秀り山田(方言)

概要

あれは、塩の話は、私も年寄から聞いた。あれは、どういう話かというと、名護、具志頭、山田親方といって、三人の親方だったそうだが、琉球の王様が、「この国の御馳走で美味しいものはなんだろうか、具志頭。」と具志頭親方に聞くと、「はい、この世の美味しいものはお米でしょうね。お米よりほかに美味しい物はないんじゃありませんか。」(と答えた)「ああそうか。それでは名護はどうか。名護よ、君だったら、この沖縄の美味しい物は何だ。」と言った。(名護は)「はい、沖縄の美味しい物は、豚肉です。」と言ったそうだ。すると(王様は)「どうして、豚肉とはどういう訳だ。」「豚肉は、堅い物は柔らげ、柔らかいものは煮込みにするし、あれより美味しい物はありません。」「ああそうか。」と言ったそうだ。「山田はどうか。」(と、王が山田に聞くと)「沖縄の御馳走は、それは塩です。」と言ったそうだ。「どうして、塩は苦いし、辛いし、何もそれは美味しい物ではない。味を作るものではないか。」と、(王が)言うと「はい、それは塩が入らないと、何も(美味しく)食べられません。」と、(山田は答えた。)すると、(王様は)「ああそうか。君は私をからかっているのか。きみはあんなに辛くて、苦い物を美味しい物だと言って、ここに話をだすのは、君は私をからかっているのだ。」と言って、「君は勤めを止めよ。君はこの国には置けない。島流しにしてやる。」(と言った。) そして、島流しにされる時がやってきたそうだ。〈昔は、島流しをする時は、泊港から船を出していたそうだ、八重山に。〉それで、島流しされることなったので、この山田親方は歌を作った。その歌の詩は、「泊高橋に銀の簪を落とした いつになったら夜があけて 捜して差せるか 苦い、辛い、ハーラユイサッサー。」泊高橋の歌の由来は、山田親方が作ったそうだ。そして、八重山に流されてしまった。それから、(山田親方が流されて)後になって、波之上に碑文があったらしい。(ところが)その碑文の字は、具志頭にも書けない、名護にも書けなかった。「これはもう、山田を連れてきて書かさなければならない。」と(考え)「山田を連れて来て書かせなさい。」と言ったそうだ。琉球王が。それで、山田に相談して、「波之上の碑文の字は誰にも書けない。貴方様にしか書けません。」と言って(さらに)「お迎えに来ましたので、どうぞ、御一緒に言って書いて下さい。」(すると山田は)「それくらいの字は、貴方達ができるから書きなさい。私はもう、島流しをされた三だから、沖縄に行く事は出来ない。」と言って、断ったそうだ。しかし、(使者は山田が)断っても、断わらせず,必ずもうお迎えしようとしたので、止むをえず、(山田は)八重山からいらっしゃって、(碑文を)書いたそうだ。その字は、一日で書けるものを一週間かけてね、(山田は)からかっているので、具志頭には硯を持たせ、名護には墨をすらせて、そして、一日でかける字を、一週間かけて、ようやく仕上げたそうだ。そして、仕上げてまた八重山へ帰って行った。ところが「沖縄へ来て、沖縄で勤めた方がよいのではないか。もう、それは今までの悪い事は打ち捨てて沖縄へ来てくれ。」と王様がおっしゃったそうだ。(山田は)「流されてしまっては、もうここが良い所ですから、ここが私の立場としてはこの方が良い。もう、沖縄に戻る事は出来ません。」(と断って)そのままそこで暮らしたそうだ。それで向こうは、山田の子孫が多く広がったそうだ。

