大昔にこの波照間に人が住み始めた話がありますが、これはただ口伝えで先輩達から聞いた話ですから、文献にもない話です。その始まりは、婆さんをパー、爺さんをブヤーと言いますから、石神婆(いしかんぱー)、石神爺(いしかんぶやー)だということになってます。これは、この島の東の方にある飛行場の南に高那崎っていう岬があって、その高那崎のブドゥって言うところの沖を南の方からやってきた夫婦が乗っている舟が東の海を航行中ですよ、その奥さんが産をもようして、「お腹が痛い。」ということで、陣痛が起きたらしいですね。だから、「こりゃ小さい舟の上では、お産は無理だ。ちょうど近くに島がある。」と言って、島の近くで波も静かであったと思うんですよ。だから、島に上陸して岩が多いとろを百五十メートルほど上がって行くと、丘と磯との境目近くに一五〇センチメートルぐらいの高い岩があるんです。その岩の側で最初の子どもが生まれたってことですね。ここの方言では、お産のときをシラっと言って、その石のところで安産をしたから、その石をシラ石と言ってます。それから七日の間は、シラの期間で火を燃やして妊婦の腹を温めますから、そこでちょうど一週間は、その側で過ごしたと。だから、その時に火を炊いたから石が焼けたので、今でもそのシラ石には焼けた跡が残ってます。この夫婦がこの島の先祖で、その二人が石になったということで、婆さんの石を石神婆(いしかんぱー)、爺さんの石を石神爺(いしかんぶやー)と言って名前をつけて祀っています。「こういう海岸端では生活も出来ないし、育児も出来ないな。」と言って、そのシラ石の北東に、上は雨が降っても漏らん笠みたような形で、その笠の屋根の下は家みたいにして中は広いカササニという立派な石があるんですよ。だからカササニという石の中で育児をやったというわけですよね。この石もまた今でもあります。このとき最初の子どもを生んだシラ石と婆さんの石の石神婆(いしかんぱー)、爺さんの石の石神爺(いしかんぶやー)、子育てをしたカササニ石の四つの石は、今でも島の人が崇拝しておりますね。しかし、そこも海が近いから、「どうしても人間は、海岸では潮風が強いから生活は出来ない。」と言って、今の飛行場の下のアリドウ山には、今は僅かしか福木が残ってないが、昔は福木がたくさんあって、そこに家を作るわけなんです。そこで暮らしているひちに、その子どもがどんどん生まれて繁盛してですね、アリドウ山という一つの部落ができて、それからまたどんどん人間がその増えて栄えていったんです。そこのアリドウ山でどうして生活はやったかと言うと、高那のヌドゥっという所、ニシホンドウという所、またバレミズっと言う所はみんな岩で、そこばかりかこの波照間の周辺は、浜は少なくて岩があるでしょう。この岩の上に嵐になれば、海水が上がって来て溜まって、その海水は雨が降らなければ日に照らされて岩の上に自然の塩が出来るわけですね。その当時は、鉄がなくて鉄鍋がないからね、塩が炊けなかったから、塩っていうのは自然の物しかなかったらしい。だから塩の価値というのはね、貴重でから、沖縄の琉球王は、この島の塩を持ち出すことは出来ないという規則なんもあったというんですね。だけど、この島には、高価で売れる塩があるから、闇船なんかが来て、その塩と穀物や品物と交換してですね、こう行き交いをしたことなんかの話が今でも伝えられておる。そのうちに、こっちの塩は自分の物であるから、どんどん塩が出来れば俵に詰めて倉庫に入れておいて、別の島から持ってきた穀物とか使い道具などいろいろな物と物々交換して生活をしていたと聞いているんです。それからこの島は繁盛してですね、どんどんまた人間が増えてきたんです。石神婆(いしかんぱー)、石神爺(いしかんぶやー)の後で村が建った順序を言うと、アリドウ山の部落が最初建って、またその次にブシシ部落が建つんですよ。それから三番目には下地井戸があるペーフタツパーの部落ができて、四番目には牛が見つけたシモスケーの井戸があるシムス村、その後で西の方に行って、タカツ村、次にマシュク村と水を頼りに部落が建てられ、そして今のブルブチ公園の下のミシュク村で終わるんです。ところがあっちでは水のある所があまり遠いから、生活が困ったらしいですよ。それでもどんどんどんどん人が増えたから海の瀬が引いたときに潮干がりの出来る海岸を辿って村を作って、海のもの、陸のものを取って、その生活をしたというんですよ。昔は、果物なんかですね、バンシルとかな食べ物のンタとかいろんなものがあったわけ。しかし、自然の果物が増えると虫もどんどん数多くなってきてみんなこう食いつぶしたんですがね、バンシルだけは、虫は食べないからそれを食べて、だから、人間が増えてくると後にはどうしてもいろいろな作物を作らんとならんでしょう。そして、次は水の問題がくるから、人の住む村はどんどんどんどんまた水のある西の方へ西の方へと寄ってくるわけですよ。そのころ、今の飛行場から下になるアリドウ山の北側の二百か、三〇〇メートルぐらいのところでシムスケーの東になりますが、そこの文化財に指定された下地井戸の近くの村にぺーフタツパー屋敷というのがあったんですよ。