田代さんの話では、友利家の先祖で古見から移住したのは二人で、男の方が鳩間島に来たら、女の兄弟は上原(うえばる)に行かれたらしい。それで、私は男の方の系統で、爺さんは明治元年生まれの友利太郎と言うんですね。田代浩さんの方は上原(うえばる)に行った女の方の系統ですね。そういうふうに親戚が別れて住んだわけですね。その上原(うえばる)に住んだ田代さんのお父さんは、保久利という名で、慶田城勇さんのお父さんと古見で田植えの競争をしたらしいね。田代さんのお父さんは上原(うえばる)から、頭(かしら)とか牛も連れて持って行ったらしいですね。潮の引いたときに上原(うえばる)から歩いて行ったんでしょうね。私も見たことあるんですがね、向こうの古見には私の本家の田んぼで、大きな田んぼがありましてですね、そこに植えたらしいですよ。田代さんのお父さんはですね、米の専門であったでしょうが、その時に一応負けたらしいですね。負けた理由はですね、田代さんのお父さんは、普通は稲の苗は五本持って植えるんですよ。しかし、この人は六つ植えて負けたらしいですね。それで、慶田城勇さんのお父さんはですね、田代さんのお父さんに、「もういっぺんやろう。あんたもちゃんとね、五つ持って植えなさい。」ということでね、それで競争して植えたらら断然田代さんが早かったらしいですよ。その時に勝って、牛ももらってきて上原(うえばる)に引き上げてきたとゆうことを田代さんが話されたんですよね。それからすると、私たちの先祖は古見であったと言われておるんですね、古見にはどっから来たかというと、友利姓は宮古の下地町の与那覇湾のすぐそばに与那覇という部落があるんですがね、そこから来たということらしいですね。それでうちの親父が那覇に行くとき、以前は三日かかって那覇に行ったらしいがね、一泊は必ず宮古でやったらしいですね。昔は宮古の漲水神社が海岸端にあったらしいですね。私は宮古に勤務で三年おりましたんですが、うちの親父と田代さんには、「漲水神社は我々の友利御嶽(ともりうたけ)と関係があるから必ず拝みなさい。」とよく言われました。鳩間島の友利御嶽(ともりうたけ)と漲水神社はどういう関係かは分からないですがね、明治の前に、友利御嶽(ともりうたけ)の測量したときの写真があるんですよね。その写真にも友利御嶽と書いてありますからね、だから明治以前から友利御嶽であったと私は確認しておるんですが、鳩間の友利御嶽(ともりうたけ)と友利や古見の友利とはどういう関係にあるのかも分からないんですね。とにかく漲水神社は関係があるから拝みなさいというのは、鳩間儀佐真とか船屋儀佐真は何か宮古から来られたと言うんだ。現実にですね、米植えの競争が古見であって、そして勝って褒美に牛ももらってやっぱり喜んで帰って来たから古見と上原は何かいろいろ交流はあったんじゃないですかね。あの当時やっぱ古見が本家とゆうことで、鳩間にも居るし上原(うえばる)にも兄弟がいますから、田代さんからですね、そういう関係であると何遍でも聞かされたんですね。ところがね、上原は以前は三百戸か四百戸数ぐらいあるものすごい大きな集落であったらしいですよ。それがマラリアで廃村になって、慶田城家とか冨里とか仲伊部とか田代さんなんか七〇何名かが上原(うえばる)が自由移民で鳩間に来たのは、一九〇八年、明治四一年ですからね、そんなに古くないですよね。その後の上原(うえばる)は、マラリアで部落が潰れたから戦前はですね、二、三名しかおらなかったですよ。あの時上原(うえばる)から鳩間に来た人は部落の東におったらしいです。その人達が、「島の東というのは風水(ふんしー)が悪い。」ってことでね、そこにいないで、あっちこっちちりぢりばらばらなっていろいろ揉めごとあったらしいですね。それで、慶田城は今ずっと西にあるでしょ。その当時は、島の人は相手が移住民だから遠慮したんじゃないですかね。