再生時間:6:23

民話詳細DATA

レコード番号 47O370802
CD番号 47O37C037
決定題名 秀り山田(方言)
話者がつけた題名 秀り山田
話者名 伊波蒲戸
話者名かな いはかまど
生年月日 18940613
性別
出身地 沖縄県読谷村伊良皆
記録日 19770223
記録者の所属組織 読谷村民話調査団第1班
元テープ番号 読谷村伊良皆T01A13
元テープ管理者 読谷村立歴史民俗資料館
分類 本格昔話
発句(ほっく)
伝承事情 年寄り
文字化資料 読谷村民話資料集1伊良皆の民話 P145
キーワード 塩の話,名護親方,具志頭名護親方,山田親方,琉球の王様,御馳走,お米,豚肉,島流し,八重山,泊高橋,銀の簪,波之上に碑文,硯,墨,
梗概(こうがい) あれは、塩の話は、私も年寄から聞いた。あれは、どういう話かというと、名護、具志頭、山田親方といって、三人の親方だったそうだが、琉球の王様が、「この国の御馳走で美味しいものはなんだろうか、具志頭。」と具志頭親方に聞くと、「はい、この世の美味しいものはお米でしょうね。お米よりほかに美味しい物はないんじゃありませんか。」(と答えた)「ああそうか。それでは名護はどうか。名護よ、君だったら、この沖縄の美味しい物は何だ。」と言った。(名護は)「はい、沖縄の美味しい物は、豚肉です。」と言ったそうだ。すると(王様は)「どうして、豚肉とはどういう訳だ。」「豚肉は、堅い物は柔らげ、柔らかいものは煮込みにするし、あれより美味しい物はありません。」「ああそうか。」と言ったそうだ。「山田はどうか。」(と、王が山田に聞くと)「沖縄の御馳走は、それは塩です。」と言ったそうだ。「どうして、塩は苦いし、辛いし、何もそれは美味しい物ではない。味を作るものではないか。」と、(王が)言うと「はい、それは塩が入らないと、何も(美味しく)食べられません。」と、(山田は答えた。)すると、(王様は)「ああそうか。君は私をからかっているのか。きみはあんなに辛くて、苦い物を美味しい物だと言って、ここに話をだすのは、君は私をからかっているのだ。」と言って、「君は勤めを止めよ。君はこの国には置けない。島流しにしてやる。」(と言った。) そして、島流しにされる時がやってきたそうだ。〈昔は、島流しをする時は、泊港から船を出していたそうだ、八重山に。〉それで、島流しされることなったので、この山田親方は歌を作った。その歌の詩は、「泊高橋に銀の簪を落とした いつになったら夜があけて 捜して差せるか 苦い、辛い、ハーラユイサッサー。」泊高橋の歌の由来は、山田親方が作ったそうだ。そして、八重山に流されてしまった。それから、(山田親方が流されて)後になって、波之上に碑文があったらしい。(ところが)その碑文の字は、具志頭にも書けない、名護にも書けなかった。「これはもう、山田を連れてきて書かさなければならない。」と(考え)「山田を連れて来て書かせなさい。」と言ったそうだ。琉球王が。それで、山田に相談して、「波之上の碑文の字は誰にも書けない。貴方様にしか書けません。」と言って(さらに)「お迎えに来ましたので、どうぞ、御一緒に言って書いて下さい。」(すると山田は)「それくらいの字は、貴方達ができるから書きなさい。私はもう、島流しをされた三だから、沖縄に行く事は出来ない。」と言って、断ったそうだ。しかし、(使者は山田が)断っても、断わらせず,必ずもうお迎えしようとしたので、止むをえず、(山田は)八重山からいらっしゃって、(碑文を)書いたそうだ。その字は、一日で書けるものを一週間かけてね、(山田は)からかっているので、具志頭には硯を持たせ、名護には墨をすらせて、そして、一日でかける字を、一週間かけて、ようやく仕上げたそうだ。そして、仕上げてまた八重山へ帰って行った。ところが「沖縄へ来て、沖縄で勤めた方がよいのではないか。もう、それは今までの悪い事は打ち捨てて沖縄へ来てくれ。」と王様がおっしゃったそうだ。(山田は)「流されてしまっては、もうここが良い所ですから、ここが私の立場としてはこの方が良い。もう、沖縄に戻る事は出来ません。」(と断って)そのままそこで暮らしたそうだ。それで向こうは、山田の子孫が多く広がったそうだ。
全体の記録時間数 6:23
物語の時間数 6:23
言語識別 方言
音源の質
テープ番号
予備項目1

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