そこの婆さんは物知りでブシシパーの苧(ぶー)と言う麻を作っていて、その麻で着物も自分で作っていたっていうんですね。それで、こっちで健康祈願をする場合はですね、必ずブシシパーの麻糸はペーフタツパーという人の始めたものですから、その麻糸を持ってきて、マーブルと言ってですね、首にも足にも手にもこう巻くんです。これ一つの魂(まぶい)と言ってこうやるんですよ。この人の拝所は貝敷さんの本家にあります。ところが、その婆さんが、自分の長男にですね、「水を汲んで来なさい。」と言ったらね、長男は反対に潮水を汲んできて婆さんにあげる。また、「潮水を汲んできておくれ。」と言ったら、水を汲んできて反対にやって親を苦しめるからね、ブシシバーという婆さんは、「自分が死んだら津波をその起こしてあんたを殺してやる。」と言って、自分が亡くなった後、津波を出させてその子どもを困らしたって言うんです。その津波の時にですね、その息子の家なんかが寄せられた平坦な所はキタピナと言って、その息子が津波に追われてきて咳をしながら倒れて死んだところを咳をサコというから、サコザバルコッチと言っています。今でもそこは息子が死んだところだから、東部落の人はそこをお墓だと言っているだが、私もそのお墓を注意して見たこともないんだよ。今そこは道路拡張のために崩されているのかはっきりしないが、この坂のすぐ下側にそのお墓はあるということは、昔から言われておるんです。ともかくそこの部落はその津波の被害でとうとう廃村となるわけなんですね。そのとき、女のこの腰巻きみたいなものをハカンと言うんですね。その腰巻きみたいなのが寄った所はブワントウと言う地名になっているんですね。それで津波が恐いから、住民は海岸の村を止めて、島の中央で水のあるところを頼ってみんな部落を形成したのが現在の五つの部落であると言われています。その後で、年代が分からんが、波照間に油雨というのが降ってきて、波照間でそれまで繁盛してきた石神婆(いしかんぱー)、石神爺(いしかんぶやー)の子孫が、ただ兄妹二人だけ残して、全滅したというんですね。この二人は、今の製糖工場の西のすぐ浜の上で、バショツの東にミシュクの洞(がま)という洞窟があって今現在拝所となっているそこに、その兄妹二人が隠れていて助かったと。今、あの洞窟は、全部塩で埋められて見えないわけ。この二人は、子どもであったというから、そのミシュクの洞(がま)で成長して、やがて兄と妹の二人が夫婦となって、新生(あらまり)が始まるんですね、しかし、初めて生まれてくる子がですね、ボーズと言って毒魚のハナサゴとかそれからイシャバとかが生まれたらしいですね。こんな人間じゃない海の動物が生まれたから、「ああこれは海の側におるから、こういう動物が生まれるだろう。」ということで、一応また溝になっておるバショツの上に家を移したというんですね。そこでまた生まれる子が百足とかね、蛇とかの陸に住む人に嫌われるものが生まれたらしいですよ。だから、「まだこっちでも駄目だ。」と三番目に移動したのが、ヤク村と言って、この部落なんですよ。そのヤク村に移って家を作って生まれた子は人間らしいのが生まれたというんですが、それでも満足しないもんで、四回目には今の現在の保田盛家の屋敷に来たら立派な子に恵まれて、その二人の子どもから、また波照間の人間が始まって、人間がまた繁盛していくわけなんです。このときの妹の方は、新生(あらまり)の婆(ぱー)と言って、現在もお墓がミシュクの洞(がま)の百メートルぐらい上に行ったところにあって、それが今の現在の保田盛家の拝所としてウートートーやっておるところです。この話で油雨っていうのですがね、こっちには近くに噴火山も無いから不思議なんですよ。それから後に特別にカンタビーの時代という裕福な時代が来るんですね。この裕福な時代というのはね、そのころは農作物も琉球王府への上納というのもない。海賊とかもね、島の周辺にはちゃんと城を築いて警備はされてるから安心で、本当に自分の作ったものは、全部自分のもので、どこにも出さないでいい。だからあんまり無理に働かないでも楽して飯も食えるという時代であって、恋愛なんかの遊びは、夜はしないで、昼に洞窟なんかで遊んだというんですよ。その洞窟で昼に遊んだ歌なんかは今もありますよ。この裕福な時代はですね、食べ物は島にあるものさな。だから、その歌なんかにはですね、女は洞窟の中で糸を紡いだり、男は海に行って魚捕って来て、魚は、刺身魚としても捕って食えば、焼き魚のおいしいのを焼き魚にする。また水煮にも御汁にするのは御汁にと食べたりする生活をしていたと。そしてその時代は、ちょっといい家なんかなると大体家の屋敷のね、門の辺りなんかに台を作って、友達が集まれば、こっちで踊を披露する場所で、飲んだり遊んだりしたという風なやり方で、まるで日本の元禄時代に似たような時代があったと聞くんです。それが評判になったのか、夜になると海賊がこの島にどんどん夜襲して来たんですね。これ倭寇であったのか、それから台湾、中国辺りからのであったのか、そこが分からないんですがね、この島を荒らしたって言うんですよ。その海賊は、昔はこの島ではみんな野原(のっぱら)に、牛をつないでおいたから、その牛なんかを盗んだと言うからね。