元々この波照間にはアラブツ武士とかペミシク武士とかの武士(ぶりゃ)の時代があって、その後の按司の時代の最後の大将がクッシアジマックであるんですね。そのクッシアジマクが平定されてすぐに首里への上納が敷かれてるんですね。それまでは、クッシアジマクがこの島に寄って来るのはみんな海賊だと考えて、武士を配置していて、潮の引いてる時にあっちこちにある石を集めておいたらしいですね。それで海賊が来ても、波打ち際ではこう船がこう揺れるから武器の弓矢を持っておっても、まともに引ききれない。そしてこっちからは石で持って投げつけてまず潰してしまうという戦法で、波打ち際でみんな殺して勝ったというんですよ。それで、後でもうそれが首里王が知ったもんだからね、これは本土の薩摩まで連合したっていうような話までもあるが、波照間を平定するために沖縄から来て、夜に今の製糖工場の西の白い浜の沖にこっそり船を寄せてきて停泊して、小さな舟を作ってその舟に火をつけてどんどん潮流にのせて東に行かしたらしいですね。そうすると波照間の武士は、全部この火を明かりを見て、その東に上陸するんだってことで東にこう寄った瞬間に、西の方からこうまわってきて、あっちはそのちょっと深いからね、ヤマトフノラーというところの浜に船を隠して上陸してきて、もう自分らはもう兵器は持っとるからね、波照間はもうそのときに平定されたと。そのときは波打ち際で防げなかったから作戦負けさ。そのとき船を上げて隠したところは、それからヤマトフノラーと言うようになったんだよ。こうして、クッシアジマクが平定してからもうすぐに上納が敷かれたんだよ。その後やられた与那国の攻めは波照間とは何も関係ないんだが、首里王が宮古の豊見親に、「与那国に悪い奴がおって上納をやってくれと言っても、それを聞かんで反対して謀叛を起こしているから、これを征伐して生け捕りして来い。」と命令されたからだというんだよ。ところが宮古の豊見親は、真っ直ぐ与那国には行かんで、小浜と西表を廻って、小浜の大嵩小三郎、西表の慶来慶田城と一緒に波照間に来て、波照間の親盛(うやまし)アカダナという武士に、「与那国征伐には自分一人では行ききらん。八重山のうちから波照間の親盛(うやまし)アカダナ、小浜の大嵩小三郎、西表の慶来慶田城との三名と自分なら与那国征伐は大丈夫だ。」と説得して参加をお願いして誘ったわけさな。そのとき、宮古の豊見親は、この島で与那国に行く天気待ちの間に前野という家の娘を妾にして通って作った子が長田大主で、また、別な妾から生まれた子が真乙姥、姑乙姥だから、この島で子ども三名まで生まれてるんだよ。この四人で与那国征伐に行くと親盛(うやまし)アカダナと大嵩小三郎はもう本当の武士ですからよ、「誰が悪いのか分からん。」ととにかく向かってくるのは全部片っ端から切り殺したんですよね。そのとき、慶来慶田城は、この二人が切りまくって行った後で、まるであっちの味方のように、かわいそうだと思って、生きている人は殺ささないように、まだ生きた人を見つけると、血を付けて死んだ人の中に潜らせて助けたというんですよ。だから、祖納の慶来慶田城は与那国征伐に行っても、その後は、与那国と西表の祖納部落は非常に仲は良かったと。そして、親盛(うやまし)アカダナと大嵩小三郎は、片っ端から切りまくったものすごい敵なんだから、小浜島の周囲では、与那国の歌なんかは出来ないという話です。波照間の場合はすごい怨みがあったわけさな。だから直接与那国から夜襲して来て、「名石村、ジッチ村、ストゥイ、ストゥイ。」と言って来て、こっそり近づくとみんな寝てるのを襲って、今学校のある名石村とジッチ村という二つの村の人のまず目玉を抜いたわけです。目玉を抜けばもう歩ききらんから、この二部落の人を八〇パーセントぐらい殺したっていうことですね。そのとき、死んだ人は、今のブスクのワーというところの北側の石垣にみんな埋葬したと。そこは今も拝所となっておるんです。このときの「ストゥイ、ストゥイ、」というのは、波照間の狂言なんかにも昔はあったんだが、多分、「静粛、静粛。」ということじゃないかなあと思うんです。この後の世にアカハチ世に、アカハチ動乱が起きてるわけなんですが、宮古の豊見親が親盛(うやまし)アカダナを与那国に連れて行かなかったら、名石村とジッチ村はこんなに残酷な目に落ちなかったのだから、アカハチの上納ももっと安めれという問題は与那国征伐の問題も含めて爆発して、石垣島四箇を支配した長田大主は宮古豊見親の子孫だから、その怨みも兼ねてアカハチの動乱が勃発してというわけなんです。この親盛(うやまし)アカダナは、南方系じゃないかという噂があるんですね。