
津波に残った人、誰々と、聞かれておりますか。明和の津波のね、起きたときの話なんですね。白保では、この時、誰もこうした、ああ、文化も進まないし、津波が来るとか、来ないとか、分からない。ええ、おったわけですよね。白保の多宇という方が、生き残ったという。この方はですね。大里から、ちょっと離れた、ヌーバレー、野原という、大きな、地域があるんですよね。だから、野原、大きな野の原、大きな野、大きな野の原。ヌーバレー。ここで、何か、部落と、部落から、村八分にされて、向こうに追い出された。意見が合わないと、この人が、部落から追い出されたそうです。部落から、村八分にされて、ええ、向こうに行って、田んぼを作って、生活しておったらしいです。そうすると、何かもう、聞いた話だけれども、おお、村八分にされてね、あんたは、もう、出ていきなさいと言うことで、向こうのヌーバーレー、野の原、野の原ですね、大分けしてください。ヌーバレーというところです。そうするとここに、人魚が、海のほうから、人魚が、そして、その、津波前ではですね、海が、かなり引いたそうですよ。かなりもう、全部、上から引いたもんですから、ここに、海が引いたのでですね、住民は、ああ、もう、魚が、大きいの詰まってる、〔聞き取り不能〕海に出たらしいんですよ。残りの人は分からないで。こういうことを、行く人は行き、人魚がですね、人魚の話し。人魚が出てきて、やがて津波が来ますよ。あんたは、高いところに乗りなさいと。教えてもらった。人魚がですね、こう、本当の話かなんか分からんけれども、人魚が、多宇という方に、言うたそうです。その人は、高いところに。みすみす、朝の八時半頃だったと思います。津波が行ったのは。そして、この人は、みるみる津波は、石垣島を襲った。言うことで、この人は、向こうのが地域が高いですから、向こうのほうに立ってくると、津波が寄せて、この人は、助かったと言うこと。また、もう一つ。宮良家の方はですね。朝早く、昔はその、当番制で、馬を守る義務があったそうですよ。逃げ牛が来て、作物を荒らす。後、牧場の牛が出てきて、いろんな被害を防ぐために、ええ、その時は、その、こういう役目を持っていたらしい。宮良という方は。野原を朝早く馬で乗って、駆けてくる。逃げて作物を荒らす牛はいないか。また、別の牛の群れが来て作物を荒らしていないか。回る人だったらしい。役目を持っておった。したら、丁度高いところで、津波が押しかけてきた。、この人は高いところに上って助かったそうです。この人は、運が良くて、高いところに上って、もう、ダーっと来て、津波が押し寄せてくるもんですから、この人は、助かった。また、内原と言うところに、内原。女の方だったそうですね。ええ、自分の兄さんが船大工で、ええ、石垣のほうにですね、船大工で、向こうで船を造っているところで働いているもんですからね。それに弁当を持っていったらしいんですよ。弁当もって。行く時に、宮良から降りた。途端に、津波が来て、この人は、すくっと上げられて、大きな梯梧の木ですね。梯梧の木があった、その梯梧の上のほうに、昔カカンてありますよね。カカンですか。これがいて、あれに引っかかって、助かったと言う。助かったというと、ずうっと流されてきて、梯梧の木の、このカカンね。これが引っかかってこれを捕まえて、助かったと言う。その三つは、話があります。それで生き残ったと。生き残ったと言うこと。人魚が上がってきたらしいんだよ。上がってきて、人魚が、やがて津波が来るぞ。高いところに生きなさいと言って、教えたと言うんですね。来れ人魚は、果たして、物の言うたかは分からんけれど。こういう伝説があるわけですね。オッパイもあるらしいですね。オッパイもあった。そして、これから上はですね、人間に似ているんですよ。下は、尾鰭があって、あるようなそれでね、何故この、川平、中心の所に、人魚のなに、石像があるか、そういったものがありますね。