
百姓、赤蜂の乱は、尚真王の時代でしょ。赤蜂の二人説もあるんだよ。沖縄の最初の本の『球陽』にはね
、「保武川(ほんがわら)赤蜂(あかはち)」と書いてある。ところが『八重山由来記』の中にはよ、「保
武川赤蜂なるもの二人なりき。」とあるんだ。だから学者がね、保武川と言う人と赤蜂と言う人二人おった
と、一人が競合して尚真王に反抗したと説く学者もいる。八重山では、保武川とは、ほんとの頭のことを保
武川で、名前は赤蜂だという学者と二つに分かれているさ。赤蜂は、大浜の人だからよ、感情的にね、一人
がいいさ。大浜としては二人にしたくない訳さ。それとね、大浜には、赤蜂の屋敷跡と言われている所もあ
るし、オヤケ赤蜂の伝説はいくらでもあるが、保武川の赤蜂とかいう伝説は一つもない。そうすると、これ
一人だったら、当ってあるということの一つの証明になるわけね。ところが八重山由来記の中に、あの時の
学者というのは、学問のない奴らが、文字の定かじゃない時代のもんだからなぁ、「保武川赤蜂二人なるも
のありき」と書いてあるよ。そうして、大きな間違いはね、その時の八重山の人口、「六百人なりき」と書
いてある。女子どもみんな合わせて、六百人が首里城に反抗する訳がある。そうすと、半分は女で三百名名
、男の半分は、子どもと思って、百五十名。戦える人間は、百五十名か二百名でしょ。赤蜂の家来は、何名
おったかと。これフルストバルという名前の居城は、大きな城を築いた屋敷跡がある。オヤケ赤蜂の屋敷は
特別大きい。七つの門がある。
赤蜂は、もちろん波照間で生まれてるからな。これもまた宮古の大将豊見親王ね、豊見親玄雅、あれの落
とし子の長田大主(なーたふーず)というのが四箇の大将で、オヤケ赤蜂は大浜の大将さ。この二人は、兄
弟だという説があるわけさあ。それは、豊見親玄雅が来てね。与那国征伐の場合、暴風にあって、波照間に
三ヶ月間滞在したさ。女全部違うからあの時に子どもたくさん生んだという。真乙姥お宮に祀られて、真乙
姥って神様にされてるのが姉さん。あれは、波照間の真乙家のマイツニヤーの子どもなんだよ。大浜に赤蜂
の妻になって政略結婚で来たのは古乙姥という。古乙姥は波照間のコイツヤーの子ども。赤蜂はどっかの女
、長田大主はどこの誰とだいたい研究してくるにつれて、年齢が似てる。それでね、歴史というのは、仮説
を一応立てて研究していけばね、その仮説を解明していく事によって、どんどん本物に近づいていくからね
、これは想像と勘。総合的な力を勘というんだから。だから、ある人が、オヤケ赤蜂の親は、源為朝じゃな
いかなぁという仮説を立ててね、為朝を丹念に研究したんだが、研究したら、オヤケ赤蜂が尚真王に反抗し
た年と五〇年の開きが出てきたんだ。だから、牧港の為朝ではなかったと。これは、牧港に奥さんが待って
おったという、舜天王のお父さんさな。これも定かではないよ。為朝が本当に沖縄に来たかというのは、舜
天王は為朝の子どもなのからな。第一代の王様は、これも出ないという人もおるんだよ。また、学者中には
ね、赤蜂がね、どこの家(ち)の生まれか、何年に生まれたか、全く本にはない訳さーな。その当時の人み
んなないよ。約五百年前の時代の人だから。
赤蜂はね、もう言えばね、海から、薦に巻かれて流れ着いたというんだよ。そしてアダン葉の下におった
というんだよ。朝起きると海回る爺さんがおるしょ。流れ物ないかなって回ったりする。見ると、赤ちゃん
が泣いてるもんだから、来て村の古老に話したわけね。そしたら、古老は、「子どもはいったいどこに向い
ておるのか。」と。「東に向かって泣いている。」と。「それじゃ、この子は確かに神の子だ。いい子に違
いないから、連れてこい。」ということでね、養ったら、オヤケ赤蜂が十何歳になった時ね、まだ小さな長