でなければ北から来た平家が源氏かどっちかの落ち武者でなかっただろうと。もうはっきりそのどっちから来たかというのは分からない。その親盛(うやまし)アカダナのガラダマや着物なんかの遺物は野底という家にあって、私なんかの小学校時代の七月七日の日には庭にこう虫干しをするさあな。そうすると素晴らしいガラダマや着物、下袴(はかん)とか、そういうのが庭に筵を敷いてずらっと虫干しですよ。この親盛(うやまし)アカダナの遺物は、今の学校の九〇周年のお祝いに提出しよった。そのころの遺品にはこういった型でポンポンポンと打つ鼓なんかもありますよ。また、黒い旗竿みたいな細い棒が十何本かあるんですよ。これは波照間に無い木で、あれは戦いの旗竿であるとか、当時の船の帆の横に張る横桟(よこざん)じゃないかなあという人もあるんだが、あれも今まであるんです。そして、金属製の鍋なんかもあるが、これは詳しい人を連れてきて調査させたらどっちの産だということはすぐ分かると思うんです。その後で活躍するのがアカハチだが、そのアカハチは海賊が島の女を強姦して生ませた子じゃないかとこの部落の人は言うんですよ。本人の親は恥ずかしいから、誰の子だということは、もう言わんで秘密にしているわけさ。また、南の海岸端に赤ん坊を置いてあったから拾ってきて育ったのがアカハチとかいろんな話があるよ。しかし、そんなことはありえた話じゃない。どっちにしても、口伝えばっかりで証拠があるわけじゃないんだよ。そのころこの島で育っていて長田大主はアカハチと同年で、七歳まではもう非常に仲のいい友達でアカハチと相撲とったりして遊んだという。そのころ士族の子なんかは、首里に連れていって教育を受けたと。長田大主は、士族の子でアカハチは百姓の子だが、小さい時から遊び友達だったから、長田大主はアカハチよりも力にしろ頭もすべて弱くて負けるということを見込んでいるわけさ。だから、長田大主にもうこれ以上はもうこれ以上は我慢は出来ないと石垣に出て行きます。だから、この島には長田大主の遺物もあるんです。これは何も嘘を伝えた迷信でもなんでもないんです。その長田大主の遺物は、その家の主人にいくら相談しても絶対外には出すことは出来ないと言っていたんです。早稲田大学の総長しておられる大浜信泉(のぶもと)さんがこの島に来たとき、私はあの当時議員しよったから、私に、「勝連君、私の元祖の遺物があるという話を聞いているよ。私は必ずあれを見てから帰りたいから、あんたが行って相談して来なさい。」というんで、私もそういうのあるということ全然知らなかったが、私が行って相談したらよ、最初は残念だが出来ないということだったんだが、大浜信泉さんは、「長田大主は自分の元祖だから、元祖のその遺物はぜひ見たい。」とこうおっしゃっている。だから、家主を説得して出してもらったよ。そのとき、長田大主の遺物の鏡を見て、大浜信泉さんは、「この鏡は磨くなよ。磨いたら寿命が縮まって長持ちせんから、これは保管上は磨くな。」とその家の主人にね、指導しておられた。あの当時は話によれば、薩摩の島津藩から琉球王に朝鮮征伐の食料とか相当な食料を要求したらしいよ。琉球王は自分の政治も取らんとならんし、過重な税金なってどのぐらいの穀物を送れと言うと、長田大主は、自分勝手にあっちからくるからと食料を要求したわけさな。波照間はみんな百姓なんだからもうこれでは苦しくしては生活出来ないと言って、もうアカハチは何べんも陳情するんです。また、そのころこの島は非常に与那国から攻められて来て、ここのジッチ村と名石村の二箇所は廃村になるわけよ。それで部落はもう人がおられないとどんどん廃棄されて、周囲や西に移動したりして、もうあっちこっちにこう分散型になったから、アカハチはとうとう大浜に移転して税を安めてくれと願ったが、そうならなかったから、もうとうとう戦争になるわけですね。この道路からまっすぐこう南から西に行くとあっちに御願所があるさ。これから南はジッチ村というんですよ。またこの道路から私の家の西の道路からあっちはクシッシ村、このクシッシ村のクというのは後ということですよ。こっちはジッチ村のというんです。また、この道路から東はウッチョウ村というんですよ。これらの村はね、こっちのムカイ村に上納はまとめて納めておって、また今の北部落にはタブラ村、美底(みしゅく)村、アガタ村、それから西がデラ村というのは五つの部落があって、そこはアガタ村でまとめた。下部落もアッタのシー村というのもあれば、当時は今の班みたいにさ、何組、何組とあった。道路は、部落の構成にそって中央道路がちゃんと上からの命令で役人が通る道だけは、みんな石を割り当てて道路の真ん中に石をこう二個ずづ並べて、公民館のところまで全部敷かれておった。