吉屋チルー 歌問答 身売り(共通語混)

概要

吉屋チルーという人は本当の人だったのか、御神であったのか、あれは神だったんでしょうかねという話から始められていた。それは、子供の頃、遊んでいる時、今はそのような風景は見られないが、自分達の小さい時は、かまきりにイサトゥーというが、それがアササー、蝉、これを餌にするわけさ。チャラチャラーして食べようとする瞬間、これを見て、吉屋チルーが子供の時にこれを見て、『鳴ちんすなアササー 驚(うどぅ)るちんすな〔鳴くなアササー 驚くなアササー〕恋(くい)しさぬあまり 抱ちるんちゃる〔恋しさのあまり 抱いてみただけだ〕』と言ったので、離して、この蝉は命拾いした話があるわけさ。それからまた、昔は、十、十一、二から薪取りにやるでしょう、山へ薪取りに行った。 昔はまた、木炭なんか焼いて生活しているお爺さんがいたそうだ。そこへ薪取りに行って、行き帰りそこへ行くと、お茶などを出すでしょう。(今だったらお茶を出しても出さなくてもいい。昔の人はお茶を出すと御茶請けは必ず一緒に出していたわけだ)昔は貧しいから、お茶は出ても長い間御茶請けが出なかったらしい。それで、サンピン茶ってあるがね。『サンピンぬ御茶(うちゃ)ぬ 白茶(しるちゃ)なるまでぃん〔サンピンのお茶が 白茶になっているのに〕今(なま)でぃ御茶請(うちゃわき)ぬ 当(あ)てぃや無(ね)ぇらん〔いまだ茶請けの 当てはない〕』と、この吉屋チルーが言った。このお爺さんはたぶん頭が良かったと思う。炭焼きの爺さんはね。(生味噌といったらね、昔は油味噌を作って食べたので、生味噌という。生の味噌であるわけさ)『先月(くたちち)どぅちちぇる 生味噌(なまんす)るやしが〔先月作った 生味噌であるが〕大和(やまとぅ)味噌(んす)とぅ思(うむ)てぃ 食べてぃたぼり〔大和味噌と思って 食べて下さい〕』と、返したそうだ。それから(二人は)友達になって、いろんな話をして、歌づくりにも励んだらしいよ。 (クタチチというのは先月のことさ)『先月(くたちち)どぅちちぇる 生味噌(なまんす)るやしが〔先月作った 生味噌であるが〕大和(やまとぅ)味噌(んす)とぅ思(うむ)てぃ 食べてぃたぼり〔大和味噌と思って 食べて下さい〕』大和味噌というのは、原料はお米で作ってある。もうこれはお汁には入れないでね、高かったから、お茶請けにしたわけだ。そういうことでその言葉も出たと思うよ。それから、家庭が貧乏で尾類に売られるでしょう。比謝橋を渡るときに、『恨む比謝橋や 情(なさき)ねん里(さとぅ)が〔恨めしい比謝橋は 情けもない人が〕私(わん)渡(わた)さとぅむてぃ 架きてぃうちぇさ〔私を渡そうと 架けてあるよ〕』と、詠んで行ったらしい。そして、辻に売られていったら、あそこでも客がきても、上句を詠んで、下句を詠まない限り絶対よばれなかったらしい。この吉屋チルーはね。また尾類アンマーにね、『元(むとぅ)や読谷山(ゆんたんじゃ)新垣(あらかち)ぬチルぐゎー〔元は読谷山 新垣のチルぐゎー〕今(なま)や仲島(なかしま)ぬ花ぬチルぐゎ〔今は仲島の花のチルぐゎー〕』と、アンマーに言ったらしい。それで、吉屋チルーは読谷山の人と言うが、本当は金武間切の人だったそうだ。金武間切の人であったが、イキーといったら兄のことさ。兄さんが何か失敗をして、そこには居られなくなって読谷山間切に移ったらしい。そこから尾類に売られて行ったらしい。親、兄さんを助けようとね。こうして、辻へ行って、有名な尾類になって、仲里里之主の首里親国の殿内の抱え尾類だったらしい。人にはもう呼ばれなかった。人に対しては、上句を出して、下句を詠んだら誰にも呼ばれたらしい。そのような抱え尾類、有名な尾類だった。それからまた、アンマーはお金さあね。昔は、クンチャー、ギンジャーというと、今はこれは見えないが、癩病になったら、浜辺の洞窟に住んでいた。日頃はあちらこちら、個人個人まわって、物を貰って暮らしていたよ。私達が小さい時はこんな時代だったよ。そうして、物乞いにもお金持もいるらしい。一銭、二銭貰って、お金がないとき何かを貰って行った。そこで、ジュリアンマーが、この人と相談してからに、お金をたくさん貰って、無理矢理に行かせたようだ。尾類アンマーが、「尾類はお金、豆腐は豆なんだよ。」という言葉はそのことから出たらしい。その後、チルーは亡くなって、波之上の坊主に魂が乗り移ったんでしょう。すると、毎夜、毎夜、同じ時間にひと言、『月(ちち)や昔(んかし)から 変わる事(くとぅ)ねさみ〔月は昔から 変わることはない〕』と、声が聞こえた。後に坊さんも気がついて、「これは間違いなくチルーだ。」と、言葉を返したようだ。『変わてぃいくむぬや 人(ひとぅ)ぬ心(くくる)〔変わっていくものは 人の心〕』それからは一言もなかったらしい。それから、夜の一言は、一言だったら返答するものではない。夜は、必ず二言いって初めて返事をするものだと、昔は言われていた。昔はこういう慣しがあったわけだ。それから、戦前は歩いてさあね。葬り、二、三年経ってから骨拾いに、兄弟が出かけた。骨拾いして、首里を廻って帰る途中で、こっちで一晩は夜を過ごしてから歩こうと、木の下で休んでいた。その時は、この里之主が殿内を造って、この殿内はどんな名にしようかと、臣下が揃って吟味していた。チルーは遺骨になって、そこで言うわけさ。『遊(あし)りうちゃがいる 御茶屋御殿(うちゃやうどぅん・注 )〔遊ぶのによい所だよ 御茶屋御殿は〕』と言ったので、そのまま名前が付いたらしいよ。そして、「今の言葉はチルーの言葉だが。」と出てみると、やっぱりそうであった。夜まで吟味していたわけだ。官から褒美を頂き、死んで、遺骨なってからも、親、兄弟のことをやったという話である。