田大主は、豊見親王の子どもだと名乗って、石垣の四箇村にね、あっちに連れてこられたって。そのとき、
赤蜂は残ったんだろう。だから、兄弟だったかどうかは分からんよ。ところが武勇学問いろいろに優れてね
、その当時、一番学問あったのオヤケ赤蜂で、一番力あったのオヤケ赤蜂。文武両道で万能なのさ。で、こ
れが波照間から見ると、大西表や大石垣が見えるでしょう。志抱いてる赤蜂は小舟みたいのに乗って移って
きて、初めは、野底村に着いたって。これは人間が十何名しかおらんから、「一番大きい村はどこか。」と
。「大浜(ほーま)村。」と。当時はフルスト村さな。だから、そこが大きいということで来たわけだ。ホ
ーマに行ったら、「鬼が来た。」と言って、恐れられて、「自分は鬼じゃない。」と言って、村の人と仲良
しになって、力が強いから猪捕ってきたり、ハブを捕ってきたり、いろいろして、よく働いて部落の人を助
けるさな。ところが、そのころ、人頭税はそれまでまだ出ないが、税金は課せられてる。ところが大不作に
見舞われてね、食べ物も無くなったもんだから赤蜂は王様に向かって、「三年間税金許せ。」ということを
願い出たら、聞き入れない。そのころ大浜には、農民のイディキアマンの神の祭りというものがあったが、
琉球王が、「イリキヤアマリの神は贅沢だからやるな。」とその祭りを命令を下して廃止させたわけさ。
住民が、もう心の頼りにしている祭りを中止したもんだから、赤蜂は、怒り心頭に達してね。そのころ、
八重山群雄割拠しているからな、一番強いのは石垣の長田大主。次に強いのは川平の仲間満慶ね。その次強
いのは西表の慶来慶田城ね。その次強いのは波照間の獅子嘉殿(ししかどぅん)ね。その次強いのは平久保
加奈(ひらくぼかな)按司(あんじ)ね。こういう人達が群雄割拠して歩くさ。それを片っ端から回ってね
、手なづけるわけさ。「自分と一緒になってね、首里の王に税金を納めるな。」とストップかける。そうす
ると、これに不賛成な豪族も居るわけさあな。仲間満慶なんか不賛成ということでね、スーヌメという真栄
里のところで、会見をするわけさ。仲間満慶は、川平村から馬乗ってきた。この仲間満慶は、日本平家の落
ち武者の子どもなんだよ。大和(やまとぅ)のね、剣の名人さ。そのとき、馬に跨がっているとね、長男が
、「お父さん、お供して自分も行きましょう。」と言うんだけどね、「自分一人でよろしい。」とスーヌメ
に来てね、赤蜂と対面するはず。赤蜂が、「自分と味方して税金納めるな。」と。仲間満慶は、「いや、自
分は首里にちゃんと税金納める。反対する。」で、もう押し問答してね、仲間満慶は、その席を蹴って、武
勇堪能だからね、逃げるわけさ。そしたら、赤蜂は遠回りしてきて、部下を命じてね、道中に穴を掘るわけ
さ。早く行って穴を掘って、仲間満慶が来ると、馬もろともこの穴に落ちて、そこへ赤蜂が来てちょん切っ
てしまった。だから、道の側に、「仲間満慶終焉の地」って石碑が建っておるさ。赤蜂の話がもういっくら
でもあるからよ。赤蜂の奥さんよ、あれは長田大主(なーたふーず)の妹で、古乙姥(くいつば)さーな。
長田大主の女兄弟の長女は真乙姥で、次女は古乙姥ね。あるとき、赤蜂がね、長田大主の家(ち)に乗り込
んで行くわけさ、「自分と味方して、反抗やれ。」と。だけども、長田大主はびくびくして驚いてね、御馳
走を作って待つわけさ。そこで、大浜のいわゆる古老が、赤蜂と一緒に付いて行ってね、「向こうから御馳
走が出るはずだが、自分が手を付けるまでは赤蜂手を付けるな。」と言うわけでね、赤蜂の参謀みたな格の
この爺さんが守っておるでしょう。この爺さんが、長田大主の家で出された御馳走を挟んでよ、庭にポンと