その道は、私なんか学校時代は、雨が降る時は周囲から歩くと泥が付くから並べた石の上から歩いていた。そのころ波照間の一番大きい部落は、ジッチ村と名石村が一番大きい村です。当時は与那国は一番遠いから、首里王の作戦では自分に反対するのは波照間にもう流して、一番気に食わないのは遠い与那国にも流したらしいですよ。だから、一番端っこに、流された頭のいい連中が人を集めて自分の味方を集めて謀叛を起こすわけさな。しかし、アカハチ一人が戦っただけで負けたからとうとう石垣島にも上納が敷かれるわけですよ。そのアカハチの時代に波照間の一番の大将で政治を握っていたのは美底獅子嘉(みしゅくし か)で、美底獅子嘉(みしゅくし か)の城は、こっちの名刀を作った成屋(なりや)鍛冶工(か さ ぐ)の近くにあるんです。この島に若いときおったアカハチが、首里王に反抗するようになると、美底獅子嘉(みしゅくししか)は首里と石垣の四箇の長田大主に味方することを決めたから、アカハチの敵になったわけさ。それでこのアカハチは部下に、「美底獅子嘉(みしゅくし か)は長田大主が言うたと言えば、舟に乗るから、舟に乗せて連れてきて途中で海で切り落とせ。」と命令したから、部下の誰か分からんが、美底獅子嘉(みしゅくし か)を長田大主の命令だと言うて誘うてその舟に乗せた。小浜島の今のヤマハの作ったところの東にビルマ崎というのがあるさ。そのビルマ崎の辺の近くで殺して海に投げたんです。そのとき、美底獅子嘉(みしゅくし か)の首を斬った刀は、皮肉なことに成屋(なりや)鍛冶工(か さ ぐ)の名刀なんですよ。そのとき、この島では美底獅子嘉(みしゅくし か)の死体を総動員して探したというんです。そしたら、小浜のビルマ崎のところに行くと、無風状態なのに木の枝がね、こうぶらぶら動いたもんだから、「これは不思議だ。」と行って見たら、その木の下に死体はあったから、そこから拾ってきて葬ったというんです。また頭だけは古見に流れ着いたと。だから、西表の古見には美底獅子嘉(みしゅくし か)の拝所があるというよ。しかし、アカハチが平定された後には王様は美底獅子嘉殿(みしゅくし か どん)の名誉を讃え、美底獅子嘉殿(みしゅくし か どん)の三人の子どもにこの島を統制させるために、長男を富嘉部落のヤグラユンチュ、次男は南部落でアラントユンチュ、三男は前部落のカイシムルユンチュと各部落の大将にして名石の方は女の方で名前は私は知らないがこれはあっちの名石部落の司のお家に聞けば分かると思います。つまり、この島には五箇所の部落があるから、その五箇所の部落の大将に配置したわけだ。また、そのときに宗教の力でもってこの島を治安するために拝所まで作らすわけ。この美底獅子嘉殿(みしゅくし か どん)の三人の子供のうち次男のアルトユンチュは、体が大きかったかということですね。ここの拝所に朝運動石という丸っこい石があるんです。この石は重くて私なんか動かしきれないんですよ。私が若いころ、その石をこの辺まで上げた人がいたけど上までは上がらなかったんですよ。そのアルトユンチュは、その石を上まで上げたというのだよ。それから後の政治のあり方は、男の人に政治を執らすと反抗の恐れがあるという思いであったのか、ただ一時ではあったが女上位にして政治を握らせたと。その時に、ピタブファメー、石野ブファメー、山田ブファメー、それから大泊ブファメーの四名のブファメーに政治を執らせれば反抗は無いものと女上位の時代となるんですよ。とにかく女上位で島の目差とか筑登之とか書記なかんかは佐事とかさ、色々な役目をちゃんとあてて、言わば調整役みたいなもんであるわけさ。その女役人のブファメーには、その土地の配分までもね、特別にやっていたと。大泊ブファメーはね、ブルブチ公園の下にある波照間の一等地の田圃を耕してお米を作っていたと。石野ブファメー、山田ブファメー、ピタブファメーの四名のブファメーの土地になって、東の部落では石野ブファメー、山田ブファメー、ピタブファメーの三名が当時の一等地が配分されていたんだね。このブファメーなんかはね、恋愛した男なんかも偉い人だったから、ちゃんと名前なんかもあって、その配分された土地はね、現在も別な人にも渡さんで握っていて、お墓なんかも立派だよ。そのうちの大泊のブファメーの家は、今はもう石垣に行って、家も廃屋になり、お墓も崩してあるが、私なんかの元祖のターレーウニの妾(ゆうべ)になっていたからあの屋敷の後にある祈願所は、私一人が拝所としているんです。山田もその分家も若いのはまたどんどん石垣へ、都会へと行ってしまったが元のまたあっちに戻ってきた。