西塘(共通語)

概要

首里城王朝時代ですかな、人頭税の当時でしょうな。首里の役人が竹富を巡視して、回ってこられた時に、みんなやっぱり偉い人が馬になんか乗ってこう巡視してずうっと来るのに、この当時西塘さんは七つ、六つの子供だったらしいんですよ。それで、みんな部落の人は、こんな偉い人がだあって巡視して回ってくるみんな驚いて隠れてのにもかかわらず、この西塘さんはですね、あの時、七才で、みんな役人が来られる時にも驚きもせんで、道端でよ、歓迎するように、大変にこにこしておって、もう平気でその役人を迎えようとおったらしいんですよ。役人は、「じゃ、この子供たちは感心だね。」という気持ちでね、持っとった蜜柑をですね、二つに割ってですね、その子供に与えたらしいんですよ。で、七つなるこの西塘さんが、これを剥いて、むしゃむしゃこっちの手のを食べたり、また、別なこっちの手のを食べておったらしいんですよ。みんな食べて終わって知らん顔しておるときに、この大将がね、「やあ坊や、あんたの右手に持っていた蜜柑が美味しかったか、左手の蜜柑が美味しかったか。」というふうな質問をしたらしいんですよ。そしたら、この西塘さんはですね、黙っておってね、すぐパンって手を打ってね、「右手が多く鳴っりましたか、左手が多く鳴っりましたか。どの手が多く鳴りました。」とと返したらしいんですよ。そのときに、この役人は返す言葉がないので、不思議がってですね、また、大変この子供に感心して、「これは頓智のある子供だ。」というふうに認めて、巡視をして帰られてたそうです。
 巡視をして帰られた後にですね、この首里城の城壁を築くんだけど、こうして丸く築いても、この首里城の城壁が台風で崩れ、また地震で崩れて大変苦労しておったらしいんですよ。それで、竹富島で出会った子供のことを思い出して、「今からもう二〇年前に、竹富を巡視しに行った時に、こういう頓智な子供がおったからこの子供の知恵をちょっと借りてみよう。」というわけでね、わざわざ西塘さんを首里城に呼んだらね、その子供は、もうそのときは二五、六はなっていたそうで、呼ばれて行ったら、その役人は、「あんたにちょっと質問がある。あんたを呼んだのは別の問題でもない。この首里城の石垣を高く築くんだけども、やっぱり台風や地震で崩れるが、どうしたら石垣が崩れないように積めるかな。」と西塘さんに聞いたらしいんですよ。そしたら、この西塘さんは、藁を持ってきて、それを屏風型にこう折ってね、「屏風型に、こんなして築くなら絶対倒れない。だから、こうして築こう。」って言って、それから、この西塘さんが、二〇年余りもかかってですね、この首里城の城壁をピシャーっと作ったんだそうです。だから、首里城の城壁は、屏風型にこう曲がっているんですよ、だから、その功績でもう物凄く褒められて、「これは確かに知恵のある人物だ。」と言うて、それからも、もうずっと向こうで、行政に対する指導を色々と二〇年、二五年と勤められて、それから、「八重山の政治を統治しなさい。」というふうにして命を受けて、八重山の初代頭主になって、八重山に帰って来て、竹富のあっちの皆治原の海ばたにね、蔵元っていうのを作って、八重山のその頭主として、結局今言えば、もう八重山地方長として八重山の政治を任されて働いてこられたそうです。んで、八重山のこの政治の始まりはこの西塘さんだと言うふうに言っています。それで、向こうで二〇年間竹富島で政治をとっておられました。
 だけどやっぱり当時はマーレン船ってね、こうバッと前も後ろも上がった船で、貿易をしとったらしいんですけども、ここは海が遠浅で、「ここではマーレン船が入って来れないから、政治はもう大変不便だ。」というわけで、二〇年後には、蔵元を石垣に移して、それで、石垣の方で、やっぱり西塘さんはもう向こうで政治をとられたと。で、今石垣に移した蔵元を跡は、八重山支庁の前の支庁の跡だと言うて、そこに建物をこう建てようとしたけれども、「ここは文化財だ。そこに作るな。」と言って今、東の方に移るとこにして、二、三年前から向こうは、そのままにしていたんだがね。
 それから、首里城に園比屋武御嶽っとがありますな。あの園比屋武御嶽は、この西塘さんが、この首里城を築くときに、園比屋武御嶽でいつも朝晩祈願をして、この首里城を屏風型に築いたもんだから、この西塘さんが頭主になって八重山の政治を命じられてこられたときに、「自分が今まで崇めてこの園比屋武御嶽の分神だ。」と言って、竹富の真ん中というわけで、国仲御嶽と言って、ここに園比屋武御嶽の神を祀って、崇めておられるんですよ。また、この西塘さんのお墓の前に、西塘御嶽(ニシトウウタケ)と言って、神社として西塘さんを祀っておるのです。で、六山(ムーヤマ)っていう御嶽は、みんな氏子が付いて祀っているんですけど、この西塘御嶽、国仲御嶽、清明御嶽は、公民館で担当して見てるわけですね。んで、政治の始まりも色々な文化の始まりは、もうこの西塘さんだから、もうここで神様と祀って、この人にあやかるためにこうして、お正月のお参りも是非こでお参りというふうにしてやって、部落行事も最初、もうこっちからが始まるんですよ。
・マーレン船‥‥マーラン船のこと。近世中期以後、沖縄で最も普及したシナ式ジャンク型の島内船。マーランの呼び名は唐音をそのまま踏襲使用したもので、一八世紀の初期ごろに中国の福建地方から伝来した船型である。・国仲御嶽‥‥地元では「フイナーオン」と呼ばれる。竹富島の「八山」の一つ。一五二四年に西塘が首里の園比屋武御嶽の神を勧請して創建された。「西塘は、竹富島の国仲の地に一宇を建て、園比屋武御嶽の神を請奉して崇信をなした。これより以来竹富村の諸役人等、元旦、冬至および十五夜の祭ごとに、まず蔵元に集合して、恭しく国王の聖寿を祈り、次に必ずこの国仲の地に来て、遙か中王(首里王府)に向かって国泰安民を祈願した。そしてその後に各御嶽に祈る例となった。」(『球陽』)御嶽は竹富小中学校の東約二五○メートル行ったところにある。神木のフクギがあるが、台風で倒されてしまっている。

