津波で生き残った人々の話(共通語)

概要

多宇のお爺さんが、大着者(もん)で、大着で部落と反対していた。今の、伊野田の方に出かけて、一人で住んで、生活していたわけです。部落と反対してるもんだから。ある時に、多宇の爺さんが、海の魚を取って食べて、網で取ったりして、食べて生活していたわけですね。向うに田んぼを作ったりしていて、田んぼ屋敷ということ、今まで残っています。あの時は、海で魚を取りながら、網を張りながら、網を引っかけたときに、今で言えば人魚ですね。人魚が上がったわけです。網と一緒に上がってから、あの時ね、人魚のお話だよ、女の人だから。「私を助けてくださいと。私を海に離してください。」と言うことで、したら、本当に、「この後大変なことが起こるよ。」と言って、「この話やりますから、海に離してください。」したら、聞かせて、話すんさ。「近いうちに、津波が来るから、部落皆んな安心して、この、津波が来たら山にも登ったりして、命を助けるようによ、やりなさい。」とか言って、「本当か。」「はい。」と言うことで、話したと同時に、二・三日かして、すぐに、津波が来たもんだから、多宇の祖父さんは、これ、覚えているわけさ。人魚から、言うたもんだから、海のこと話してくれて、「津波が来るよ。」と、潮引いたもんだから、おお、「津波だな。」と言って山に登ったわけ。今の伊野田の入り口に小さな川が流れているんさ。〔聞き取り不能〕と伊野田の間に。で、この川の上の山がちょっと高いもんだから、向うに登って行って、あの人も、命、助かったわさ。で、あの爺さんが、大着者(おおちゃくもん)だから、「よし、今度は違う部落に行って、白保の人間をやっつけてやる。」と言って、あの時に、こっちではマーミンガーという葉っぱがあってね、先のほうに葉っぱが広がってるの、枝が来て、両方に葉っぱが裂かれているのがあるわけですよ。マーミンガー。白保では、マーミンガーと言うんだけど、あれの先がまた尖ってるわけですよね。ヤシの木の最初、出るとき、尖っているでしょう。ああいうのがあるわけですよ。あれを切って。竿の木の先に、真っ直ぐした木にね、丸いってから、旗頭みたいにしてよ、こっちの下にはよ、自分のさる、何、ふんどしの長いのがあるわけですよ、昔は。このふんどしをね、丸いて、飛ばしながら、白保に、これ、持ってから来ているわけさ。「はい。白保の皆さん、命あるか。」って、「俺を馬鹿にしたんだけどね、逆にあんたなんか皆んな死んだんだろう。」ってね。「ヒサイハア。」と言ってね、「俺の勝ちだよ。」と言って、威張って歩いたらしいですよ。大着な言葉であるけどね。あれが白保の公民館に、今まで、公民館に、頭の模様に、尖った木で作って、あれ後から。白保部落はこれではね、多宇の爺さんが、持ってきた幟は、「これいつまでもやる。」と言うことで、これを形を木で作って、下から竜の櫛をこうしてね、先を尖らしてから、旗は三角の旗。日本の昔の旗はね、すごく長くて三角の旗だった。こうして、こう三角の旗だった。そうして、これに真ん中にね、いろんなのがあるのが日本の旗。昔の旗。これが日本の最初からの旗。これから下にこうして、ぎざぎざのがあって、旗のそばの方に、こう、巻いてから、こう書いてからよ、こう言う旗があるわけさ。これは何かというと、竜の背中が尖ってるでしょ。あの模様ね、日本の人は、この、旗にね、模様を付けてから「俺は強いよ。」と言うことで、〔聞き取り不能〕だから、これを立ててから、白保ではこの旗頭を先頭にして、部落の大通事の場合。今までの、また、畑とか田んぼとか行くときの道、日にちがあるわけですよ。これは、部落で、もう、何日と決めているから、この日は、この柱をね、部落が出たら、この、三叉路があるわけ。この三叉路に立てておくんです。この頭が立てた場合、幟が立ってたら、部落が全部、田んぼか畑か、田んぼか畑の掃除をね、道をこしらえて、公民館の前にあるもんだから、道が上等になった方が、米も置かれて、上等道歩けるからと言うことで、道をこしらえるために、日にちを決められているわけさ。今日は道をこしらえる日にちだよと言うことで、これを立てていくわけさ。これで自分は、いくら忙しくても、この日は、もう、皆んなと一緒に行かんといけんからさ。これが昔からの、始まりの、農作業の始まりはこれです。・白保部落‥石垣市の字。方言はスィサブ。石垣島の東南に位置し、東方に金湧崎(かなばがさき)があり、北西に轟川(とどろきがわ)が流れている。隣村の宮良の管轄内にあったが、1713年に波照間島から300 人余りを入れて地頭持村(独立村)となった。明和の大津波(1771)では1574人中28人が生き残った。その後、波照間から418 人を強制移住させて村を再建した。

