阿麻和利と護佐丸(方言)

概要

昔、屋良村に、もう大変体が軟弱な男の子がいたようだ。体が弱いので、いつまでたっても歩くことも立つこともできなかった。家族も諦めてしまって、「もう、こいつは捨ててしまえ。」と言って、山の中の知らない所へ捨てられてしまった。そして、そこで暮らしていたらしい。その後、それから網を編むことを彼は考え出したという話である。その網は、蜘蛛の巣、寝ていて蜘蛛が巣を作るのを見ていて、自分で考えて綱を作り出したという話である。 それから、体が丈夫になったので、与那原に行った。与那原の浜で、その網で打ち網をしてたくさんの魚を獲って皆にただで魚を分けてあげた。そうしたら、「貴方の御恩はどんなにして報いたらよろしいでしょうか。」と、人民の全てがそう言ったので、「私への恩義は、私が要望する時に報いて下さい。」と、阿麻和利は言われた。「そういうことなら、そういたしましょう。」と(人民も)言った。そのときには、すでに(阿麻和利は)勝連城を落としてやろうと思っていたようだ。そして、「では、今日の夜、全員揃って松明をともして、船に乗って勝連に向かって来なさい。」と、与那原の人民に命令したので、与那原では船のあるだけ、人のいるだけ船に乗せて、松明をつけて鼓や鉦を打ち鳴らし出かけて行ったようである。そうしたら、阿麻和利は勝連城に先廻りして行って、そして、そこの按司加那志に、「あのですね、あなた様のところに、首里城から戦いをしに押し寄せて来ます。」と言ったので、その按司は、「いやいや、私たちが首里城から攻められる訳はない。絶対そういうことはない。」と言った。「それなら、まずは出て見て下さい。」ということで、物見台の方へ御案内して行った。そうして、物見台から、「それ、あのように押し寄せて来ますよね。」と言った。鼓や鉦を打って、松明を灯して船からやって来るのを見て、按司は、「ほんとだなあ、いったい何だろう。」と、考えていらっしゃった。後方は崖であったというから、阿麻和利がそのとき、あっというまにそこに突き落として、阿麻和利がこの勝連城の按司になった。それから、勝連城のもとの臣下は、阿麻和利に味方する者は残して、味方につかない者は片端から切り捨てていった。そのようにして、それから勝連の按司になったわけである。一方、護佐丸は、十七歳の時に北山を落として来て何年にしたかは分らないけれども、そのあとすぐ、山田グシクに城を築いたようだ。しかし、また山田グシクから引越して、座喜味グシクに城を築いた。護佐丸はその時以来いらしたようである。その時から‥‥‥‥。 阿麻和利が勝連城の按司になったからには、もう(首里の)王様に逆うのは当然だと、護佐丸はお考えになられた。それで、道を封じるために、中城に城を引越したようである。しかし、阿麻和利は余計に考えが強くて、その策略は知っていて、「ああ、また護佐丸が中城に城を構えられたからには、また(首里への)道は封じられてしまうことになる。護佐丸から退治しなければいけない。」と考えた。そこで、(阿麻和利は)王様の所へ行って嘘のことを申し上げた。「護佐丸がいま首里に戦いをいどんで来ます。今、武具を盛んに作っている最中です。」と、報告した。護佐丸は、まだ中城城は完成しないで築城の真最中であられたようである。それで、鍛冶の仕事をしていたわけであるが、そのように(嘘を)言った。それで、首里からの使いの者を行かせた。「それなら見て来なさい。」と派遣された。その使いの者は臆病者だったのか、それとも阿麻和利に買収されたのか(それは分らないが。)そうして、首里に帰って行き、「もう確かに武具、戦争道具を作っていましたよ。」と、首里城の(王様に)申し上げた。「それでは、早く戦うように。」と、命令され、首里城から戦いを仕掛けたようである。その日は、九月の十三夜であったようである。そこで、この護佐丸は、なるほど首里城の婿になっているわけであるから、それで親に手向かうことは出来ない。王様に反抗することは出来ないということで、泣く泣く子供や妻を全員殺した。しかし、三男ひとりだけは、残ったようである。その時に、もう三男坊だけは太刀をふりかざして殺そうとすれば、太刀を掴まえてむじゃきに笑うので、殺すことが出来なかった。そういうことで、三男は逃がしたようである。