投げたって。そうすっと、トットトトと鶏が集まって来て食ってよ、クルクルクルクルって回ってパタッと
倒れたって。それで、赤蜂が、長田大主にね、「何を言うんだ。毒を盛ってあるんじゃないか。けしからん
。」って言ってね、刀抜いて切ろうとするんだけど、そこでまあこの爺さんが宥めてね、「そういう事は、
もうするな。」と言って、一旦帰るさ。二度目行ったわけさ。したら、今度はまた、長田大主がね、丁重に
迎えてね、真乙姥と古乙姥に踊り教えて、古乙姥に踊らせて歓待したわけさ。そこで、長田大主がね、赤蜂
に、「赤蜂、二人のうちね、あんたの好きな者をね、弟でもいい姉さんでもいいから、貰わないか。」した
ら、赤蜂も、もう二十歳(はたち)過ぎてるしょ、「妹の方を貰いましょ。」と言ったわけね、古乙姥を貰
ったわけさ。これは、いわゆる政略結婚さあな。で、長田大主は、この古乙姥に、「何月までに必ず殺して
こい。」と南蛮毒薬をくれるわけさあな。ところがね、古乙姥は、赤蜂があんまり人間が優しくてね、力は
あって、頭はいいしね、親切そうな人だから、心までみんな、赤蜂に吸い込まれてね、惚れたわけさ。惚れ
て、本当の赤蜂の奥さんになってしまったわけさ。で、兄さんに反抗するということになったわけだな。
それで、赤蜂がね、長田大主のところにまた行って前の話をしに行ったら、断ったもんだから、長田大主
を追っ掛けるわけさ。長田大主はずんぶんと逃げて、今の観音堂ね、あっちに移っているんだが、昔は、観
音堂はよ、向こうの人で、カヤニと言うところにあった。この観音堂に長田大主は逃げて行くわけさ。した
ら、御嶽(おたけ)のこと山と言うからね、山守りと言うそこを守る人が居るわけでしょ。それがね、長田
大主が逃げ込んできて、「赤蜂にね、追われて来てるから、どうぞ、隠してくれ。」と。「それでは、隠し
てあげよう。」と言うてね、一生懸命長田大主を隠す穴を掘ったって。この穴を掘って、中に長田大主を入
れてね、上から竹と木を被せて覆って、そこに、ピナカンって石を三個おいて、水入れた鍋を上において、
火炊いておったって。そこへ赤蜂が来たわけだな。「ここに長田大主という侍が来なかったか。」ったら、
「いえ、来ませんでした。ご覧の通り、どこでも探してください。」と言うわけさ。そしたらね、赤蜂はね
、この鍋を見てよ、見抜いてるんだよ。「水の下、金の下、火の下、土の中にあり。すでに死せり。」と言
ってからね、この中に埋めてあるともう言葉を残してね、去っていくわけさ。それで、長田大主は芭蕉の筏
を造ってね、由布島に逃げて、西表に渡って、さっき言った慶来慶田城という西表の英雄の元に身を寄せる
わけさ。で、赤蜂征伐時、沖縄軍と一緒になって、こっちに来るわけだ。
そういう風にしてね、赤蜂は、首里城に反抗するわけさ。赤蜂はちょうど子どもの時聞いた楠木正成の話
のようにしたんでしょう。楠木正成は、城の上から石落としたり、木落としたり、糞を引っかけたりしたと
いうような話があるだろう。首里の軍が来ると、あの楠木正成と同じようにね、家々の水甕の甕と雨具の蓑
笠よ、あれ全部集めた。その集めた水甕に蓑笠を着せて海岸に並べてよ、みんな棒持たしたり、弓矢持たさ
して立てておったって。それで、中山の三千の兵隊が来てね、「八重山にあんなに人間が兵隊がおるんだっ
たら、簡単には上れん。」ということでね、予て用意した久米島君南風(くめじまち んべー)ね、これは
昔、長女は首里の弁ヶ嶽、次女は八重山の於茂登岳、三女が久米島の宇江城岳、あれに降りた三名の姉妹の
神様の三女さ。この君南風がな、女は戦の先走(さちば)いと言うだろう。祝女(のろ)みたいなさ、呪い
殺すという意味があるさあな。それで、君南風が来たわけさあな。そこで、君南風がだね、「八重山にはそ