再生時間:7:33

民話詳細DATA

レコード番号 47O374456
CD番号 47O37C193
決定題名 吉屋チルー 歌問答 身売り(共通語混)
話者がつけた題名
話者名 名嘉真光子
話者名かな なかまみつこ
生年月日 19050504
性別
出身地 沖縄県読谷村長田
記録日 19950121
記録者の所属組織 読谷村ゆうがおの会
元テープ番号 読谷村長田T04A03
元テープ管理者 読谷村立歴史民俗資料館
分類 伝説
発句(ほっく)
伝承事情
文字化資料 読谷村民話資料集13 大木・長田・牧原の民話P329
キーワード 吉屋チルー,神,イサトゥ,アササー,蝉は命拾いした,薪取り,木炭,お爺さん,お茶,御茶請け,生味噌,大和味噌,家庭が貧乏,尾類に売られる,恨む比謝橋,読谷山の人,金武間切の人,辻,有名な尾類,仲里里之主,首里親国の殿内の抱え尾類,下句を詠んだら誰にも呼ばれた,クンチャー,ギンジャー,癩病,浜辺の洞窟,物乞い,お金持,尾類アンマー,波之上の坊主,魂が乗り移った,骨拾い,兄弟が,里之主,殿内,御茶屋御殿
梗概(こうがい) 吉屋チルーという人は本当の人だったのか、御神であったのか、あれは神だったんでしょうかねという話から始められていた。それは、子供の頃、遊んでいる時、今はそのような風景は見られないが、自分達の小さい時は、かまきりにイサトゥーというが、それがアササー、蝉、これを餌にするわけさ。チャラチャラーして食べようとする瞬間、これを見て、吉屋チルーが子供の時にこれを見て、『鳴ちんすなアササー 驚(うどぅ)るちんすな〔鳴くなアササー 驚くなアササー〕恋(くい)しさぬあまり 抱ちるんちゃる〔恋しさのあまり 抱いてみただけだ〕』と言ったので、離して、この蝉は命拾いした話があるわけさ。それからまた、昔は、十、十一、二から薪取りにやるでしょう、山へ薪取りに行った。 昔はまた、木炭なんか焼いて生活しているお爺さんがいたそうだ。そこへ薪取りに行って、行き帰りそこへ行くと、お茶などを出すでしょう。(今だったらお茶を出しても出さなくてもいい。昔の人はお茶を出すと御茶請けは必ず一緒に出していたわけだ)昔は貧しいから、お茶は出ても長い間御茶請けが出なかったらしい。それで、サンピン茶ってあるがね。『サンピンぬ御茶(うちゃ)ぬ 白茶(しるちゃ)なるまでぃん〔サンピンのお茶が 白茶になっているのに〕今(なま)でぃ御茶請(うちゃわき)ぬ 当(あ)てぃや無(ね)ぇらん〔いまだ茶請けの 当てはない〕』と、この吉屋チルーが言った。このお爺さんはたぶん頭が良かったと思う。炭焼きの爺さんはね。(生味噌といったらね、昔は油味噌を作って食べたので、生味噌という。生の味噌であるわけさ)『先月(くたちち)どぅちちぇる 生味噌(なまんす)るやしが〔先月作った 生味噌であるが〕大和(やまとぅ)味噌(んす)とぅ思(うむ)てぃ 食べてぃたぼり〔大和味噌と思って 食べて下さい〕』と、返したそうだ。それから(二人は)友達になって、いろんな話をして、歌づくりにも励んだらしいよ。 (クタチチというのは先月のことさ)『先月(くたちち)どぅちちぇる 生味噌(なまんす)るやしが〔先月作った 生味噌であるが〕大和(やまとぅ)味噌(んす)とぅ思(うむ)てぃ 食べてぃたぼり〔大和味噌と思って 食べて下さい〕』大和味噌というのは、原料はお米で作ってある。もうこれはお汁には入れないでね、高かったから、お茶請けにしたわけだ。そういうことでその言葉も出たと思うよ。