石野家の面積もまた相当石野も大きいですよ。だから、あっちの一等地は、そのブファメー時代に、この三名に配分したというんです。今現在その持ち主は三名の縁者になっている。ピタブファメーは、富嘉部落だからどこの土地をその配分してもらったか分からん。あの当時首里王にちょっと反対したり、言葉遣いでもちょっと反抗的な言葉なんかやるとすぐ島流しであったっていうから、この沖縄から来た人ば思想犯だね。だから、山田ブファメーなんかは、稲福里主といってこれも沖縄流れで来た人の妾(ゆうべ)になったというような話もあるんですがね。妾(ゆうべ)は二号さ。だからこっちには首里王に使われた偉い人達がこっちに島流しになってよ、色々教え込んであるわけさあな。だからこっちには、知恵では八重山を制圧するぐらいの持ち主はおったわけさ。長田大主もこっちで、アカハチもこっちでしょう。その長田大主なんかは、竹富の西塘より先の人ですよ。私なんかの元祖はアカハチの乱の後で上納が敷かれたとき、首里王からの命令で唐旅なんかもしていた船長が沖縄の馬天から派遣されたターレウニですよ。このターレーウニは上納を運んだり、また唐旅の船長として沖縄本島から福建省ですか、あっちに主に通ったらしいです。そのターレーウニに船員として使われて航海術も分かるようになったのが、船を盗んで南波照間に脱走したヤグハカマリなのさ。だから、私なんかは馬天に行く時は佐敷の津波古っていう筑登之だった家を拝みに行く場合もあるよ。だから、私の家の親父が養子入りで勝連の姓になっておるが本当なら家の姓は津波古なんですよ。それで、ターレウニは、上納船を盗んで逃げたヤグハカマリとも友達で、こっち船の操縦方をターレウニが教えたから、もう偉い名船長なんかが生まれたということは色々歌なんかにもあるんです。それから後で、シビラウニという名船長が生まれるんですよ。その名船長も波照間だけじゃないですよ。沖縄、八重山まで非常に評判の高い名船長だったから、その船長の歌なんかも出るんです。その歌はウヌヤノジラバというんですがね。この名船長は、投げ網みとかをやってみたり、仕事の能率性の上がるようにしたとかですが、そのシビラウニは唐でも妾を作ったら、その妾が今の桟橋から家までの道路はどういうふうな方法で作れとか、坂の下から海に行く道路には鏡池をどの方向にどういうふうに作って手足を洗って清めて航海しなさいと図面も書いてくれて教えたらしいよ。また、もう一つはこの物見台を作れと言ってシビラウニお作らしたのが今のコート盛さ。このコート盛は、物見台として後で広くこの利用されているわけ。昔は帆船時代だから南風が吹いても、蛇がこう這うてくるようにして来るんだからこう波照間の人はコート盛で見ていて、あそこを航行する船は何時ごろ着くと分かると、夜に船が着くなと思う時は、こっちが島だよといってこっちのコート盛に薪を持ってきて火を焚いて、航海の安全に利用したということですね。それからまた上納を積む船が八重山に来た場合は、船元からその火をこう燃やすらしいですよ。そうすると黒島、小浜がオーケイのまた火を焚いて受ける。そうすると新城のクイノハナというところもまた火を立てる。それから今の西表の豊原部落の南風見というところで火をまた焚いて、波照間に上納積む船が来るよと、この火でもって連絡する。そうすると、こっちは上納を積む船が来るからっといって、今のそのイノサシというんだがね、今の港の上に茅葺きの家があるさな。あれは見られたでしょう。あっちで役人が受け付けて上納はみんな積んで置いて天気待ちするわけさ。天気がよければすぐ船に積んで行くというふうなことですよ。 この上納の重税には耐えられんと言って、ヤグ村の人を誘って、その上納を積んだ船乗り込んで南方に脱走したのがターレウニに航海の方法を学んでいたヤグハカマリです。そのときヤグハカマリなんかは船員達に酒をうんと飲まさせて、酔っぱらわさせ、寝かせてから脱走したという話もあるんだが、また酒を飲ませて酔ってるときに縛りつけてから逃げて行ったという話もある。ヤグハカマリのヤグというのは家の奥という意味でヤグという村があったんですよ。
| レコード番号 | 47O201424 |
|---|---|
| CD番号 | 47O20C071 |
| 決定題名 | クッシアジマクとブファメー(共通語) |
| 話者がつけた題名 | - |
| 話者名 | 勝連文雄 |
| 話者名かな | かつれんふみお |
| 生年月日 | 19170518 |
| 性別 | 男 |
| 出身地 | 沖縄県八重山郡竹富町波照間 |
| 記録日 | 19960318 |
