平安座ハッタラーの生涯(共通語)

概要

この平安座(へんざ)ハッタラーは、お父さんが今の名護市字辺野古、旧久志村の字辺野古の方から平安座に渡ってきましてね。ハッタラーが長男で、次男が、南部の馬天港近くの津波名古(つはなく)の方に移住して行って、今、向こうでも栄えているらしい。そして、もう一人妹がいたそうですよ。辺野古の比嘉という家の系図にも、ハッタラーのお父さんが、今から約二百八十年ぐらい前に平安座に渡ったと記されているんですね。今の名前は山城と言っているんです。だから、正式には山城八太郎だったと思われます。で、このハッタラーは平安座で生まれて、平安座で育ったんです。それで、漁業に従事したり、平安座に昔からあったマーラン船や山原(やんばる)船という帆船、あるいは、今、漁船に使われているサバニなどで運送業に従事したりしていたんです。 ハッタラーはまた、三味線が好きで、愛用のハッタラー三味線というのが今も残されております。ハッタラーはこの三味線を、大島旅に行くときも、あるいは山原の旅に行くときも、常に愛用していたようです。ハッタラーがあまり力が強いんで、一度、首里王府のまわし者によって、捕らえられそうになったときがあったそうです。ところが船が那覇港に着いたときにハッタラーは 捕らえられるということるということを、一人の船員が分かっていたらしいね。船の中で、その船員から、「ハッタラー、那覇に船が着いたら、あんたは捕まるよ。」と言うことを聞かされたんで、ハッタラーは、愛用の三味線を脇に抱えて、残波岬の前で船から飛び下りて、泳いで難を逃れたといいますう。それぐらい泳ぎも非常に達者だったそうです。また、平安座ハッタラーは八太郎ではなくて、八俵(はちだわら)を担いだから、ハッタラーと呼ばれたのではないかという話もある。それはなぜかというと、平安座から首里まで、米とか麦とか、年貢を納めに行ったときに、平安座ハッタラーは、米俵三俵を肩に担いで、歩いて首里まで届けたそうだ。それからして、おそらく八俵の俵を担いだ経験があって、ハッタラーという名前が出たのではないかということです。が、平安座と辺野古の系図には、八太郎と記されているんです。それで、平安座の山城家の人々の話では、自分たちのお墓に平安座ハッタラーの遺骨があると。その遺骨を見たときに、足の脛(すね)の骨が、人並みはずれて大きいんだ。だから、それから考えた場合に、やはりハッタラーという人は、人並み優れた体格の人だったといわれているんですね。それで、時代はわかりませんが、平安座ハッタラーは、屋慶名出身の屋慶名アカーという、平安座ハッタラーと同じくらい武勇に優れた力持ちと親交を重ねていたらしい。ハッタラーは屋慶名アカーの家の庭で、よく武勇に励んで稽古したと。屋慶名の人たちの話では、昔の屋慶名アカーの家の庭に、平安座ハッタラーが稽古した足跡が残っていたと。そういうふうに、平安座ハッタラーと屋慶名アカーは非常に仲が良くて、共に武芸に励んでいたということです。それで、具志川あたりから、ある力持ちがハッタラーの話を聞いて、「平安座に行って、ハッタラーと一つかけ試しをしてみたい。どのくらい強いか試合を申し込んでみたい。」とやってきた。その男がハッタラーの家を訪ねたときに、ハッタラーは不在であった。妹が出てきて、「今、ハッタラーはよそに出ております。じき帰るでしょうからちょっとお茶でも上がって下さい。」と言ってお茶を出した。また、妹は大きな石の煙草盆も持ってきて、「一服どうぞ。」と言ってすすめた。それを見た男は、「妹でさえ、こんな力持ちであるならば、ハッタラーはどういう男か知れない。」と言って、逃げ帰ったそうだ。その煙草盆は戦後まで西の方のミーガチの浅瀬の方にあったんですが、最近その一門の人たちがハッタラーを記念して、生家の庭の方に移した。これが、運搬の途中で、二つに割れているんですね。そして、平安座ハッタラーは亡くなってから一時期はお墓に入ってなくて野原のちょっとした岩に埋葬されていたようです。ある年に、この平安座の山は傾斜がひどくて、平安座ハッタラーが埋葬されている上の方から大きな石が落ちてきた。大きな石が流れてきたら、ハッタラーは天国で自分の遺骨を心配して、「そのまま飛んできたら自分の遺骨はやられる。やられてたまるか」ということで、平安座ハッタラーの頭だけそこから飛びだして、避難していたといわれています。その後、平安座ハッタラーの骨は集められて山城家の墓に収容されているようです。そういう話を我々のお祖父さんたちや、曾お祖父(じい)さんたちから聞きました。平安座ハッタラーの子孫は現在山城フクヌヤーというところと、またもう一カ所、知花というところにおります。フクヌヤーというところに遺骨はあって、系図とか門中としてのいろんな行事はチバナヌヤー(知花家)で行われているというんです。平安座に知花家があって、戦前は、ハッタラーの弟が行った島尻の津波名古の方から子孫が、毎年、一年に一度は泊まりがけで、大勢で訪ねてきたらしいですがな。最近は代表で拝みに来るようです。 

