西塘(共通語)

概要

こちらの竹富ではお正月の初詣でや子供が生まれてお宮参りなどする西塘御嶽ね。この方は、首里大主から竹富島に言わば首里王の名代として八重山の初代頭職になった人ね。で、あの人が行政を始められた時に那覇の坂田の方で、十五夜の祭りをしたのを、そのお祭りをこの島に持って来て、竹富で始めたと。だから四百八十年ぐらい前の話ですね。それが、今現在も受け継がれていて、西塘さんの家訓の中にも「賢くさや打組(うつぐみ)どぅ優る。」と賢さを讃える教訓歌があるように、また西塘さんの教えから、この島では、東は昇る太陽の象った旗頭、西は龍を象った旗頭、仲筋は滝を登る緋鯉を象っての旗頭で、各支会がその旗頭の下に集ってがんばっていますね。
 昔、大里親方がオヤケ赤蜂を征伐に来られたけど、八重山の住民はね、オヤケ赤蜂を非常に信頼しておったわけよね、その人の言うことだったら本当に極端に言えば、もう住民派の瀬長亀次郎みたいにね、非常に住民とも親しくして、「納税なんかしたらいけない。生活が根本だ。住民が生活も出来ないのに人頭税など、そんなに取られたら大変だ。だから八重山は八重山で豊かに暮らそう。」とオヤケ赤蜂は、主張したのよね。それで、オヤケ赤蜂は、首里大主から睨まれて結局、首里の軍が攻めて来るけど、一度はオヤケ赤蜂は追い返されたから、二度目には大里親方が八重山まで遠征されて、征伐が成功しているのよね。で、そういう大里親方が、オヤケ赤蜂を征伐した後に、「目の前に見える島に行ってみよう。」ということで、この島に来られた時に、島の住民は、竹富に来られるという噂で、オヤケ赤蜂と言えば、当時、農民の神様と言われるようなたいへん尊敬してる人だから、「オヤケ赤蜂を征伐したという人はどれほどの武将であり、どういった力持ちか、オヤケ赤蜂を征伐するぐらいの人は大変な人だろう。」ということで、村中の人が全部、畑小屋に逃げ去って、全部が逃げているところに西塘は、こういった武将が見たいということで村の上がり口の木の枝の上に乗って、大里親方一行が島に上がって来るのを見ながら、歌をうたってるからね、大里親方一行の武将らは、人は一人もいないと思ってやって来て、木の上を見たら、そこに子供がいた。大里親方が、「おい、ちょっと降りてごらん。」ということで、木の枝から降りてもらって、西塘さんに、「どうしてあんただけこちらにおるかあ。この島には人がいないか。お父さんお母さんなんかどうしたの、村の人はどうしたの。」と聞いたら、「オヤケ赤蜂を征伐するような人は鬼みたいな人じゃないか。逃げよう逃げようと全部逃げたよ。それに、働かなきゃ食えないから、全部一生懸命畑に働きに行ったんだ。僕らは子供だから遊んでる。」と子供ながらにそのまま正直にはきはき返事もするから、この子は珍しい子だということで、「この子供は思ったことよく言うものだ。褒美を上げる。」ちゅうて、持っていた蜜柑を剥いて真っ二つに分けて、西塘の左手と右手に渡してやったら、その子供は、剥いた蜜柑の片方の手のを一個を食べたと。食べ終わったらまたもう片方のを食べ始めてたから、「ちょっと待ってごらん。あんた右手のを食べて左
手のを食べたけどどちらがおいしかったか。」と聞いたら、蜜柑はそばに置いて、両手をぱんと叩いて、「右と左とどちらの手が音は高く鳴ったんですか。」と西塘さんがね、返事をしたと、大里親方のこの一行は、びっくりして、「こんな子供に一発やられた。これは素晴らしい才能を持ってる子だ。」ということで、いろいろ話をして、「お父さんお母さんにも親孝行しなさいねえ、頑張りなさいね。」と言って、別れて行ったと。
