喜屋武ミーぐゎー(シマグチ)

概要

あの人は読谷出身であった。私達が、喜屋武ミーぐゎー(注 )と分かったのは、尋常四年か五年の頃だったと思う。(喜屋武ミーぐゎーが)渡慶次小学校で、空手を披露してね。その時から、(その人が)喜屋武ミーぐゎーであることが分かった。(喜屋武ミーぐゎーの)生い立ちの話は、伝え話は聞いたんだが、以前は馬車引きであったらしいがね。家は今の比謝矼、空地になっている所があるでしょう。空地の所に材木屋を営んでいた。もうこれは年をとってからの話だよ。最初の話は、(喜屋武ミーぐゎーは)馬車引きであった。泡瀬の人達がね、那覇から荷物を載せて、那覇から家に帰る時にね、泡瀬の馬車引きの人達と、(賭を)したという話をなさっていたよ。そういうふうに賭をした。その品物の塩は専売であるからね。那覇から塩を買って、泡瀬に帰る途中に、巡査に捕まえられたようだ。そうすると、(最初で賭はしてあったので)「私の品物が、塩だったら私はこういうふうにするよ。もし塩でなかったら、あなた達はどういうふうにするんだよ。」と、巡査達の鼻をへしおったという話は聞いたんだがね。この話が、本当であるかどうかは、本人には会ってないので分からないと思うんだが。最初の頃は馬車引きであったそうだ。それから、青年時代であったのか、あれは今の嘉手納、嘉手納町でしょうね。元の屋良は嘉手納町に入っているでしょう。(喜屋武ミーぐゎーの)奥さんは、屋艮の林堂というところの(娘で)あったそうだ。それを忍ぶのを、村中の人達でも捕まえることができなかったという話は聞いた。モーアシビ(注 )しているところから、連れ去っていったからね。奥さんは脇にはさんでね。捕まえようとすると、家から家へ飛んでいったという武勇伝もあった。背の高さは五尺未満であったと思う。それほどの武勇伝のある人であった。またその後、県立農林学校の空手の先生をなさっていてね。先生になって、学生に(空手)を教えたわけだ。そうしたら、もう学生達は(自分の空手の腕)は熟練していると思って、(喜屋武ミーぐゎーの所に)忍んできたが、何十回も負けてしまった。また、そこでもいつもと同じように賭事をした。橋の欄干に上って、〈あそこが石橋だったことは、あなた達は分からないでしょう。「おまえ達がね、三人ですぐむこうまで、潮の中に落とすことができるんだったら、もうおまえたちにあやまるよ。」と、話をなさった。その時の(県立農林学校といえば)今の高校以上であるからね。三人の空手を習っている頑丈な人達が、(喜屋武ミーぐゎーのところに)試しに来たわけだ。こうして三人でカを入れて、(橋の欄干から)落としてしまったそうだ。そうして自慢して、首をのぞかしている間には、橋の下から、三人の下から飛び上がってきて、(その三人を反対に)落としてしまったという話。だから、今は私達がはとうてい側に寄ることはできないという話は聞いた。

再生時間:4:53

民話詳細DATA

レコード番号 47O372503
CD番号 47O37C110
決定題名 喜屋武ミーぐゎー(シマグチ)
話者がつけた題名 喜屋武ミーぐゎー
話者名 山城英一
話者名かな やましろえいいち
生年月日 19120113
性別
出身地 沖縄県読谷村高志保
記録日 19850416
記録者の所属組織 読谷村ゆうがおの会
元テープ番号 読谷村高志保T08A09
元テープ管理者 読谷村立歴史民俗資料館
分類 伝説
発句(ほっく)
伝承事情
文字化資料 読谷村民話資料集8高志保の民話 P63
キーワード 読谷出身,喜屋武ミーぐゎー,空手,馬車引き,比謝矼,奥さん,屋艮の林堂,県立農林学校の空手の先生
梗概(こうがい) あの人は読谷出身であった。私達が、喜屋武ミーぐゎー(注 )と分かったのは、尋常四年か五年の頃だったと思う。(喜屋武ミーぐゎーが)渡慶次小学校で、空手を披露してね。その時から、(その人が)喜屋武ミーぐゎーであることが分かった。(喜屋武ミーぐゎーの)生い立ちの話は、伝え話は聞いたんだが、以前は馬車引きであったらしいがね。家は今の比謝矼、空地になっている所があるでしょう。空地の所に材木屋を営んでいた。もうこれは年をとってからの話だよ。最初の話は、(喜屋武ミーぐゎーは)馬車引きであった。泡瀬の人達がね、那覇から荷物を載せて、那覇から家に帰る時にね、泡瀬の馬車引きの人達と、(賭を)したという話をなさっていたよ。そういうふうに賭をした。その品物の塩は専売であるからね。那覇から塩を買って、泡瀬に帰る途中に、巡査に捕まえられたようだ。そうすると、(最初で賭はしてあったので)「私の品物が、塩だったら私はこういうふうにするよ。もし塩でなかったら、あなた達はどういうふうにするんだよ。」と、巡査達の鼻をへしおったという話は聞いたんだがね。この話が、本当であるかどうかは、本人には会ってないので分からないと思うんだが。最初の頃は馬車引きであったそうだ。それから、青年時代であったのか、あれは今の嘉手納、嘉手納町でしょうね。元の屋良は嘉手納町に入っているでしょう。(喜屋武ミーぐゎーの)奥さんは、屋艮の林堂というところの(娘で)あったそうだ。それを忍ぶのを、村中の人達でも捕まえることができなかったという話は聞いた。モーアシビ(注 )しているところから、連れ去っていったからね。奥さんは脇にはさんでね。捕まえようとすると、家から家へ飛んでいったという武勇伝もあった。背の高さは五尺未満であったと思う。それほどの武勇伝のある人であった。またその後、県立農林学校の空手の先生をなさっていてね。先生になって、学生に(空手)を教えたわけだ。そうしたら、もう学生達は(自分の空手の腕)は熟練していると思って、(喜屋武ミーぐゎーの所に)忍んできたが、何十回も負けてしまった。また、そこでもいつもと同じように賭事をした。橋の欄干に上って、〈あそこが石橋だったことは、あなた達は分からないでしょう。「おまえ達がね、三人ですぐむこうまで、潮の中に落とすことができるんだったら、もうおまえたちにあやまるよ。」と、話をなさった。その時の(県立農林学校といえば)今の高校以上であるからね。三人の空手を習っている頑丈な人達が、(喜屋武ミーぐゎーのところに)試しに来たわけだ。こうして三人でカを入れて、(橋の欄干から)落としてしまったそうだ。そうして自慢して、首をのぞかしている間には、橋の下から、三人の下から飛び上がってきて、(その三人を反対に)落としてしまったという話。だから、今は私達がはとうてい側に寄ることはできないという話は聞いた。
全体の記録時間数 4:53
物語の時間数 4:53
言語識別 方言
音源の質
テープ番号
予備項目1

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