豊年祭の旗頭(共通語)

概要

 豊年祭の頭(かしら)はですね、昔は東里(あがりざと)の家(うち)に頭(かしら)が二つあって、ミルクも一緒にあったというんですよね。そしたらその家(うち)の畑や田んぼにはみんな雨が降って米が豊作で世果報(ゆがふう)であったらしいですね。それで、私(うち)の先祖とその東里(ひがしざと)の先祖は友達だったもんだから、私の家の先祖が、「友達だから一つは僕らに分けてくれ。」と頼んで分けてもらったが今私らの本家の友利が持ってる東の頭(かしら)です。私の先祖はですね、そのときただではなくてお礼としてですね、あの時の白米一石を向こうに譲ったと。それでもう一つの西の頭(かしら)は東里(あがりざと)にあって、「世頭(ゆーがしら)」と言いますがね。これは私達の何代目か今は分からないですが、今から約一八〇年か七〇年前じゃないかと思ってるんです。それとですね、交換条件があるんですね。明治四一年に私の爺さんが、それは西表島の赤離にあるんですね。あそこはね、正式には東ヨシケラとかいいますが、あの伊武田の東の赤離でね、あそこの東ヨシケラですかね、そこの四反の田んぼの名義をですね、四反ぐらいを東里(あがりざと)の人にあげて、上原(うえばる)の野崎橋ってのがある上の野崎田と交換したというんですね。なぜ交換されたかというと、私の家の本家は、頭(かしら)のことでも今申し上げたように東里(あがりざと)の家とは友達だったからです。私の考えでは、上原(うえばる)には、うちの爺さんなんかは上原(うえばる)に自分の女の兄弟の一族がおりますよね。それで、東里(あがりざと)さんのほうはね、鳩間からは赤離まで約二里ぐらいあるんですがね、あそこはですね、鳩間からは潮が引いた場合はですね、竿ででも突いて行けるから、冬は旅しやすいんですよ。上原(うえばる)は一里ちょっとですがね、向こうには行くときは、海が荒いし、干瀬(いのー)が多いので、上原(うえばる)に旅をやるのには非常に難しいんですね。こうして親しいから友人だから大事な頭(かしら)も交換して、豊年祭はお互いに豊年豊作、あるいは体の健康願いをしようというのが頭(かしら)の目的ですからね、そうゆう関係で親しくなって、交換をしたんじゃないかと思います。向こうの西の頭(かしら)はですね、豊年祭に出てくるときは、ウシンチしてですね、絣着け風呂敷被って女の服装するんですね。東はですね、着物と袴に帯をしてですね、そして袴のほうをこうあげてですね、そして鉢巻きをやった姿で出るんで、昔の武士の鎧兜を着けるときの男の服装だと聞かされておるんですね。また、西の頭(かしら)の世頭(ゆーがしら)には、鎌、鍬、米を入れる一升枡、それに槍と龍は雨だっていうんですよ。また、東の頭(かしら)には、これは昇天という意味で朝日とね、戦争で使う刺股(さしまた)が飾りになっていると言いますよ。それで頭(かしら)の家元(やーもと)はですね、トゥニムトゥというんですよね。鳩間では豊年祭には全部歌もありますが、毎年の行事のときにはですね、私の最も身内の人がトゥニムトゥまで挨拶するまでは持ってきておいて、部落の人が、「貸してくれ。」つって来て、先祖に挨拶をすると、頭(かしら)を借すわけですね。そして翌日はまたありがとうとお礼に来るわけですね。この頭(かしら)はですね、登野城なんかは公民館のもんですがね、よその部落とは違って、鳩間だけは私らの家(うち)の個人の物ですから、それを部落が借りるということになっているんです。
①頭(かしら)‥‥一般には旗頭(はたがしら)と呼ばれる幟で、鳩間島では豊年祭、結願祭などのときに行列の先頭や祭祀の会場に立てられる。②赤離‥‥西表島の北海岸、竹富町高那小字北ヨシケラの北方海上約七五メートルに位置する島。③伊武田‥‥西表島北海岸にあり、赤離島の西に位置する。鳩間島島の人々が水田の通い耕作の場所としいた。

