比謝矼の成り立ち(共通語)

概要

あのう、比謝矼のだいたい地形的な成立を自分らの父、あるいはその他の人から聞いたり、あるいは現在似ている状況から、こっちはこうだったんだなーと押し計って見るんでんすけども。比謝矼は、だいたい県道の那覇から名護に行く県道、あれが造られたのが大正年間だと思います。その前は比謝矼はほとんど田んぼと山間に造られた部落であって、しかもこっちにほんの四、五戸しかなかったんです。これが明治の末頃。それから県道が造られて後、実は隣の牧原という首里から居住した人々が、いわゆる昔の廃藩の侍です。この方々が比謝矼に移住して、ここに比謝矼の村の始まりが出来たわけです。でこれは、主に明治の末からこの方たちが終戦直前まで百二十戸ぐらいあったんです。ところが現在、こっちには東側がまだ軍用地で開放されてないので、三、四十戸しか入ってないです。しかい元いた比謝矼の住民は、しれでもなお入りきれずに読谷のあっちこっちに散っています。これを、比謝矼はもともと今の、昔の吉屋の歌にもありますように、ずっと国頭から那覇に行く途中でぜひとも比謝矼を通らなくちゃーならない要衝な地点だったようです。そこにはご存じなよう比謝川という大きな川が流れているんです。この比謝川ですがこれは慶長年間の千六百十九年に、いわゆる薩摩から沖縄に攻めこんだ時に、まず二手に別れて一隊は本部半島の運天、一隊は今の渡具知、読谷の渡具知、この二班に別れて首里に攻めこんだという話を聞いています。その証拠か何か知りませんけど、僕らが小さい時分によく渡具知に行くと、そういった侍達の骨だということで、大きな頭や大きな足の骨なんかがよく洞穴から見つかったもんです。で何かこう歴史をみるとその渡具知からあがった人は、今の比謝矼を通って。で私がこれは思いますのに、あの当時比謝川は、あのう伝馬船が入るような大きい川だったんで、きっと渡具知から比謝橋までいまの船も入ってきたんだろう、それでみんな比謝矼にあがったんだろうというようなことを想像していいです。これは千六百十九年から二十年頃のことなんですが、その後いろいろこの比謝橋は、これを景気としてこの貿易、その他に発展をしていくんですが。つい最近、といいましてもこれは大正から昭和の初めにかけてですが、ずっと先島、あるいは大島あたりからたくさんの牛もきます。あるいは豚もきます。あるいは国頭辺りから、相当の材木、あるいは薪、こういった物なんかも全部含めて持ってこられて。その当時は例えば那覇と比謝矼から船で往還して、いまでいいますと嘉手納からずっと那覇までは自動車道で行きますけども、これがない時代ですから結局船で直接比謝橋に来て、比謝橋から中頭の各地区に集散したようです。でこういったふーにして、いろいろそれに付随した部落、施設、あるいは産業ができていきますけども。歴史的に私達のただ小さい時分からよく覚えさせてもらっているのは、今の吉屋チルーの歌なんですが 恨む比謝橋や 情きんぬ  渡すとぅてぃ てぃちぇさ
という歌なんですが、これは現在もあの石橋を取り壊した時分、つまり千九百四十八年頃、あるいは米軍の行為だと思うんですが、これを嘉手納側の今のバスターミナル付近にその模型が保存されております。しかしその他に実際にこの比謝橋を修理した場合に、その人夫、あるいはそれを指揮監督した三司官、こういった人々の名前が毎年、旧の九月九日にお掃除をして大切に保存してあります。将来こういった史跡というんですか、これも大事にしていきたいと思うんですが、夢をもう一度ではないですけども、現在のダムがもっと上流になって、今の比謝橋まで潮が行き来すれば、あるいはさっき     比謝橋ぬや ちゃてぃる  やちゃてぃ どぅ戻るこういった歌もまた生きてくるんじゃないかと思うんです。

