オヤケ赤蜂(共通語)

概要

この大浜のオヤケ赤蜂が生まれたのは、波照間でしょ。赤蜂はですね、誰の子かということですよね。これがおもしろいんですよ。だいたい今はね、よく物の書いてある本の中にも、オヤケ赤蜂が浜でもって捨てられておって、拾ってきて育てたということになっておりますよね。 それはね、波照間という所はすごく信仰の深いところですよね。今でも波照間は、御願の所に女ばっかし行って、男は入れません。僕はね、いっぺん行ってですね、向こうに木の根っこのいいのがあるそうだから、入ったら、「絶対男は御願に入っちゃいけない。」と怒られてね、御願自体も入れない。波照間には、ああいう御願がある。それでね、どこが御嶽ということはね、発表してないんですよ。というのはこれ厄介でね。 赤蜂は、地元との関係ははっきりしてないんですよ。それはね、そこの司がですね、難破船で入ってきた男とですね、そこで仲良くなって孕んじゃうんですね。それで、波照間では、司が結婚しちゃいけないんです。当時司が孕んだらね、これもう島追いだそうです。それなもんだから親がね、「これは大変だ。」ということでね、この御嶽の威部(いび)の中にですね、その小屋を作ってね、そこで、お産さしてね、その子供生まれたら、子供をですね、浜に持っていって、浜にこうやって捨て子にして、これを拾ってきた。これがオヤケ赤蜂。これは上間貞俊さんが調べあげたんです。 長田大主も波照間の生まれです。ほれでちっちゃい時はね、非常に赤蜂と一緒に向こうで遊んだということなんですがね。それで、長田大主の方が早く石垣に出てきて、石垣の四箇をかためてしまった。そしたらオヤケ赤蜂は後から来てね、もう石垣はあの長田大主が来てるし、伊原間北部には平久保按司がいるし、川平には仲間満慶がいるし、行く所がないから大浜に来たと。それで、大浜に来た時のね、どこに住処を置いたかっていうのは、今のね、いろいろ牧野さんも書いているし、いろんな人が書いてあるように、今の竹松家、あのフリヤーという家(うち)があるんですよ。あそこがね、オヤケ赤蜂の屋敷だから、そこはね、大浜村では、あそこが地盤が一番高いそうです。仲宗根豊見親の所も宮古で一番あそこが高いそうですね。 そのうちに、赤蜂は、地域の住民方と一緒に、この圧政に反抗して戦うようになるね。まず八重山では、この長田大主と戦うことになったから、オヤケ赤蜂も味方を集めるんだね。仲間満慶は御存知でしょう。川平の豪族ですよね。これも赤蜂が交渉したが、これもいわゆる首里の王府を恐れてだと思うんだけど、尚円王の子の尚真王を恐れて、それで赤蜂と一緒になっては戦わなかった。それで、赤蜂はひとつの観測を立てて、相談した後帰して、仲間満慶が帰る途中、ケーラ崎の道路に穴を掘ってね、そしてそこに木の枝を置いて、上から土を被せて道路にして待ち伏せていて、馬に乗って帰る途中の仲間満慶をそこに落として討ち取ったんですね。今、あそこのケーラ崎に碑が建っておるでしょう。ケーラ崎というのは海岸なんですよ。名蔵大橋から行って、こう曲がった所の先ですからよ。それでね、あの辺のはですね、干潮の時はね、海を渡って行けるんですよ。で、この時間的にもおそらく満潮の時を狙ったと思うね。そうしたら海は通れないからここを通る。 また、赤蜂はね、波照間のシガ殿を味方にしようとして使者を送った。それがえっと、嵩茶(たかちゃ)という人ともう一人ですよ。そしたら、シガ殿に味方になるのを断られた。それで、嵩茶はシガ殿に、「お前赤蜂と会いなさい。赤蜂と本当に会ってね、話しなさい。」と言って誘った。そして、船で乗せてくる途中で、シガ殿を殺した。そして海に落として捨てたんです。これが流れていって、死体は小浜に着いた。そして、シガ殿の刀は、波照間で拝んで作った人の家(うち)にあるそうです。 それで、それから赤蜂を首里王府からも征伐に来ますでしょう。征伐に来て、宮古の仲宗根豊見親の所へ来て、ここで武勢を整えて八重山に来ますね。あなたたちは、宮古の仲宗根豊見親の家に行って、あそこの系図ご覧になりました。あそこの系図はね、十冊くらいあるんですよ。これにね、八重山を攻めるときの軍勢の名前全部書いてありますよ。それ私見たんですよ。そしたらね、八重山に来たね、軍勢は、いわゆる何省何省、何部何部といった編成されたね、編成法があるんですよ。