んなに人間はおらん。赤蜂は策略の優れた人だからよ、何かの赤蜂の策略だ。」と言うんでね、予て用意し
た舟に薪を切っとって、あの薪は松明だから、それを取った山を久米島ではテー山と言うさ。あれを舟に積
んできたから、海に筏を作って下ろしてよ、その薪に火を付けて放ったって。だから、舟は動かんで、筏ば
かり風に流されてどんどんどん西の方に行ったって。赤蜂の方で、そこにいるのは甕でしょ。ほんとの兵隊
は後ろに隠れてるでしょう。どんどんこの火の後を追うて西に移動したって。沖縄の兵隊は、その隙に登野
城の方から、上ってあるわけさ。そこから上って、赤蜂は挟み打ちにされたから塞がれたわけね。そこで、
宮本武蔵の本読んだことある。あれに、ご飯食べながら蠅(はい)を挟んでは置き、蠅を挟んでは置きなが
らご飯食べて、蠅が来たら挟んでは置いたっていう話があるでしょう。赤蜂はね、逃げてご飯食べるときに
、弓矢が飛んでくるでしょう。弓矢がきたから、箸で弓矢を挟んでは置き、飛んできたら挟んで置き置きし
て、ご飯食べていったって。そう、宮本武蔵がご飯食べながら蠅を挟んでは置いた話と同じような意味の話
さな。赤蜂は、人類解放の狼煙(のろし)を挙げて儚(はかな)くもだな、勝利に結びつかずに死んだ薄幸
の英雄なんだな。そういう英雄だから、それで、大浜村で赤蜂の碑を造ったわけさな。
| レコード番号 | 47O150323 |
|---|---|
| CD番号 | 47O15C019 |
| 決定題名 | オヤケ赤蜂(共通語) |
| 話者がつけた題名 | - |
| 話者名 | 慶田正介 |
| 話者名かな | けいだしょうすけ |
| 生年月日 | 19181129 |
| 性別 | 男 |
| 出身地 | 石垣市大浜 |
| 記録日 | 19940823 |
| 記録者の所属組織 | 沖縄口承文芸学術調査団 |
| 元テープ番号 | 石垣市大浜T96B01 |
| 元テープ管理者 | 沖縄伝承話資料センター |
| 分類 | 20 |
| 発句(ほっく) | - |
| 伝承事情 | - |
| 文字化資料 | 大浜の民話(平成7年度卒業論文)P21 |
| キーワード | オヤケ赤蜂 |
| 梗概(こうがい) | 百姓、赤蜂の乱は、尚真王の時代でしょ。赤蜂の二人説もあるんだよ。沖縄の最初の本の『球陽』にはね 、「保武川(ほんがわら)赤蜂(あかはち)」と書いてある。ところが『八重山由来記』の中にはよ、「保 武川赤蜂なるもの二人なりき。」とあるんだ。だから学者がね、保武川と言う人と赤蜂と言う人二人おった と、一人が競合して尚真王に反抗したと説く学者もいる。八重山では、保武川とは、ほんとの頭のことを保 武川で、名前は赤蜂だという学者と二つに分かれているさ。赤蜂は、大浜の人だからよ、感情的にね、一人 がいいさ。大浜としては二人にしたくない訳さ。それとね、大浜には、赤蜂の屋敷跡と言われている所もあ るし、オヤケ赤蜂の伝説はいくらでもあるが、保武川の赤蜂とかいう伝説は一つもない。そうすると、これ 一人だったら、当ってあるということの一つの証明になるわけね。ところが八重山由来記の中に、あの時の 学者というのは、学問のない奴らが、文字の定かじゃない時代のもんだからなぁ、「保武川赤蜂二人なるも のありき」と書いてあるよ。そうして、大きな間違いはね、その時の八重山の人口、「六百人なりき」と書 いてある。女子どもみんな合わせて、六百人が首里城に反抗する訳がある。そうすと、半分は女で三百名名 、男の半分は、子どもと思って、百五十名。戦える人間は、百五十名か二百名でしょ。赤蜂の家来は、何名 おったかと。これフルストバルという名前の居城は、大きな城を築いた屋敷跡がある。オヤケ赤蜂の屋敷は 特別大きい。七つの門がある。 