サンアイイソバ(共通語)

概要

サンアイイソバがいつ生まれたのかは分からないし、何十歳に亡くなったかそれも分からん。サンアイイソバは、僕の一七代前だから、僕から一代を三〇年で計算をすると大体五三〇年ぐらいになるらしい。これは、僕が言ったんじゃなくて、琉大の人が来てからに、「何代目ですか。」って言うから、私が何代になると言ったら、「じゃあ一代を三〇年で計算すると五百何十年前だ。」と言っておって、それは倭寇からサンアイイソバがもらった刀は、天正(てんせい)五年(一五七七年)にできた刀だからよ、ちょうどその計算と合うわけさ。サンアイイソバは女でも身の丈が六尺以上とか、あるいはまた胸囲がね、一メーター七〇センチぐらいあって、天蛇鼻(てんだばな)のサンアイイソバ石碑が立ててある後ろの岩の割れ目の間の道は、島やサンアイ部落を守るためには向こうから廻ったら遅いから真っ直ぐ来たほうがいいってことで、木で作った梃で開けてこしらえたと言われてるわけさ。あの岩の割れ目の道でも、あまり巾がある身体だから、道を真っ直ぐは歩かないで横になって歩いたとかいう噂はあるさね。今もその道あるわけよ。サンアイイソバが生まれた島仲部落はね、今の天蛇鼻(てんだばな)の下の場所ではなく、旧島仲部落は天蛇鼻(てんだばな)の上にあって、昔は、道で区切られた前の方がナウンニ村で、後ろはサンアイ村って言ってね、二つの村に分かれていた。その二つの村の屋敷があった部落は、一町歩ぐらいあるんじゃないですか。サンアイイソバは、そのサンアイ村で生まれたから、サンアイ村のイソバという意味で、サンアイイソバと呼ばれています。そのサンアイ村は、ここまではどこの家ということではなくてね、家と家との間隔が相当広くぽこん、ぽこんと家があって、今数えてみると大体二〇軒ぐらいの家があったようです。私の家はそのサンアイイソバの子孫だが、うちなんかの先祖は、元々首里系だといわれてるんだけど、また、友利という家とも関係があると言われていて、その友利という家は、宮古系統だといわれている。だから、サンアイイソバの系統は、あっちこっちもうどっかで入れ混ざっているんじゃないですか。ともかくそのサンアイイソバのころが与那国の勢力一番強かったんじゃないかと思います。そのサンアイイソバの時代は、ただ山の中にあるもの取ってきて食べる、海から行ってきて食べるという今みたいに作物を作って食べること知らない時代と言う人もいるんだけれども、サンアイイソバの時代は、その後の時代になってるから、これはそうじゃないと僕は否定している。その一方ではね、サンアイイソバが税金のために今もここにある久部良割(く ぶ
らばり)では、妊婦を跳ばして跳び越えたのは助けて、落ちたら死なして人間を制限したとか、今も島仲にある人升田(とぅんぐだ)に作って全員あそこに集めて、これに入りきれない人を全部切り捨てて殺したとかいうことが、一部に伝えられてるんだが、これは誤りで、サンアイイソバは、人間をなんとかして助けなくちゃならないという人だから、島の人を全部集めて、「人を殺さんでも米を作れば食べられるんだから、米を作ろう。」って言って、人升田(とぅんぐだ)と久部良割(く ぶ らばり)やっていたことを止めさせ、島の人を指導して田圃なんか作ったっという。そのころサンアイイソバが作らせた田圃はね、サンバルっていってね、飛行場のずうっと西側の高台の北と南と両方とサンニヌ台に行くところにも全部田圃の跡があるから、三か所田圃作ったところあったんだね。ダティグって歌にもあるんだがね、今もサンアイイソバの住んだところは見張り場っと言って、イソバが監視所にしていたところだが、その下に行く途中の左右にね、今もうガヤダキになってるんだけど、そこに小さい田圃の跡がたくさんあるさ。大体この島では、あんなに高い天蛇鼻でも水が出るんですからね、この島の田圃はあまり水に不自由することはなかったみたいですね。ただし、もう一か所天水田(てんすいだ)と言うところは、名前の通りほとんど雨水でやっていた田圃もありますよ。