オヤケ赤蜂(共通語)

概要

オヤケ赤蜂の乱は、1470年代の頃に琉球王府が島民の信仰を弾圧したから始まったというのが従来の説であるが、どうもおかしいところがある。琉球王府に八重山が所属したのは1390年である。そのとき与那国は入っていない。しかし、八重山には中山政府の役所も、役人もおかれていなかった。村々から自主的にお米を集めて、琉球王府に納めていたが、この時代は形式的に支配されていただけだった。こういう時代が赤蜂の時代まで続いていた。この時代は宮古の支配下にあるような時代だった。オヤケ赤蜂はもともと波照間生まれ。海岸で捨てられていた子供で、外国人の子供じゃないかと言う説もある。八重山で仲宗根豊見親と中山の側に立った長田大主も波照間出身。赤蜂も波照間で育ったから、小さいころは赤蜂と長田大主は、共に小さいころ遊んだ間柄らしい。そのうちに、長田大主は、宮古の人の子供だと言うことが分かり、八歳かのころに親元を離れて、石垣島に渡って石垣島の教育を受け、だんだんいい地位に登って行った。それに対してオヤケ赤蜂も石垣島に行こうと彼は青年時代に、石垣島に渡った。赤蜂は頭脳も明晰だし、体力もあったので、拠点とした大浜の酋長という格好になり、そこで一つの勢力をだんだん扶植していった。そのころ、八重山からは中山に対して毎年奉納物を貢ぎ物を持って行くということあるし、その上にね、宮古の豊見親(とぅいみやー)からいろいろな注文があった。最初は、衣類を木材と交換するとかの物々交換の交易だったのに、首里や宮古がだんだん勢力を増大するにしたがって「持ってこい。」と言う八重山への命令に変わっていった。八重山ではあくまでも武力の抵抗しないで平和にしようと思っているから、「代償物がなくても、あげないとどうも機嫌が悪くなって困るから、仕方がないから持って行ってあげよう。」と言うことで、首里や宮古の言うことを聞いているのが続いた。赤蜂は、それを否定した。「そんな馬鹿なことがあるか。」と否定して非常に大きなことを考えた。「まず、宮古を討ってしかる後に中山討つ。」と言う非常に恐ろしい考えを持った。そこで宮古から仲宗根豊見親が、赤蜂に「もう少しおとなしくやった方が島のために賢明じゃないか。」と諌めたが、赤蜂は言うことを聞かなかった。仲宗根豊見親は中山に報告した。そのころ赤蜂は川平の仲間満慶を味方にしようと企てたが失敗に終り、ケーラ崎の落とし穴に追い詰めて殺した。今そこには、「仲間満慶山終焉之碑」が立っている。首里ではいよいよ赤蜂を討伐することになったが、あのころは尚真王の時代で、武器は全部取り上げられていた。琉球王府は約三〇〇〇人の兵士を八隻か十隻ぐらいの船に乗せ、先に宮古に寄って、首長の仲宗根豊見親に道案内をさせ、次に多良間に寄って、多良間の土原宇増呂に道案内をさせた。あのころ多良間は八重山の所属であったが、このときを機会に宮古の所属にかわった。その船が石垣島のこの海岸に停泊すると、伝説によれば赤蜂は、夕方に水甕を海岸に並べ、それに蒲葵笠を被せたり、何か武器を持たせた格好をさせて、敵を脅迫した。そして、女(いなぐ)は戦の先鋒(さきばい)と言うことで、御嶽(おたけ)の女の司が白い衣装などを着て、敵を呪殺する御願などをした。王府側からは久米島の上位の神職の女の人が敵を呪詛(じゅそ)した。そういうようなことがあって、今の石垣島の石垣、新川が戦場になると言う状態になったが、赤蜂の計略で水甕が敵のように見えたから、そんなに多くは上陸できないでいた。そこで、久米島の神人が一計を案じて、筏(いかだ)を造り、上に燃えるものをいっぱい乗せて火をつけて潮に流した。そうした陽動作戦で、そのすきに首里、宮古の軍は上陸し、赤蜂は追い詰められて、結局、於茂登山の近くで捕らえられて殺された。長田大主は自分の娘を赤蜂の妻にやっておけば、まあ一時はしのげるだろうと次女の姑乙姥と赤蜂を政略結婚させたのだが、姑乙姥は赤蜂の側にくっついて、赤蜂と最後まで生死を共にした。長田大主には、もう一人長女の真乙姥(ま いつば)かいて、その真乙姥は官軍は味方していたから、新川の真乙姥御嶽に祀られた。兄に逆らって殺された姑乙姥の骨は、その真乙姥御嶽の境内で、人が踏めるようなことろに埋めておいた。その姑乙姥の墓はツダミ墓と言う。ツダミとはカタツムリの墓と言う意味で非常に卑しめた呼び方をしていた。要するに、オヤケ赤蜂反乱事件で反乱側に立った者は徹底的に掃討した。昔は、反逆者がいた場合には、一族を残すと恨みを将来に残す恐れがあると言うことで、上四代、下四代、八世皆殺しにした。上は父、祖父、曾祖父、またその上までの四代。下四代は孫、曾孫、曾々孫(やしゃご)、その下の子孫まで関係者の兄弟、夫婦、子孫は皆殺しにした。オヤケ赤蜂の場合は八世皆殺しは、オヤケ赤蜂が生まれたのは波照間だから、波照間島まで行って調査したと言われている。