 その頃、首里城がよく崩れるので何度も直したが、それでも崩れて、尚真王も困っていたので、「どうしてもこの首里城を堅固な万代にも崩れない城に築き上げたい。」ということで、尚真王がいわば各部署を集めて相談したら、西塘の才能を認めていたこの大里親方もこの一行が相談役の中にいて、「もう十年前にオヤケ赤蜂征伐した後、竹富に行ったら、あの頃幼かったけど、すばらしい頭脳の持ち主がいた。今では十七~十八野青年に成長していると思うから、彼も呼んで相談してみたらどうか。」と話をしたら尚真王がも、「じゃあ、呼んで来い。」ということで首里から使いが竹富島に派遣されて来て、西塘さんは首里の方に呼び出された。それで、西塘さんに、首里城壁修復の話をしたら、西塘さんは、「一枚の屏風を一枚真っ直ぐに伸ばしたらすぐ転ぶけど、こういう屏風型にしたらすぐは転ばない。だから基礎をこのようにして積み上げれば大丈夫じゃないか。」ということで、城壁を積んだから、この首里城の北の向こうの城壁は、今も屏風型になっているでしょ。これは西塘さんの設計で創案だったという話が、竹富島の子や孫を通してずっと引き継がれているから、首里城を見に行ったらやっぱり屏風型になっているから、これだここだということで、話してよく見たりするけどね。この城壁は、こうして西塘さんが提案をして、崩れないようにしたのが大東亜戦争で破壊されて崩れたということで、大変惜しいと思ったことがありますね。 そういったことで、首里城の城壁の工事が終わると、今度は、あの今の守礼の門からちょっと行った所に園比屋武(そのひゃん)御嶽って、石で積んだ拝所があるね。ある拝所は、首里王が海外に出るときには、海上無事に帰れるようにと祈願して行った所で、西塘さんはこちらも自分の手で築こうということで、ご本人の手で園比屋武御嶽も築いたということね。それが、あの大東亜戦争で破壊されてあの時使った石などは、側の方に寄せられてあったんだよね。戦後ね、あれがコンクリで、形は昔の形でしてあったけど、「それではならん。復元をさせてくれ。」とこちらの協議会の皆さんもこの比嘉主席時代からね、言っていたけど、「あんたこれは文化財に指定されてるからそう簡単にいかない。」ちゅうことで、いろいろ文化庁との話
し合いで、これがようやく十年程前に復元したんだね。そのときの園比屋武御嶽の除幕式の時には、踊りもこちらの竹富公民館から持って行ってね、お祝いにもこちらからも行ってるさあね。
 八重山本島には、当時首里からの直属の行政官がいなかったのね。で、それがこちらに八重山の行政府で首里王府の出張所みたいのが置かれた。今で言えば八重山市長ですね。西塘さんは、当時のいろいろな功績を讃えられて、尚真王からその八重山群島の行政官に任命されたのね。それで、八重山群島初めて、首里王主からの初代の頭職として任命されて、当時の八重山の責任者になった。その役所は、ご本人が竹富島の出身だから、「自分の生まれ故郷で八重山群島を治めよう。」ということで、竹富島の裏の方に、その当時の役所跡が現在もあるのね。で、向こうで二十か年間行政されたようですがね。しかし、「やっぱし人口が多
いところが行政の場としてはふさわしい。」ということで、ご本人が石垣に、この役所を移されて、それから六か年石垣で行政をされて亡くなっておられるがね。その石垣に移られてからの歌が竹富の「しきた盆(ブン)」という歌がある。竹富島では、竹富島の君が代っていってる。で、竹富島が政治の始まりはだ。いろいろな八重山群島の行政の始まりも竹富だ。ご本人が石垣島へ渡ってから竹富島を眺めたっらね、あの眉のようにね平べったい島で座敷にお盆を置いたような島だということで、座敷に敷いた盆というのが歌の題名になっているのね。この西塘さんが歌われた歌の最後の句は、「賢(かし)くさや打組(うつぐみ)に優る」ということで締められていますがね、これがこの西塘さんの教訓として竹富島の皆さんは「しきた盆」の歌われた最後の句の「賢くさや打組(うつぐみ)に優る」と。我々はあの明治天皇がおっしゃったようにね、「広く会議を起こし万機公論に決すべし。」と憲法にあるけど、それも結局は西塘さんの言われた「賢くさや打組(うつぐみ)どぅ優る」という意味と同じで、もう民衆が本当に賢くなるには一人一人の意見を聞き打組心(うつぐむこころ)、それが島の発展だということの教えですね。だから、竹富島の住民はすばらしい教訓だとそれを誇りに思っているのですね。