そしてね、宮古のこの仲宗根豊見親の家の後ろ側にはですね、石垣で積んだ高い所があってね。これは八重山に向かって願う所があるんですよ。これはね、八重山の長田大主との関係でやってるんですね。それで、その八重山の長田大主の子孫は、毎年お盆にはね、宮古に拝みに行ってるんですね。 首里王が大軍がこっち来たら、オヤケ赤蜂はですね、新川の海岸にですね、「どうせこっちから来るだろう。」ということでね、あそこに昔の水甕を集めて並べて、それに蓑笠を着せて、大軍がいるような形で待っていたと。それで、首里王の軍と一緒に来た君南風(ちんべー)がですね、この軍の先達になっているから、あの於茂登(おもと)照(てらす)にね、願をかけてたらね、於茂登照からね、「オヤケ赤蜂は武将だから、普通では勝てない。オヤケ赤蜂をごまかす一つの手としてですね。筏を作ってね、これにその火をつ
けて流して攻めなさい。」ということを言われたということです。この久米島の君南風が於茂登照神(おもとてらすのかみ)に祈願して、神様からの宣託(せんたく)を受けてやっていくようになってますよね。そん時に、ここの大浜では、この古乙姥が、すごく於茂登の神様に願うとか、いろんな事やってるわけ。それで、首里の軍は、君南風から教えられて、火をつけた無人の筏をぎょうさん登野城の方に流したわけですね。これをたら、まんまとオヤケ赤蜂はそれに引っ掛かっちゃって、新川の前でもって待っていた軍勢を登野城の方に回したために、首里の軍に新川の海岸から上がられちゃったと。 こうして、オヤケ赤蜂はですね、まああの戦火で、追われてきますね。追われてきて、今のね、スニタバルに落ち延びたんです。このスニタバルという地名はね、大浜の向こうのほら、あのトンネルに行ったことろに底原ってある。そこにヒラカンタという田んぼがありますよ。そこがスニタバルと言うんですよ。そのスニタバルという所は、昔深い山でしてね。そこに大きなあこうの木があってね、その上にね、僕等はこっちでいう段というんだけどね、棚作って、追手が来るのを見とった。そいで、そこでね、昼飯を食べておったらね、弓矢が飛んでくるそうですよ。これを赤蜂はね、御飯食べながら箸でね、弓矢を捕まえておき、こうして御飯食べたという伝説がある。古乙姥(くいつば)は、このスニタバルで捕まって、リンチって、私刑されるの。このリンチのね、一番重いのはね、スニって、脛ね、そこにね、木を入れるんですよ、あの角材入れるんですよ。それで、一時縛って苦しめるんですよ。これをここではね、スニタバルと言うんですよ。で、これをやられたところを、スニタバルっていう地名になっるんですよ。という伝説がある。 赤蜂と古乙姥にちなんだもう一つの地名があるんですよ。茅を敷いて寝たというので、茅寝(かやに)ですね。これも大浜では伝説なんですよ。これはね、オヤケ赤蜂が追われてですね、茅寝という所にね、来てですね、そこに、高い丘があって、元は向こう一本松が生えておったんです。場所はね、田原部落に信号ありますね。その田原部落の先でね、今はもうあそこは道になってないけど、もっとその上がてっぺんは農道だったんですよ。そこに大きな松がいっぱい生えてあったんですよ。そのからの展望がもの凄いんです。あの辺はあの奥まで全部見えるんですよ。そして、すごく涼しくていい所なんですよ。よく昔の百姓は向こうでよく山からの帰りですね、僕等は涼んだもんです。そこに、オヤケ赤蜂は追われてきてね、休んで茅を敷いて寝たから茅寝というんだという伝説があるんですよ。赤蜂は追われてね、逃げるでしょ。そして、田圃の中に入り込んで、そして、蓮の茎はあれ、穴開いてましょ。これでもって呼吸して隠れておったら、ほら追手が持って槍を刺したら、血が出たんで、これでやって、追手が安心がりますね。そこを武名田原って言うんですよ。それでね、不思議なことにですね、八重山調べてみると向こうしか蓮ないんですよ。あそこは僕の田圃なんですよ。この道まっすぐ下りるとね、そこにあの岩盤でもってほらあの見晴らしのいいカースニヤーというんですよね。大浜のね、あそこは聖地なんですよ。そこにね、あの赤蜂の足跡があるんです。これは、オヤケ赤蜂の足跡だといわれてるんです。これは、まあおそらくそういう武将を表すためにね、言ったんだと思うんだが。ここの足跡は右だな。