再生時間:7:28

民話詳細DATA

レコード番号 47O200377
CD番号 47O20C022
決定題名 西塘(共通語)
話者がつけた題名
話者名 赤山喜介
話者名かな あかやまきすけ
生年月日 19190420
性別
出身地 沖縄県八重山郡竹富町字竹富
記録日 19950910
記録者の所属組織 沖縄口承文芸学術調査団
元テープ番号 竹富町字竹富T30A3
元テープ管理者 沖縄伝承話資料センター
分類 伝説
発句(ほっく)
伝承事情
文字化資料 沖国大国文学科平成8度卒業論文 竹富島の民話 p56
キーワード 七才,蜜柑,手,首里城
梗概(こうがい) 首里城王朝時代ですかな、人頭税の当時でしょうな。首里の役人が竹富を巡視して、回ってこられた時に、みんなやっぱり偉い人が馬になんか乗ってこう巡視してずうっと来るのに、この当時西塘さんは七つ、六つの子供だったらしいんですよ。それで、みんな部落の人は、こんな偉い人がだあって巡視して回ってくるみんな驚いて隠れてのにもかかわらず、この西塘さんはですね、あの時、七才で、みんな役人が来られる時にも驚きもせんで、道端でよ、歓迎するように、大変にこにこしておって、もう平気でその役人を迎えようとおったらしいんですよ。役人は、「じゃ、この子供たちは感心だね。」という気持ちでね、持っとった蜜柑をですね、二つに割ってですね、その子供に与えたらしいんですよ。で、七つなるこの西塘さんが、これを剥いて、むしゃむしゃこっちの手のを食べたり、また、別なこっちの手のを食べておったらしいんですよ。みんな食べて終わって知らん顔しておるときに、この大将がね、「やあ坊や、あんたの右手に持っていた蜜柑が美味しかったか、左手の蜜柑が美味しかったか。」というふうな質問をしたらしいんですよ。そしたら、この西塘さんはですね、黙っておってね、すぐパンって手を打ってね、「右手が多く鳴っりましたか、左手が多く鳴っりましたか。どの手が多く鳴りました。」とと返したらしいんですよ。そのときに、この役人は返す言葉がないので、不思議がってですね、また、大変この子供に感心して、「これは頓智のある子供だ。」というふうに認めて、巡視をして帰られてたそうです。  巡視をして帰られた後にですね、この首里城の城壁を築くんだけど、こうして丸く築いても、この首里城の城壁が台風で崩れ、また地震で崩れて大変苦労しておったらしいんですよ。それで、竹富島で出会った子供のことを思い出して、「今からもう二〇年前に、竹富を巡視しに行った時に、こういう頓智な子供がおったからこの子供の知恵をちょっと借りてみよう。」というわけでね、わざわざ西塘さんを首里城に呼んだらね、その子供は、もうそのときは二五、六はなっていたそうで、呼ばれて行ったら、その役人は、「あんたにちょっと質問がある。あんたを呼んだのは別の問題でもない。この首里城の石垣を高く築くんだけども、やっぱり台風や地震で崩れるが、どうしたら石垣が崩れないように積めるかな。」と西塘さんに聞いたらしいんですよ。そしたら、この西塘さんは、藁を持ってきて、それを屏風型にこう折ってね、「屏風型に、こんなして築くなら絶対倒れない。だから、こうして築こう。」って言って、それから、この西塘さんが、二〇年余りもかかってですね、この首里城の城壁をピシャーっと作ったんだそうです。だから、首里城の城壁は、屏風型にこう曲がっているんですよ、だから、その功績でもう物凄く褒められて、「これは確かに知恵のある人物だ。」