 ところで、西塘さんには、宇座という子供がおったわけ。ですけど、夜釣りにいって流されたということでね、行方が分からなくなったんです。この人は、台湾の蘭嶼島に流されたというじゃないかというような説もあるけど、首里王にこちらからの貢納の米や反物や粟なんか運んだ船がね、首里へ納めての帰りの船が流されて行って、蘭嶼島に着いたら、宇座に会ってきたという報せを持ってきたという話もあるけどね。
 このように、西塘さんのお陰で、竹富島は、首里城とあれこれつながりを持っているから、住民は誇りを持って、西塘さんを竹富島の島守りの神として、西塘御嶽に祀って、さっきも言ったけどお正月の初詣でや子供が生まれてのお宮参りなね、それから年に一度の西塘大祭というお祭りとして現在でも華やかにやっていますけどね。また、西塘さんの徳望をあやかるために、裏の方に西塘さんのお墓を作ってますね。西塘さんについては、まずこれくらいね。
・西塘御嶽‥‥西塘を祀った御嶽。西塘は一時石垣島で仮埋葬してあったが、蔵元の役人によって竹富島の旧東屋敷内に墓地を築き改葬された。これが現在の西塘御嶽となる。墳墓が御嶽に変化したもので、竹富島の人々の西塘に対する敬幕の念は強いものがある。昭和三四年一二月一六日県に「史跡」として指定された。竹富公民館の向かいに位置する。・大里親方‥‥大里大将ともいう。沖縄本島で勢力をはっていた大里按司(あじ)のこと。按司とは、琉球各地の支配者の呼称。王府時代には位階名。尚真王二四(一五〇〇)年八重山のオヤケ赤蜂謀反鎮定のため首里王府から派遣された。・瀬長亀次郎(せながかめじろう)‥‥1970
年~89年に衆議院議員をつとめ、1973年から日本共産党福委員長として日本と世界の政治の舞台で活躍。日本の戦後史を代表する政治家の一人。・尚真王(しょうしんおう)‥‥(1465~1526)第二尚氏王統三代の王。存位50年(1477~1526)。尚円の子で童名(わらびなー)は真加戸樽金(まかとだるかに)。尚円の死後、あとをその弟の尚宣威がついだが諸神の託宣によって退位し、尚真が13歳で即位した。八重山征討について、オヤケ・アカハチが両三年貢を断ったために、宮古の仲宗根豊見親玄雅の訴えにより征討軍を派遣、1500年、大里ほか9名を将として、戦船46隻に兵3000余人をのせて討伐した。・大東亜戦争‥‥太平洋戦争
の日本側での当時の公称。太平洋戦争は、第二次世界大戦のうち、主として太平洋方面における日本とアメリカ、イギリス、オランダ等の連合国軍との戦争のことをいう。この戦争で沖縄本島等も大きな打撃を受け、多くの人々が犠牲になった。・しきた盆(しきたぶん)‥‥竹富島の代表的な民謡。「竹富は八重山頭主を生んだ島、政治発祥の島、何事も協力で共存一致の島」島の歴史を折り込み島の誇りを歌っている。・うつぐむ心‥‥協力する心。

再生時間:8:30

民話詳細DATA

レコード番号 47O200279
CD番号 47O20C016
決定題名 西塘(共通語)
話者がつけた題名
話者名 高那三郎
話者名かな たかなさぶろう
生年月日 19260501
性別
出身地 沖縄県八重山郡竹富町字竹富
記録日 19950322
記録者の所属組織 沖縄口承文芸学術調査団
元テープ番号 竹富町字竹富T06A08
元テープ管理者 沖縄伝承話資料センター
