
平得の先祖は以前今の農場試験場の東あたりで、ヘーギナーと言うあたりに住んでおられたらしい。そいで、戦前は、アナフエルスと言う蚊が媒介するマラリアという病気がありましたよね。それで、こっちでは居たら病気をするというわけで、どんどん、どんどん南に来たと。現在もそのあたりには、ソコウ御嶽(うたけ)というこれがあるんですよね。また、そこの東南の方に原名(はるなー)をパルス原(はる)っていう土地があるんですよね。そこに昔の降井泉(うりんがー)もあるわけですよね。その部落があったところには必ず竹が植えられておったわけ。なぜ竹が植えたかっていったら、この弓の矢を作るためにこの竹を植えたらしいですよ。今も実際竹があるでしょうね。こういうふうにしてどんどん南に移って宇里(おーりゃー)って所に住んでみても不自由感じたでしょうね。そこに住んだ人は、マエシー岳の東の裾の方に湧き水があったから、そこまで行かれて水を汲んできて生活しておられたらしいんですよ。このマエシー岳の東の泉は、そこに住んでいた人の子孫が現在でも、この水の感謝の気持ちで、この水のお礼っていって年に一回は拝みに行くらしんですよね。しかし、あまりそこの泉は遠すぎるからというわけで、向こうに井戸を掘って水を汲んでおられたと。それでも宇里(おーりゃー)って所は井戸は一つしかなかったからね、水利用の点で非常に苦心しておられたので、こままではここでも居りづらいと、宇里(おーりゃ)に非常に体力も良く腕力があるから武士(ぶ し)と言われる七人の兄弟がいて、その兄弟が、「まず第一にこの部落の後ろに井戸を掘ろう。」と長男は横からこう降りる井戸を掘ってきたんですよね。次男は沖縄語でウーマクーと言う乱暴者で、昔は尋(ひろ)で計算したから、「何尋(なんびろ)で水は出るはずだなあ。じゃ、兄さんが掘ってところと大体何尋(なんびろ)ぐらい堀ったら一緒になるぞ。」と上から真っ直ぐに井戸を掘ったそうです。現在、この井戸は宇里井戸(うりんがー)とも新本井戸(あらんとかー)と言うんです。昔の部落の役人はずっとそこを水元として水を汲んで生活しておられたらしいんですが、この弟の掘った井戸の口が大きくて、三メーターぐらいあって危険だから、部落の役員たちが、「これは山から木を切ってきてね、口を小さくして水と汲まんといかん。」というわけで、僕たちが青年時代に部落で材木を山から切ってきて、一メートル五十センチぐらいの井戸の口を作って、そこから水を汲んでいたんですよ。この井戸の水がまた美味しいんです。この水が湧いてきたので、上の方に住んでおられた方々にね、「水もうまいしこっちは住みよいから、こっちにいらっしゃい。オーリ、オーリ。」と言って、呼び寄せて現在の平得になったという話なんですよね。たから、そこを宇里(おーりゃ)と言うようになったんです。「オーリ」とは、沖縄ではメンソーレで、「いらっしゃい」という意味ですよね。そのころは、今もそうですけど米が食料の一番だったらしいね。だが、兄弟は多いけども、宇里(おーりゃ)には田んぼが少ないので、お米に困ってどうしてもこれは田んぼを作らんといかんというわけで、今、名蔵の後ろに嵩田(たけだ)っていう地名があるでしょ。兄弟は、「ここなら平地で田んぼが作れる。」と言って、そこに田んぼを作ることにしたんだが、そこは湿地で阿檀(あだん)がたくさん生えていたらしいですね。「これを倒さんとこれは田んぼには開けられない。」というわけで、七人の兄弟のうち一番力のある何男かが、お母さんに、「お母さん、今から田んぼ開けに行くから七人分の弁当作ってください。」と言ったので、母親は兄弟七人で行って田んぼ開けるだろうとお母さんは思って、その息子に七人分の弁当を持たせたらしいんですよ。母親は、兄弟かあるいは人夫を頼んで行くんだろうと思っていたら、一人で行くからお母さんは不思議に思って隠れて後を追ってみたら、その本人は、嵩田(たけだ)の田んぼのすぐできそうな所に行って、アダンがたくさん生えてるもんだから、一人でね、アダンを引き抜いてどんどん投げて、田んぼを開けておられたらしいですよ。