それから、家庭が貧乏で尾類に売られるでしょう。比謝橋を渡るときに、『恨む比謝橋や 情(なさき)ねん里(さとぅ)が〔恨めしい比謝橋は 情けもない人が〕私(わん)渡(わた)さとぅむてぃ 架きてぃうちぇさ〔私を渡そうと 架けてあるよ〕』と、詠んで行ったらしい。そして、辻に売られていったら、あそこでも客がきても、上句を詠んで、下句を詠まない限り絶対よばれなかったらしい。この吉屋チルーはね。また尾類アンマーにね、『元(むとぅ)や読谷山(ゆんたんじゃ)新垣(あらかち)ぬチルぐゎー〔元は読谷山 新垣のチルぐゎー〕今(なま)や仲島(なかしま)ぬ花ぬチルぐゎ〔今は仲島の花のチルぐゎー〕』と、アンマーに言ったらしい。それで、吉屋チルーは読谷山の人と言うが、本当は金武間切の人だったそうだ。金武間切の人であったが、イキーといったら兄のことさ。兄さんが何か失敗をして、そこには居られなくなって読谷山間切に移ったらしい。そこから尾類に売られて行ったらしい。親、兄さんを助けようとね。こうして、辻へ行って、有名な尾類になって、仲里里之主の首里親国の殿内の抱え尾類だったらしい。人にはもう呼ばれなかった。人に対しては、上句を出して、下句を詠んだら誰にも呼ばれたらしい。そのような抱え尾類、有名な尾類だった。それからまた、アンマーはお金さあね。昔は、クンチャー、ギンジャーというと、今はこれは見えないが、癩病になったら、浜辺の洞窟に住んでいた。日頃はあちらこちら、個人個人まわって、物を貰って暮らしていたよ。私達が小さい時はこんな時代だったよ。そうして、物乞いにもお金持もいるらしい。一銭、二銭貰って、お金がないとき何かを貰って行った。そこで、ジュリアンマーが、この人と相談してからに、お金をたくさん貰って、無理矢理に行かせたようだ。尾類アンマーが、「尾類はお金、豆腐は豆なんだよ。」という言葉はそのことから出たらしい。その後、チルーは亡くなって、波之上の坊主に魂が乗り移ったんでしょう。すると、毎夜、毎夜、同じ時間にひと言、『月(ちち)や昔(んかし)から 変わる事(くとぅ)ねさみ〔月は昔から 変わることはない〕』と、声が聞こえた。後に坊さんも気がついて、「これは間違いなくチルーだ。」と、言葉を返したようだ。『変わてぃいくむぬや 人(ひとぅ)ぬ心(くくる)〔変わっていくものは 人の心〕』それからは一言もなかったらしい。それから、夜の一言は、一言だったら返答するものではない。夜は、必ず二言いって初めて返事をするものだと、昔は言われていた。昔はこういう慣しがあったわけだ。それから、戦前は歩いてさあね。葬り、二、三年経ってから骨拾いに、兄弟が出かけた。骨拾いして、首里を廻って帰る途中で、こっちで一晩は夜を過ごしてから歩こうと、木の下で休んでいた。その時は、この里之主が殿内を造って、この殿内はどんな名にしようかと、臣下が揃って吟味していた。チルーは遺骨になって、そこで言うわけさ。『遊(あし)りうちゃがいる 御茶屋御殿(うちゃやうどぅん・注 )〔遊ぶのによい所だよ 御茶屋御殿は〕』と言ったので、そのまま名前が付いたらしいよ。そして、「今の言葉はチルーの言葉だが。」と出てみると、やっぱりそうであった。夜まで吟味していたわけだ。官から褒美を頂き、死んで、遺骨なってからも、親、兄弟のことをやったという話である。
全体の記録時間数 7:33
物語の時間数 7:33
言語識別 混在
音源の質
テープ番号
予備項目1

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