それからまた倉庫の穀物を盗んだり、女を強姦したりですね、大変なことばっかりやったらしいです。だから、今の調子ではこの島で生活は出来ないという段階まで来たというんです。「じゃこれはどうするか。」ということで、それから後は城を築くわけなんですよ。この城を築いたのは、こっちからいくと、この上にブルブチ公園というのあって、そのブルブチに一人の武士が城を構えるわけです。それから東に行くと、タカツ村とマシュク村があって、そこのタカクンシビには今でも海岸に大きい石垣がこうずっと積まれておって、そこにも部落を守る武士がおったらしいですな。それから、北にはスプースク所の城は土地改良でみんな崩されてしまって、そこにはただ二つの見張り台に積んだ石だけが残っていますがね、そこも武士のおった見張り台じゃなかったかなと思うんです。また東に行くとキタムラというすごい城があったんです。これも石垣で相当残っていたんだが、土地改良でみんな崩して、この石もみんなばらして、みんな全部畑になっていて、このキタムラは全滅です。それから、もっと東に行くと今の飛行場の南の断崖の上にナチャブヤーというすごく広い面積の城があるんですね。これは今まで全部崩してないからそのまま残っていますが、ただ隠れ場所の洞窟だけは、大塚朝日株式会社がね、その穴をみんな墓石でこの塞いでしまったんですね。私なんかはその洞窟の中に何回も行って椰子蟹なんか捕って食べた経験はあるから、その穴があるということはちゃんと分かります。そのころの戦法は福木を植えて、福木のこの上の高い所だけを寄せてきてこう縛って、この上で弓なんか使ったっていうんです。そのころは同じこの島内でもいろんな争いごとがあるわけなんです。例えば、キタムラからちょっと西に来たところにキャバル山という所がある。このキャバル山の武士とキタムラの武士は仲が悪くてですね、時々戦争したというんですね。そのときに、チャバル山の武士は戦の穴(みー)という戦法を使ったというんです。この戦の穴(みー)というのは、キタムラの武士達が下からこう攻めてくるとですね、チャバル山の武士はそこにある穴の中にどんどん入って行くように見せたらしいんですよ。そうすると、キタムラの武士は、「この穴に入った。」と言ってどんどん来てまたその穴に入ったというんですね。最後に全部入ったと思うと、すぐ隠れておるチャバル山の武士は、その入り口の所に刀を構えて待っておって、穴から出て来るキタムラの武士をボンボンみんなたたっ切るという作戦であるわけですよ。だから、チャバル山の武士もね、賢いところがあるわけなんです。それからまた前部落の前にカタナブツという所に城があって、そこも土地改良が来年か再来年頃だから、これも今のうちに保護しないといかんと私は思うんです。それからまたペイニシクという所にも城があって、ペミシク武士がいたんだが、そこは城の石垣がみんな土地改良で崩されて、石は道路の補修なんかに行って、ただ山だけはね、今もちょっと残ってます。そのペミシク武士と争ったアラブツ武士は、今の玉城荘(たましろそう)の東の高台に城があったんだが、土地改良でみんな無くなっていますね。そして島の中央の今の灯台のあるところは、ボスシと言って、波照間の一番の高台だから、そこは武士の見張り所なんです。この戦争中もそこに番小屋を作って監視所にしていました。このうボスシは、昔の屋敷だから牛が食べる草もよう生えておったから、その屋敷の中柱の石を持ってきて、柱を立てるぐらいの穴を開けて、そこに中柱を立てて牛を繋いでおった。これはどうして石に穴を開けるかというと、平坦な石の上で火を炊いて焼くと、石がこう柔らかくなってまた灰になるから掘りやすくなるわけさ。そうして穴を開けたところに柱を立てて牛を繋いでおいたんです。そのボスシ南寄りに、按司だった総大将のクッシアジマグのお城があって、そこは総大将の屋敷で神々しいと言って、全然崩してないから今でもありますよ。その総大将のそのクッシアジマグは、どのぐらいの年数そこの城主としてか分かりませんが、最後まで按司としてその城に留まっていたんです。そして、この島を守っていた武士達は、万一という場合は総大将の所にすぐに走って来て報告して、そこで体制を整えて海賊などには抵抗したということなんですよ。そして、また波照間のこの武士達は、十二支のうちのブーピンと言う子(ね)と午(うま)の日になるとこっちの南部落の近くの集会所に定例的に集まっていたんです。だから、そのとき総大将のクッシアジマグは部下に、「だあ、みんないらっしゃったか見てこい。」と言って、こっちの人は「いらっしゃった」というのを「オウレンナ。」と言うから、その集会所をオバレントウと言っていたんです。そこに集まった武士達は、いろいろ会談してそこからまたそれぞれの城に戻って行ったんです。しかし、昔のその配置した武士も、この島はその小さい島だから、めいめいまた食べ物は自分で作って生活をしたらしいです。だからキャバルヤマとナチャブヤーという二箇所の武士のところは水が一番遠いから、お母さんが下地井戸の辺まで歩いて頭に乗せて水汲みに行っていて、その間に子どもがおっぱい欲しさに泣く場合なんかは、泣いている子どもに、「もうどの辺まで来ているよ。」