分類 伝説
発句(ほっく)
伝承事情
文字化資料 沖国大国文学科平成8度卒業論文 竹富島の民話 p52
キーワード 打組,大里親方,オヤケ赤蜂,蜜柑,右手,左手,園比屋武御嶽,宇座
梗概(こうがい) こちらの竹富ではお正月の初詣でや子供が生まれてお宮参りなどする西塘御嶽ね。この方は、首里大主から竹富島に言わば首里王の名代として八重山の初代頭職になった人ね。で、あの人が行政を始められた時に那覇の坂田の方で、十五夜の祭りをしたのを、そのお祭りをこの島に持って来て、竹富で始めたと。だから四百八十年ぐらい前の話ですね。それが、今現在も受け継がれていて、西塘さんの家訓の中にも「賢くさや打組(うつぐみ)どぅ優る。」と賢さを讃える教訓歌があるように、また西塘さんの教えから、この島では、東は昇る太陽の象った旗頭、西は龍を象った旗頭、仲筋は滝を登る緋鯉を象っての旗頭で、各支会がその旗頭の下に集ってがんばっていますね。  昔、大里親方がオヤケ赤蜂を征伐に来られたけど、八重山の住民はね、オヤケ赤蜂を非常に信頼しておったわけよね、その人の言うことだったら本当に極端に言えば、もう住民派の瀬長亀次郎みたいにね、非常に住民とも親しくして、「納税なんかしたらいけない。生活が根本だ。住民が生活も出来ないのに人頭税など、そんなに取られたら大変だ。だから八重山は八重山で豊かに暮らそう。」とオヤケ赤蜂は、主張したのよね。それで、オヤケ赤蜂は、首里大主から睨まれて結局、首里の軍が攻めて来るけど、一度はオヤケ赤蜂は追い返されたから、二度目には大里親方が八重山まで遠征されて、征伐が成功しているのよね。で、そういう大里親方が、オヤケ赤蜂を征伐した後に、「目の前に見える島に行ってみよう。」ということで、この島に来られた時に、島の住民は、竹富に来られるという噂で、オヤケ赤蜂と言えば、当時、農民の神様と言われるようなたいへん尊敬してる人だから、「オヤケ赤蜂を征伐したという人はどれほどの武将であり、どういった力持ちか、オヤケ赤蜂を征伐するぐらいの人は大変な人だろう。」ということで、村中の人が全部、畑小屋に逃げ去って、全部が逃げているところに西塘は、こういった武将が見たいということで村の上がり口の木の枝の上に乗って、大里親方一行が島に上がって来るのを見ながら、歌をうたってるからね、大里親方一行の武将らは、人は一人もいないと思ってやって来て、木の上を見たら、そこに子供がいた。大里親方が、「おい、ちょっと降りてごらん。」ということで、木の枝から降りてもらって、西塘さんに、「どうしてあんただけこちらにおるかあ。この島には人がいないか。お父さんお母さんなんかどうしたの、村の人はどうしたの。」と聞いたら、「オヤケ赤蜂を征伐するような人は鬼みたいな人じゃないか。逃げよう逃げようと全部逃げたよ。それに、働かなきゃ食えないから、全部一生懸命畑に働きに行ったんだ。僕らは子供だから遊んでる。」と子供ながらにそのまま正直にはきはき返事もするから、この子は珍しい子だということで、「この子供は思ったことよく言うものだ。褒美を上げる。」ちゅうて、持っていた蜜柑を剥いて真っ二つに分けて、西塘の左手と右手に渡してやったら、その子供は、剥いた蜜柑の片方の手のを一個を食べたと。食べ終わったらまたもう片方のを食べ始めてたから、「ちょっと待ってごらん。あんた右手のを食べて左 手のを食べたけどどちらがおいしかったか。」と聞いたら、蜜柑はそばに置いて、両手をぱんと叩いて、「右と左とどちらの手が音は高く鳴ったんですか。」と西塘さんがね、返事をしたと、大里親方のこの一行は、びっくりして、「こんな子供に一発やられた。これは素晴らしい才能を持ってる子だ。」ということで、いろいろ話をして、「お父さんお母さんにも親孝行しなさいねえ、頑張りなさいね。」