赤蜂は、もちろん波照間で生まれてるからな。これもまた宮古の大将豊見親王ね、豊見親玄雅、あれの落 とし子の長田大主(なーたふーず)というのが四箇の大将で、オヤケ赤蜂は大浜の大将さ。この二人は、兄 弟だという説があるわけさあ。それは、豊見親玄雅が来てね。与那国征伐の場合、暴風にあって、波照間に 三ヶ月間滞在したさ。女全部違うからあの時に子どもたくさん生んだという。真乙姥お宮に祀られて、真乙 姥って神様にされてるのが姉さん。あれは、波照間の真乙家のマイツニヤーの子どもなんだよ。大浜に赤蜂 の妻になって政略結婚で来たのは古乙姥という。古乙姥は波照間のコイツヤーの子ども。赤蜂はどっかの女 、長田大主はどこの誰とだいたい研究してくるにつれて、年齢が似てる。それでね、歴史というのは、仮説 を一応立てて研究していけばね、その仮説を解明していく事によって、どんどん本物に近づいていくからね 、これは想像と勘。総合的な力を勘というんだから。だから、ある人が、オヤケ赤蜂の親は、源為朝じゃな いかなぁという仮説を立ててね、為朝を丹念に研究したんだが、研究したら、オヤケ赤蜂が尚真王に反抗し た年と五〇年の開きが出てきたんだ。だから、牧港の為朝ではなかったと。これは、牧港に奥さんが待って おったという、舜天王のお父さんさな。これも定かではないよ。為朝が本当に沖縄に来たかというのは、舜 天王は為朝の子どもなのからな。第一代の王様は、これも出ないという人もおるんだよ。また、学者中には ね、赤蜂がね、どこの家(ち)の生まれか、何年に生まれたか、全く本にはない訳さーな。その当時の人み んなないよ。約五百年前の時代の人だから。 赤蜂はね、もう言えばね、海から、薦に巻かれて流れ着いたというんだよ。そしてアダン葉の下におった というんだよ。朝起きると海回る爺さんがおるしょ。流れ物ないかなって回ったりする。見ると、赤ちゃん が泣いてるもんだから、来て村の古老に話したわけね。そしたら、古老は、「子どもはいったいどこに向い ておるのか。」と。「東に向かって泣いている。」と。「それじゃ、この子は確かに神の子だ。いい子に違 いないから、連れてこい。」ということでね、養ったら、オヤケ赤蜂が十何歳になった時ね、まだ小さな長 田大主は、豊見親王の子どもだと名乗って、石垣の四箇村にね、あっちに連れてこられたって。そのとき、 赤蜂は残ったんだろう。だから、兄弟だったかどうかは分からんよ。ところが武勇学問いろいろに優れてね 、その当時、一番学問あったのオヤケ赤蜂で、一番力あったのオヤケ赤蜂。文武両道で万能なのさ。で、こ れが波照間から見ると、大西表や大石垣が見えるでしょう。志抱いてる赤蜂は小舟みたいのに乗って移って きて、初めは、野底村に着いたって。これは人間が十何名しかおらんから、「一番大きい村はどこか。」と 。「大浜(ほーま)村。」と。当時はフルスト村さな。だから、そこが大きいということで来たわけだ。ホ ーマに行ったら、「鬼が来た。」と言って、恐れられて、「自分は鬼じゃない。」と言って、村の人と仲良 しになって、力が強いから猪捕ってきたり、ハブを捕ってきたり、いろいろして、よく働いて部落の人を助 けるさな。ところが、そのころ、人頭税はそれまでまだ出ないが、税金は課せられてる。ところが大不作に 見舞われてね、食べ物も無くなったもんだから赤蜂は王様に向かって、「三年間税金許せ。」ということを 願い出たら、聞き入れない。そのころ大浜には、農民のイディキアマンの神の祭りというものがあったが、 琉球王が、「イリキヤアマリの神は贅沢だからやるな。」とその祭りを命令を下して廃止させたわけさ。 住民が、もう心の頼りにしている祭りを中止したもんだから、赤蜂は、怒り心頭に達してね。そのころ、 八重山群雄割拠しているからな、一番強いのは石垣の長田大主。