再生時間:9:26

民話詳細DATA

レコード番号 47O200488
CD番号 47O20C028
決定題名 豊年祭の旗頭(共通語)
話者がつけた題名
話者名 屋嘉武雄
話者名かな やかたけお
生年月日 19250204
性別
出身地 沖縄県八重山郡竹富町字鳩間
記録日 19960913
記録者の所属組織 竹富町口承文芸学術調査団
元テープ番号 竹富町字竹富T116A03
元テープ管理者 沖縄伝承話資料センター
分類 民俗
発句(ほっく)
伝承事情
文字化資料 沖国大国文学科平成9度卒業論文 鳩間島の民話 P19
キーワード 東里
梗概(こうがい)  豊年祭の頭(かしら)はですね、昔は東里(あがりざと)の家(うち)に頭(かしら)が二つあって、ミルクも一緒にあったというんですよね。そしたらその家(うち)の畑や田んぼにはみんな雨が降って米が豊作で世果報(ゆがふう)であったらしいですね。それで、私(うち)の先祖とその東里(ひがしざと)の先祖は友達だったもんだから、私の家の先祖が、「友達だから一つは僕らに分けてくれ。」と頼んで分けてもらったが今私らの本家の友利が持ってる東の頭(かしら)です。私の先祖はですね、そのときただではなくてお礼としてですね、あの時の白米一石を向こうに譲ったと。それでもう一つの西の頭(かしら)は東里(あがりざと)にあって、「世頭(ゆーがしら)」と言いますがね。これは私達の何代目か今は分からないですが、今から約一八〇年か七〇年前じゃないかと思ってるんです。それとですね、交換条件があるんですね。明治四一年に私の爺さんが、それは西表島の赤離にあるんですね。あそこはね、正式には東ヨシケラとかいいますが、あの伊武田の東の赤離でね、あそこの東ヨシケラですかね、そこの四反の田んぼの名義をですね、四反ぐらいを東里(あがりざと)の人にあげて、上原(うえばる)の野崎橋ってのがある上の野崎田と交換したというんですね。なぜ交換されたかというと、私の家の本家は、頭(かしら)のことでも今申し上げたように東里(あがりざと)の家とは友達だったからです。私の考えでは、上原(うえばる)には、うちの爺さんなんかは上原(うえばる)に自分の女の兄弟の一族がおりますよね。それで、東里(あがりざと)さんのほうはね、鳩間からは赤離まで約二里ぐらいあるんですがね、あそこはですね、鳩間からは潮が引いた場合はですね、竿ででも突いて行けるから、冬は旅しやすいんですよ。上原(うえばる)は一里ちょっとですがね、向こうには行くときは、海が荒いし、干瀬(いのー)が多いので、上原(うえばる)に旅をやるのには非常に難しいんですね。こうして親しいから友人だから大事な頭(かしら)も交換して、豊年祭はお互いに豊年豊作、あるいは体の健康願いをしようというのが頭(かしら)の目的ですからね、そうゆう関係で親しくなって、交換をしたんじゃないかと思います。向こうの西の頭(かしら)はですね、豊年祭に出てくるときは、ウシンチしてですね、絣着け風呂敷被って女の服装するんですね。東はですね、着物と袴に帯をしてですね、そして袴のほうをこうあげてですね、そして鉢巻きをやった姿で出るんで、昔の武士の鎧兜を着けるときの男の服装だと聞かされておるんですね。また、西の頭(かしら)の世頭(ゆーがしら)には、鎌、鍬、米を入れる一升枡、それに槍と龍は雨だっていうんですよ。また、東の頭(かしら)には、これは昇天という意味で朝日とね、戦争で使う刺股(さしまた)が飾りになっていると言いますよ。それで頭(かしら)の家元(やーもと)はですね、トゥニムトゥというんですよね。鳩間では豊年祭には全部歌もありますが、毎年の行事のときにはですね、私の最も身内の人がトゥニムトゥまで挨拶するまでは持ってきておいて、部落の人が、「貸してくれ。」つって来て、先祖に挨拶をすると、頭(かしら)を借すわけですね。そして翌日はまたありがとうとお礼に来るわけですね。この頭(かしら)はですね、登野城なんかは公民館のもんですがね、よその部落とは違って、鳩間だけは私らの家(うち)の個人の物ですから、それを部落が借りるということになっているんです。 ①頭(かしら)‥‥一般には旗頭(はたがしら)と呼ばれる幟で、鳩間島では豊年祭、結願祭などのときに行列の先頭や祭祀の会場に立てられる。②赤離‥‥西表島の北海岸、竹富町高那小字北ヨシケラの北方海上約七五メートルに位置する島。③伊武田‥‥西表島北海岸にあり、赤離島の西に位置する。鳩間島島の人々が水田の通い耕作の場所としいた。
全体の記録時間数 9:30
物語の時間数 9:26
言語識別 共通語
音源の質
テープ番号
予備項目1

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