再生時間:21:56

民話詳細DATA

レコード番号 47O340809
CD番号 47O34C062
決定題名 オヤケ赤蜂(共通語)
話者がつけた題名
話者名 牧野清
話者名かな まきのきよし
生年月日 19100519
性別
出身地 沖縄県石垣市字登野城
記録日 19970913
記録者の所属組織 沖縄口承文芸学術調査団
元テープ番号 石垣市登野城 T07 A05
元テープ管理者 沖縄伝承話資料センター
分類 20
発句(ほっく)
伝承事情
文字化資料
キーワード オヤケ赤蜂,1470年代,琉球王府,信仰を弾圧した,八重山,所属,1390年,中山政府,宮古の支配下,波照間,仲宗根豊見親と,長田大主,石垣島,頭脳明晰,大浜,奉納物,命令,仲間満慶,ケーラ崎,落とし穴,討伐,尚真王,約三〇〇〇人の兵士,多良間,土原宇増呂,水甕,蒲葵笠,女,いなぐ,さきばい,御嶽,司,久米島,呪詛,筏,陽動作戦,於茂登山,姑乙姥,政略結婚,真乙姥,新川,真乙姥御嶽,ツダミ墓,カタツムリ,掃討,反逆者,八世皆殺し
梗概(こうがい) オヤケ赤蜂の乱は、1470年代の頃に琉球王府が島民の信仰を弾圧したから始まったというのが従来の説であるが、どうもおかしいところがある。琉球王府に八重山が所属したのは1390年である。そのとき与那国は入っていない。しかし、八重山には中山政府の役所も、役人もおかれていなかった。村々から自主的にお米を集めて、琉球王府に納めていたが、この時代は形式的に支配されていただけだった。こういう時代が赤蜂の時代まで続いていた。この時代は宮古の支配下にあるような時代だった。オヤケ赤蜂はもともと波照間生まれ。海岸で捨てられていた子供で、外国人の子供じゃないかと言う説もある。八重山で仲宗根豊見親と中山の側に立った長田大主も波照間出身。赤蜂も波照間で育ったから、小さいころは赤蜂と長田大主は、共に小さいころ遊んだ間柄らしい。そのうちに、長田大主は、宮古の人の子供だと言うことが分かり、八歳かのころに親元を離れて、石垣島に渡って石垣島の教育を受け、だんだんいい地位に登って行った。それに対してオヤケ赤蜂も石垣島に行こうと彼は青年時代に、石垣島に渡った。赤蜂は頭脳も明晰だし、体力もあったので、拠点とした大浜の酋長という格好になり、そこで一つの勢力をだんだん扶植していった。そのころ、八重山からは中山に対して毎年奉納物を貢ぎ物を持って行くということあるし、その上にね、宮古の豊見親(とぅいみやー)からいろいろな注文があった。最初は、衣類を木材と交換するとかの物々交換の交易だったのに、首里や宮古がだんだん勢力を増大するにしたがって「持ってこい。」と言う八重山への命令に変わっていった。八重山ではあくまでも武力の抵抗しないで平和にしようと思っているから、「代償物がなくても、あげないとどうも機嫌が悪くなって困るから、仕方がないから持って行ってあげよう。」と言うことで、首里や宮古の言うことを聞いているのが続いた。赤蜂は、それを否定した。「そんな馬鹿なことがあるか。」と否定して非常に大きなことを考えた。