と言って子どもなんかすかして泣くのを止めたりしたというんですね。だから当時は今のキャバル山とかナチャブヤーなんかの水が遠くて大変であったところにも島を守るためには、見張りを置いたというわけですね。その城が大規模だったのは、例えばボスシの城は、今の灯台を建てるためにものすごい段差の所を埋め立てて、また農民道路作ってあるが、あれもそのボスシの石を持って行って埋めて道路を作ったんです。しかし、この武士の配置は、口伝えできただけで、文献には何もないんだが、その証拠に城が築かれてあるんだから、この口伝えは間違いないと私はこう確信しています。ところが、この島に八方に島を守る武士を置いた総大将のそのクッシアジマグは、赤蜂動乱の前まではこの城で生きておったわけなんですが、赤蜂動乱と同時にこの城は落城して、この島は平定され、それから後でこの島から首里への上納が始まるんです。王政時代になると食料品のうちなくなって一番困るのは食塩であったから、鉄の鍋があるようになっても、六カ月とか旱魃が続いても命は長らえるというが、三カ月雨が降ったらね、昔は塩が炊けなくて塩がなくなったから、大変であったらしい。だから、自然の塩が取れる波照間島からは取れた塩を全部上納させるために、首里王は、密航船と取引きをする波照間の人を一人でも見つけたらすぐに打ち首にするように命令していたから、役人の取締りは厳重だったそうだ。その上納の時代になって苦しいことが続いても、この島の五つの村は、廃村にならんで続いてきたんです。あるとき、塩の闇取り引きをする密航船が高那の沖に来ていたから、役人が釣りをしているふりをしながら警戒しておるときに、「人臭い。人臭い。この辺に人がおる。」と言ったそうだよ。そんなときに人気のない高那の岸のあたりに隠れている人は、たいてい密航船と取引きする人だから、見つかったらもうすぐに打ち首なんだよ。なぜそこにいる人が発覚したかというと、この波照間島で一番おいしい質の良い煙草の出来るのは、昔、この近くにあったウッチョー村だったらしいですよ。だから、ウッチョー村の人が歩いているとおいしい煙草の匂いがするから、「ああ、ウッチョー村の人が来た。」と分かるぐらいだったらしいですね。そこで、そのウッチョー村の人が見つかったら大変だから、こっちの人が、「あの爺さんを殺させない。」と言って、こう隠して守ったらしいですよ。そのウッチョー村の人は、そのとき自分を助けてくれた人を神様として自分の命を守ってくれた所で、何十年、何百年間も代々祈願していたらしいですよ。だから、私があの家の爺さんに、「あんたはどうして祈願を続けてこられたか。」と聞いたから、事情を話してもらえたんですよ。最近はその拝所を拝みに来られる方々は亡くなってしまって、今はただこの南部落だけで拝んでいるわけよ。これは、四、五年前のことですが、宮古の盆栽に趣味のある人がね、あのシラ石の上に生えていた浜シランの木を見つけたから、シラ石をハンマーで割って持っていったらしいですよ。浜シランの木は、盆栽向きの木で時々沖縄県一位なるのが出るんですよ。その宮古の人は、その石が石神婆(いしかんぱー)、石神爺(いしかんぶやー)が子を生んだところとは知らないで、浜シランの木を持って行ったら、その家の奥さんが病気するし、家族が病気して大変だと言うことで、また、浜シランの木をこっちに持って返してきて、ハンマーで割ったところは、セメンを持ってきてきれいに引っつけてから、この部落に来て、アラントユンチュという神様のお宮で謝罪したらようやく病気も治ったと言ってるんです。この子どもを生んだところのシラ石と母親の石神婆(いしかんぱー)、父親の石神爺(いしかんぶやー)、子育てをしたカササニ石の四つの石は、ずっと前から今まで波照間の人間生誕の地として、この南部落で必ず一カ年で三回は、道路やその近くを清掃に行き信仰を続けているんです。特に石神婆(いしかんぱー)のところは、アダンが繁っておりますからね、清掃しないと拝まれんのです。石神婆(いしかんぱー)と石神爺(いしかんぶやー)は、今でも私達の元祖として、崇拝していますから、私が若いころまでは波照間では子どもが生まれて、一週間ぐらいになると、世間のセキに立つと言って、生まれた子どもをおんぶして外に出ます。そうすると余所の爺さん婆さんたちが赤ん坊の頭をこう撫でながら、「石カンパーマーファ石カンパーマーファ、このヤナスクンハースクンハカルナヨー。」と言っていたんです。これは、「石神婆(いしかんぱー)、石神爺(いしかんぶやー)の子孫だから、風邪ひきでも病気もしないで偉い人になれよ」という意味です。
| レコード番号 | 47O201471 |
|---|---|
| CD番号 | 47O20C075 |
| 決定題名 | 注記(共通語) |
| 話者がつけた題名 | - |
| 話者名 | 勝連文雄 |
| 話者名かな | かつれんふみお |
| 生年月日 | 19170518 |
| 性別 | 男 |
| 出身地 | 沖縄県八重山郡竹富町波照間 |
| 記録日 | 19970914 |
| 記録者の所属組織 | 竹富町口承文芸学術調査団 |
| 元テープ番号 | 竹富町字波照間T146A01 |
