白保の始まり(共通語)

概要

部落は、もう、昔は二つに分かれてあったわけさね。下がもう流されたもんだから、上の人が来て、下に降りてきているわけさ。上の村と言ってね、ヨナ森だね。現在もあります。森が。あれの、前の方だから。ヨナ森と言ってね、今の白保部落とか、真謝歌の歌にもあるよね。「ヨナ森ノブチ、イシクダシミリバイエヲモナオリテ」ってあるでしょ。向こうの森を、なってからの、向うに、部落の、いっぱいなってから、人が、やっぱり、こう言うことで。だから、波照間から来た人もね、白保も、それで流されたから、他人もいないから、上のヨナ森のところに部落もあるから、向うに一緒に生活して、こっちに連れてきて、で、波照間に来た人がね、十何名来て、十二名か。来たもんだから、白保の〔聞き取り不能〕波照間から来た人は、七名づつだから、四・七、二十八で、二十七名くらい来たね。で、各、真謝御嶽には七名波照間御願にも七名。多原御願にも七名。また、嘉手刈御願にも七名。こう、分担しておいたわけですね。上の部落に行って、遠くの人でも、話し合ってから、やろうって言うことで、また、上の部落にも行ってから、向うにも、ヨナ森の前にも部落があってから、向うでも、したら、僕はね、大泊とか、金嶺(かねみね)とか、宮良とか、ああいう部落がある。名前が、こっちのほうから来たもんだから、向うでも、僕なんか、波照までは隣近所だから、一緒に合わしてから、家を造って、生活をやろうと言うことで、上の部落で、やっているわけさ。波照間から来た人は兄弟、その代だからよ、その代で、向うへ行っても生活しようなと言うことで、やっているわけさ。で、今でも、現在、小さな屋敷がね、石垣で、ぽつんてあるわけさ。で、白保に、下に降りてきても、僕なんか、いつまでも、兄弟分してね、生活をやると。白保に来ても、現在、下に降りてきても、ま、自分なんか隣同士で、大泊と、前は金嶺、赤嶺。後ろは金嶺。ああゆう風にして、生活をやるということで、若いときは、生活しているわけさ。これが、白保の始まりなわけさ。これが、白保、上から来てから、昔あったけれど、その日に流されてから、もう一回やり直しで、降りて来たわけさ。これが白保の始まり。あれはもう、波照間から来た人が、波照間から来た人がね、僕なんかは、八重山に行くけど、向うは、蛇なんかがおるから、恐ろしい蛇が、噛まれたら大変だから、この、願いをしようと言うことで、波照間から来てから、船着き場があるんですよ。今の浜のところに大きな石があるでしょう。あの石の、こっちでハブの、願いをしようと言うことで、これから部落に入って、じゃ、こっちで生活しようと言うことで、やったわけです。この石自体がね、昭和何年だったかな。台風で、ひっくり返ったわけです。ひっくり返してみたところが、この石の下に、カタツムリの尻は、こう、巻いてるでしょ。ああいう巻かれてる石。やっぱり願い石だなと言うことで、あれから、もう、白保の人は、皆んな見てね、「やっぱり、願い石はこう言う様にできているんだなということで、当たっているんだ。」と言うことでやっているわけです。願い石。・・・宮良‥‥石垣市の字。宮良川河口東の台地にある。もとは海岸低地にあったが、一八七四(明治七)年、現在地に移る。村の創建は隣の白保村と同時(年代不明)と伝えられ、村や六御嶽の創設にまつわる西瓦・東瓦の伝説がある。一七七一年の明和の大津波では一二二一人中一〇五〇人(八六%)も遭難し、小浜島からの三二〇人を移住させて村を再建した。そののち小浜からアカマタ祭祀が伝えられ、今日まで継承されている。