| 記録者の所属組織 | 竹富町口承文芸学術調査団 |
| 元テープ番号 | 竹富町字波照間T33B05 |
| 元テープ管理者 | 沖縄伝承話資料センター |
| 分類 | 伝説 |
| 発句(ほっく) | - |
| 伝承事情 | - |
| 文字化資料 | - |
| キーワード | 海賊,平定 |
| 梗概(こうがい) | 元々この波照間にはアラブツ武士とかペミシク武士とかの武士(ぶりゃ)の時代があって、その後の按司の時代の最後の大将がクッシアジマックであるんですね。そのクッシアジマクが平定されてすぐに首里への上納が敷かれてるんですね。それまでは、クッシアジマクがこの島に寄って来るのはみんな海賊だと考えて、武士を配置していて、潮の引いてる時にあっちこちにある石を集めておいたらしいですね。それで海賊が来ても、波打ち際ではこう船がこう揺れるから武器の弓矢を持っておっても、まともに引ききれない。そしてこっちからは石で持って投げつけてまず潰してしまうという戦法で、波打ち際でみんな殺して勝ったというんですよ。それで、後でもうそれが首里王が知ったもんだからね、これは本土の薩摩まで連合したっていうような話までもあるが、波照間を平定するために沖縄から来て、夜に今の製糖工場の西の白い浜の沖にこっそり船を寄せてきて停泊して、小さな舟を作ってその舟に火をつけてどんどん潮流にのせて東に行かしたらしいですね。そうすると波照間の武士は、全部この火を明かりを見て、その東に上陸するんだってことで東にこう寄った瞬間に、西の方からこうまわってきて、あっちはそのちょっと深いからね、ヤマトフノラーというところの浜に船を隠して上陸してきて、もう自分らはもう兵器は持っとるからね、波照間はもうそのときに平定されたと。そのときは波打ち際で防げなかったから作戦負けさ。そのとき船を上げて隠したところは、それからヤマトフノラーと言うようになったんだよ。こうして、クッシアジマクが平定してからもうすぐに上納が敷かれたんだよ。その後やられた与那国の攻めは波照間とは何も関係ないんだが、首里王が宮古の豊見親に、「与那国に悪い奴がおって上納をやってくれと言っても、それを聞かんで反対して謀叛を起こしているから、これを征伐して生け捕りして来い。」と命令されたからだというんだよ。ところが宮古の豊見親は、真っ直ぐ与那国には行かんで、小浜と西表を廻って、小浜の大嵩小三郎、西表の慶来慶田城と一緒に波照間に来て、波照間の親盛(うやまし)アカダナという武士に、「与那国征伐には自分一人では行ききらん。八重山のうちから波照間の親盛(うやまし)アカダナ、小浜の大嵩小三郎、西表の慶来慶田城との三名と自分なら与那国征伐は大丈夫だ。」と説得して参加をお願いして誘ったわけさな。そのとき、宮古の豊見親は、この島で与那国に行く天気待ちの間に前野という家の娘を妾にして通って作った子が長田大主で、また、別な妾から生まれた子が真乙姥、姑乙姥だから、この島で子ども三名まで生まれてるんだよ。この四人で与那国征伐に行くと親盛(うやまし)アカダナと大嵩小三郎はもう本当の武士ですからよ、「誰が悪いのか分からん。」ととにかく向かってくるのは全部片っ端から切り殺したんですよね。そのとき、慶来慶田城は、この二人が切りまくって行った後で、まるであっちの味方のように、かわいそうだと思って、生きている人は殺ささないように、まだ生きた人を見つけると、血を付けて死んだ人の中に潜らせて助けたというんですよ。だから、祖納の慶来慶田城は与那国征伐に行っても、その後は、与那国と西表の祖納部落は非常に仲は良かったと。そして、親盛(うやまし)アカダナと大嵩小三郎は、片っ端から切りまくったものすごい敵なんだから、小浜島の周囲では、与那国の歌なんかは出来ないという話です。波照間の場合はすごい怨みがあったわけさな。だから直接与那国から夜襲して来て、「名石村、ジッチ村、ストゥイ、ストゥイ。」と言って来て、こっそり近づくとみんな寝てるのを襲って、今学校のある名石村とジッチ村という二つの村の人のまず目玉を抜いたわけです。目玉を抜けばもう歩ききらんから、この二部落の人を八〇パーセントぐらい殺したっていうことですね。そのとき、死んだ人は、今のブスクのワーというところの北側の石垣にみんな埋葬したと。そこは今も拝所となっておるんです。このときの「ストゥイ、ストゥイ、」というのは、波照間の狂言なんかにも昔はあったんだが、多分、「静粛、静粛。」ということじゃないかなあと思うんです。