これから上は人間みたいにして、オッパイもできて、そして、尾鰭があって、こういうことがありますね。そうして、千人墓が、こう、そしてね、寄せ、高いところに来て、寄せられてきておったのが、死んでる人が、たくさんおるわけですよね。津波で来て、流されてきて、ずっと上のほうに、千人の遺体が入れられた、言うことで、今でもあります。千人墓と、言う、おお、高いところにね、ありますね、ここに、全部持っていって、埋めたという。本当は、現在、たくさんの人の骨がありますよ。たくさんの人の骨がありますね。これを、千人墓。千人墓と言ってね、名付けられています。これは津波のことですね。それで、ええ、また、いますけど、亀川という人も、生き残った一人だったんですね。生き残った一人。それで、誰も知らない、その後、何年もして、白骨したか、それは分からないが、その時に、波照間から、移民を、その時に、波照間を分村したわけ。明和の津波。明和の津波を、波照間から、ここに分村して、したと。そして、分村したところはですね、ここの地域じゃない。上の方。上の村と言ってね、上の村。ということで、上に、それでね。白保村ウイナカと、白保村ウイナカ。ウイナカといって、上にあったと言うことですね。白保村ウイナカという歌の節があるんですよね。それで、向こうで、生活を続けておったけれども、その時は波照間から、大浜と白保に、分村したらしいんですが、大浜にも一部、白保にも一部、分村したと。それで、白保に、私らの祖先は波照間から、分村した土地なんですよね。祖先は。波照間にも大泊がありますよ。波照間にも大泊。私ら、〔聞き取り不能〕波照間なんで。そして、向こうで生活していると、何ですかね。海と遠ければね、生活に非常に不便をきたしていた。その頃は、飲水も、向こうでは、溜まり池から汲んできて、飲んで、また、塩水も汲んできて、何ですか、塩変わりに、塩の変わりに、水を使ったとということから、ずっと白保の海から、水を汲んでいって、塩変わりに使うかどうかそれは分からないが、たぶんこうでしょうね。その後から、塩が出たんじゃないですかなあ。非常に不便だと言うことで、そして、白保村は、ここに何名かの人が来て、まあ、今の現在で、生き残った人がおったんですよね。下に。そして、ここで、おった。ええ、生活しているもんだから、恐いけど、ここで同じところで生活しようと、上から降りてきて、初めて白保村、真謝村、と言う名付けられた。本当は白保。歌には、白保村、真謝村、あるけれども、じゃなく、白保村と一括した。明和の津波の時に掘った、白保、真謝主の村だと。白保村。上から来たのは、真謝村。こっちのほうは真謝村だったと、上のほうは白保村、白保村、真謝村と、白保村と名目付けられたんで、波照間御嶽。一緒にですね、神様を分けてきて、建てられたかそれは分からない。そのために波照間御嶽となってるんですね。波照間御嶽。そして、残りの方は、サン御嶽は人の名前。真謝御嶽、多原御嶽、嘉手苅御嶽、この人も政治犯で、流されてきた人じゃないかな。確かに偉い人であるので、御嶽と言って、神様として祀っていると、〔聞き取り不能〕・・ウイナカ‥‥昔、白保が白保村と真謝村に分かれていた頃、白保村にあった地名。・真謝村‥‥現在の字白保のこと。・白保村‥‥現在の字白保のこと。
| レコード番号 | 47O330281 |
|---|---|
| CD番号 | 47O33C022 |
| 決定題名 | 明和の津波と白保(共通語) |
| 話者がつけた題名 | - |
| 話者名 | 大泊信建 |
| 話者名かな | おおどまりしんけん |
| 生年月日 | 19220108 |
| 性別 | 男 |
| 出身地 | 白保 |
| 記録日 | 19970309 |
| 記録者の所属組織 | 沖縄口承文芸学術調査団 |