と言って、別れて行ったと。  その頃、首里城がよく崩れるので何度も直したが、それでも崩れて、尚真王も困っていたので、「どうしてもこの首里城を堅固な万代にも崩れない城に築き上げたい。」ということで、尚真王がいわば各部署を集めて相談したら、西塘の才能を認めていたこの大里親方もこの一行が相談役の中にいて、「もう十年前にオヤケ赤蜂征伐した後、竹富に行ったら、あの頃幼かったけど、すばらしい頭脳の持ち主がいた。今では十七~十八野青年に成長していると思うから、彼も呼んで相談してみたらどうか。」と話をしたら尚真王がも、「じゃあ、呼んで来い。」ということで首里から使いが竹富島に派遣されて来て、西塘さんは首里の方に呼び出された。それで、西塘さんに、首里城壁修復の話をしたら、西塘さんは、「一枚の屏風を一枚真っ直ぐに伸ばしたらすぐ転ぶけど、こういう屏風型にしたらすぐは転ばない。だから基礎をこのようにして積み上げれば大丈夫じゃないか。」ということで、城壁を積んだから、この首里城の北の向こうの城壁は、今も屏風型になっているでしょ。これは西塘さんの設計で創案だったという話が、竹富島の子や孫を通してずっと引き継がれているから、首里城を見に行ったらやっぱり屏風型になっているから、これだここだということで、話してよく見たりするけどね。この城壁は、こうして西塘さんが提案をして、崩れないようにしたのが大東亜戦争で破壊されて崩れたということで、大変惜しいと思ったことがありますね。 そういったことで、首里城の城壁の工事が終わると、今度は、あの今の守礼の門からちょっと行った所に園比屋武(そのひゃん)御嶽って、石で積んだ拝所があるね。ある拝所は、首里王が海外に出るときには、海上無事に帰れるようにと祈願して行った所で、西塘さんはこちらも自分の手で築こうということで、ご本人の手で園比屋武御嶽も築いたということね。それが、あの大東亜戦争で破壊されてあの時使った石などは、側の方に寄せられてあったんだよね。戦後ね、あれがコンクリで、形は昔の形でしてあったけど、「それではならん。復元をさせてくれ。」とこちらの協議会の皆さんもこの比嘉主席時代からね、言っていたけど、「あんたこれは文化財に指定されてるからそう簡単にいかない。」ちゅうことで、いろいろ文化庁との話 し合いで、これがようやく十年程前に復元したんだね。そのときの園比屋武御嶽の除幕式の時には、踊りもこちらの竹富公民館から持って行ってね、お祝いにもこちらからも行ってるさあね。  八重山本島には、当時首里からの直属の行政官がいなかったのね。で、それがこちらに八重山の行政府で首里王府の出張所みたいのが置かれた。今で言えば八重山市長ですね。西塘さんは、当時のいろいろな功績を讃えられて、尚真王からその八重山群島の行政官に任命されたのね。それで、八重山群島初めて、首里王主からの初代の頭職として任命されて、当時の八重山の責任者になった。その役所は、ご本人が竹富島の出身だから、「自分の生まれ故郷で八重山群島を治めよう。」ということで、竹富島の裏の方に、その当時の役所跡が現在もあるのね。で、向こうで二十か年間行政されたようですがね。しかし、「やっぱし人口が多 いところが行政の場としてはふさわしい。」ということで、ご本人が石垣に、この役所を移されて、それから六か年石垣で行政をされて亡くなっておられるがね。その石垣に移られてからの歌が竹富の「しきた盆(ブン)」という歌がある。竹富島では、竹富島の君が代っていってる。で、竹富島が政治の始まりはだ。いろいろな八重山群島の行政の始まりも竹富だ。ご本人が石垣島へ渡ってから竹富島を眺めたっらね、あの眉のようにね平べったい島で座敷にお盆を置いたような島だということで、座敷に敷いた盆というのが歌の題名になっているのね。