再生時間:7:12

民話詳細DATA

レコード番号 47O375234
CD番号 47O37C224
決定題名 比謝矼の成り立ち(共通語)
話者がつけた題名 比謝矼の成り立ち
話者名 新崎盛秀
話者名かな あらさきせいしゅう
生年月日 19140926
性別
出身地 沖縄県読谷村比謝矼
記録日 19770226
記録者の所属組織 読谷村民話調査団第16班
元テープ番号 読谷村比謝矼T02B01
元テープ管理者 読谷村立歴史民俗資料館
分類 民俗
発句(ほっく)
伝承事情
文字化資料
キーワード 比謝矼,田んぼ,山間,首里から居住,廃藩の侍,比謝川
梗概(こうがい) あのう、比謝矼のだいたい地形的な成立を自分らの父、あるいはその他の人から聞いたり、あるいは現在似ている状況から、こっちはこうだったんだなーと押し計って見るんでんすけども。比謝矼は、だいたい県道の那覇から名護に行く県道、あれが造られたのが大正年間だと思います。その前は比謝矼はほとんど田んぼと山間に造られた部落であって、しかもこっちにほんの四、五戸しかなかったんです。これが明治の末頃。それから県道が造られて後、実は隣の牧原という首里から居住した人々が、いわゆる昔の廃藩の侍です。この方々が比謝矼に移住して、ここに比謝矼の村の始まりが出来たわけです。でこれは、主に明治の末からこの方たちが終戦直前まで百二十戸ぐらいあったんです。ところが現在、こっちには東側がまだ軍用地で開放されてないので、三、四十戸しか入ってないです。しかい元いた比謝矼の住民は、しれでもなお入りきれずに読谷のあっちこっちに散っています。これを、比謝矼はもともと今の、昔の吉屋の歌にもありますように、ずっと国頭から那覇に行く途中でぜひとも比謝矼を通らなくちゃーならない要衝な地点だったようです。そこにはご存じなよう比謝川という大きな川が流れているんです。この比謝川ですがこれは慶長年間の千六百十九年に、いわゆる薩摩から沖縄に攻めこんだ時に、まず二手に別れて一隊は本部半島の運天、一隊は今の渡具知、読谷の渡具知、この二班に別れて首里に攻めこんだという話を聞いています。その証拠か何か知りませんけど、僕らが小さい時分によく渡具知に行くと、そういった侍達の骨だということで、大きな頭や大きな足の骨なんかがよく洞穴から見つかったもんです。で何かこう歴史をみるとその渡具知からあがった人は、今の比謝矼を通って。で私がこれは思いますのに、あの当時比謝川は、あのう伝馬船が入るような大きい川だったんで、きっと渡具知から比謝橋までいまの船も入ってきたんだろう、それでみんな比謝矼にあがったんだろうというようなことを想像していいです。これは千六百十九年から二十年頃のことなんですが、その後いろいろこの比謝橋は、これを景気としてこの貿易、その他に発展をしていくんですが。つい最近、といいましてもこれは大正から昭和の初めにかけてですが、ずっと先島、あるいは大島あたりからたくさんの牛もきます。あるいは豚もきます。あるいは国頭辺りから、相当の材木、あるいは薪、こういった物なんかも全部含めて持ってこられて。その当時は例えば那覇と比謝矼から船で往還して、いまでいいますと嘉手納からずっと那覇までは自動車道で行きますけども、これがない時代ですから結局船で直接比謝橋に来て、比謝橋から中頭の各地区に集散したようです。でこういったふーにして、いろいろそれに付随した部落、施設、あるいは産業ができていきますけども。歴史的に私達のただ小さい時分からよく覚えさせてもらっているのは、今の吉屋チルーの歌なんですが 恨む比謝橋や 情きんぬ  渡すとぅてぃ てぃちぇさ という歌なんですが、これは現在もあの石橋を取り壊した時分、つまり千九百四十八年頃、あるいは米軍の行為だと思うんですが、これを嘉手納側の今のバスターミナル付近にその模型が保存されております。しかしその他に実際にこの比謝橋を修理した場合に、その人夫、あるいはそれを指揮監督した三司官、こういった人々の名前が毎年、旧の九月九日にお掃除をして大切に保存してあります。将来こういった史跡というんですか、これも大事にしていきたいと思うんですが、夢をもう一度ではないですけども、現在のダムがもっと上流になって、今の比謝橋まで潮が行き来すれば、あるいはさっき     比謝橋ぬや ちゃてぃる  やちゃてぃ どぅ戻るこういった歌もまた生きてくるんじゃないかと思うんです。
全体の記録時間数 7:12
物語の時間数 7:12
言語識別 共通語
音源の質
テープ番号
予備項目1

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