この後の世にアカハチ世に、アカハチ動乱が起きてるわけなんですが、宮古の豊見親が親盛(うやまし)アカダナを与那国に連れて行かなかったら、名石村とジッチ村はこんなに残酷な目に落ちなかったのだから、アカハチの上納ももっと安めれという問題は与那国征伐の問題も含めて爆発して、石垣島四箇を支配した長田大主は宮古豊見親の子孫だから、その怨みも兼ねてアカハチの動乱が勃発してというわけなんです。この親盛(うやまし)アカダナは、南方系じゃないかという噂があるんですね。でなければ北から来た平家が源氏かどっちかの落ち武者でなかっただろうと。もうはっきりそのどっちから来たかというのは分からない。その親盛(うやまし)アカダナのガラダマや着物なんかの遺物は野底という家にあって、私なんかの小学校時代の七月七日の日には庭にこう虫干しをするさあな。そうすると素晴らしいガラダマや着物、下袴(はかん)とか、そういうのが庭に筵を敷いてずらっと虫干しですよ。この親盛(うやまし)アカダナの遺物は、今の学校の九〇周年のお祝いに提出しよった。そのころの遺品にはこういった型でポンポンポンと打つ鼓なんかもありますよ。また、黒い旗竿みたいな細い棒が十何本かあるんですよ。これは波照間に無い木で、あれは戦いの旗竿であるとか、当時の船の帆の横に張る横桟(よこざん)じゃないかなあという人もあるんだが、あれも今まであるんです。そして、金属製の鍋なんかもあるが、これは詳しい人を連れてきて調査させたらどっちの産だということはすぐ分かると思うんです。その後で活躍するのがアカハチだが、そのアカハチは海賊が島の女を強姦して生ませた子じゃないかとこの部落の人は言うんですよ。本人の親は恥ずかしいから、誰の子だということは、もう言わんで秘密にしているわけさ。また、南の海岸端に赤ん坊を置いてあったから拾ってきて育ったのがアカハチとかいろんな話があるよ。しかし、そんなことはありえた話じゃない。どっちにしても、口伝えばっかりで証拠があるわけじゃないんだよ。そのころこの島で育っていて長田大主はアカハチと同年で、七歳まではもう非常に仲のいい友達でアカハチと相撲とったりして遊んだという。そのころ士族の子なんかは、首里に連れていって教育を受けたと。長田大主は、士族の子でアカハチは百姓の子だが、小さい時から遊び友達だったから、長田大主はアカハチよりも力にしろ頭もすべて弱くて負けるということを見込んでいるわけさ。だから、長田大主にもうこれ以上はもうこれ以上は我慢は出来ないと石垣に出て行きます。だから、この島には長田大主の遺物もあるんです。これは何も嘘を伝えた迷信でもなんでもないんです。その長田大主の遺物は、その家の主人にいくら相談しても絶対外には出すことは出来ないと言っていたんです。早稲田大学の総長しておられる大浜信泉(のぶもと)さんがこの島に来たとき、私はあの当時議員しよったから、私に、「勝連君、私の元祖の遺物があるという話を聞いているよ。私は必ずあれを見てから帰りたいから、あんたが行って相談して来なさい。」というんで、私もそういうのあるということ全然知らなかったが、私が行って相談したらよ、最初は残念だが出来ないということだったんだが、大浜信泉さんは、「長田大主は自分の元祖だから、元祖のその遺物はぜひ見たい。」とこうおっしゃっている。だから、家主を説得して出してもらったよ。そのとき、長田大主の遺物の鏡を見て、大浜信泉さんは、「この鏡は磨くなよ。磨いたら寿命が縮まって長持ちせんから、これは保管上は磨くな。」とその家の主人にね、指導しておられた。あの当時は話によれば、薩摩の島津藩から琉球王に朝鮮征伐の食料とか相当な食料を要求したらしいよ。琉球王は自分の政治も取らんとならんし、過重な税金なってどのぐらいの穀物を送れと言うと、長田大主は、自分勝手にあっちからくるからと食料を要求したわけさな。波照間はみんな百姓なんだからもうこれでは苦しくしては生活出来ないと言って、もうアカハチは何べんも陳情するんです。また、そのころこの島は非常に与那国から攻められて来て、ここのジッチ村と名石村の二箇所は廃村になるわけよ。それで部落はもう人がおられないとどんどん廃棄されて、周囲や西に移動したりして、もうあっちこっちにこう分散型になったから、アカハチはとうとう大浜に移転して税を安めてくれと願ったが、そうならなかったから、もうとうとう戦争になるわけですね。この道路からまっすぐこう南から西に行くとあっちに御願所があるさ。これから南はジッチ村というんですよ。またこの道路から私の家の西の道路からあっちはクシッシ村、このクシッシ村のクというのは後ということですよ。こっちはジッチ村のというんです。また、この道路から東はウッチョウ村というんですよ。