だから、七人っていうのは嘘で、一人でこのアダンを引き抜いておる。その後で、七人分の弁当を一人で食べたらしい。そのとき作った田んぼが一つあったと。私だって私一人で昼食一食に二人分の二合も食べたことがありますが、歩いて帰るときつかったんですよね。だから、七人分を一人で食べたというのは、凄いことなんで、それはそのぐらいの体力で、すばらしい体格の人だったかもしれんと思うんです。また、もう一つは、平得の後ろの方にその人のお墓があって、その墓の前に川原石(かーらいし)と言う大きな丸い石があって、その後ろにもちょっと御嶽ふうになっているんですが、これは二百キロくらいあるから現在の若者が担ぎきれんくらい大きい石です。この人は、田んぼの帰りに若者の力試しするためにこの重い石を馬に乗って持ってこられたらしいですよね。だからみんな不思議がって、「こんな大きな石を昔の在来種の馬に乗って持ってこられたってことは嘘でしょ。」と言ってましたよ。昔の在来種の馬は、人をやっと乗せるくらいだから、本人がこの石を持って馬に乗って帰ってこられたのをみんな不思議がって、これは神の力じゃないかと言ってますよ。現在もこの石はお墓の前にあるんですよ。そこも年に一回御嶽みたいように子孫の人がお祭りをやってるわけですよね。
| レコード番号 | 47O341199 |
|---|---|
| CD番号 | 47O34C093 |
| 決定題名 | 平得の七人兄弟(共通語) |
| 話者がつけた題名 | - |
| 話者名 | 東白金廣一 |
| 話者名かな | ひがししろかねこういち |
| 生年月日 | 19170320 |
| 性別 | 男 |
| 出身地 | 沖縄県石垣市字平得 |
| 記録日 | 19970912 |
| 記録者の所属組織 | 沖縄口承文芸学術調査団 |
| 元テープ番号 | 石垣市平得 T72 A04 |
| 元テープ管理者 | 沖縄伝承話資料センター |
| 分類 | 20 |
| 発句(ほっく) | - |
| 伝承事情 | - |
| 文字化資料 | - |
| キーワード | 平得,ヘーギナー,アナフエルス,蚊,マラリア,南,ソコウ御嶽,原名,パルス原,降井泉,竹,弓の矢,宇里,マエシー岳,湧き水,拝み,腕力がある,武士,七人の兄弟,沖縄語,ウーマクー,乱暴者,真っ直ぐ,井戸,掘った,宇里井戸,新本井戸,オーリ,メンソーレ,田んぼ,嵩田,七人分の弁当,母親,アダン,お墓,川原石,二百キロ,力試し,馬,神の力,御嶽,子孫,お祭り |
| 梗概(こうがい) | 平得の先祖は以前今の農場試験場の東あたりで、ヘーギナーと言うあたりに住んでおられたらしい。そいで、戦前は、アナフエルスと言う蚊が媒介するマラリアという病気がありましたよね。それで、こっちでは居たら病気をするというわけで、どんどん、どんどん南に来たと。現在もそのあたりには、ソコウ御嶽(うたけ)というこれがあるんですよね。また、そこの東南の方に原名(はるなー)をパルス原(はる)っていう土地があるんですよね。そこに昔の降井泉(うりんがー)もあるわけですよね。その部落があったところには必ず竹が植えられておったわけ。なぜ竹が植えたかっていったら、この弓の矢を作るためにこの竹を植えたらしいですよ。今も実際竹があるでしょうね。こういうふうにしてどんどん南に移って宇里(おーりゃー)って所に住んでみても不自由感じたでしょうね。そこに住んだ人は、マエシー岳の東の裾の方に湧き水があったから、そこまで行かれて水を汲んできて生活しておられたらしいんですよ。このマエシー岳の東の泉は、そこに住んでいた人の子孫が現在でも、この水の感謝の気持ちで、この水のお礼っていって年に一回は拝みに行くらしんですよね。しかし、あまりそこの泉は遠すぎるからというわけで、向こうに井戸を掘って水を汲んでおられたと。それでも宇里(おーりゃー)って所は井戸は一つしかなかったからね、水利用の点で非常に苦心しておられたので、こままではここでも居りづらいと、宇里(おーりゃ)に非常に体力も良く腕力があるから武士(ぶ し)と言われる七人の兄弟がいて、その兄弟が、「まず第一にこの部落の後ろに井戸を掘ろう。」