この西塘さんが歌われた歌の最後の句は、「賢(かし)くさや打組(うつぐみ)に優る」ということで締められていますがね、これがこの西塘さんの教訓として竹富島の皆さんは「しきた盆」の歌われた最後の句の「賢くさや打組(うつぐみ)に優る」と。我々はあの明治天皇がおっしゃったようにね、「広く会議を起こし万機公論に決すべし。」と憲法にあるけど、それも結局は西塘さんの言われた「賢くさや打組(うつぐみ)どぅ優る」という意味と同じで、もう民衆が本当に賢くなるには一人一人の意見を聞き打組心(うつぐむこころ)、それが島の発展だということの教えですね。だから、竹富島の住民はすばらしい教訓だとそれを誇りに思っているのですね。  ところで、西塘さんには、宇座という子供がおったわけ。ですけど、夜釣りにいって流されたということでね、行方が分からなくなったんです。この人は、台湾の蘭嶼島に流されたというじゃないかというような説もあるけど、首里王にこちらからの貢納の米や反物や粟なんか運んだ船がね、首里へ納めての帰りの船が流されて行って、蘭嶼島に着いたら、宇座に会ってきたという報せを持ってきたという話もあるけどね。  このように、西塘さんのお陰で、竹富島は、首里城とあれこれつながりを持っているから、住民は誇りを持って、西塘さんを竹富島の島守りの神として、西塘御嶽に祀って、さっきも言ったけどお正月の初詣でや子供が生まれてのお宮参りなね、それから年に一度の西塘大祭というお祭りとして現在でも華やかにやっていますけどね。また、西塘さんの徳望をあやかるために、裏の方に西塘さんのお墓を作ってますね。西塘さんについては、まずこれくらいね。 ・西塘御嶽‥‥西塘を祀った御嶽。西塘は一時石垣島で仮埋葬してあったが、蔵元の役人によって竹富島の旧東屋敷内に墓地を築き改葬された。これが現在の西塘御嶽となる。墳墓が御嶽に変化したもので、竹富島の人々の西塘に対する敬幕の念は強いものがある。昭和三四年一二月一六日県に「史跡」として指定された。竹富公民館の向かいに位置する。・大里親方‥‥大里大将ともいう。沖縄本島で勢力をはっていた大里按司(あじ)のこと。按司とは、琉球各地の支配者の呼称。王府時代には位階名。尚真王二四(一五〇〇)年八重山のオヤケ赤蜂謀反鎮定のため首里王府から派遣された。・瀬長亀次郎(せながかめじろう)‥‥1970 年~89年に衆議院議員をつとめ、1973年から日本共産党福委員長として日本と世界の政治の舞台で活躍。日本の戦後史を代表する政治家の一人。・尚真王(しょうしんおう)‥‥(1465~1526)第二尚氏王統三代の王。存位50年(1477~1526)。尚円の子で童名(わらびなー)は真加戸樽金(まかとだるかに)。尚円の死後、あとをその弟の尚宣威がついだが諸神の託宣によって退位し、尚真が13歳で即位した。八重山征討について、オヤケ・アカハチが両三年貢を断ったために、宮古の仲宗根豊見親玄雅の訴えにより征討軍を派遣、1500年、大里ほか9名を将として、戦船46隻に兵3000余人をのせて討伐した。・大東亜戦争‥‥太平洋戦争 の日本側での当時の公称。太平洋戦争は、第二次世界大戦のうち、主として太平洋方面における日本とアメリカ、イギリス、オランダ等の連合国軍との戦争のことをいう。この戦争で沖縄本島等も大きな打撃を受け、多くの人々が犠牲になった。・しきた盆(しきたぶん)‥‥竹富島の代表的な民謡。「竹富は八重山頭主を生んだ島、政治発祥の島、何事も協力で共存一致の島」島の歴史を折り込み島の誇りを歌っている。・うつぐむ心‥‥協力する心。
全体の記録時間数 9:15
物語の時間数 8:30
言語識別 共通語
音源の質
テープ番号
予備項目1

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