これらの村はね、こっちのムカイ村に上納はまとめて納めておって、また今の北部落にはタブラ村、美底(みしゅく)村、アガタ村、それから西がデラ村というのは五つの部落があって、そこはアガタ村でまとめた。下部落もアッタのシー村というのもあれば、当時は今の班みたいにさ、何組、何組とあった。道路は、部落の構成にそって中央道路がちゃんと上からの命令で役人が通る道だけは、みんな石を割り当てて道路の真ん中に石をこう二個ずづ並べて、公民館のところまで全部敷かれておった。その道は、私なんか学校時代は、雨が降る時は周囲から歩くと泥が付くから並べた石の上から歩いていた。そのころ波照間の一番大きい部落は、ジッチ村と名石村が一番大きい村です。当時は与那国は一番遠いから、首里王の作戦では自分に反対するのは波照間にもう流して、一番気に食わないのは遠い与那国にも流したらしいですよ。だから、一番端っこに、流された頭のいい連中が人を集めて自分の味方を集めて謀叛を起こすわけさな。しかし、アカハチ一人が戦っただけで負けたからとうとう石垣島にも上納が敷かれるわけですよ。そのアカハチの時代に波照間の一番の大将で政治を握っていたのは美底獅子嘉(みしゅくし か)で、美底獅子嘉(みしゅくし か)の城は、こっちの名刀を作った成屋(なりや)鍛冶工(か さ ぐ)の近くにあるんです。この島に若いときおったアカハチが、首里王に反抗するようになると、美底獅子嘉(みしゅくししか)は首里と石垣の四箇の長田大主に味方することを決めたから、アカハチの敵になったわけさ。それでこのアカハチは部下に、「美底獅子嘉(みしゅくし か)は長田大主が言うたと言えば、舟に乗るから、舟に乗せて連れてきて途中で海で切り落とせ。」と命令したから、部下の誰か分からんが、美底獅子嘉(みしゅくし か)を長田大主の命令だと言うて誘うてその舟に乗せた。小浜島の今のヤマハの作ったところの東にビルマ崎というのがあるさ。そのビルマ崎の辺の近くで殺して海に投げたんです。そのとき、美底獅子嘉(みしゅくし か)の首を斬った刀は、皮肉なことに成屋(なりや)鍛冶工(か さ ぐ)の名刀なんですよ。そのとき、この島では美底獅子嘉(みしゅくし か)の死体を総動員して探したというんです。そしたら、小浜のビルマ崎のところに行くと、無風状態なのに木の枝がね、こうぶらぶら動いたもんだから、「これは不思議だ。」と行って見たら、その木の下に死体はあったから、そこから拾ってきて葬ったというんです。また頭だけは古見に流れ着いたと。だから、西表の古見には美底獅子嘉(みしゅくし か)の拝所があるというよ。しかし、アカハチが平定された後には王様は美底獅子嘉殿(みしゅくし か どん)の名誉を讃え、美底獅子嘉殿(みしゅくし か どん)の三人の子どもにこの島を統制させるために、長男を富嘉部落のヤグラユンチュ、次男は南部落でアラントユンチュ、三男は前部落のカイシムルユンチュと各部落の大将にして名石の方は女の方で名前は私は知らないがこれはあっちの名石部落の司のお家に聞けば分かると思います。つまり、この島には五箇所の部落があるから、その五箇所の部落の大将に配置したわけだ。また、そのときに宗教の力でもってこの島を治安するために拝所まで作らすわけ。この美底獅子嘉殿(みしゅくし か どん)の三人の子供のうち次男のアルトユンチュは、体が大きかったかということですね。ここの拝所に朝運動石という丸っこい石があるんです。この石は重くて私なんか動かしきれないんですよ。私が若いころ、その石をこの辺まで上げた人がいたけど上までは上がらなかったんですよ。そのアルトユンチュは、その石を上まで上げたというのだよ。それから後の政治のあり方は、男の人に政治を執らすと反抗の恐れがあるという思いであったのか、ただ一時ではあったが女上位にして政治を握らせたと。その時に、ピタブファメー、石野ブファメー、山田ブファメー、それから大泊ブファメーの四名のブファメーに政治を執らせれば反抗は無いものと女上位の時代となるんですよ。とにかく女上位で島の目差とか筑登之とか書記なかんかは佐事とかさ、色々な役目をちゃんとあてて、言わば調整役みたいなもんであるわけさ。その女役人のブファメーには、その土地の配分までもね、特別にやっていたと。大泊ブファメーはね、ブルブチ公園の下にある波照間の一等地の田圃を耕してお米を作っていたと。石野ブファメー、山田ブファメー、ピタブファメーの四名のブファメーの土地になって、東の部落では石野ブファメー、山田ブファメー、ピタブファメーの三名が当時の一等地が配分されていたんだね。このブファメーなんかはね、恋愛した男なんかも偉い人だったから、ちゃんと名前なんかもあって、その配分された土地はね、現在も別な人にも渡さんで握っていて、お墓なんかも立派だよ。