オヤケ赤蜂(共通語)

概要

このオヤケ赤蜂の碑を造る時にね、あん時私もこの建設委員であったからね、本当は、古乙姥(くいつば)まで一緒に合祀したかったの。だけど、古乙姥は、石垣のね、長田大主(なーたふず)の妹だから、古乙姥と長田大主の関係の後裔の方が、オヤケ赤蜂はその当時は賊軍でしょ。だから征伐されたんだから、「そういう所に僕らの先祖は、僕らがやりません。僕らが供養するから、合祀しない。」と。そういう事だった。そういうことでね、あの時には実現しなかったの。古乙姥の合祀はね、実現しないでおってね、それから何年か後だがね、いろいろ出てきたわけね。例えばね、石垣にある真乙姥御嶽はね、古乙姥の姉の真乙姥の御嶽よ。そこの御嶽(おたけ)のね、司っていうのがいるんだ。そういう方々のね、幾人かがね、夢でだよね、古乙姥がね、「赤蜂のところへ行きたい。赤蜂の側に行って一緒になりたい。」というお告げを受けるんです。よく夢でね、よくそういうのがあるでしょ。これは、一人じゃなくてね、幾人かの人がですね、そういったことを夢でお告げを授かるんです。それでね、こういうことがあったもんだからね、「あっ、これはね、我々は、前は口でああ言ったけど、古乙姥は、大浜のオヤケ赤蜂は碑の所に持っていくのが筋だ。」ということを悟って、石垣からね、そういう話が出たわけね。それで、当時の司の方は、もう僕会おうと思ったけどみんな亡くなりましたけどね、そういう方がね、大浜の当時のオヤケ赤蜂の碑を造った建設委員長ね、これは、向こうにね、碑にね、これ広田禎夫(ひろた さだお)と書いてありますがね、僕の従兄弟だけどね、広田禎夫さんってね、すぐそこの家です。この方も、もう亡くなりましたけどよ、この方のところにね、さっき言った方連中が来ましてね、「古乙姥はオヤケ赤蜂に合祀されたいというお告げがあったから、大浜の方で、古乙姥の遺骨をどうぞ持っていって、こちらに一緒に連れていってください。」と話があったわけさ。それでね、当時のこの広田禎夫さんっていう方は、以前は大浜の部落の字会長ね、今のね、公民館長だったけどね、その時はもうずっと年取っているから後輩の公民館長に、「石垣の長田大主(なーたうふぬす)の子孫の方から、こう話があるんで、それで、ここに合祀したいから、一つあんた方むこうから骨を探して、持ってきてはどうか。」ということで、言ったわけね。それで、当時のこの大浜部落の公民館長、この役連中がね、石垣に行ったんです。 古乙姥の墓は、真乙姥御嶽のね、この門があって入って右側の方のこっち側の角にあったんですよ。これはね、石垣の方はね、これをスダミ墓と言うんです。これスダミったらね、蝸牛のことなの。だからね、結局ね、すごくもうけなして言う言葉でね、スダミ墓って言うんです。古乙姥は、あの赤蜂と一緒にいて、ほら反旗を翻したから、一緒に処罰されるでしょ。そういう事なもんだから、それで、持ってきてあそこの真乙姥御願の側に置いてあるがね、なぜそこに墓を造ったかというと、大浜でもそうだし、磯辺でもそういっておられるが、そういうような珊瑚礁の石ね、上等な墓じゃない墓を造って置いてね、それでね、真乙姥御嶽の前でね、豊年祭の毎年綱引きがあるんだよ。その時に見物人に墓の上に登ってね、足で踏ませる。見物人は、こうして見るでしょ。このときに踏ませてる。言うならばね、まあ罰みたいなために、向こうにあったわけなのね。それで、ここの部落の当時の公民館長やいろいろ役員がいますよね。そういう役所の方がね、何人か行って、向こうの今さっき申し上げたが、司だとか、神主だとかそういった方、向こうの子孫の人一緒に遺骨を掘り起こして持ってきてあるんです。そのときにね、中々見つからなかったって。やっと見つけてきたんだというような話です。僕はね、この実際の遺骨を見てないけど、この広田さんが見て知ってるからね、骨甕の中にこの骨が入ってる訳ね。で、今ありますよ。そして、今のオヤケ赤蜂の碑の後ろにこのブロックでかこってね、こうやって置いてあるんです。