そしてね、左はね、僕あれ見ないけどよ、宮良の東にあるそうです。この足跡もですね、僕等の子供の頃はかなりはっきりしておったけど、今もう風化してしまってるね。 それからね、オヤケ赤蜂の碑をこっちに建てましたね。これもね、当時私も部落の審議委員してましたからね、場所をどこにするかと思っていろいろね、話し合いが出たんですよ。そして、オヤケ赤蜂はですね、ここのこの地帯はね、大浜部落の風水(ふんしー)なんです。風水と言うんです。そして、あの崎原御嶽もこの地域です。そしてね、中学の庭にあるのが民(たみ)の井戸でね、民(みん)ヌカーというのがありますよ。また、公園の向こう側には、神の井戸の神(かみ)ヌカー残しておった。神(かん)ヌカーは、崎原御嶽は水を汲んで、神様にね、いろんなことやる井戸ですよ。そしてね、こういう所であるしね、不思議なことにね、大浜部落じゃあね、飲み水が出るのはここなんですよ。それでね、「オヤケ赤蜂は、ここでまた勢力を張った所だから、こっちが碑を建てるのに一番いい。」ということで、ここにしたんですよ。それからね、ちょっとおもしろいんですよね。これ碑文ですけどね。僕はあの頃まだあんまりそのもう調べてないから読んでなかった時代ですけどね、碑文はね、喜舎場先生に書かせてあるわけですけどね。もっと具体的な内容だった。そしたらね、長田大主の子孫から文句があったんです。「これじゃ、困るんじゃないか。」と。それで当たり障りのない直してある現在のような碑文になったそうです。

再生時間:22:26

民話詳細DATA

レコード番号 47O150368
CD番号 47O15C023
決定題名 オヤケ赤蜂(共通語)
話者がつけた題名
話者名 小底致市
話者名かな こそこちいち
生年月日 19110821
性別
出身地 沖縄県石垣市大浜
記録日 19940824
記録者の所属組織 沖縄口承文芸学術調査団
元テープ番号 石垣市大浜 T100 B01
元テープ管理者 沖縄伝承話資料センター
分類 20
発句(ほっく)
伝承事情
文字化資料 大浜の民話 P12
キーワード 大浜,オヤケ赤蜂,波照間,御願,御嶽,司,難破船,島追い,威部,お産,上間貞俊,長田大主,石垣,伊原間,平久保按司,川平,仲間満慶,フリヤー,仲宗根豊見親,宮古,圧政,反抗,八重山,首里,王府,尚円王,尚真王,ケーラ崎,待ち伏せ,碑,名蔵大橋,シガ殿,嵩茶,小浜,系図,君南風,於茂登,筏,於茂登照神,宣託,古乙姥,登野城,新川,スニタバル,底原,ヒラカンタ,弓矢,リンチ,茅寝,蓮の茎,武名田原,カースニヤー,足跡,宮良,風水,崎原御嶽,井戸,
梗概(こうがい) この大浜のオヤケ赤蜂が生まれたのは、波照間でしょ。赤蜂はですね、誰の子かということですよね。これがおもしろいんですよ。だいたい今はね、よく物の書いてある本の中にも、オヤケ赤蜂が浜でもって捨てられておって、拾ってきて育てたということになっておりますよね。 それはね、波照間という所はすごく信仰の深いところですよね。今でも波照間は、御願の所に女ばっかし行って、男は入れません。僕はね、いっぺん行ってですね、向こうに木の根っこのいいのがあるそうだから、入ったら、「絶対男は御願に入っちゃいけない。」と怒られてね、御願自体も入れない。波照間には、ああいう御願がある。それでね、どこが御嶽ということはね、発表してないんですよ。というのはこれ厄介でね。 赤蜂は、地元との関係ははっきりしてないんですよ。それはね、そこの司がですね、難破船で入ってきた男とですね、そこで仲良くなって孕んじゃうんですね。それで、波照間では、司が結婚しちゃいけないんです。当時司が孕んだらね、これもう島追いだそうです。それなもんだから親がね、「これは大変だ。」ということでね、この御嶽の威部(いび)の中にですね、その小屋を作ってね、そこで、お産さしてね、その子供生まれたら、子供をですね、浜に持っていって、浜にこうやって捨て子にして、これを拾ってきた。これがオヤケ赤蜂。これは上間貞俊さんが調べあげたんです。 長田大主も波照間の生まれです。ほれでちっちゃい時はね、非常に赤蜂と一緒に向こうで遊んだということなんですがね。それで、長田大主の方が早く石垣に出てきて、石垣の四箇をかためてしまった。