①古見‥‥西表島の東部、前良川と後川のほぼ中央の小半島東端に立地する。八重山地方における仮面仮装の人神アカマタ・クロマタの祭事発祥の地とされる。一五世紀の末期まで八重山の政治文化の中心地であった。②上原‥‥方言ではウイバル。西表島の北部に位置し北方海上約四キロに鳩間島島を望む。③頭‥‥旗頭のこと。鳩間島島の旗頭は西村・東村でそれぞれのトゥニムトゥという場所に保管されてい。④下地町与那覇‥‥宮古島西部、北東は与那覇湾に面する。恵まれた自然環境を観光に利用している。⑤漲水神社‥‥宮古島創世の神、古意角、古意玉の男女神を祀ってある神社。漲水御嶽ともいい、平良市の漲水港の近くにある。⑥友利御嶽‥‥鳩間島島の中心を通る島仲道を登ると右手に位置する御嶽。元御嶽とも言われ、島の主要祭祀の中心となる。⑦鳩間島儀佐真‥‥鳩間島島を建てたといわれている。西堂御嶽に祀られている。⑧マラリア‥‥発熱をともなう風土病。一五三〇年〔尚清4〕ごろ、西表島近くで難破したオランダ船の乗組員によって持ち込まれたとする口碑伝説がある。一七三二年〔尚敬二〇〕琉球政府が八重山開拓として既存部落の分割、強制移住、未開地での開拓村の創設という移民事業を始めたところから、八重山全土に広がっていった。
| レコード番号 | 47O200487 |
|---|---|
| CD番号 | 47O20C027 |
| 決定題名 | 鳩間への移住(共通語) |
| 話者がつけた題名 | - |
| 話者名 | 屋嘉武雄 |
| 話者名かな | やかたけお |
| 生年月日 | 19250204 |
| 性別 | 男 |
| 出身地 | 沖縄県八重山郡竹富町字鳩間 |
| 記録日 | 19960913 |
| 記録者の所属組織 | 竹富町口承文芸学術調査団 |
| 元テープ番号 | 竹富町字竹富T116A02 |
| 元テープ管理者 | 沖縄伝承話資料センター |
| 分類 | 民俗 |
| 発句(ほっく) | - |
| 伝承事情 | - |
| 文字化資料 | 沖国大国文学科平成9度卒業論文 鳩間島の民話 P1 |
| キーワード | 友利家,古見 |
| 梗概(こうがい) | 田代さんの話では、友利家の先祖で古見から移住したのは二人で、男の方が鳩間島に来たら、女の兄弟は上原(うえばる)に行かれたらしい。それで、私は男の方の系統で、爺さんは明治元年生まれの友利太郎と言うんですね。田代浩さんの方は上原(うえばる)に行った女の方の系統ですね。そういうふうに親戚が別れて住んだわけですね。その上原(うえばる)に住んだ田代さんのお父さんは、保久利という名で、慶田城勇さんのお父さんと古見で田植えの競争をしたらしいね。田代さんのお父さんは上原(うえばる)から、頭(かしら)とか牛も連れて持って行ったらしいですね。潮の引いたときに上原(うえばる)から歩いて行ったんでしょうね。私も見たことあるんですがね、向こうの古見には私の本家の田んぼで、大きな田んぼがありましてですね、そこに植えたらしいですよ。田代さんのお父さんはですね、米の専門であったでしょうが、その時に一応負けたらしいですね。負けた理由はですね、田代さんのお父さんは、普通は稲の苗は五本持って植えるんですよ。しかし、この人は六つ植えて負けたらしいですね。それで、慶田城勇さんのお父さんはですね、田代さんのお父さんに、「もういっぺんやろう。あんたもちゃんとね、五つ持って植えなさい。」ということでね、それで競争して植えたらら断然田代さんが早かったらしいですよ。その時に勝って、牛ももらってきて上原(うえばる)に引き上げてきたとゆうことを田代さんが話されたんですよね。