| 元テープ管理者 | 沖縄伝承話資料センター |
| 分類 | 伝説 |
| 発句(ほっく) | - |
| 伝承事情 | - |
| 文字化資料 | - |
| キーワード | 油雨 |
| 梗概(こうがい) | 大昔にこの波照間に人が住み始めた話がありますが、これはただ口伝えで先輩達から聞いた話ですから、文献にもない話です。その始まりは、婆さんをパー、爺さんをブヤーと言いますから、石神婆(いしかんぱー)、石神爺(いしかんぶやー)だということになってます。これは、この島の東の方にある飛行場の南に高那崎っていう岬があって、その高那崎のブドゥって言うところの沖を南の方からやってきた夫婦が乗っている舟が東の海を航行中ですよ、その奥さんが産をもようして、「お腹が痛い。」ということで、陣痛が起きたらしいですね。だから、「こりゃ小さい舟の上では、お産は無理だ。ちょうど近くに島がある。」と言って、島の近くで波も静かであったと思うんですよ。だから、島に上陸して岩が多いとろを百五十メートルほど上がって行くと、丘と磯との境目近くに一五〇センチメートルぐらいの高い岩があるんです。その岩の側で最初の子どもが生まれたってことですね。ここの方言では、お産のときをシラっと言って、その石のところで安産をしたから、その石をシラ石と言ってます。それから七日の間は、シラの期間で火を燃やして妊婦の腹を温めますから、そこでちょうど一週間は、その側で過ごしたと。だから、その時に火を炊いたから石が焼けたので、今でもそのシラ石には焼けた跡が残ってます。この夫婦がこの島の先祖で、その二人が石になったということで、婆さんの石を石神婆(いしかんぱー)、爺さんの石を石神爺(いしかんぶやー)と言って名前をつけて祀っています。「こういう海岸端では生活も出来ないし、育児も出来ないな。」と言って、そのシラ石の北東に、上は雨が降っても漏らん笠みたような形で、その笠の屋根の下は家みたいにして中は広いカササニという立派な石があるんですよ。だからカササニという石の中で育児をやったというわけですよね。この石もまた今でもあります。このとき最初の子どもを生んだシラ石と婆さんの石の石神婆(いしかんぱー)、爺さんの石の石神爺(いしかんぶやー)、子育てをしたカササニ石の四つの石は、今でも島の人が崇拝しておりますね。しかし、そこも海が近いから、「どうしても人間は、海岸では潮風が強いから生活は出来ない。」と言って、今の飛行場の下のアリドウ山には、今は僅かしか福木が残ってないが、昔は福木がたくさんあって、そこに家を作るわけなんです。そこで暮らしているひちに、その子どもがどんどん生まれて繁盛してですね、アリドウ山という一つの部落ができて、それからまたどんどん人間がその増えて栄えていったんです。そこのアリドウ山でどうして生活はやったかと言うと、高那のヌドゥっという所、ニシホンドウという所、またバレミズっと言う所はみんな岩で、そこばかりかこの波照間の周辺は、浜は少なくて岩があるでしょう。この岩の上に嵐になれば、海水が上がって来て溜まって、その海水は雨が降らなければ日に照らされて岩の上に自然の塩が出来るわけですね。その当時は、鉄がなくて鉄鍋がないからね、塩が炊けなかったから、塩っていうのは自然の物しかなかったらしい。だから塩の価値というのはね、貴重でから、沖縄の琉球王は、この島の塩を持ち出すことは出来ないという規則なんもあったというんですね。だけど、この島には、高価で売れる塩があるから、闇船なんかが来て、その塩と穀物や品物と交換してですね、こう行き交いをしたことなんかの話が今でも伝えられておる。そのうちに、こっちの塩は自分の物であるから、どんどん塩が出来れば俵に詰めて倉庫に入れておいて、別の島から持ってきた穀物とか使い道具などいろいろな物と物々交換して生活をしていたと聞いているんです。それからこの島は繁盛してですね、どんどんまた人間が増えてきたんです。石神婆(いしかんぱー)、石神爺(いしかんぶやー)の後で村が建った順序を言うと、アリドウ山の部落が最初建って、またその次にブシシ部落が建つんですよ。それから三番目には下地井戸があるペーフタツパーの部落ができて、四番目には牛が見つけたシモスケーの井戸があるシムス村、その後で西の方に行って、タカツ村、次にマシュク村と水を頼りに部落が建てられ、そして今のブルブチ公園の下のミシュク村で終わるんです。ところがあっちでは水のある所があまり遠いから、生活が困ったらしいですよ。それでもどんどんどんどん人が増えたから海の瀬が引いたときに潮干がりの出来る海岸を辿って村を作って、海のもの、陸のものを取って、その生活をしたというんですよ。昔は、果物なんかですね、バンシルとかな食べ物のンタとかいろんなものがあったわけ。しかし、自然の果物が増えると虫もどんどん数多くなってきてみんなこう食いつぶしたんですがね、バンシルだけは、虫は食べないからそれを食べて、だから、人間が増えてくると後にはどうしてもいろいろな作物を作らんとならんでしょう。そして、次は水の問題がくるから、人の住む村はどんどんどんどんまた水のある西の方へ西の方へと寄ってくるわけですよ。