そしたらオヤケ赤蜂は後から来てね、もう石垣はあの長田大主が来てるし、伊原間北部には平久保按司がいるし、川平には仲間満慶がいるし、行く所がないから大浜に来たと。それで、大浜に来た時のね、どこに住処を置いたかっていうのは、今のね、いろいろ牧野さんも書いているし、いろんな人が書いてあるように、今の竹松家、あのフリヤーという家(うち)があるんですよ。あそこがね、オヤケ赤蜂の屋敷だから、そこはね、大浜村では、あそこが地盤が一番高いそうです。仲宗根豊見親の所も宮古で一番あそこが高いそうですね。 そのうちに、赤蜂は、地域の住民方と一緒に、この圧政に反抗して戦うようになるね。まず八重山では、この長田大主と戦うことになったから、オヤケ赤蜂も味方を集めるんだね。仲間満慶は御存知でしょう。川平の豪族ですよね。これも赤蜂が交渉したが、これもいわゆる首里の王府を恐れてだと思うんだけど、尚円王の子の尚真王を恐れて、それで赤蜂と一緒になっては戦わなかった。それで、赤蜂はひとつの観測を立てて、相談した後帰して、仲間満慶が帰る途中、ケーラ崎の道路に穴を掘ってね、そしてそこに木の枝を置いて、上から土を被せて道路にして待ち伏せていて、馬に乗って帰る途中の仲間満慶をそこに落として討ち取ったんですね。今、あそこのケーラ崎に碑が建っておるでしょう。ケーラ崎というのは海岸なんですよ。名蔵大橋から行って、こう曲がった所の先ですからよ。それでね、あの辺のはですね、干潮の時はね、海を渡って行けるんですよ。で、この時間的にもおそらく満潮の時を狙ったと思うね。そうしたら海は通れないからここを通る。 また、赤蜂はね、波照間のシガ殿を味方にしようとして使者を送った。それがえっと、嵩茶(たかちゃ)という人ともう一人ですよ。そしたら、シガ殿に味方になるのを断られた。それで、嵩茶はシガ殿に、「お前赤蜂と会いなさい。赤蜂と本当に会ってね、話しなさい。」と言って誘った。そして、船で乗せてくる途中で、シガ殿を殺した。そして海に落として捨てたんです。これが流れていって、死体は小浜に着いた。そして、シガ殿の刀は、波照間で拝んで作った人の家(うち)にあるそうです。 それで、それから赤蜂を首里王府からも征伐に来ますでしょう。征伐に来て、宮古の仲宗根豊見親の所へ来て、ここで武勢を整えて八重山に来ますね。あなたたちは、宮古の仲宗根豊見親の家に行って、あそこの系図ご覧になりました。あそこの系図はね、十冊くらいあるんですよ。これにね、八重山を攻めるときの軍勢の名前全部書いてありますよ。それ私見たんですよ。そしたらね、八重山に来たね、軍勢は、いわゆる何省何省、何部何部といった編成されたね、編成法があるんですよ。そしてね、宮古のこの仲宗根豊見親の家の後ろ側にはですね、石垣で積んだ高い所があってね。これは八重山に向かって願う所があるんですよ。これはね、八重山の長田大主との関係でやってるんですね。それで、その八重山の長田大主の子孫は、毎年お盆にはね、宮古に拝みに行ってるんですね。 首里王が大軍がこっち来たら、オヤケ赤蜂はですね、新川の海岸にですね、「どうせこっちから来るだろう。」ということでね、あそこに昔の水甕を集めて並べて、それに蓑笠を着せて、大軍がいるような形で待っていたと。それで、首里王の軍と一緒に来た君南風(ちんべー)がですね、この軍の先達になっているから、あの於茂登(おもと)照(てらす)にね、願をかけてたらね、於茂登照からね、「オヤケ赤蜂は武将だから、普通では勝てない。オヤケ赤蜂をごまかす一つの手としてですね。筏を作ってね、これにその火をつ けて流して攻めなさい。」ということを言われたということです。この久米島の君南風が於茂登照神(おもとてらすのかみ)に祈願して、神様からの宣託(せんたく)を受けてやっていくようになってますよね。そん時に、ここの大浜では、この古乙姥が、すごく於茂登の神様に願うとか、いろんな事やってるわけ。それで、首里の軍は、君南風から教えられて、火をつけた無人の筏をぎょうさん登野城の方に流したわけですね。これをたら、まんまとオヤケ赤蜂はそれに引っ掛かっちゃって、新川の前でもって待っていた軍勢を登野城の方に回したために、首里の軍に新川の海岸から上がられちゃったと。 こうして、オヤケ赤蜂はですね、まああの戦火で、追われてきますね。追われてきて、今のね、スニタバルに落ち延びたんです。