と長男は横からこう降りる井戸を掘ってきたんですよね。次男は沖縄語でウーマクーと言う乱暴者で、昔は尋(ひろ)で計算したから、「何尋(なんびろ)で水は出るはずだなあ。じゃ、兄さんが掘ってところと大体何尋(なんびろ)ぐらい堀ったら一緒になるぞ。」と上から真っ直ぐに井戸を掘ったそうです。現在、この井戸は宇里井戸(うりんがー)とも新本井戸(あらんとかー)と言うんです。昔の部落の役人はずっとそこを水元として水を汲んで生活しておられたらしいんですが、この弟の掘った井戸の口が大きくて、三メーターぐらいあって危険だから、部落の役員たちが、「これは山から木を切ってきてね、口を小さくして水と汲まんといかん。」というわけで、僕たちが青年時代に部落で材木を山から切ってきて、一メートル五十センチぐらいの井戸の口を作って、そこから水を汲んでいたんですよ。この井戸の水がまた美味しいんです。この水が湧いてきたので、上の方に住んでおられた方々にね、「水もうまいしこっちは住みよいから、こっちにいらっしゃい。オーリ、オーリ。」と言って、呼び寄せて現在の平得になったという話なんですよね。たから、そこを宇里(おーりゃ)と言うようになったんです。「オーリ」とは、沖縄ではメンソーレで、「いらっしゃい」という意味ですよね。そのころは、今もそうですけど米が食料の一番だったらしいね。だが、兄弟は多いけども、宇里(おーりゃ)には田んぼが少ないので、お米に困ってどうしてもこれは田んぼを作らんといかんというわけで、今、名蔵の後ろに嵩田(たけだ)っていう地名があるでしょ。兄弟は、「ここなら平地で田んぼが作れる。」と言って、そこに田んぼを作ることにしたんだが、そこは湿地で阿檀(あだん)がたくさん生えていたらしいですね。「これを倒さんとこれは田んぼには開けられない。」というわけで、七人の兄弟のうち一番力のある何男かが、お母さんに、「お母さん、今から田んぼ開けに行くから七人分の弁当作ってください。」と言ったので、母親は兄弟七人で行って田んぼ開けるだろうとお母さんは思って、その息子に七人分の弁当を持たせたらしいんですよ。母親は、兄弟かあるいは人夫を頼んで行くんだろうと思っていたら、一人で行くからお母さんは不思議に思って隠れて後を追ってみたら、その本人は、嵩田(たけだ)の田んぼのすぐできそうな所に行って、アダンがたくさん生えてるもんだから、一人でね、アダンを引き抜いてどんどん投げて、田んぼを開けておられたらしいですよ。だから、七人っていうのは嘘で、一人でこのアダンを引き抜いておる。その後で、七人分の弁当を一人で食べたらしい。そのとき作った田んぼが一つあったと。私だって私一人で昼食一食に二人分の二合も食べたことがありますが、歩いて帰るときつかったんですよね。だから、七人分を一人で食べたというのは、凄いことなんで、それはそのぐらいの体力で、すばらしい体格の人だったかもしれんと思うんです。また、もう一つは、平得の後ろの方にその人のお墓があって、その墓の前に川原石(かーらいし)と言う大きな丸い石があって、その後ろにもちょっと御嶽ふうになっているんですが、これは二百キロくらいあるから現在の若者が担ぎきれんくらい大きい石です。この人は、田んぼの帰りに若者の力試しするためにこの重い石を馬に乗って持ってこられたらしいですよね。だからみんな不思議がって、「こんな大きな石を昔の在来種の馬に乗って持ってこられたってことは嘘でしょ。」と言ってましたよ。昔の在来種の馬は、人をやっと乗せるくらいだから、本人がこの石を持って馬に乗って帰ってこられたのをみんな不思議がって、これは神の力じゃないかと言ってますよ。現在もこの石はお墓の前にあるんですよ。そこも年に一回御嶽みたいように子孫の人がお祭りをやってるわけですよね。 |
| 全体の記録時間数 | 11:58 |
| 物語の時間数 | 11:50 |
| 言語識別 | 共通語 |
| 音源の質 | ○ |
| テープ番号 | - |
| 予備項目1 | - |