と言うて、それからも、もうずっと向こうで、行政に対する指導を色々と二〇年、二五年と勤められて、それから、「八重山の政治を統治しなさい。」というふうにして命を受けて、八重山の初代頭主になって、八重山に帰って来て、竹富のあっちの皆治原の海ばたにね、蔵元っていうのを作って、八重山のその頭主として、結局今言えば、もう八重山地方長として八重山の政治を任されて働いてこられたそうです。んで、八重山のこの政治の始まりはこの西塘さんだと言うふうに言っています。それで、向こうで二〇年間竹富島で政治をとっておられました。  だけどやっぱり当時はマーレン船ってね、こうバッと前も後ろも上がった船で、貿易をしとったらしいんですけども、ここは海が遠浅で、「ここではマーレン船が入って来れないから、政治はもう大変不便だ。」というわけで、二〇年後には、蔵元を石垣に移して、それで、石垣の方で、やっぱり西塘さんはもう向こうで政治をとられたと。で、今石垣に移した蔵元を跡は、八重山支庁の前の支庁の跡だと言うて、そこに建物をこう建てようとしたけれども、「ここは文化財だ。そこに作るな。」と言って今、東の方に移るとこにして、二、三年前から向こうは、そのままにしていたんだがね。  それから、首里城に園比屋武御嶽っとがありますな。あの園比屋武御嶽は、この西塘さんが、この首里城を築くときに、園比屋武御嶽でいつも朝晩祈願をして、この首里城を屏風型に築いたもんだから、この西塘さんが頭主になって八重山の政治を命じられてこられたときに、「自分が今まで崇めてこの園比屋武御嶽の分神だ。」と言って、竹富の真ん中というわけで、国仲御嶽と言って、ここに園比屋武御嶽の神を祀って、崇めておられるんですよ。また、この西塘さんのお墓の前に、西塘御嶽(ニシトウウタケ)と言って、神社として西塘さんを祀っておるのです。で、六山(ムーヤマ)っていう御嶽は、みんな氏子が付いて祀っているんですけど、この西塘御嶽、国仲御嶽、清明御嶽は、公民館で担当して見てるわけですね。んで、政治の始まりも色々な文化の始まりは、もうこの西塘さんだから、もうここで神様と祀って、この人にあやかるためにこうして、お正月のお参りも是非こでお参りというふうにしてやって、部落行事も最初、もうこっちからが始まるんですよ。 ・マーレン船‥‥マーラン船のこと。近世中期以後、沖縄で最も普及したシナ式ジャンク型の島内船。マーランの呼び名は唐音をそのまま踏襲使用したもので、一八世紀の初期ごろに中国の福建地方から伝来した船型である。・国仲御嶽‥‥地元では「フイナーオン」と呼ばれる。竹富島の「八山」の一つ。一五二四年に西塘が首里の園比屋武御嶽の神を勧請して創建された。「西塘は、竹富島の国仲の地に一宇を建て、園比屋武御嶽の神を請奉して崇信をなした。これより以来竹富村の諸役人等、元旦、冬至および十五夜の祭ごとに、まず蔵元に集合して、恭しく国王の聖寿を祈り、次に必ずこの国仲の地に来て、遙か中王(首里王府)に向かって国泰安民を祈願した。そしてその後に各御嶽に祈る例となった。」(『球陽』)御嶽は竹富小中学校の東約二五○メートル行ったところにある。神木のフクギがあるが、台風で倒されてしまっている。
全体の記録時間数 7:35
物語の時間数 7:28
言語識別 共通語
音源の質
テープ番号
予備項目1

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