このスニタバルという地名はね、大浜の向こうのほら、あのトンネルに行ったことろに底原ってある。そこにヒラカンタという田んぼがありますよ。そこがスニタバルと言うんですよ。そのスニタバルという所は、昔深い山でしてね。そこに大きなあこうの木があってね、その上にね、僕等はこっちでいう段というんだけどね、棚作って、追手が来るのを見とった。そいで、そこでね、昼飯を食べておったらね、弓矢が飛んでくるそうですよ。これを赤蜂はね、御飯食べながら箸でね、弓矢を捕まえておき、こうして御飯食べたという伝説がある。古乙姥(くいつば)は、このスニタバルで捕まって、リンチって、私刑されるの。このリンチのね、一番重いのはね、スニって、脛ね、そこにね、木を入れるんですよ、あの角材入れるんですよ。それで、一時縛って苦しめるんですよ。これをここではね、スニタバルと言うんですよ。で、これをやられたところを、スニタバルっていう地名になっるんですよ。という伝説がある。 赤蜂と古乙姥にちなんだもう一つの地名があるんですよ。茅を敷いて寝たというので、茅寝(かやに)ですね。これも大浜では伝説なんですよ。これはね、オヤケ赤蜂が追われてですね、茅寝という所にね、来てですね、そこに、高い丘があって、元は向こう一本松が生えておったんです。場所はね、田原部落に信号ありますね。その田原部落の先でね、今はもうあそこは道になってないけど、もっとその上がてっぺんは農道だったんですよ。そこに大きな松がいっぱい生えてあったんですよ。そのからの展望がもの凄いんです。あの辺はあの奥まで全部見えるんですよ。そして、すごく涼しくていい所なんですよ。よく昔の百姓は向こうでよく山からの帰りですね、僕等は涼んだもんです。そこに、オヤケ赤蜂は追われてきてね、休んで茅を敷いて寝たから茅寝というんだという伝説があるんですよ。赤蜂は追われてね、逃げるでしょ。そして、田圃の中に入り込んで、そして、蓮の茎はあれ、穴開いてましょ。これでもって呼吸して隠れておったら、ほら追手が持って槍を刺したら、血が出たんで、これでやって、追手が安心がりますね。そこを武名田原って言うんですよ。それでね、不思議なことにですね、八重山調べてみると向こうしか蓮ないんですよ。あそこは僕の田圃なんですよ。この道まっすぐ下りるとね、そこにあの岩盤でもってほらあの見晴らしのいいカースニヤーというんですよね。大浜のね、あそこは聖地なんですよ。そこにね、あの赤蜂の足跡があるんです。これは、オヤケ赤蜂の足跡だといわれてるんです。これは、まあおそらくそういう武将を表すためにね、言ったんだと思うんだが。ここの足跡は右だな。そしてね、左はね、僕あれ見ないけどよ、宮良の東にあるそうです。この足跡もですね、僕等の子供の頃はかなりはっきりしておったけど、今もう風化してしまってるね。 それからね、オヤケ赤蜂の碑をこっちに建てましたね。これもね、当時私も部落の審議委員してましたからね、場所をどこにするかと思っていろいろね、話し合いが出たんですよ。そして、オヤケ赤蜂はですね、ここのこの地帯はね、大浜部落の風水(ふんしー)なんです。風水と言うんです。そして、あの崎原御嶽もこの地域です。そしてね、中学の庭にあるのが民(たみ)の井戸でね、民(みん)ヌカーというのがありますよ。また、公園の向こう側には、神の井戸の神(かみ)ヌカー残しておった。神(かん)ヌカーは、崎原御嶽は水を汲んで、神様にね、いろんなことやる井戸ですよ。そしてね、こういう所であるしね、不思議なことにね、大浜部落じゃあね、飲み水が出るのはここなんですよ。それでね、「オヤケ赤蜂は、ここでまた勢力を張った所だから、こっちが碑を建てるのに一番いい。」ということで、ここにしたんですよ。それからね、ちょっとおもしろいんですよね。これ碑文ですけどね。僕はあの頃まだあんまりそのもう調べてないから読んでなかった時代ですけどね、碑文はね、喜舎場先生に書かせてあるわけですけどね。もっと具体的な内容だった。そしたらね、長田大主の子孫から文句があったんです。「これじゃ、困るんじゃないか。」と。それで当たり障りのない直してある現在のような碑文になったそうです。
全体の記録時間数 0:27:16
物語の時間数 22:26
言語識別 共通語
音源の質
テープ番号
予備項目1

トップに戻る

TOP