それで、これをこちらに持ってきて、オヤケ赤蜂と一緒に合祀した時に、その石垣のさっき申し上げた関係者ね、なんか一緒にきてね、そこで厳粛なね、この納骨をしてるんです。その納骨のね、具体的な僕に教えてくれたのが、さっき申し上げた広田禎夫さんね。だからね、「オヤケ赤蜂様ね、こうこう訳で長らく向こうに置いてあったけどよ、どうぞ、あんたのところと一緒になってください。」というふうなことでね、それもね、生きてる人に言うような言葉でね、そってね、禎夫さんは、そのときは、身の毛がよだつ程だったと言ってましたよ。ほんとにね、神に打たれるっていうんでしょ。神霊に打たれるって言うね、そういったもう身震いする程の感激をして、そこに納めたということなんだよ。それから僕は、大浜の部落の方にもいろいろ話してね、なんとかして古乙姥の碑を造ろうと思って一生懸命なの。ただ、本当に古乙姥の骨であるかどうかってことが問題で、そいでね、ここにはほれそういったね、骨を鑑定する専門家がいないわけね。それでね、この広田禎夫さんが、これはね、間違いないかっていうことを確認するために、当時の宮良賢貞って方がいらっしゃるの。この人はね、今亡くなっているが、学校の先生だったんすけどね、八重山の民俗芸能や文化関係調べたら必ず出てくる方なの。この方に見せたらね、「骨は分からないけど、骨入れた甕はね、その時代にできた甕。」と言うことをおっしゃたそうだ。その時代は、オヤケ赤蜂の乱時代だ。だから、三百何十年前かな。その時代の物であるっていうことを言われたそうだ。それでね、前にね、と東大だったかな、どっかのね、考古学の先生がこちらにお見えになったんですよね、これはね、何かの鑑定に来られたのか、ちょうどいい時だから、この先生にお願いして、この骨の鑑定をしようじゃないかということで、その私とそこの慶田って先生がおられるんですよね。あの方今は、当時教育長しておったから、この慶田先生がそういうこと言ったから、ちょうどいい具合だから、この骨を鑑定させようじゃないかと言うことでね、僕らその予定をしておったら、僕らこれを申し入れてないわけ。この先生は、結局公式な事やるには、いろいろ大変難儀があるでしょう。だからね、その日程に入ってなかったということで、今度は出来ませんと言われて、やらなかったわけさ。だから骨がね、そうである無いということは、もう鑑定は出来ないけど、さっき申し上げた古乙姥の墓であるって事の伝説がある。そこから掘り出したって事と、もう一つは、さっきいったこの甕は宮良賢貞さんに見てもらって、その時代の物に間違いないって事おっしゃてくれた。だから、僕らこれは間違いないと思ってる。それで、古乙姥はね、あまりにも不憫だからってことでね、古乙姥の碑も一緒に建てたいわけ。古乙姥って、この女性たいしたもんだよ。あの偉いよね。長田大主が、なぜこれを赤蜂のところにお嫁にやったかということはいきさつが分かるでしょ。それでも、赤蜂の当時の考え方が正しいからこれに同調するでしょ。そっで、自分に兄貴と戦うでしょ。赤蜂と一緒に戦って、捕まったんだから。だから、十年位前かな、いわゆる古乙姥の顕彰碑を建てる計画したんです。もう計画はして、部落の審議に掛けて、当時の公民館長がね、ちょっと体が具合が悪くて、今年は出来ないから、一応保留しようという形になったまま、今になってるけどね、ちゃんと僕は石も持ってきて置いてありますよ。いつかはね、不憫だから、これ碑を建てたいと思いますよ。

再生時間:15:46

民話詳細DATA

レコード番号 47O150451
CD番号 47O15C027
決定題名 オヤケ赤蜂(共通語)
話者がつけた題名 古乙姥の墓
話者名 小底致市
話者名かな こそこちいち
生年月日 19110821
性別
出身地 沖縄県石垣市大浜
記録日 19950320
記録者の所属組織 沖縄口承文芸学術調査団
元テープ番号 石垣市大浜 T106 A01
元テープ管理者 沖縄伝承話資料センター
分類 20,90