ある鍛冶屋にそこの子供として育てられたという話である。そこで、護佐丸は死ぬ前に遺言を書いてね、その遺言状を口の中に入れて切腹なされたようである。そこで、今回は首里城から戦いを仕掛けて来て、本人からはしてない。それは首里城からした訳で、護佐丸の方からはしていない。そして、護佐丸の頭を持って行って、もう、「殺してきました。」と、王様の前に持って行ったようである。そこで、持って行ったので、「ああ、殺して来たか。」と、うなずいた。しかし、頬の膨れたのに気づかれて、「はて、病気であったのかな。彼の頬が膨らんでいるが。」とおっしゃった。そこで、口を開いて見たら、紙に書かれたのが入っていた。紙に書かれたのが入っていたので、その紙を取り出して見てみると、遺言。護佐丸自身は、(阿麻和利の野望を)知っていらっしゃったのだ。それで、遺言を書いたものであったから、それをお読みになって、王様は大変お泣きになった。「ああ、彼をこのような目にあわせるものでなかったものを、ああ、こんなにしてしまって。」と、残念して大変泣き悲しんだということである。そこで、自分の娘を阿麻和利に与えたら、首里や私には手向かわないだろうと考えて、娘を勝連の阿麻和利に与えたようである。そして、王様は娘を(阿麻和利に)与えた。そのとき、(勝連城の)様子をさぐらす目的で、大城大主を犠牲になった娘のお伴として勝連城に行かせたようだね。その後、大城大主は(王様の娘の)お伴として互いに暮らしていたが、いつも何かありはしないかと用心していた。ある時、後の離れ屋敷で武芸の稽古に励んでいたようである。密談をかわしているのに気づき、その大城大主は盗み聞きしたようである。「もう、某月某日には攻めて行くのは大丈夫だから、その時にやろう!。」と、日時を決めて話し合っているのを聞いたようである。それを聞くと、もう一大事なことだと、すぐ引き返して来て、王様の娘、つまり阿麻和利の妻をたたき起こして、「さあ行きましょう。」と言って、二人して逃げたようである。逃げたようであるが、(阿麻和利の軍が)追って来て、娘は知花で殺されたという話である。そうしてまた、大城大主は知花の西の屋取の民家にお隠れになられて、そこで無事凌いで急いで首里に向かって行ったようである。そこで、阿麻和利の軍勢は東廻り、中廻りであったようである。それで、大城大主は先に首里城に着いたようである。さっそく、首里城に行って、「かくがくしかじかであった。」と報告をすると、首里城では阿麻和利の軍勢が攻めて来るまでには、準備を整えていたそうだ。そうして、(阿麻和利の軍勢が)来たので、すぐ戦って先方の阿麻和利は負けて、海上から一目散に逃げて、どこに行ったか分らなかったようである。そうして、どこに行ったやら分らないがね、私達の読谷村の楚辺部落の楚辺の前からフロシキを被って、女装して取り残しの芋を掘りあさって歩いたという話があった。そうして、今の大木部落というのはね、そこに大木(おおき)と称して大木(たいぼく)があったという。たいへん大きなものであった。その木の名を大木(じーふぎー)と言い、その大木の中に阿麻和利は住んで、楚辺の前付近から芋を掘りあさったようである。 そこで、その話を聞いて大城大主はそこを探して来た。そして、楚辺の東側で(阿麻和利を)捕えて、そこで長刀で首を押えつけて、「悪かったと思うか、悪かったと思うか。」と言って、詫を入れさせた。〈昔は、エンミサという言葉は、詫することにエンミサと言っていたよ。私達の小さい頃までは、「エンミサさせなさい。」と言っていたよ。〉阿麻和利を捕えて、そこで詫を入れさせた。そして首里に連れて行って打首にして、皆に見せ物にしたという話。

再生時間:11:26

民話詳細DATA

レコード番号 47O370697
CD番号 47O37C032
決定題名 阿麻和利と護佐丸(方言)
話者がつけた題名 阿麻和利の和
話者名 神谷カマド
話者名かな かみやかまど
生年月日 19020608
性別
出身地 沖縄県読谷村瀬名波
記録日 19770815
記録者の所属組織 読谷村民話調査団第10班
元テープ番号 読谷村瀬名波T07B10
元テープ管理者 読谷村立歴史民俗資料館
分類 伝説
発句(ほっく) んかしやらむらんかい
伝承事情
文字化資料 読谷村民話資料集4瀬名波の民話 P182