そのころは牛、馬がいないので、サンアイイソバはあそこの田圃を人間に手を繋がせて踏んで作らせたということですね。そのときに作ったドゥンタっていう歌があるよね。もっとも、そのときの米の種をどこから米持ってきたかということは分からないからね、疑問が出てくるわけさね。そのサンアイイソバはサンアイ村に住んでいたから、今も九月九日には向こうに行くんだけど、そのころは自分の四人の男の兄弟をンダン按司、ウラノ按司、ダンノ按司、ティバル按司って言って、帆安(ほあん)は与那国ではフザン、ンダンともいうが、そこにいたのはンダン按司(あでぃ)というて言うてるな。また、祖納部落の東側の方で東崎(あがりざき)に近い今測候所のちょっと東に大きい平たい石があるトグル浜のウラノにはウラノ按司が居って、比川付近の南牧場の隣にあるちょっと大きい石のあたりはよ、ティバル按司の屋敷だったといわれておる。またこの久部良のすぐそこにはダンヌ按司(あでぃ)の屋敷があったが、今は道になってしまって全部破壊されてる。そのダンヌ按司(あでぃ)の屋敷以外の按司の屋敷跡は、今も囲いされて残っている。こうして四人の兄弟を四か所に配置して島を統一し、島を守っていたというように伝わっておる。あるとき、今の天蛇鼻のサンアイイソバの碑が建ってる真下にちょうど三角みたいになってよ、大きい石があるさ。これは上から崩れて転んできたから、サンアイイソバは、「この大きい石が下に行ったら、下にある西部落、現在の島仲部落は全滅するんだ。」ということで、「止まれい。」と言って手で押して止めたという伝説もあるさね。これは小さい石だったら考えられるが、相当大きい石だのに人間がね、本当にあんな事ができるかって僕はこれをあまり信じてないから、あまり言うてないよ。そのサンアイイソバの時代には、与那国の言葉でね、異国人とか、大国というのは大きい国という意味なんだが、結局台湾あたりからじゃない。そういった国から来た海賊が与那国に攻めて来てね、米とか鶏とかを取って、いろんなもんなんかをさらって行くから困っていてね、サンアイイソバは、自分が住んでいるサンアイ村の屋敷からンダン部落なんかを眺めていて、その海賊が攻めてきたらね、サンアイイソバは自分が真ん中におって四人の按司を指揮してやっつけ征伐したということになってるさね。与那国祭りの願い事にもそのことから出るんですよ。また何か知らせがあった場合や異常のあったところに走って行って、異常のないときにはまたここの道を帰ってきたそうだ。ときには、サンアイイソバは倭寇(わこう)という今いう海賊がやって来たときこの人が一人で追っ払ったということで、これを記念してこの島では与那国祭っていう二五日間の祭っていうのがあるぐらい与那国で尊敬されておる。これもこの久部良祭りから始まるんだよ。そのときは、ここの西側の久部良割(く ぶ らばり)っていう所があるんだが、そこの所で久部良割(く ぶ らばり)のアダンやクバの木を引っこ抜いてその倭寇の船に向かって、引き抜いては投げ投げして埋めてしまったから、倭寇はようやく浮き上がって助けを却って求めてきたから、助けてやったらそのときに倭寇の大将から、「あんたみたいに強い人にはこれが必要だろう。」と言って送られてきたのが、今ある日本刀だと伝えられておる。その日本刀が遺品として残っているが、この日本刀はその刀は長さが七二、五センチで幅も大きく、柄に書かれてる天正(てんしょう)五年に作られた日本刀なんですよ。サンアイイソバの遺品は全部向こうの拝所に祀ってある。また、これはカニマチの話と重複するんだけどね、宮古から悪者が来て、比川の東側にある新川に船置いて祖納部落を焼き討ちしようとしたところ、自分の兄弟の按司をフザンに置いてあって、そこから焼き討ちされたぞという連絡がきて、サンアイイソバがやって来たから、もう驚いて逃げたらサンアイイソバが一遍は捕まえて、その大の男の両足を掴まえ逆さまにして、「綺麗に引き裂こうか、どうするか。するか、しないか。」と言ったら、「もうしない。」