そのころ、今の飛行場から下になるアリドウ山の北側の二百か、三〇〇メートルぐらいのところでシムスケーの東になりますが、そこの文化財に指定された下地井戸の近くの村にぺーフタツパー屋敷というのがあったんですよ。そこの婆さんは物知りでブシシパーの苧(ぶー)と言う麻を作っていて、その麻で着物も自分で作っていたっていうんですね。それで、こっちで健康祈願をする場合はですね、必ずブシシパーの麻糸はペーフタツパーという人の始めたものですから、その麻糸を持ってきて、マーブルと言ってですね、首にも足にも手にもこう巻くんです。これ一つの魂(まぶい)と言ってこうやるんですよ。この人の拝所は貝敷さんの本家にあります。ところが、その婆さんが、自分の長男にですね、「水を汲んで来なさい。」と言ったらね、長男は反対に潮水を汲んできて婆さんにあげる。また、「潮水を汲んできておくれ。」と言ったら、水を汲んできて反対にやって親を苦しめるからね、ブシシバーという婆さんは、「自分が死んだら津波をその起こしてあんたを殺してやる。」と言って、自分が亡くなった後、津波を出させてその子どもを困らしたって言うんです。その津波の時にですね、その息子の家なんかが寄せられた平坦な所はキタピナと言って、その息子が津波に追われてきて咳をしながら倒れて死んだところを咳をサコというから、サコザバルコッチと言っています。今でもそこは息子が死んだところだから、東部落の人はそこをお墓だと言っているだが、私もそのお墓を注意して見たこともないんだよ。今そこは道路拡張のために崩されているのかはっきりしないが、この坂のすぐ下側にそのお墓はあるということは、昔から言われておるんです。ともかくそこの部落はその津波の被害でとうとう廃村となるわけなんですね。そのとき、女のこの腰巻きみたいなものをハカンと言うんですね。その腰巻きみたいなのが寄った所はブワントウと言う地名になっているんですね。それで津波が恐いから、住民は海岸の村を止めて、島の中央で水のあるところを頼ってみんな部落を形成したのが現在の五つの部落であると言われています。その後で、年代が分からんが、波照間に油雨というのが降ってきて、波照間でそれまで繁盛してきた石神婆(いしかんぱー)、石神爺(いしかんぶやー)の子孫が、ただ兄妹二人だけ残して、全滅したというんですね。この二人は、今の製糖工場の西のすぐ浜の上で、バショツの東にミシュクの洞(がま)という洞窟があって今現在拝所となっているそこに、その兄妹二人が隠れていて助かったと。今、あの洞窟は、全部塩で埋められて見えないわけ。この二人は、子どもであったというから、そのミシュクの洞(がま)で成長して、やがて兄と妹の二人が夫婦となって、新生(あらまり)が始まるんですね、しかし、初めて生まれてくる子がですね、ボーズと言って毒魚のハナサゴとかそれからイシャバとかが生まれたらしいですね。こんな人間じゃない海の動物が生まれたから、「ああこれは海の側におるから、こういう動物が生まれるだろう。」ということで、一応また溝になっておるバショツの上に家を移したというんですね。そこでまた生まれる子が百足とかね、蛇とかの陸に住む人に嫌われるものが生まれたらしいですよ。だから、「まだこっちでも駄目だ。」と三番目に移動したのが、ヤク村と言って、この部落なんですよ。そのヤク村に移って家を作って生まれた子は人間らしいのが生まれたというんですが、それでも満足しないもんで、四回目には今の現在の保田盛家の屋敷に来たら立派な子に恵まれて、その二人の子どもから、また波照間の人間が始まって、人間がまた繁盛していくわけなんです。このときの妹の方は、新生(あらまり)の婆(ぱー)と言って、現在もお墓がミシュクの洞(がま)の百メートルぐらい上に行ったところにあって、それが今の現在の保田盛家の拝所としてウートートーやっておるところです。この話で油雨っていうのですがね、こっちには近くに噴火山も無いから不思議なんですよ。それから後に特別にカンタビーの時代という裕福な時代が来るんですね。この裕福な時代というのはね、そのころは農作物も琉球王府への上納というのもない。海賊とかもね、島の周辺にはちゃんと城を築いて警備はされてるから安心で、本当に自分の作ったものは、全部自分のもので、どこにも出さないでいい。だからあんまり無理に働かないでも楽して飯も食えるという時代であって、恋愛なんかの遊びは、夜はしないで、昼に洞窟なんかで遊んだというんですよ。その洞窟で昼に遊んだ歌なんかは今もありますよ。この裕福な時代はですね、食べ物は島にあるものさな。だから、その歌なんかにはですね、女は洞窟の中で糸を紡いだり、男は海に行って魚捕って来て、魚は、刺身魚としても捕って食えば、焼き魚のおいしいのを焼き魚にする。また水煮にも御汁にするのは御汁にと食べたりする生活をしていたと。そしてその時代は、ちょっといい家なんかなると大体家の屋敷のね、門の辺りなんかに台を作って、友達が集まれば、こっちで踊を披露する場所で、飲んだり遊んだりしたという風なやり方で、まるで日本の元禄時代に似たような時代があったと聞くんです。それが評判になったのか、夜になると海賊がこの島にどんどん夜襲して来たんですね。