発句(ほっく)
伝承事情
文字化資料 大浜の民話 P12
キーワード オヤケ赤蜂,碑,古乙姥,合祀,石垣,長田大主,賊軍,征伐,供養,真乙姥御嶽,司,夢,お告げ,大浜,広田禎夫,遺骨,スダミ墓,蝸牛,珊瑚礁,墓,豊年祭,綱引き,骨甕,神霊,宮良賢貞,鑑定
梗概(こうがい) このオヤケ赤蜂の碑を造る時にね、あん時私もこの建設委員であったからね、本当は、古乙姥(くいつば)まで一緒に合祀したかったの。だけど、古乙姥は、石垣のね、長田大主(なーたふず)の妹だから、古乙姥と長田大主の関係の後裔の方が、オヤケ赤蜂はその当時は賊軍でしょ。だから征伐されたんだから、「そういう所に僕らの先祖は、僕らがやりません。僕らが供養するから、合祀しない。」と。そういう事だった。そういうことでね、あの時には実現しなかったの。古乙姥の合祀はね、実現しないでおってね、それから何年か後だがね、いろいろ出てきたわけね。例えばね、石垣にある真乙姥御嶽はね、古乙姥の姉の真乙姥の御嶽よ。そこの御嶽(おたけ)のね、司っていうのがいるんだ。そういう方々のね、幾人かがね、夢でだよね、古乙姥がね、「赤蜂のところへ行きたい。赤蜂の側に行って一緒になりたい。」というお告げを受けるんです。よく夢でね、よくそういうのがあるでしょ。これは、一人じゃなくてね、幾人かの人がですね、そういったことを夢でお告げを授かるんです。それでね、こういうことがあったもんだからね、「あっ、これはね、我々は、前は口でああ言ったけど、古乙姥は、大浜のオヤケ赤蜂は碑の所に持っていくのが筋だ。」ということを悟って、石垣からね、そういう話が出たわけね。それで、当時の司の方は、もう僕会おうと思ったけどみんな亡くなりましたけどね、そういう方がね、大浜の当時のオヤケ赤蜂の碑を造った建設委員長ね、これは、向こうにね、碑にね、これ広田禎夫(ひろた さだお)と書いてありますがね、僕の従兄弟だけどね、広田禎夫さんってね、すぐそこの家です。この方も、もう亡くなりましたけどよ、この方のところにね、さっき言った方連中が来ましてね、「古乙姥はオヤケ赤蜂に合祀されたいというお告げがあったから、大浜の方で、古乙姥の遺骨をどうぞ持っていって、こちらに一緒に連れていってください。」と話があったわけさ。それでね、当時のこの広田禎夫さんっていう方は、以前は大浜の部落の字会長ね、今のね、公民館長だったけどね、その時はもうずっと年取っているから後輩の公民館長に、「石垣の長田大主(なーたうふぬす)の子孫の方から、こう話があるんで、それで、ここに合祀したいから、一つあんた方むこうから骨を探して、持ってきてはどうか。」ということで、言ったわけね。それで、当時のこの大浜部落の公民館長、この役連中がね、石垣に行ったんです。 古乙姥の墓は、真乙姥御嶽のね、この門があって入って右側の方のこっち側の角にあったんですよ。これはね、石垣の方はね、これをスダミ墓と言うんです。これスダミったらね、蝸牛のことなの。だからね、結局ね、すごくもうけなして言う言葉でね、スダミ墓って言うんです。古乙姥は、あの赤蜂と一緒にいて、ほら反旗を翻したから、一緒に処罰されるでしょ。そういう事なもんだから、それで、持ってきてあそこの真乙姥御願の側に置いてあるがね、なぜそこに墓を造ったかというと、大浜でもそうだし、磯辺でもそういっておられるが、そういうような珊瑚礁の石ね、上等な墓じゃない墓を造って置いてね、それでね、真乙姥御嶽の前でね、豊年祭の毎年綱引きがあるんだよ。その時に見物人に墓の上に登ってね、足で踏ませる。見物人は、こうして見るでしょ。このときに踏ませてる。言うならばね、まあ罰みたいなために、向こうにあったわけなのね。それで、ここの部落の当時の公民館長やいろいろ役員がいますよね。そういう役所の方がね、何人か行って、向こうの今さっき申し上げたが、司だとか、神主だとかそういった方、向こうの子孫の人一緒に遺骨を掘り起こして持ってきてあるんです。そのときにね、中々見つからなかったって。