キーワード 屋良村,軟弱な男の子,捨てた,網発見,蜘蛛の巣,与那原の浜,打ち網,魚,阿麻和利,勝連城,与那原,松明,鼓や鉦,按司加那志,首里城,物見台,護佐丸,北山,山田グシク,座喜味グシク,中城,首里城,鍛冶,戦争道具,九月の十三夜,首里城の婿,子供や妻を全員殺した,三男,大城大主,知花,読谷村の楚辺,女装,芋を掘りあさる,大木部落,エンミサ
梗概(こうがい) 昔、屋良村に、もう大変体が軟弱な男の子がいたようだ。体が弱いので、いつまでたっても歩くことも立つこともできなかった。家族も諦めてしまって、「もう、こいつは捨ててしまえ。」と言って、山の中の知らない所へ捨てられてしまった。そして、そこで暮らしていたらしい。その後、それから網を編むことを彼は考え出したという話である。その網は、蜘蛛の巣、寝ていて蜘蛛が巣を作るのを見ていて、自分で考えて綱を作り出したという話である。 それから、体が丈夫になったので、与那原に行った。与那原の浜で、その網で打ち網をしてたくさんの魚を獲って皆にただで魚を分けてあげた。そうしたら、「貴方の御恩はどんなにして報いたらよろしいでしょうか。」と、人民の全てがそう言ったので、「私への恩義は、私が要望する時に報いて下さい。」と、阿麻和利は言われた。「そういうことなら、そういたしましょう。」と(人民も)言った。そのときには、すでに(阿麻和利は)勝連城を落としてやろうと思っていたようだ。そして、「では、今日の夜、全員揃って松明をともして、船に乗って勝連に向かって来なさい。」と、与那原の人民に命令したので、与那原では船のあるだけ、人のいるだけ船に乗せて、松明をつけて鼓や鉦を打ち鳴らし出かけて行ったようである。そうしたら、阿麻和利は勝連城に先廻りして行って、そして、そこの按司加那志に、「あのですね、あなた様のところに、首里城から戦いをしに押し寄せて来ます。」と言ったので、その按司は、「いやいや、私たちが首里城から攻められる訳はない。絶対そういうことはない。」と言った。「それなら、まずは出て見て下さい。」ということで、物見台の方へ御案内して行った。そうして、物見台から、「それ、あのように押し寄せて来ますよね。」と言った。鼓や鉦を打って、松明を灯して船からやって来るのを見て、按司は、「ほんとだなあ、いったい何だろう。」と、考えていらっしゃった。後方は崖であったというから、阿麻和利がそのとき、あっというまにそこに突き落として、阿麻和利がこの勝連城の按司になった。それから、勝連城のもとの臣下は、阿麻和利に味方する者は残して、味方につかない者は片端から切り捨てていった。そのようにして、それから勝連の按司になったわけである。一方、護佐丸は、十七歳の時に北山を落として来て何年にしたかは分らないけれども、そのあとすぐ、山田グシクに城を築いたようだ。しかし、また山田グシクから引越して、座喜味グシクに城を築いた。護佐丸はその時以来いらしたようである。その時から‥‥‥‥。 阿麻和利が勝連城の按司になったからには、もう(首里の)王様に逆うのは当然だと、護佐丸はお考えになられた。それで、道を封じるために、中城に城を引越したようである。しかし、阿麻和利は余計に考えが強くて、その策略は知っていて、「ああ、また護佐丸が中城に城を構えられたからには、また(首里への)道は封じられてしまうことになる。護佐丸から退治しなければいけない。」と考えた。そこで、(阿麻和利は)王様の所へ行って嘘のことを申し上げた。「護佐丸がいま首里に戦いをいどんで来ます。今、武具を盛んに作っている最中です。」と、報告した。護佐丸は、まだ中城城は完成しないで築城の真最中であられたようである。それで、鍛冶の仕事をしていたわけであるが、そのように(嘘を)言った。それで、首里からの使いの者を行かせた。「それなら見て来なさい。」と派遣された。その使いの者は臆病者だったのか、それとも阿麻和利に買収されたのか(それは分らないが。)そうして、首里に帰って行き、「もう確かに武具、戦争道具を作っていましたよ。」と、首里城の(王様に)申し上げた。「それでは、早く戦うように。」と、命令され、首里城から戦いを仕掛けたようである。その日は、九月の十三夜であったようである。そこで、この護佐丸は、なるほど首里城の婿になっているわけであるから、それで親に手向かうことは出来ない。