それからすると、私たちの先祖は古見であったと言われておるんですね、古見にはどっから来たかというと、友利姓は宮古の下地町の与那覇湾のすぐそばに与那覇という部落があるんですがね、そこから来たということらしいですね。それでうちの親父が那覇に行くとき、以前は三日かかって那覇に行ったらしいがね、一泊は必ず宮古でやったらしいですね。昔は宮古の漲水神社が海岸端にあったらしいですね。私は宮古に勤務で三年おりましたんですが、うちの親父と田代さんには、「漲水神社は我々の友利御嶽(ともりうたけ)と関係があるから必ず拝みなさい。」とよく言われました。鳩間島の友利御嶽(ともりうたけ)と漲水神社はどういう関係かは分からないですがね、明治の前に、友利御嶽(ともりうたけ)の測量したときの写真があるんですよね。その写真にも友利御嶽と書いてありますからね、だから明治以前から友利御嶽であったと私は確認しておるんですが、鳩間の友利御嶽(ともりうたけ)と友利や古見の友利とはどういう関係にあるのかも分からないんですね。とにかく漲水神社は関係があるから拝みなさいというのは、鳩間儀佐真とか船屋儀佐真は何か宮古から来られたと言うんだ。現実にですね、米植えの競争が古見であって、そして勝って褒美に牛ももらってやっぱり喜んで帰って来たから古見と上原は何かいろいろ交流はあったんじゃないですかね。あの当時やっぱ古見が本家とゆうことで、鳩間にも居るし上原(うえばる)にも兄弟がいますから、田代さんからですね、そういう関係であると何遍でも聞かされたんですね。ところがね、上原は以前は三百戸か四百戸数ぐらいあるものすごい大きな集落であったらしいですよ。それがマラリアで廃村になって、慶田城家とか冨里とか仲伊部とか田代さんなんか七〇何名かが上原(うえばる)が自由移民で鳩間に来たのは、一九〇八年、明治四一年ですからね、そんなに古くないですよね。その後の上原(うえばる)は、マラリアで部落が潰れたから戦前はですね、二、三名しかおらなかったですよ。あの時上原(うえばる)から鳩間に来た人は部落の東におったらしいです。その人達が、「島の東というのは風水(ふんしー)が悪い。」ってことでね、そこにいないで、あっちこっちちりぢりばらばらなっていろいろ揉めごとあったらしいですね。それで、慶田城は今ずっと西にあるでしょ。その当時は、島の人は相手が移住民だから遠慮したんじゃないですかね。 ①古見‥‥西表島の東部、前良川と後川のほぼ中央の小半島東端に立地する。八重山地方における仮面仮装の人神アカマタ・クロマタの祭事発祥の地とされる。一五世紀の末期まで八重山の政治文化の中心地であった。②上原‥‥方言ではウイバル。西表島の北部に位置し北方海上約四キロに鳩間島島を望む。③頭‥‥旗頭のこと。鳩間島島の旗頭は西村・東村でそれぞれのトゥニムトゥという場所に保管されてい。④下地町与那覇‥‥宮古島西部、北東は与那覇湾に面する。恵まれた自然環境を観光に利用している。⑤漲水神社‥‥宮古島創世の神、古意角、古意玉の男女神を祀ってある神社。漲水御嶽ともいい、平良市の漲水港の近くにある。⑥友利御嶽‥‥鳩間島島の中心を通る島仲道を登ると右手に位置する御嶽。元御嶽とも言われ、島の主要祭祀の中心となる。⑦鳩間島儀佐真‥‥鳩間島島を建てたといわれている。西堂御嶽に祀られている。⑧マラリア‥‥発熱をともなう風土病。一五三〇年〔尚清4〕ごろ、西表島近くで難破したオランダ船の乗組員によって持ち込まれたとする口碑伝説がある。一七三二年〔尚敬二〇〕琉球政府が八重山開拓として既存部落の分割、強制移住、未開地での開拓村の創設という移民事業を始めたところから、八重山全土に広がっていった。 |
| 全体の記録時間数 | 9:00 |
| 物語の時間数 | 8:38 |
| 言語識別 | 共通語 |
| 音源の質 | ○ |
| テープ番号 | - |
| 予備項目1 | - |