再生時間:10:23

民話詳細DATA

レコード番号 47O330141
CD番号 47O33C010
決定題名 白保の始まり(共通語)
話者がつけた題名
話者名 大泊成吉
話者名かな おおどまりせいきち
生年月日 19231019
性別
出身地 白保
記録日 19960912
記録者の所属組織 沖縄口承文芸学術調査団
元テープ番号 T121 白保 A-04
元テープ管理者 沖縄伝承話資料センター
分類 20,30
発句(ほっく)
伝承事情
文字化資料
キーワード 明和の大津波,願い石,
梗概(こうがい) 部落は、もう、昔は二つに分かれてあったわけさね。下がもう流されたもんだから、上の人が来て、下に降りてきているわけさ。上の村と言ってね、ヨナ森だね。現在もあります。森が。あれの、前の方だから。ヨナ森と言ってね、今の白保部落とか、真謝歌の歌にもあるよね。「ヨナ森ノブチ、イシクダシミリバイエヲモナオリテ」ってあるでしょ。向こうの森を、なってからの、向うに、部落の、いっぱいなってから、人が、やっぱり、こう言うことで。だから、波照間から来た人もね、白保も、それで流されたから、他人もいないから、上のヨナ森のところに部落もあるから、向うに一緒に生活して、こっちに連れてきて、で、波照間に来た人がね、十何名来て、十二名か。来たもんだから、白保の〔聞き取り不能〕波照間から来た人は、七名づつだから、四・七、二十八で、二十七名くらい来たね。で、各、真謝御嶽には七名波照間御願にも七名。多原御願にも七名。また、嘉手刈御願にも七名。こう、分担しておいたわけですね。上の部落に行って、遠くの人でも、話し合ってから、やろうって言うことで、また、上の部落にも行ってから、向うにも、ヨナ森の前にも部落があってから、向うでも、したら、僕はね、大泊とか、金嶺(かねみね)とか、宮良とか、ああいう部落がある。名前が、こっちのほうから来たもんだから、向うでも、僕なんか、波照までは隣近所だから、一緒に合わしてから、家を造って、生活をやろうと言うことで、上の部落で、やっているわけさ。波照間から来た人は兄弟、その代だからよ、その代で、向うへ行っても生活しようなと言うことで、やっているわけさ。で、今でも、現在、小さな屋敷がね、石垣で、ぽつんてあるわけさ。で、白保に、下に降りてきても、僕なんか、いつまでも、兄弟分してね、生活をやると。白保に来ても、現在、下に降りてきても、ま、自分なんか隣同士で、大泊と、前は金嶺、赤嶺。後ろは金嶺。ああゆう風にして、生活をやるということで、若いときは、生活しているわけさ。これが、白保の始まりなわけさ。これが、白保、上から来てから、昔あったけれど、その日に流されてから、もう一回やり直しで、降りて来たわけさ。これが白保の始まり。あれはもう、波照間から来た人が、波照間から来た人がね、僕なんかは、八重山に行くけど、向うは、蛇なんかがおるから、恐ろしい蛇が、噛まれたら大変だから、この、願いをしようと言うことで、波照間から来てから、船着き場があるんですよ。今の浜のところに大きな石があるでしょう。あの石の、こっちでハブの、願いをしようと言うことで、これから部落に入って、じゃ、こっちで生活しようと言うことで、やったわけです。この石自体がね、昭和何年だったかな。台風で、ひっくり返ったわけです。ひっくり返してみたところが、この石の下に、カタツムリの尻は、こう、巻いてるでしょ。ああいう巻かれてる石。やっぱり願い石だなと言うことで、あれから、もう、白保の人は、皆んな見てね、「やっぱり、願い石はこう言う様にできているんだなということで、当たっているんだ。」と言うことでやっているわけです。願い石。・・・宮良‥‥石垣市の字。宮良川河口東の台地にある。もとは海岸低地にあったが、一八七四(明治七)年、現在地に移る。村の創建は隣の白保村と同時(年代不明)と伝えられ、村や六御嶽の創設にまつわる西瓦・東瓦の伝説がある。一七七一年の明和の大津波では一二二一人中一〇五〇人(八六%)も遭難し、小浜島からの三二〇人を移住させて村を再建した。そののち小浜からアカマタ祭祀が伝えられ、今日まで継承されている。
全体の記録時間数 10:27
物語の時間数 10:23
言語識別 共通語
音源の質
テープ番号
予備項目1

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