和仁屋門の馬場と和仁屋(共通語)

概要

こっちはもう昔には、たまには王様も馬を持ってきてね、こっちで馬に乗って走りよったという話も聞いています。普通の馬場はみんな津波ウマイー、瑞慶覧ウマイー、島袋ウマイーというように、ウマイーとつけるか、馬場と言ったそうですよ。こっちは、和仁屋馬場なんだけど、王様が和仁屋間門とつけたらしいよ。この和仁屋間という字は、何間、何間の間という字を書くこともあるしね、門と書く人もいますね。この和仁屋間門というのは、当時の王様がつけたものだから動かせないんです。それから、和仁屋間門から首里まで全部石畳で、国道を造ってあった。この道は、和仁屋の後ろから荻道を通じて、登又、また野嵩坂に行って、それからまた宜野湾松、浦添ゆうどれ通りね、そこから、王様が住んでる所ね、首里城まで造ったって。「王様は、ここまで駕籠に乗って来たりして、この馬場でやりよったんだよ。」との話ですよ。王様の使っておる者がさ、この王様の駕籠を担ぐときは、二人で棒は担ぐんだから、坂を上がるときにはさ、前の者はこのまま担いで、後ろの方は手をさして、これで上がりよって、反対に坂を下がる場合は、前の方はまたこの棒を上にさして、後ろはそのまま担いで、まあ、ヨーガーさせないようにいつもこう平坦にして担いでいたんだ。王様は、この駕籠に乗って喜んで、自分の目的のところまで行っていたという話です。この和仁屋間門を熱田の部落と和仁屋の部落とが奪い合いしていたわけ。和仁屋は、熱田と渡口の中央にあるでしょう。だから、最初は、熱田と和仁屋とが和仁屋馬場を奪い合いしてる。これは、裁判出たんですよね。私はその当時、この責任者でなかったんですけど、その当時の区長が分かるんですがね。当時の区長は、比嘉仁亀さんか、仁正さんだったはずよ。そしたら、熱田と裁判してね、和仁屋が負けたわけ。あっちの和仁屋の馬場にはね、乗る馬は熱田に多いんだ。和仁屋には一匹もいないんだ。一匹もいなかったからね、熱田に裁判で負けたわけ。終戦後ね、当時役場に勤めてる人がこの土地課に熱田から二人出ていたわけ。この土地課の二人がね、「和仁屋間門は熱田のもんだから和仁屋から直す。」と図面を直してあるわけ。それで、和仁屋は裁判に負けたわけ。また、和仁屋間門は渡口と和仁屋の境界にあって、渡口の境界内にあるんだが、熱田と渡口と和仁屋間門を奪い合って、「渡口のもん。」と言って。また、熱田は、「乗馬は熱田に多いんだから熱田のもんである。」ってこの件で裁判になったわけねえ。それで、また近ごろ渡口も負けて、四、五年前からまた熱田に取られて、現在は熱田のものになっている。旧の八月の十一日は、御願の日と言って御願してね、必ず村の役員がね、和仁屋馬場に行ってよ、礼拝するさあね。その日の昼中は、もう熱田からもね、渡口からも、仲順、喜舎場、荻道、大城、コザ方面からもね、馬が集まって馬を走らせよったさ。乗馬は、昔のナークー小と言って、あの小さい馬小さ。皆、馬駆け足させて楽しんでいたって。晩になったらまた泡瀬方面ね、与儀、比屋根、高原、久場、泊、荻道、大城の若い衆の力士が集まってさ、相撲大会をしましたよ。このときは浦添の伊祖方面から、卵の仲卸商みたいなもんがこの部落に来よったんだから。この人たちは、てんぷらーをアチコーコー作ってね、このぐらいのソーキ小に山盛りしていくらとか言って、皆若い者に金で売って商売するんだ。それで、男も女も毛遊び友達が集まってさ、丸く座って、買ってきてまた食べたりしていた。