再生時間:8:45

民話詳細DATA

レコード番号 47O330140
CD番号 47O33C010
決定題名 津波で生き残った人々の話(共通語)
話者がつけた題名
話者名 大泊成吉
話者名かな おおどまりせいきち
生年月日 19231019
性別
出身地 白保
記録日 19960912
記録者の所属組織 沖縄口承文芸学術調査団
元テープ番号 T121 白保 A-03
元テープ管理者 沖縄伝承話資料センター
分類 12
発句(ほっく)
伝承事情
文字化資料
キーワード タウのお爺さん,人魚,津波,ふんどしの旗
梗概(こうがい) 多宇のお爺さんが、大着者(もん)で、大着で部落と反対していた。今の、伊野田の方に出かけて、一人で住んで、生活していたわけです。部落と反対してるもんだから。ある時に、多宇の爺さんが、海の魚を取って食べて、網で取ったりして、食べて生活していたわけですね。向うに田んぼを作ったりしていて、田んぼ屋敷ということ、今まで残っています。あの時は、海で魚を取りながら、網を張りながら、網を引っかけたときに、今で言えば人魚ですね。人魚が上がったわけです。網と一緒に上がってから、あの時ね、人魚のお話だよ、女の人だから。「私を助けてくださいと。私を海に離してください。」と言うことで、したら、本当に、「この後大変なことが起こるよ。」と言って、「この話やりますから、海に離してください。」したら、聞かせて、話すんさ。「近いうちに、津波が来るから、部落皆んな安心して、この、津波が来たら山にも登ったりして、命を助けるようによ、やりなさい。」とか言って、「本当か。」「はい。」と言うことで、話したと同時に、二・三日かして、すぐに、津波が来たもんだから、多宇の祖父さんは、これ、覚えているわけさ。人魚から、言うたもんだから、海のこと話してくれて、「津波が来るよ。」と、潮引いたもんだから、おお、「津波だな。」と言って山に登ったわけ。今の伊野田の入り口に小さな川が流れているんさ。〔聞き取り不能〕と伊野田の間に。で、この川の上の山がちょっと高いもんだから、向うに登って行って、あの人も、命、助かったわさ。で、あの爺さんが、大着者(おおちゃくもん)だから、「よし、今度は違う部落に行って、白保の人間をやっつけてやる。」と言って、あの時に、こっちではマーミンガーという葉っぱがあってね、先のほうに葉っぱが広がってるの、枝が来て、両方に葉っぱが裂かれているのがあるわけですよ。マーミンガー。白保では、マーミンガーと言うんだけど、あれの先がまた尖ってるわけですよね。ヤシの木の最初、出るとき、尖っているでしょう。ああいうのがあるわけですよ。あれを切って。竿の木の先に、真っ直ぐした木にね、丸いってから、旗頭みたいにしてよ、こっちの下にはよ、自分のさる、何、ふんどしの長いのがあるわけですよ、昔は。このふんどしをね、丸いて、飛ばしながら、白保に、これ、持ってから来ているわけさ。「はい。白保の皆さん、命あるか。」って、「俺を馬鹿にしたんだけどね、逆にあんたなんか皆んな死んだんだろう。」ってね。「ヒサイハア。」と言ってね、「俺の勝ちだよ。」と言って、威張って歩いたらしいですよ。大着な言葉であるけどね。あれが白保の公民館に、今まで、公民館に、頭の模様に、尖った木で作って、あれ後から。白保部落はこれではね、多宇の爺さんが、持ってきた幟は、「これいつまでもやる。」と言うことで、これを形を木で作って、下から竜の櫛をこうしてね、先を尖らしてから、旗は三角の旗。日本の昔の旗はね、すごく長くて三角の旗だった。こうして、こう三角の旗だった。そうして、これに真ん中にね、いろんなのがあるのが日本の旗。昔の旗。これが日本の最初からの旗。これから下にこうして、ぎざぎざのがあって、旗のそばの方に、こう、巻いてから、こう書いてからよ、こう言う旗があるわけさ。これは何かというと、竜の背中が尖ってるでしょ。あの模様ね、日本の人は、この、旗にね、模様を付けてから「俺は強いよ。」と言うことで、〔聞き取り不能〕だから、これを立ててから、白保ではこの旗頭を先頭にして、部落の大通事の場合。今までの、また、畑とか田んぼとか行くときの道、日にちがあるわけですよ。これは、部落で、もう、何日と決めているから、この日は、この柱をね、部落が出たら、この、三叉路があるわけ。この三叉路に立てておくんです。この頭が立てた場合、幟が立ってたら、部落が全部、田んぼか畑か、田んぼか畑の掃除をね、道をこしらえて、公民館の前にあるもんだから、道が上等になった方が、米も置かれて、上等道歩けるからと言うことで、道をこしらえるために、日にちを決められているわけさ。今日は道をこしらえる日にちだよと言うことで、これを立てていくわけさ。これで自分は、いくら忙しくても、この日は、もう、皆んなと一緒に行かんといけんからさ。これが昔からの、始まりの、農作業の始まりはこれです。・白保部落‥石垣市の字。方言はスィサブ。石垣島の東南に位置し、東方に金湧崎(かなばがさき)があり、北西に轟川(とどろきがわ)が流れている。隣村の宮良の管轄内にあったが、1713年に波照間島から300 人余りを入れて地頭持村(独立村)となった。明和の大津波(1771)では1574人中28人が生き残った。その後、波照間から418 人を強制移住させて村を再建した。
全体の記録時間数 10:32
物語の時間数 8:45
言語識別 共通語
音源の質
テープ番号
予備項目1

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