再生時間:21:54

民話詳細DATA

レコード番号 47O412021
CD番号 47O37C077
決定題名 平安座ハッタラーの生涯(共通語)
話者がつけた題名
話者名 西村勇
話者名かな にしむらいさむ
生年月日 19290520
性別
出身地 与那城村平安座
記録日 19870801
記録者の所属組織 沖縄口承文芸学術調査団
元テープ番号 与那城村T19A01
元テープ管理者 沖縄伝承話資料センター
分類 伝説
発句(ほっく)
伝承事情
文字化資料 よなぐすくの民話P269
キーワード 名護市字辺野古,山城八太郎,平安座,漁業,ハッタラー三味線,大島旅,八俵,山城家,足の脛の骨,武勇に優れた力持ち,屋慶名アカー,妹,煙草盆,山城フクヌヤー,知花
梗概(こうがい) この平安座(へんざ)ハッタラーは、お父さんが今の名護市字辺野古、旧久志村の字辺野古の方から平安座に渡ってきましてね。ハッタラーが長男で、次男が、南部の馬天港近くの津波名古(つはなく)の方に移住して行って、今、向こうでも栄えているらしい。そして、もう一人妹がいたそうですよ。辺野古の比嘉という家の系図にも、ハッタラーのお父さんが、今から約二百八十年ぐらい前に平安座に渡ったと記されているんですね。今の名前は山城と言っているんです。だから、正式には山城八太郎だったと思われます。で、このハッタラーは平安座で生まれて、平安座で育ったんです。それで、漁業に従事したり、平安座に昔からあったマーラン船や山原(やんばる)船という帆船、あるいは、今、漁船に使われているサバニなどで運送業に従事したりしていたんです。 ハッタラーはまた、三味線が好きで、愛用のハッタラー三味線というのが今も残されております。ハッタラーはこの三味線を、大島旅に行くときも、あるいは山原の旅に行くときも、常に愛用していたようです。ハッタラーがあまり力が強いんで、一度、首里王府のまわし者によって、捕らえられそうになったときがあったそうです。ところが船が那覇港に着いたときにハッタラーは 捕らえられるということるということを、一人の船員が分かっていたらしいね。船の中で、その船員から、「ハッタラー、那覇に船が着いたら、あんたは捕まるよ。」と言うことを聞かされたんで、ハッタラーは、愛用の三味線を脇に抱えて、残波岬の前で船から飛び下りて、泳いで難を逃れたといいますう。それぐらい泳ぎも非常に達者だったそうです。また、平安座ハッタラーは八太郎ではなくて、八俵(はちだわら)を担いだから、ハッタラーと呼ばれたのではないかという話もある。それはなぜかというと、平安座から首里まで、米とか麦とか、年貢を納めに行ったときに、平安座ハッタラーは、米俵三俵を肩に担いで、歩いて首里まで届けたそうだ。それからして、おそらく八俵の俵を担いだ経験があって、ハッタラーという名前が出たのではないかということです。が、平安座と辺野古の系図には、八太郎と記されているんです。それで、平安座の山城家の人々の話では、自分たちのお墓に平安座ハッタラーの遺骨があると。その遺骨を見たときに、足の脛(すね)の骨が、人並みはずれて大きいんだ。だから、それから考えた場合に、やはりハッタラーという人は、人並み優れた体格の人だったといわれているんですね。それで、時代はわかりませんが、平安座ハッタラーは、屋慶名出身の屋慶名アカーという、平安座ハッタラーと同じくらい武勇に優れた力持ちと親交を重ねていたらしい。ハッタラーは屋慶名アカーの家の庭で、よく武勇に励んで稽古したと。屋慶名の人たちの話では、昔の屋慶名アカーの家の庭に、平安座ハッタラーが稽古した足跡が残っていたと。そういうふうに、平安座ハッタラーと屋慶名アカーは非常に仲が良くて、共に武芸に励んでいたということです。それで、具志川あたりから、ある力持ちがハッタラーの話を聞いて、「平安座に行って、ハッタラーと一つかけ試しをしてみたい。どのくらい強いか試合を申し込んでみたい。」とやってきた。その男がハッタラーの家を訪ねたときに、ハッタラーは不在であった。妹が出てきて、「今、ハッタラーはよそに出ております。じき帰るでしょうからちょっとお茶でも上がって下さい。」と言ってお茶を出した。また、妹は大きな石の煙草盆も持ってきて、「一服どうぞ。」と言ってすすめた。それを見た男は、「妹でさえ、こんな力持ちであるならば、ハッタラーはどういう男か知れない。」と言って、逃げ帰ったそうだ。その煙草盆は戦後まで西の方のミーガチの浅瀬の方にあったんですが、最近その一門の人たちがハッタラーを記念して、生家の庭の方に移した。これが、運搬の途中で、二つに割れているんですね。そして、平安座ハッタラーは亡くなってから一時期はお墓に入ってなくて野原のちょっとした岩に埋葬されていたようです。ある年に、この平安座の山は傾斜がひどくて、平安座ハッタラーが埋葬されている上の方から大きな石が落ちてきた。大きな石が流れてきたら、ハッタラーは天国で自分の遺骨を心配して、「そのまま飛んできたら自分の遺骨はやられる。やられてたまるか」ということで、平安座ハッタラーの頭だけそこから飛びだして、避難していたといわれています。その後、平安座ハッタラーの骨は集められて山城家の墓に収容されているようです。そういう話を我々のお祖父さんたちや、曾お祖父(じい)さんたちから聞きました。平安座ハッタラーの子孫は現在山城フクヌヤーというところと、またもう一カ所、知花というところにおります。フクヌヤーというところに遺骨はあって、系図とか門中としてのいろんな行事はチバナヌヤー(知花家)で行われているというんです。平安座に知花家があって、戦前は、ハッタラーの弟が行った島尻の津波名古の方から子孫が、毎年、一年に一度は泊まりがけで、大勢で訪ねてきたらしいですがな。最近は代表で拝みに来るようです。 
全体の記録時間数 22:20
物語の時間数 21:54
言語識別 共通語
音源の質
テープ番号
予備項目1

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