次に強いのは川平の仲間満慶ね。その次強 いのは西表の慶来慶田城ね。その次強いのは波照間の獅子嘉殿(ししかどぅん)ね。その次強いのは平久保 加奈(ひらくぼかな)按司(あんじ)ね。こういう人達が群雄割拠して歩くさ。それを片っ端から回ってね 、手なづけるわけさ。「自分と一緒になってね、首里の王に税金を納めるな。」とストップかける。そうす ると、これに不賛成な豪族も居るわけさあな。仲間満慶なんか不賛成ということでね、スーヌメという真栄 里のところで、会見をするわけさ。仲間満慶は、川平村から馬乗ってきた。この仲間満慶は、日本平家の落 ち武者の子どもなんだよ。大和(やまとぅ)のね、剣の名人さ。そのとき、馬に跨がっているとね、長男が 、「お父さん、お供して自分も行きましょう。」と言うんだけどね、「自分一人でよろしい。」とスーヌメ に来てね、赤蜂と対面するはず。赤蜂が、「自分と味方して税金納めるな。」と。仲間満慶は、「いや、自 分は首里にちゃんと税金納める。反対する。」で、もう押し問答してね、仲間満慶は、その席を蹴って、武 勇堪能だからね、逃げるわけさ。そしたら、赤蜂は遠回りしてきて、部下を命じてね、道中に穴を掘るわけ さ。早く行って穴を掘って、仲間満慶が来ると、馬もろともこの穴に落ちて、そこへ赤蜂が来てちょん切っ てしまった。だから、道の側に、「仲間満慶終焉の地」って石碑が建っておるさ。赤蜂の話がもういっくら でもあるからよ。赤蜂の奥さんよ、あれは長田大主(なーたふーず)の妹で、古乙姥(くいつば)さーな。 長田大主の女兄弟の長女は真乙姥で、次女は古乙姥ね。あるとき、赤蜂がね、長田大主の家(ち)に乗り込 んで行くわけさ、「自分と味方して、反抗やれ。」と。だけども、長田大主はびくびくして驚いてね、御馳 走を作って待つわけさ。そこで、大浜のいわゆる古老が、赤蜂と一緒に付いて行ってね、「向こうから御馳 走が出るはずだが、自分が手を付けるまでは赤蜂手を付けるな。」と言うわけでね、赤蜂の参謀みたな格の この爺さんが守っておるでしょう。この爺さんが、長田大主の家で出された御馳走を挟んでよ、庭にポンと 投げたって。そうすっと、トットトトと鶏が集まって来て食ってよ、クルクルクルクルって回ってパタッと 倒れたって。それで、赤蜂が、長田大主にね、「何を言うんだ。毒を盛ってあるんじゃないか。けしからん 。」って言ってね、刀抜いて切ろうとするんだけど、そこでまあこの爺さんが宥めてね、「そういう事は、 もうするな。」と言って、一旦帰るさ。二度目行ったわけさ。したら、今度はまた、長田大主がね、丁重に 迎えてね、真乙姥と古乙姥に踊り教えて、古乙姥に踊らせて歓待したわけさ。そこで、長田大主がね、赤蜂 に、「赤蜂、二人のうちね、あんたの好きな者をね、弟でもいい姉さんでもいいから、貰わないか。」した ら、赤蜂も、もう二十歳(はたち)過ぎてるしょ、「妹の方を貰いましょ。」と言ったわけね、古乙姥を貰 ったわけさ。これは、いわゆる政略結婚さあな。で、長田大主は、この古乙姥に、「何月までに必ず殺して こい。」と南蛮毒薬をくれるわけさあな。ところがね、古乙姥は、赤蜂があんまり人間が優しくてね、力は あって、頭はいいしね、親切そうな人だから、心までみんな、赤蜂に吸い込まれてね、惚れたわけさ。惚れ て、本当の赤蜂の奥さんになってしまったわけさ。で、兄さんに反抗するということになったわけだな。 それで、赤蜂がね、長田大主のところにまた行って前の話をしに行ったら、断ったもんだから、長田大主 を追っ掛けるわけさ。長田大主はずんぶんと逃げて、今の観音堂ね、あっちに移っているんだが、昔は、観 音堂はよ、向こうの人で、カヤニと言うところにあった。この観音堂に長田大主は逃げて行くわけさ。