やっと見つけてきたんだというような話です。僕はね、この実際の遺骨を見てないけど、この広田さんが見て知ってるからね、骨甕の中にこの骨が入ってる訳ね。で、今ありますよ。そして、今のオヤケ赤蜂の碑の後ろにこのブロックでかこってね、こうやって置いてあるんです。それで、これをこちらに持ってきて、オヤケ赤蜂と一緒に合祀した時に、その石垣のさっき申し上げた関係者ね、なんか一緒にきてね、そこで厳粛なね、この納骨をしてるんです。その納骨のね、具体的な僕に教えてくれたのが、さっき申し上げた広田禎夫さんね。だからね、「オヤケ赤蜂様ね、こうこう訳で長らく向こうに置いてあったけどよ、どうぞ、あんたのところと一緒になってください。」というふうなことでね、それもね、生きてる人に言うような言葉でね、そってね、禎夫さんは、そのときは、身の毛がよだつ程だったと言ってましたよ。ほんとにね、神に打たれるっていうんでしょ。神霊に打たれるって言うね、そういったもう身震いする程の感激をして、そこに納めたということなんだよ。それから僕は、大浜の部落の方にもいろいろ話してね、なんとかして古乙姥の碑を造ろうと思って一生懸命なの。ただ、本当に古乙姥の骨であるかどうかってことが問題で、そいでね、ここにはほれそういったね、骨を鑑定する専門家がいないわけね。それでね、この広田禎夫さんが、これはね、間違いないかっていうことを確認するために、当時の宮良賢貞って方がいらっしゃるの。この人はね、今亡くなっているが、学校の先生だったんすけどね、八重山の民俗芸能や文化関係調べたら必ず出てくる方なの。この方に見せたらね、「骨は分からないけど、骨入れた甕はね、その時代にできた甕。」と言うことをおっしゃたそうだ。その時代は、オヤケ赤蜂の乱時代だ。だから、三百何十年前かな。その時代の物であるっていうことを言われたそうだ。それでね、前にね、と東大だったかな、どっかのね、考古学の先生がこちらにお見えになったんですよね、これはね、何かの鑑定に来られたのか、ちょうどいい時だから、この先生にお願いして、この骨の鑑定をしようじゃないかということで、その私とそこの慶田って先生がおられるんですよね。あの方今は、当時教育長しておったから、この慶田先生がそういうこと言ったから、ちょうどいい具合だから、この骨を鑑定させようじゃないかと言うことでね、僕らその予定をしておったら、僕らこれを申し入れてないわけ。この先生は、結局公式な事やるには、いろいろ大変難儀があるでしょう。だからね、その日程に入ってなかったということで、今度は出来ませんと言われて、やらなかったわけさ。だから骨がね、そうである無いということは、もう鑑定は出来ないけど、さっき申し上げた古乙姥の墓であるって事の伝説がある。そこから掘り出したって事と、もう一つは、さっきいったこの甕は宮良賢貞さんに見てもらって、その時代の物に間違いないって事おっしゃてくれた。だから、僕らこれは間違いないと思ってる。それで、古乙姥はね、あまりにも不憫だからってことでね、古乙姥の碑も一緒に建てたいわけ。古乙姥って、この女性たいしたもんだよ。あの偉いよね。長田大主が、なぜこれを赤蜂のところにお嫁にやったかということはいきさつが分かるでしょ。それでも、赤蜂の当時の考え方が正しいからこれに同調するでしょ。そっで、自分に兄貴と戦うでしょ。赤蜂と一緒に戦って、捕まったんだから。だから、十年位前かな、いわゆる古乙姥の顕彰碑を建てる計画したんです。もう計画はして、部落の審議に掛けて、当時の公民館長がね、ちょっと体が具合が悪くて、今年は出来ないから、一応保留しようという形になったまま、今になってるけどね、ちゃんと僕は石も持ってきて置いてありますよ。いつかはね、不憫だから、これ碑を建てたいと思いますよ。
全体の記録時間数 18:00
物語の時間数 15:46
言語識別 共通語
音源の質
テープ番号
予備項目1

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