って言うから許して放してやったらまた島仲から下に下りて行って再度火をつけたもんだから、また、捕まえるって追いかけけど、あまり相手が速くて追っかけられないから、田原の後ろ付近でそばにあった石を蹴っ飛ばしたらね、これが飛んでいって相手がの背中に当たって倒したというという話もあるんです。その後からはね、サンアイイソバが生きている間、沖縄や宮古から攻めに来たとは聞いてない。サンアイイソバには、いろんな話があって、宮古の偉い人が与那国を統治しようとしてサンアイイソバを嫁にするって宮古に連れていったという話もあるが、これは宮古の芝居師が作った話なんだよね。サンアイイソバの系統の本家はうちで、墓のこの島にあるから、そんなことは実際あった話でも何でもないよ。天蛇鼻から後ろに行ったらね、そこがサンアイイソバの屋敷跡でもあり監視所みたいになっておったといってんだがね、今も旧九月九日に必ずサンアイイソバの子孫になる親族全部がそこに集まるんですよ。またもう一つは、フザンの祭のときに、部落でやるんだが航海の安全を祈る場所があるわけよ。そのときは親族の必ず私(うち)なんかの家が行ってるんだがね、昔はそこで自分の兄弟が唐や宮古に行く航海の安全を祈ったということです。南への航海は全然聞いてないですね。そのとき何をしに兄弟を行かせたかも分からないけど、兄弟が無事に帰ってくるようにと祈ったと言われておる。一六日祭にはサンアイイソバの墓に今でも親戚が集まって全部行くよ。

再生時間:34:25:00

民話詳細DATA

レコード番号 47O341767
CD番号 47O34C132
決定題名 サンアイイソバ(共通語)
話者がつけた題名
話者名 島袋春充
話者名かな しまぶくろはるみつ
生年月日 19210519
性別
出身地 沖縄県八重山郡与那国町島仲
記録日 19960917
記録者の所属組織 沖縄口承文芸学術調査団
元テープ番号 与那国町久部良 T07 A22-B01
元テープ管理者 沖縄伝承話資料センター
分類 伝説
発句(ほっく)
伝承事情
文字化資料
キーワード サンアイイソバ,倭寇,天正五年,刀,天蛇鼻,島仲部落,ナウンニ村,サンアイ村,久部良割,妊婦,人升田,サンバル,サンニヌ台,ダティグ,見張り場,ガヤダキ,天水田,ドゥンタ,ンダン按司,ウラノ按司,ダンノ按司,ティバル按司,帆安,フザン,ンダンと,東崎,トグル浜,比川,伝説,異国人,大国,海賊,与那国祭り,久部良祭り,カニマチ
梗概(こうがい) サンアイイソバがいつ生まれたのかは分からないし、何十歳に亡くなったかそれも分からん。サンアイイソバは、僕の一七代前だから、僕から一代を三〇年で計算をすると大体五三〇年ぐらいになるらしい。これは、僕が言ったんじゃなくて、琉大の人が来てからに、「何代目ですか。」って言うから、私が何代になると言ったら、「じゃあ一代を三〇年で計算すると五百何十年前だ。」と言っておって、それは倭寇からサンアイイソバがもらった刀は、天正(てんせい)五年(一五七七年)にできた刀だからよ、ちょうどその計算と合うわけさ。サンアイイソバは女でも身の丈が六尺以上とか、あるいはまた胸囲がね、一メーター七〇センチぐらいあって、天蛇鼻(てんだばな)のサンアイイソバ石碑が立ててある後ろの岩の割れ目の間の道は、島やサンアイ部落を守るためには向こうから廻ったら遅いから真っ直ぐ来たほうがいいってことで、木で作った梃で開けてこしらえたと言われてるわけさ。あの岩の割れ目の道でも、あまり巾がある身体だから、道を真っ直ぐは歩かないで横になって歩いたとかいう噂はあるさね。今もその道あるわけよ。サンアイイソバが生まれた島仲部落はね、今の天蛇鼻(てんだばな)の下の場所ではなく、旧島仲部落は天蛇鼻(てんだばな)の上にあって、昔は、道で区切られた前の方がナウンニ村で、後ろはサンアイ村って言ってね、二つの村に分かれていた。その二つの村の屋敷があった部落は、一町歩ぐらいあるんじゃないですか。サンアイイソバは、そのサンアイ村で生まれたから、サンアイ村のイソバという意味で、サンアイイソバと呼ばれています。