これ倭寇であったのか、それから台湾、中国辺りからのであったのか、そこが分からないんですがね、この島を荒らしたって言うんですよ。その海賊は、昔はこの島ではみんな野原(のっぱら)に、牛をつないでおいたから、その牛なんかを盗んだと言うからね。それからまた倉庫の穀物を盗んだり、女を強姦したりですね、大変なことばっかりやったらしいです。だから、今の調子ではこの島で生活は出来ないという段階まで来たというんです。「じゃこれはどうするか。」ということで、それから後は城を築くわけなんですよ。この城を築いたのは、こっちからいくと、この上にブルブチ公園というのあって、そのブルブチに一人の武士が城を構えるわけです。それから東に行くと、タカツ村とマシュク村があって、そこのタカクンシビには今でも海岸に大きい石垣がこうずっと積まれておって、そこにも部落を守る武士がおったらしいですな。それから、北にはスプースク所の城は土地改良でみんな崩されてしまって、そこにはただ二つの見張り台に積んだ石だけが残っていますがね、そこも武士のおった見張り台じゃなかったかなと思うんです。また東に行くとキタムラというすごい城があったんです。これも石垣で相当残っていたんだが、土地改良でみんな崩して、この石もみんなばらして、みんな全部畑になっていて、このキタムラは全滅です。それから、もっと東に行くと今の飛行場の南の断崖の上にナチャブヤーというすごく広い面積の城があるんですね。これは今まで全部崩してないからそのまま残っていますが、ただ隠れ場所の洞窟だけは、大塚朝日株式会社がね、その穴をみんな墓石でこの塞いでしまったんですね。私なんかはその洞窟の中に何回も行って椰子蟹なんか捕って食べた経験はあるから、その穴があるということはちゃんと分かります。そのころの戦法は福木を植えて、福木のこの上の高い所だけを寄せてきてこう縛って、この上で弓なんか使ったっていうんです。そのころは同じこの島内でもいろんな争いごとがあるわけなんです。例えば、キタムラからちょっと西に来たところにキャバル山という所がある。このキャバル山の武士とキタムラの武士は仲が悪くてですね、時々戦争したというんですね。そのときに、チャバル山の武士は戦の穴(みー)という戦法を使ったというんです。この戦の穴(みー)というのは、キタムラの武士達が下からこう攻めてくるとですね、チャバル山の武士はそこにある穴の中にどんどん入って行くように見せたらしいんですよ。そうすると、キタムラの武士は、「この穴に入った。」と言ってどんどん来てまたその穴に入ったというんですね。最後に全部入ったと思うと、すぐ隠れておるチャバル山の武士は、その入り口の所に刀を構えて待っておって、穴から出て来るキタムラの武士をボンボンみんなたたっ切るという作戦であるわけですよ。だから、チャバル山の武士もね、賢いところがあるわけなんです。それからまた前部落の前にカタナブツという所に城があって、そこも土地改良が来年か再来年頃だから、これも今のうちに保護しないといかんと私は思うんです。それからまたペイニシクという所にも城があって、ペミシク武士がいたんだが、そこは城の石垣がみんな土地改良で崩されて、石は道路の補修なんかに行って、ただ山だけはね、今もちょっと残ってます。そのペミシク武士と争ったアラブツ武士は、今の玉城荘(たましろそう)の東の高台に城があったんだが、土地改良でみんな無くなっていますね。そして島の中央の今の灯台のあるところは、ボスシと言って、波照間の一番の高台だから、そこは武士の見張り所なんです。この戦争中もそこに番小屋を作って監視所にしていました。このうボスシは、昔の屋敷だから牛が食べる草もよう生えておったから、その屋敷の中柱の石を持ってきて、柱を立てるぐらいの穴を開けて、そこに中柱を立てて牛を繋いでおった。これはどうして石に穴を開けるかというと、平坦な石の上で火を炊いて焼くと、石がこう柔らかくなってまた灰になるから掘りやすくなるわけさ。そうして穴を開けたところに柱を立てて牛を繋いでおいたんです。そのボスシ南寄りに、按司だった総大将のクッシアジマグのお城があって、そこは総大将の屋敷で神々しいと言って、全然崩してないから今でもありますよ。その総大将のそのクッシアジマグは、どのぐらいの年数そこの城主としてか分かりませんが、最後まで按司としてその城に留まっていたんです。そして、この島を守っていた武士達は、万一という場合は総大将の所にすぐに走って来て報告して、そこで体制を整えて海賊などには抵抗したということなんですよ。そして、また波照間のこの武士達は、十二支のうちのブーピンと言う子(ね)と午(うま)の日になるとこっちの南部落の近くの集会所に定例的に集まっていたんです。だから、そのとき総大将のクッシアジマグは部下に、「だあ、みんないらっしゃったか見てこい。」と言って、こっちの人は「いらっしゃった」というのを「オウレンナ。」と言うから、その集会所をオバレントウと言っていたんです。そこに集まった武士達は、いろいろ会談してそこからまたそれぞれの城に戻って行ったんです。しかし、昔のその配置した武士も、この島はその小さい島だから、めいめいまた食べ物は自分で作って生活をしたらしいです。