再生時間:4:52

民話詳細DATA

レコード番号 47O361994
CD番号 47O36C077
決定題名 和仁屋門の馬場と和仁屋(共通語)
話者がつけた題名 熱田と和仁屋の土地争い
話者名 比嘉永昌
話者名かな ひがえいしょう
生年月日 19120810
性別
出身地 沖縄県北中城村字和仁屋
記録日 19910303
記録者の所属組織 沖縄口承文芸学術調査団
元テープ番号 北中城村補足調査6班T43A09
元テープ管理者 沖縄伝承話資料センター
分類 その他
発句(ほっく)
伝承事情
文字化資料 北中城の民話 P140
キーワード 王様,馬,馬場,津波ウマイー,瑞慶覧ウマイー,島袋ウマイー,和仁屋馬場,和仁屋間門,石畳,荻道を,登,野嵩坂,宜野湾松,浦添ゆうどれ,裁判,相撲大会,毛遊び
梗概(こうがい) こっちはもう昔には、たまには王様も馬を持ってきてね、こっちで馬に乗って走りよったという話も聞いています。普通の馬場はみんな津波ウマイー、瑞慶覧ウマイー、島袋ウマイーというように、ウマイーとつけるか、馬場と言ったそうですよ。こっちは、和仁屋馬場なんだけど、王様が和仁屋間門とつけたらしいよ。この和仁屋間という字は、何間、何間の間という字を書くこともあるしね、門と書く人もいますね。この和仁屋間門というのは、当時の王様がつけたものだから動かせないんです。それから、和仁屋間門から首里まで全部石畳で、国道を造ってあった。この道は、和仁屋の後ろから荻道を通じて、登又、また野嵩坂に行って、それからまた宜野湾松、浦添ゆうどれ通りね、そこから、王様が住んでる所ね、首里城まで造ったって。「王様は、ここまで駕籠に乗って来たりして、この馬場でやりよったんだよ。」との話ですよ。王様の使っておる者がさ、この王様の駕籠を担ぐときは、二人で棒は担ぐんだから、坂を上がるときにはさ、前の者はこのまま担いで、後ろの方は手をさして、これで上がりよって、反対に坂を下がる場合は、前の方はまたこの棒を上にさして、後ろはそのまま担いで、まあ、ヨーガーさせないようにいつもこう平坦にして担いでいたんだ。王様は、この駕籠に乗って喜んで、自分の目的のところまで行っていたという話です。この和仁屋間門を熱田の部落と和仁屋の部落とが奪い合いしていたわけ。和仁屋は、熱田と渡口の中央にあるでしょう。だから、最初は、熱田と和仁屋とが和仁屋馬場を奪い合いしてる。これは、裁判出たんですよね。私はその当時、この責任者でなかったんですけど、その当時の区長が分かるんですがね。当時の区長は、比嘉仁亀さんか、仁正さんだったはずよ。そしたら、熱田と裁判してね、和仁屋が負けたわけ。あっちの和仁屋の馬場にはね、乗る馬は熱田に多いんだ。和仁屋には一匹もいないんだ。一匹もいなかったからね、熱田に裁判で負けたわけ。終戦後ね、当時役場に勤めてる人がこの土地課に熱田から二人出ていたわけ。この土地課の二人がね、「和仁屋間門は熱田のもんだから和仁屋から直す。」と図面を直してあるわけ。それで、和仁屋は裁判に負けたわけ。また、和仁屋間門は渡口と和仁屋の境界にあって、渡口の境界内にあるんだが、熱田と渡口と和仁屋間門を奪い合って、「渡口のもん。」と言って。また、熱田は、「乗馬は熱田に多いんだから熱田のもんである。」ってこの件で裁判になったわけねえ。それで、また近ごろ渡口も負けて、四、五年前からまた熱田に取られて、現在は熱田のものになっている。旧の八月の十一日は、御願の日と言って御願してね、必ず村の役員がね、和仁屋馬場に行ってよ、礼拝するさあね。その日の昼中は、もう熱田からもね、渡口からも、仲順、喜舎場、荻道、大城、コザ方面からもね、馬が集まって馬を走らせよったさ。乗馬は、昔のナークー小と言って、あの小さい馬小さ。皆、馬駆け足させて楽しんでいたって。晩になったらまた泡瀬方面ね、与儀、比屋根、高原、久場、泊、荻道、大城の若い衆の力士が集まってさ、相撲大会をしましたよ。このときは浦添の伊祖方面から、卵の仲卸商みたいなもんがこの部落に来よったんだから。この人たちは、てんぷらーをアチコーコー作ってね、このぐらいのソーキ小に山盛りしていくらとか言って、皆若い者に金で売って商売するんだ。それで、男も女も毛遊び友達が集まってさ、丸く座って、買ってきてまた食べたりしていた。
全体の記録時間数 5:59
物語の時間数 4:52
言語識別 共通語
音源の質
テープ番号
予備項目1

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