そのサンアイ村は、ここまではどこの家ということではなくてね、家と家との間隔が相当広くぽこん、ぽこんと家があって、今数えてみると大体二〇軒ぐらいの家があったようです。私の家はそのサンアイイソバの子孫だが、うちなんかの先祖は、元々首里系だといわれてるんだけど、また、友利という家とも関係があると言われていて、その友利という家は、宮古系統だといわれている。だから、サンアイイソバの系統は、あっちこっちもうどっかで入れ混ざっているんじゃないですか。ともかくそのサンアイイソバのころが与那国の勢力一番強かったんじゃないかと思います。そのサンアイイソバの時代は、ただ山の中にあるもの取ってきて食べる、海から行ってきて食べるという今みたいに作物を作って食べること知らない時代と言う人もいるんだけれども、サンアイイソバの時代は、その後の時代になってるから、これはそうじゃないと僕は否定している。その一方ではね、サンアイイソバが税金のために今もここにある久部良割(く ぶ らばり)では、妊婦を跳ばして跳び越えたのは助けて、落ちたら死なして人間を制限したとか、今も島仲にある人升田(とぅんぐだ)に作って全員あそこに集めて、これに入りきれない人を全部切り捨てて殺したとかいうことが、一部に伝えられてるんだが、これは誤りで、サンアイイソバは、人間をなんとかして助けなくちゃならないという人だから、島の人を全部集めて、「人を殺さんでも米を作れば食べられるんだから、米を作ろう。」って言って、人升田(とぅんぐだ)と久部良割(く ぶ らばり)やっていたことを止めさせ、島の人を指導して田圃なんか作ったっという。そのころサンアイイソバが作らせた田圃はね、サンバルっていってね、飛行場のずうっと西側の高台の北と南と両方とサンニヌ台に行くところにも全部田圃の跡があるから、三か所田圃作ったところあったんだね。ダティグって歌にもあるんだがね、今もサンアイイソバの住んだところは見張り場っと言って、イソバが監視所にしていたところだが、その下に行く途中の左右にね、今もうガヤダキになってるんだけど、そこに小さい田圃の跡がたくさんあるさ。大体この島では、あんなに高い天蛇鼻でも水が出るんですからね、この島の田圃はあまり水に不自由することはなかったみたいですね。ただし、もう一か所天水田(てんすいだ)と言うところは、名前の通りほとんど雨水でやっていた田圃もありますよ。そのころは牛、馬がいないので、サンアイイソバはあそこの田圃を人間に手を繋がせて踏んで作らせたということですね。そのときに作ったドゥンタっていう歌があるよね。もっとも、そのときの米の種をどこから米持ってきたかということは分からないからね、疑問が出てくるわけさね。そのサンアイイソバはサンアイ村に住んでいたから、今も九月九日には向こうに行くんだけど、そのころは自分の四人の男の兄弟をンダン按司、ウラノ按司、ダンノ按司、ティバル按司って言って、帆安(ほあん)は与那国ではフザン、ンダンともいうが、そこにいたのはンダン按司(あでぃ)というて言うてるな。また、祖納部落の東側の方で東崎(あがりざき)に近い今測候所のちょっと東に大きい平たい石があるトグル浜のウラノにはウラノ按司が居って、比川付近の南牧場の隣にあるちょっと大きい石のあたりはよ、ティバル按司の屋敷だったといわれておる。またこの久部良のすぐそこにはダンヌ按司(あでぃ)の屋敷があったが、今は道になってしまって全部破壊されてる。そのダンヌ按司(あでぃ)の屋敷以外の按司の屋敷跡は、今も囲いされて残っている。こうして四人の兄弟を四か所に配置して島を統一し、島を守っていたというように伝わっておる。あるとき、今の天蛇鼻のサンアイイソバの碑が建ってる真下にちょうど三角みたいになってよ、大きい石があるさ。これは上から崩れて転んできたから、サンアイイソバは、「この大きい石が下に行ったら、下にある西部落、現在の島仲部落は全滅するんだ。」ということで、「止まれい。」と言って手で押して止めたという伝説もあるさね。これは小さい石だったら考えられるが、相当大きい石だのに人間がね、本当にあんな事ができるかって僕はこれをあまり信じてないから、あまり言うてないよ。