王様に反抗することは出来ないということで、泣く泣く子供や妻を全員殺した。しかし、三男ひとりだけは、残ったようである。その時に、もう三男坊だけは太刀をふりかざして殺そうとすれば、太刀を掴まえてむじゃきに笑うので、殺すことが出来なかった。そういうことで、三男は逃がしたようである。ある鍛冶屋にそこの子供として育てられたという話である。そこで、護佐丸は死ぬ前に遺言を書いてね、その遺言状を口の中に入れて切腹なされたようである。そこで、今回は首里城から戦いを仕掛けて来て、本人からはしてない。それは首里城からした訳で、護佐丸の方からはしていない。そして、護佐丸の頭を持って行って、もう、「殺してきました。」と、王様の前に持って行ったようである。そこで、持って行ったので、「ああ、殺して来たか。」と、うなずいた。しかし、頬の膨れたのに気づかれて、「はて、病気であったのかな。彼の頬が膨らんでいるが。」とおっしゃった。そこで、口を開いて見たら、紙に書かれたのが入っていた。紙に書かれたのが入っていたので、その紙を取り出して見てみると、遺言。護佐丸自身は、(阿麻和利の野望を)知っていらっしゃったのだ。それで、遺言を書いたものであったから、それをお読みになって、王様は大変お泣きになった。「ああ、彼をこのような目にあわせるものでなかったものを、ああ、こんなにしてしまって。」と、残念して大変泣き悲しんだということである。そこで、自分の娘を阿麻和利に与えたら、首里や私には手向かわないだろうと考えて、娘を勝連の阿麻和利に与えたようである。そして、王様は娘を(阿麻和利に)与えた。そのとき、(勝連城の)様子をさぐらす目的で、大城大主を犠牲になった娘のお伴として勝連城に行かせたようだね。その後、大城大主は(王様の娘の)お伴として互いに暮らしていたが、いつも何かありはしないかと用心していた。ある時、後の離れ屋敷で武芸の稽古に励んでいたようである。密談をかわしているのに気づき、その大城大主は盗み聞きしたようである。「もう、某月某日には攻めて行くのは大丈夫だから、その時にやろう!。」と、日時を決めて話し合っているのを聞いたようである。それを聞くと、もう一大事なことだと、すぐ引き返して来て、王様の娘、つまり阿麻和利の妻をたたき起こして、「さあ行きましょう。」と言って、二人して逃げたようである。逃げたようであるが、(阿麻和利の軍が)追って来て、娘は知花で殺されたという話である。そうしてまた、大城大主は知花の西の屋取の民家にお隠れになられて、そこで無事凌いで急いで首里に向かって行ったようである。そこで、阿麻和利の軍勢は東廻り、中廻りであったようである。それで、大城大主は先に首里城に着いたようである。さっそく、首里城に行って、「かくがくしかじかであった。」と報告をすると、首里城では阿麻和利の軍勢が攻めて来るまでには、準備を整えていたそうだ。そうして、(阿麻和利の軍勢が)来たので、すぐ戦って先方の阿麻和利は負けて、海上から一目散に逃げて、どこに行ったか分らなかったようである。そうして、どこに行ったやら分らないがね、私達の読谷村の楚辺部落の楚辺の前からフロシキを被って、女装して取り残しの芋を掘りあさって歩いたという話があった。そうして、今の大木部落というのはね、そこに大木(おおき)と称して大木(たいぼく)があったという。たいへん大きなものであった。その木の名を大木(じーふぎー)と言い、その大木の中に阿麻和利は住んで、楚辺の前付近から芋を掘りあさったようである。 そこで、その話を聞いて大城大主はそこを探して来た。そして、楚辺の東側で(阿麻和利を)捕えて、そこで長刀で首を押えつけて、「悪かったと思うか、悪かったと思うか。」と言って、詫を入れさせた。〈昔は、エンミサという言葉は、詫することにエンミサと言っていたよ。私達の小さい頃までは、「エンミサさせなさい。」と言っていたよ。〉阿麻和利を捕えて、そこで詫を入れさせた。そして首里に連れて行って打首にして、皆に見せ物にしたという話。
全体の記録時間数 11:26
物語の時間数 11:26
言語識別 方言
音源の質
テープ番号
予備項目1

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