| 元テープ番号 | T129 白保 A-03 |
| 元テープ管理者 | 沖縄伝承話資料センター |
| 分類 | 12 |
| 発句(ほっく) | - |
| 伝承事情 | - |
| 文字化資料 | - |
| キーワード | 明和の津波,デイゴの木 |
| 梗概(こうがい) | 津波に残った人、誰々と、聞かれておりますか。明和の津波のね、起きたときの話なんですね。白保では、この時、誰もこうした、ああ、文化も進まないし、津波が来るとか、来ないとか、分からない。ええ、おったわけですよね。白保の多宇という方が、生き残ったという。この方はですね。大里から、ちょっと離れた、ヌーバレー、野原という、大きな、地域があるんですよね。だから、野原、大きな野の原、大きな野、大きな野の原。ヌーバレー。ここで、何か、部落と、部落から、村八分にされて、向こうに追い出された。意見が合わないと、この人が、部落から追い出されたそうです。部落から、村八分にされて、ええ、向こうに行って、田んぼを作って、生活しておったらしいです。そうすると、何かもう、聞いた話だけれども、おお、村八分にされてね、あんたは、もう、出ていきなさいと言うことで、向こうのヌーバーレー、野の原、野の原ですね、大分けしてください。ヌーバレーというところです。そうするとここに、人魚が、海のほうから、人魚が、そして、その、津波前ではですね、海が、かなり引いたそうですよ。かなりもう、全部、上から引いたもんですから、ここに、海が引いたのでですね、住民は、ああ、もう、魚が、大きいの詰まってる、〔聞き取り不能〕海に出たらしいんですよ。残りの人は分からないで。こういうことを、行く人は行き、人魚がですね、人魚の話し。人魚が出てきて、やがて津波が来ますよ。あんたは、高いところに乗りなさいと。教えてもらった。人魚がですね、こう、本当の話かなんか分からんけれども、人魚が、多宇という方に、言うたそうです。その人は、高いところに。みすみす、朝の八時半頃だったと思います。津波が行ったのは。そして、この人は、みるみる津波は、石垣島を襲った。言うことで、この人は、向こうのが地域が高いですから、向こうのほうに立ってくると、津波が寄せて、この人は、助かったと言うこと。また、もう一つ。宮良家の方はですね。朝早く、昔はその、当番制で、馬を守る義務があったそうですよ。逃げ牛が来て、作物を荒らす。後、牧場の牛が出てきて、いろんな被害を防ぐために、ええ、その時は、その、こういう役目を持っていたらしい。宮良という方は。野原を朝早く馬で乗って、駆けてくる。逃げて作物を荒らす牛はいないか。また、別の牛の群れが来て作物を荒らしていないか。回る人だったらしい。役目を持っておった。したら、丁度高いところで、津波が押しかけてきた。、この人は高いところに上って助かったそうです。この人は、運が良くて、高いところに上って、もう、ダーっと来て、津波が押し寄せてくるもんですから、この人は、助かった。また、内原と言うところに、内原。女の方だったそうですね。ええ、自分の兄さんが船大工で、ええ、石垣のほうにですね、船大工で、向こうで船を造っているところで働いているもんですからね。それに弁当を持っていったらしいんですよ。弁当もって。行く時に、宮良から降りた。途端に、津波が来て、この人は、すくっと上げられて、大きな梯梧の木ですね。梯梧の木があった、その梯梧の上のほうに、昔カカンてありますよね。カカンですか。これがいて、あれに引っかかって、助かったと言う。助かったというと、ずうっと流されてきて、梯梧の木の、このカカンね。これが引っかかってこれを捕まえて、助かったと言う。その三つは、話があります。それで生き残ったと。生き残ったと言うこと。人魚が上がってきたらしいんだよ。上がってきて、人魚が、やがて津波が来るぞ。高いところに生きなさいと言って、教えたと言うんですね。