そのサンアイイソバの時代には、与那国の言葉でね、異国人とか、大国というのは大きい国という意味なんだが、結局台湾あたりからじゃない。そういった国から来た海賊が与那国に攻めて来てね、米とか鶏とかを取って、いろんなもんなんかをさらって行くから困っていてね、サンアイイソバは、自分が住んでいるサンアイ村の屋敷からンダン部落なんかを眺めていて、その海賊が攻めてきたらね、サンアイイソバは自分が真ん中におって四人の按司を指揮してやっつけ征伐したということになってるさね。与那国祭りの願い事にもそのことから出るんですよ。また何か知らせがあった場合や異常のあったところに走って行って、異常のないときにはまたここの道を帰ってきたそうだ。ときには、サンアイイソバは倭寇(わこう)という今いう海賊がやって来たときこの人が一人で追っ払ったということで、これを記念してこの島では与那国祭っていう二五日間の祭っていうのがあるぐらい与那国で尊敬されておる。これもこの久部良祭りから始まるんだよ。そのときは、ここの西側の久部良割(く ぶ らばり)っていう所があるんだが、そこの所で久部良割(く ぶ らばり)のアダンやクバの木を引っこ抜いてその倭寇の船に向かって、引き抜いては投げ投げして埋めてしまったから、倭寇はようやく浮き上がって助けを却って求めてきたから、助けてやったらそのときに倭寇の大将から、「あんたみたいに強い人にはこれが必要だろう。」と言って送られてきたのが、今ある日本刀だと伝えられておる。その日本刀が遺品として残っているが、この日本刀はその刀は長さが七二、五センチで幅も大きく、柄に書かれてる天正(てんしょう)五年に作られた日本刀なんですよ。サンアイイソバの遺品は全部向こうの拝所に祀ってある。また、これはカニマチの話と重複するんだけどね、宮古から悪者が来て、比川の東側にある新川に船置いて祖納部落を焼き討ちしようとしたところ、自分の兄弟の按司をフザンに置いてあって、そこから焼き討ちされたぞという連絡がきて、サンアイイソバがやって来たから、もう驚いて逃げたらサンアイイソバが一遍は捕まえて、その大の男の両足を掴まえ逆さまにして、「綺麗に引き裂こうか、どうするか。するか、しないか。」と言ったら、「もうしない。」って言うから許して放してやったらまた島仲から下に下りて行って再度火をつけたもんだから、また、捕まえるって追いかけけど、あまり相手が速くて追っかけられないから、田原の後ろ付近でそばにあった石を蹴っ飛ばしたらね、これが飛んでいって相手がの背中に当たって倒したというという話もあるんです。その後からはね、サンアイイソバが生きている間、沖縄や宮古から攻めに来たとは聞いてない。サンアイイソバには、いろんな話があって、宮古の偉い人が与那国を統治しようとしてサンアイイソバを嫁にするって宮古に連れていったという話もあるが、これは宮古の芝居師が作った話なんだよね。サンアイイソバの系統の本家はうちで、墓のこの島にあるから、そんなことは実際あった話でも何でもないよ。天蛇鼻から後ろに行ったらね、そこがサンアイイソバの屋敷跡でもあり監視所みたいになっておったといってんだがね、今も旧九月九日に必ずサンアイイソバの子孫になる親族全部がそこに集まるんですよ。またもう一つは、フザンの祭のときに、部落でやるんだが航海の安全を祈る場所があるわけよ。そのときは親族の必ず私(うち)なんかの家が行ってるんだがね、昔はそこで自分の兄弟が唐や宮古に行く航海の安全を祈ったということです。南への航海は全然聞いてないですね。そのとき何をしに兄弟を行かせたかも分からないけど、兄弟が無事に帰ってくるようにと祈ったと言われておる。一六日祭にはサンアイイソバの墓に今でも親戚が集まって全部行くよ。
全体の記録時間数 35:36:00
物語の時間数 34:25:00
言語識別 共通語
音源の質
テープ番号
予備項目1

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