だからキャバルヤマとナチャブヤーという二箇所の武士のところは水が一番遠いから、お母さんが下地井戸の辺まで歩いて頭に乗せて水汲みに行っていて、その間に子どもがおっぱい欲しさに泣く場合なんかは、泣いている子どもに、「もうどの辺まで来ているよ。」と言って子どもなんかすかして泣くのを止めたりしたというんですね。だから当時は今のキャバル山とかナチャブヤーなんかの水が遠くて大変であったところにも島を守るためには、見張りを置いたというわけですね。その城が大規模だったのは、例えばボスシの城は、今の灯台を建てるためにものすごい段差の所を埋め立てて、また農民道路作ってあるが、あれもそのボスシの石を持って行って埋めて道路を作ったんです。しかし、この武士の配置は、口伝えできただけで、文献には何もないんだが、その証拠に城が築かれてあるんだから、この口伝えは間違いないと私はこう確信しています。ところが、この島に八方に島を守る武士を置いた総大将のそのクッシアジマグは、赤蜂動乱の前まではこの城で生きておったわけなんですが、赤蜂動乱と同時にこの城は落城して、この島は平定され、それから後でこの島から首里への上納が始まるんです。王政時代になると食料品のうちなくなって一番困るのは食塩であったから、鉄の鍋があるようになっても、六カ月とか旱魃が続いても命は長らえるというが、三カ月雨が降ったらね、昔は塩が炊けなくて塩がなくなったから、大変であったらしい。だから、自然の塩が取れる波照間島からは取れた塩を全部上納させるために、首里王は、密航船と取引きをする波照間の人を一人でも見つけたらすぐに打ち首にするように命令していたから、役人の取締りは厳重だったそうだ。その上納の時代になって苦しいことが続いても、この島の五つの村は、廃村にならんで続いてきたんです。あるとき、塩の闇取り引きをする密航船が高那の沖に来ていたから、役人が釣りをしているふりをしながら警戒しておるときに、「人臭い。人臭い。この辺に人がおる。」と言ったそうだよ。そんなときに人気のない高那の岸のあたりに隠れている人は、たいてい密航船と取引きする人だから、見つかったらもうすぐに打ち首なんだよ。なぜそこにいる人が発覚したかというと、この波照間島で一番おいしい質の良い煙草の出来るのは、昔、この近くにあったウッチョー村だったらしいですよ。だから、ウッチョー村の人が歩いているとおいしい煙草の匂いがするから、「ああ、ウッチョー村の人が来た。」と分かるぐらいだったらしいですね。そこで、そのウッチョー村の人が見つかったら大変だから、こっちの人が、「あの爺さんを殺させない。」と言って、こう隠して守ったらしいですよ。そのウッチョー村の人は、そのとき自分を助けてくれた人を神様として自分の命を守ってくれた所で、何十年、何百年間も代々祈願していたらしいですよ。だから、私があの家の爺さんに、「あんたはどうして祈願を続けてこられたか。」と聞いたから、事情を話してもらえたんですよ。最近はその拝所を拝みに来られる方々は亡くなってしまって、今はただこの南部落だけで拝んでいるわけよ。これは、四、五年前のことですが、宮古の盆栽に趣味のある人がね、あのシラ石の上に生えていた浜シランの木を見つけたから、シラ石をハンマーで割って持っていったらしいですよ。浜シランの木は、盆栽向きの木で時々沖縄県一位なるのが出るんですよ。その宮古の人は、その石が石神婆(いしかんぱー)、石神爺(いしかんぶやー)が子を生んだところとは知らないで、浜シランの木を持って行ったら、その家の奥さんが病気するし、家族が病気して大変だと言うことで、また、浜シランの木をこっちに持って返してきて、ハンマーで割ったところは、セメンを持ってきてきれいに引っつけてから、この部落に来て、アラントユンチュという神様のお宮で謝罪したらようやく病気も治ったと言ってるんです。この子どもを生んだところのシラ石と母親の石神婆(いしかんぱー)、父親の石神爺(いしかんぶやー)、子育てをしたカササニ石の四つの石は、ずっと前から今まで波照間の人間生誕の地として、この南部落で必ず一カ年で三回は、道路やその近くを清掃に行き信仰を続けているんです。特に石神婆(いしかんぱー)のところは、アダンが繁っておりますからね、清掃しないと拝まれんのです。石神婆(いしかんぱー)と石神爺(いしかんぶやー)は、今でも私達の元祖として、崇拝していますから、私が若いころまでは波照間では子どもが生まれて、一週間ぐらいになると、世間のセキに立つと言って、生まれた子どもをおんぶして外に出ます。そうすると余所の爺さん婆さんたちが赤ん坊の頭をこう撫でながら、「石カンパーマーファ石カンパーマーファ、このヤナスクンハースクンハカルナヨー。」と言っていたんです。これは、「石神婆(いしかんぱー)、石神爺(いしかんぶやー)の子孫だから、風邪ひきでも病気もしないで偉い人になれよ」という意味です。 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| 全体の記録時間数 | 10:12 |
| 物語の時間数 | 9:42 |
| 言語識別 | 共通語 |
| 音源の質 | ◎ |
| テープ番号 | - |
| 予備項目1 | - |