そのうちの大泊のブファメーの家は、今はもう石垣に行って、家も廃屋になり、お墓も崩してあるが、私なんかの元祖のターレーウニの妾(ゆうべ)になっていたからあの屋敷の後にある祈願所は、私一人が拝所としているんです。山田もその分家も若いのはまたどんどん石垣へ、都会へと行ってしまったが元のまたあっちに戻ってきた。石野家の面積もまた相当石野も大きいですよ。だから、あっちの一等地は、そのブファメー時代に、この三名に配分したというんです。今現在その持ち主は三名の縁者になっている。ピタブファメーは、富嘉部落だからどこの土地をその配分してもらったか分からん。あの当時首里王にちょっと反対したり、言葉遣いでもちょっと反抗的な言葉なんかやるとすぐ島流しであったっていうから、この沖縄から来た人ば思想犯だね。だから、山田ブファメーなんかは、稲福里主といってこれも沖縄流れで来た人の妾(ゆうべ)になったというような話もあるんですがね。妾(ゆうべ)は二号さ。だからこっちには首里王に使われた偉い人達がこっちに島流しになってよ、色々教え込んであるわけさあな。だからこっちには、知恵では八重山を制圧するぐらいの持ち主はおったわけさ。長田大主もこっちで、アカハチもこっちでしょう。その長田大主なんかは、竹富の西塘より先の人ですよ。私なんかの元祖はアカハチの乱の後で上納が敷かれたとき、首里王からの命令で唐旅なんかもしていた船長が沖縄の馬天から派遣されたターレウニですよ。このターレーウニは上納を運んだり、また唐旅の船長として沖縄本島から福建省ですか、あっちに主に通ったらしいです。そのターレーウニに船員として使われて航海術も分かるようになったのが、船を盗んで南波照間に脱走したヤグハカマリなのさ。だから、私なんかは馬天に行く時は佐敷の津波古っていう筑登之だった家を拝みに行く場合もあるよ。だから、私の家の親父が養子入りで勝連の姓になっておるが本当なら家の姓は津波古なんですよ。それで、ターレウニは、上納船を盗んで逃げたヤグハカマリとも友達で、こっち船の操縦方をターレウニが教えたから、もう偉い名船長なんかが生まれたということは色々歌なんかにもあるんです。それから後で、シビラウニという名船長が生まれるんですよ。その名船長も波照間だけじゃないですよ。沖縄、八重山まで非常に評判の高い名船長だったから、その船長の歌なんかも出るんです。その歌はウヌヤノジラバというんですがね。この名船長は、投げ網みとかをやってみたり、仕事の能率性の上がるようにしたとかですが、そのシビラウニは唐でも妾を作ったら、その妾が今の桟橋から家までの道路はどういうふうな方法で作れとか、坂の下から海に行く道路には鏡池をどの方向にどういうふうに作って手足を洗って清めて航海しなさいと図面も書いてくれて教えたらしいよ。また、もう一つはこの物見台を作れと言ってシビラウニお作らしたのが今のコート盛さ。このコート盛は、物見台として後で広くこの利用されているわけ。昔は帆船時代だから南風が吹いても、蛇がこう這うてくるようにして来るんだからこう波照間の人はコート盛で見ていて、あそこを航行する船は何時ごろ着くと分かると、夜に船が着くなと思う時は、こっちが島だよといってこっちのコート盛に薪を持ってきて火を焚いて、航海の安全に利用したということですね。それからまた上納を積む船が八重山に来た場合は、船元からその火をこう燃やすらしいですよ。そうすると黒島、小浜がオーケイのまた火を焚いて受ける。そうすると新城のクイノハナというところもまた火を立てる。それから今の西表の豊原部落の南風見というところで火をまた焚いて、波照間に上納積む船が来るよと、この火でもって連絡する。そうすると、こっちは上納を積む船が来るからっといって、今のそのイノサシというんだがね、今の港の上に茅葺きの家があるさな。あれは見られたでしょう。あっちで役人が受け付けて上納はみんな積んで置いて天気待ちするわけさ。天気がよければすぐ船に積んで行くというふうなことですよ。 この上納の重税には耐えられんと言って、ヤグ村の人を誘って、その上納を積んだ船乗り込んで南方に脱走したのがターレウニに航海の方法を学んでいたヤグハカマリです。そのときヤグハカマリなんかは船員達に酒をうんと飲まさせて、酔っぱらわさせ、寝かせてから脱走したという話もあるんだが、また酒を飲ませて酔ってるときに縛りつけてから逃げて行ったという話もある。ヤグハカマリのヤグというのは家の奥という意味でヤグという村があったんですよ。 |
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