「まず、宮古を討ってしかる後に中山討つ。」と言う非常に恐ろしい考えを持った。そこで宮古から仲宗根豊見親が、赤蜂に「もう少しおとなしくやった方が島のために賢明じゃないか。」と諌めたが、赤蜂は言うことを聞かなかった。仲宗根豊見親は中山に報告した。そのころ赤蜂は川平の仲間満慶を味方にしようと企てたが失敗に終り、ケーラ崎の落とし穴に追い詰めて殺した。今そこには、「仲間満慶山終焉之碑」が立っている。首里ではいよいよ赤蜂を討伐することになったが、あのころは尚真王の時代で、武器は全部取り上げられていた。琉球王府は約三〇〇〇人の兵士を八隻か十隻ぐらいの船に乗せ、先に宮古に寄って、首長の仲宗根豊見親に道案内をさせ、次に多良間に寄って、多良間の土原宇増呂に道案内をさせた。あのころ多良間は八重山の所属であったが、このときを機会に宮古の所属にかわった。その船が石垣島のこの海岸に停泊すると、伝説によれば赤蜂は、夕方に水甕を海岸に並べ、それに蒲葵笠を被せたり、何か武器を持たせた格好をさせて、敵を脅迫した。そして、女(いなぐ)は戦の先鋒(さきばい)と言うことで、御嶽(おたけ)の女の司が白い衣装などを着て、敵を呪殺する御願などをした。王府側からは久米島の上位の神職の女の人が敵を呪詛(じゅそ)した。そういうようなことがあって、今の石垣島の石垣、新川が戦場になると言う状態になったが、赤蜂の計略で水甕が敵のように見えたから、そんなに多くは上陸できないでいた。そこで、久米島の神人が一計を案じて、筏(いかだ)を造り、上に燃えるものをいっぱい乗せて火をつけて潮に流した。そうした陽動作戦で、そのすきに首里、宮古の軍は上陸し、赤蜂は追い詰められて、結局、於茂登山の近くで捕らえられて殺された。長田大主は自分の娘を赤蜂の妻にやっておけば、まあ一時はしのげるだろうと次女の姑乙姥と赤蜂を政略結婚させたのだが、姑乙姥は赤蜂の側にくっついて、赤蜂と最後まで生死を共にした。長田大主には、もう一人長女の真乙姥(ま いつば)かいて、その真乙姥は官軍は味方していたから、新川の真乙姥御嶽に祀られた。兄に逆らって殺された姑乙姥の骨は、その真乙姥御嶽の境内で、人が踏めるようなことろに埋めておいた。その姑乙姥の墓はツダミ墓と言う。ツダミとはカタツムリの墓と言う意味で非常に卑しめた呼び方をしていた。要するに、オヤケ赤蜂反乱事件で反乱側に立った者は徹底的に掃討した。昔は、反逆者がいた場合には、一族を残すと恨みを将来に残す恐れがあると言うことで、上四代、下四代、八世皆殺しにした。上は父、祖父、曾祖父、またその上までの四代。下四代は孫、曾孫、曾々孫(やしゃご)、その下の子孫まで関係者の兄弟、夫婦、子孫は皆殺しにした。オヤケ赤蜂の場合は八世皆殺しは、オヤケ赤蜂が生まれたのは波照間だから、波照間島まで行って調査したと言われている。
全体の記録時間数 22:15
物語の時間数 21:56
言語識別 共通語
音源の質
テープ番号
予備項目1

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