奥に点在して住んでいた。最初は水嵩のところにいたが、水を頼って、フタラマのところに行ったり二転三転と移動した。当時は弱肉強食の時代で争いが絶えなかったが、西嘉和良(いるか ー ら)と東嘉和良(あるか ー ら)という兄弟二人は大変睦まじくみんなに慕われていた。人々は彼らのように立派になろうと寄り集まってきた。それで兄の西嘉和良(いるか ー ら)は宮良、弟の東嘉和良(あるか ー ら)は白保の部落を建てた。そのころは、牛馬やイノシシ、その他あらゆる動物が畑を荒すので、シシガキを作ろうということになった。弟の方はトドロキ川から宮良に向かって、兄は西の方から宮良川上流の絶壁があるところから、こちらに向かって、部落民を動員して、両方からシシが越えられないシシガキを積んできた。東の弟のところは、珊瑚礁地帯で石がたくさんあったが、兄のところには、あまり石がなくて仕事がはかどらなかった。だから弟が積んだ方が長くて、兄の倍ぐらいあるんですね。その両方が出会ったところをビルカメまたは、宮嶺(めーんに)という。二人が積んだシシガキは、当時としては大工事だったから、みんなで集まってこの工事の完成を祝った。シシガキができてからは田畑を猪に荒らされることもなく、宮良も白保もずいぶん豊かになった シシガキができて宮良と白保の人が喜んでお祝いしていると、沖縄で一番高い山の於茂登山(お も とやま)から於茂登(お も と)テラスの神が下りてきて、ビルカメの祝いをしている六人の女性に乗り移って宮良と白保の守護神になった。宮良の三人の女性に乗り移った神は、仲嵩御嶽(なかたけおたけ)、外本御嶽(ふかもとおたけ)、山崎御嶽(やましきおたけ)という三つの御嶽(おたけ)の神になり、白保の三人の女性に乗り移った神は、真謝御嶽(まじゃ おたけ)、嘉手苅御嶽(か で かるおたけ)、多原御嶽(たばる おたけ)の三つの御嶽(おたけ)の神になった。宮良も白保もこの三つの御嶽の神様が部落の氏神になった。ところが明和八年に大津波で白保はほとんどが流され、宮良も千人以上も亡くなって生き残った方は、男が百十何名、女が四十四名で、二百人にも足らなくなった。その津波のとき波照間は被害なくて人口が多かったので、琉球王の命令で、被害が多かった白保と大浜に強制移民があった。そのとき白保に来た方は波照間御嶽を建てて拝むようになった。小浜から来たのは男の百何十名、女が百何十名で、女の方が多かった。小浜から来た人は、国道沿いの赤馬の像と対向してるところに小浜御嶽(こはま おたけ)を建てて拝んだ。それから四つの御嶽になった。第二次大戦のときに生活改善とかいろいろあって、郷里のお宮を一つにまとめるという話があったが、そうならないうちに戦争が終わった。その後、部落のすべての行事はイルカーラ、アルカーラを中心にして、四つの御嶽が一堂に会して進めている。 イルカーラ、アルカーラのどちらかの遺体の一体は公民館に葬っている。初めは「元祖の墓」として昭和二年に建てられた。その時は小屋があって、香炉があるだけの墓だったが、それではいけないということで石碑が建てられた。石碑には「西瓦」「東瓦」とあり、昭和38年か39年に上の部分だけ取り替えた。しかし、司が村占いをして、「以前の碑でないといけない」と言った。実際、祟りがあったらしい。結局、前の碑も置くことにした。石碑の場所は部落の総決議で決めたのだが、実際はもっと奥にあり、昔は、木々が茂っていて気味の悪いところだったらしい。今考えれば、この場所には、公民館などではなく、社などを建てるべきだった。 |
| 全体の記録時間数 | 28:09:00 |
| 物語の時間数 | 27:46:00 |
| 言語識別 | 共通語 |
| 音源の質 | △ |
| テープ番号 | - |
| 予備項目1 | - |