来れ人魚は、果たして、物の言うたかは分からんけれど。こういう伝説があるわけですね。オッパイもあるらしいですね。オッパイもあった。そして、これから上はですね、人間に似ているんですよ。下は、尾鰭があって、あるようなそれでね、何故この、川平、中心の所に、人魚のなに、石像があるか、そういったものがありますね。これから上は人間みたいにして、オッパイもできて、そして、尾鰭があって、こういうことがありますね。そうして、千人墓が、こう、そしてね、寄せ、高いところに来て、寄せられてきておったのが、死んでる人が、たくさんおるわけですよね。津波で来て、流されてきて、ずっと上のほうに、千人の遺体が入れられた、言うことで、今でもあります。千人墓と、言う、おお、高いところにね、ありますね、ここに、全部持っていって、埋めたという。本当は、現在、たくさんの人の骨がありますよ。たくさんの人の骨がありますね。これを、千人墓。千人墓と言ってね、名付けられています。これは津波のことですね。それで、ええ、また、いますけど、亀川という人も、生き残った一人だったんですね。生き残った一人。それで、誰も知らない、その後、何年もして、白骨したか、それは分からないが、その時に、波照間から、移民を、その時に、波照間を分村したわけ。明和の津波。明和の津波を、波照間から、ここに分村して、したと。そして、分村したところはですね、ここの地域じゃない。上の方。上の村と言ってね、上の村。ということで、上に、それでね。白保村ウイナカと、白保村ウイナカ。ウイナカといって、上にあったと言うことですね。白保村ウイナカという歌の節があるんですよね。それで、向こうで、生活を続けておったけれども、その時は波照間から、大浜と白保に、分村したらしいんですが、大浜にも一部、白保にも一部、分村したと。それで、白保に、私らの祖先は波照間から、分村した土地なんですよね。祖先は。波照間にも大泊がありますよ。波照間にも大泊。私ら、〔聞き取り不能〕波照間なんで。そして、向こうで生活していると、何ですかね。海と遠ければね、生活に非常に不便をきたしていた。その頃は、飲水も、向こうでは、溜まり池から汲んできて、飲んで、また、塩水も汲んできて、何ですか、塩変わりに、塩の変わりに、水を使ったとということから、ずっと白保の海から、水を汲んでいって、塩変わりに使うかどうかそれは分からないが、たぶんこうでしょうね。その後から、塩が出たんじゃないですかなあ。非常に不便だと言うことで、そして、白保村は、ここに何名かの人が来て、まあ、今の現在で、生き残った人がおったんですよね。下に。そして、ここで、おった。ええ、生活しているもんだから、恐いけど、ここで同じところで生活しようと、上から降りてきて、初めて白保村、真謝村、と言う名付けられた。本当は白保。歌には、白保村、真謝村、あるけれども、じゃなく、白保村と一括した。明和の津波の時に掘った、白保、真謝主の村だと。白保村。上から来たのは、真謝村。こっちのほうは真謝村だったと、上のほうは白保村、白保村、真謝村と、白保村と名目付けられたんで、波照間御嶽。一緒にですね、神様を分けてきて、建てられたかそれは分からない。そのために波照間御嶽となってるんですね。波照間御嶽。そして、残りの方は、サン御嶽は人の名前。真謝御嶽、多原御嶽、嘉手苅御嶽、この人も政治犯で、流されてきた人じゃないかな。確かに偉い人であるので、御嶽と言って、神様として祀っていると、〔聞き取り不能〕・・ウイナカ‥‥昔、白保が白保村と真謝村に分かれていた頃、白保村にあった地名。・真謝村‥‥現在の字白保のこと。・白保村‥‥現在の字白保のこと。 |
| 全体の記録時間数 | 15:33 |
| 物語の時間数 | 15:15 |
| 言語識別 | 共通語 |
| 音源の質 | △ |
| テープ番号 | - |
| 予備項目1 | - |