した ら、御嶽(おたけ)のこと山と言うからね、山守りと言うそこを守る人が居るわけでしょ。それがね、長田 大主が逃げ込んできて、「赤蜂にね、追われて来てるから、どうぞ、隠してくれ。」と。「それでは、隠し てあげよう。」と言うてね、一生懸命長田大主を隠す穴を掘ったって。この穴を掘って、中に長田大主を入 れてね、上から竹と木を被せて覆って、そこに、ピナカンって石を三個おいて、水入れた鍋を上において、 火炊いておったって。そこへ赤蜂が来たわけだな。「ここに長田大主という侍が来なかったか。」ったら、 「いえ、来ませんでした。ご覧の通り、どこでも探してください。」と言うわけさ。そしたらね、赤蜂はね 、この鍋を見てよ、見抜いてるんだよ。「水の下、金の下、火の下、土の中にあり。すでに死せり。」と言 ってからね、この中に埋めてあるともう言葉を残してね、去っていくわけさ。それで、長田大主は芭蕉の筏 を造ってね、由布島に逃げて、西表に渡って、さっき言った慶来慶田城という西表の英雄の元に身を寄せる わけさ。で、赤蜂征伐時、沖縄軍と一緒になって、こっちに来るわけだ。 そういう風にしてね、赤蜂は、首里城に反抗するわけさ。赤蜂はちょうど子どもの時聞いた楠木正成の話 のようにしたんでしょう。楠木正成は、城の上から石落としたり、木落としたり、糞を引っかけたりしたと いうような話があるだろう。首里の軍が来ると、あの楠木正成と同じようにね、家々の水甕の甕と雨具の蓑 笠よ、あれ全部集めた。その集めた水甕に蓑笠を着せて海岸に並べてよ、みんな棒持たしたり、弓矢持たさ して立てておったって。それで、中山の三千の兵隊が来てね、「八重山にあんなに人間が兵隊がおるんだっ たら、簡単には上れん。」ということでね、予て用意した久米島君南風(くめじまち んべー)ね、これは 昔、長女は首里の弁ヶ嶽、次女は八重山の於茂登岳、三女が久米島の宇江城岳、あれに降りた三名の姉妹の 神様の三女さ。この君南風がな、女は戦の先走(さちば)いと言うだろう。祝女(のろ)みたいなさ、呪い 殺すという意味があるさあな。それで、君南風が来たわけさあな。そこで、君南風がだね、「八重山にはそ んなに人間はおらん。赤蜂は策略の優れた人だからよ、何かの赤蜂の策略だ。」と言うんでね、予て用意し た舟に薪を切っとって、あの薪は松明だから、それを取った山を久米島ではテー山と言うさ。あれを舟に積 んできたから、海に筏を作って下ろしてよ、その薪に火を付けて放ったって。だから、舟は動かんで、筏ば かり風に流されてどんどんどん西の方に行ったって。赤蜂の方で、そこにいるのは甕でしょ。ほんとの兵隊 は後ろに隠れてるでしょう。どんどんこの火の後を追うて西に移動したって。沖縄の兵隊は、その隙に登野 城の方から、上ってあるわけさ。そこから上って、赤蜂は挟み打ちにされたから塞がれたわけね。そこで、 宮本武蔵の本読んだことある。あれに、ご飯食べながら蠅(はい)を挟んでは置き、蠅を挟んでは置きなが らご飯食べて、蠅が来たら挟んでは置いたっていう話があるでしょう。赤蜂はね、逃げてご飯食べるときに 、弓矢が飛んでくるでしょう。弓矢がきたから、箸で弓矢を挟んでは置き、飛んできたら挟んで置き置きし て、ご飯食べていったって。そう、宮本武蔵がご飯食べながら蠅を挟んでは置いた話と同じような意味の話 さな。赤蜂は、人類解放の狼煙(のろし)を挙げて儚(はかな)くもだな、勝利に結びつかずに死んだ薄幸 の英雄なんだな。そういう英雄だから、それで、大浜村で赤蜂の碑を造ったわけさな。 |
| 全体の記録時間数 | 17:48 |
| 物語の時間数 | 17:21 |
| 言語識別 | 共通語 |
| 音源の質 | △ |
| テープ番号 | - |
| 予備項目1 | - |