オヤケ赤蜂(共通語)

概要

何百年前かはっきり分からんが、オヤケ赤蜂は波照間で生まれたらしいですよ。それで、この人は、やっぱしオランダかなんかの流れです。なんかウランダの誰かが波照間に流れて来てね、オヤケ赤蜂は、そのウランダ人と波照間の女との間に出来た人と言われているんですよね。それでね、この人は、髪の毛も茶色でちょっと色がついてさ、手もこんなに大きい人であったって。だから、よくオヤケ赤蜂の劇をする時に一番大きい人を主役に選ぶんですよ。うちの婆ちゃんなんかは、オヤケ赤蜂をウランダ人と言ってました。                                                                                  このオランダ人(うらんだじん)のオヤケ赤蜂は、波照間から流れてきたというけど、昔だから船でもってこう来て、ここに流れて来たんじゃないですか。この島の真直ぐ東の方に行くとね、こっちに一番東の浜は、アイヤルというけど、そこにこんな大きな岩がこうって、そこで降りたら、そこは、洞穴みたいにあんなところがあったから、そこの岩の下で住んで、すぐには部落に上がらないで、漁をしていたってね。それで、あっちで漁をして、食べたりして暮らしておったけど、あっちは、水が不自由なのよね。だから、もうこっち部落に上がって来て、私、この公民館のすぐ後のこっちに今新しい家が作ってるの見なさった。そこの集会所とこっち瓦家(かわらやー)見えてるけど、そこのすぐ東隣で、この御嶽の後ろが私が実家になる家です。それで、オヤケ赤蜂は、そこの屋敷にね、こんな小さく家作って、そこに住んで農業したり、釣りをしたりしていたんです。それでね、この屋敷にオヤケ赤蜂が住んでいたから、私の実家は大山という家だけど屋号を波照間屋敷(はてろうやしき)って言われたの。そのうちに、この人は、ここに金蔵も建てたみたいですよ。だから、私のお婆ちゃんがいつもね、あの戦争の後、私達が台湾から引き揚げて来た時、いつも三つ、四つなっている私の息子によ、「こっちにはね、波照間からオランダ人の偉い人がいらして、この屋敷に住んでたんだよ。その人はとっても立派な金蔵をこの屋敷に造っていたからね、あんたも大きくなったら偉くなって蔵を建てなさいよ。」とよく言ったんです。またね、その隣の前には、このオヤケ赤蜂が漁に使う網を洗ってね、網を干した大きな石があるんです。その石の真ん中にね、この位の深い穴が開いてる。この穴には、雨が降ると水が溜まるんです。うちなんか小さい時には、よくあっちに登ってね、ままごと遊びして、こっちは私のもの、こっちは私のと言って、その水を汲んではね、今そのままほっといています。
 で、そこの家に住んでおったんだけど、やっぱしこの島は小さいし、思うように出世出来ないから、ここから大浜に行ったみたいですね。それから、このオヤケ赤蜂は、沖縄から首里の役人が石垣に来ていたけど、大浜で農民や貧しい人の味方になって内乱起こして、石垣と戦争をしたとかね、とても随分戦って、後は殺されたけど、この人はいろんな活躍しているでしょ。でも、こっちにオヤケ赤蜂の墓があるんですよ。 私がこの島に帰って来たのは、十二、三年前ですが、そしたら、よく大浜の女と男の人がこっち来てよくね、大きな石があるんですが、それを拝みに来てるんです。それで、聞いたら、何か自分の祖先がこっちに住んでおっとったということで、拝みに来たと言うんです。
・波照間‥‥沖縄県の最南端、八重山初等の竹富町に属し、石垣島の西方海上四二キロの海上にある。有人島としては日本最南端の島。現在、五つの集落があり、島の中央部に北、南、前、名石、西方に離れて冨嘉の五つである。島は東西に楕円形の形をしており、竹富町では西表島についで大きい島である。御嶽は八カ所あり、神行事も多い。オヤケ赤蜂、長田大主ともにこの島で生まれたと伝えられており、集落内にオヤケ赤蜂、長田大主の碑がある。近年、飛行場や港湾も整備され、交通は画期的に改善された。主産業はサトウキビによる含蜜糖の生産である。・オヤケ赤蜂‥‥一五世紀末、八重山石垣島の大浜村にあって豪勇で知られ、近隣を制圧して宮古勢とも対立、貢物を絶って首里王府に反旗を翻し、王府征討軍によって誅伐された人物。波照間島出身で、若い頃大浜村に出てきた。生年未詳、一五〇〇年にオヤケ赤蜂の反乱で首里王府に倒された。その出生・幼少時の詳細は不明。波照間島に伝わる話では、島によく漂着したオランダ船の乗組員と、島の司との間に生まれた子どもだと伝えられている。しかし、この島の司が赤蜂を産んだという話は本来島の禁忌であるが、赤蜂が波照間の獅子嘉殿を部下に命じて殺させた事により、赤蜂へ腹いせとして赤蜂の出生をもらしたとされる。・アイヤル‥‥竹富島東方にある浜で、星砂の浜として知られる。また、オヤケ赤蜂はこの浜の右側にある岩に住み着いていたといわれる。・波照間屋敷‥‥現在の細原千代さん宅。赤蜂の網洗い石は現在あいのた会館向かい、大きなデイゴの木の下にある。石は幅約三メートル、高さ約一メートルで、今この石の上の穴は落ち葉でつまっている。・屋号‥‥ヤーンナーともいう。村落など地域社会において家族や個人の識別に大きな機能を果たした。・大浜‥‥石垣市の字。石垣市街から約四キロ。大正二年に大浜村として、平久保・伊原間・野底・桃里・白保・盛山・宮良・大浜・真栄里・平得の一〇字を編成。その後、町を経て、昭和二二年に石垣市に合併された。字内にある崎原公園には、「オヤケ赤蜂の碑」が建ち、その近くの海岸ではの赤蜂の足跡を見ることが出来る。

再生時間:6:38

民話詳細DATA

レコード番号 47O200245
CD番号 47O20C014
決定題名 オヤケ赤蜂(共通語)
話者がつけた題名
話者名 細原千代
話者名かな くまばらちよ
生年月日 19200124
性別
出身地 沖縄県八重山郡竹富町字竹富
記録日 19950322
記録者の所属組織 沖縄口承文芸学術調査団
元テープ番号 竹富町字竹富T3A02
元テープ管理者 沖縄伝承話資料センター
分類 伝説
発句(ほっく)
伝承事情
文字化資料 沖国大国文学科平成8度卒業論文 竹富島の民話 p43
キーワード 波照間,オランダ人,アイヤル,大浜
梗概(こうがい) 何百年前かはっきり分からんが、オヤケ赤蜂は波照間で生まれたらしいですよ。それで、この人は、やっぱしオランダかなんかの流れです。なんかウランダの誰かが波照間に流れて来てね、オヤケ赤蜂は、そのウランダ人と波照間の女との間に出来た人と言われているんですよね。それでね、この人は、髪の毛も茶色でちょっと色がついてさ、手もこんなに大きい人であったって。だから、よくオヤケ赤蜂の劇をする時に一番大きい人を主役に選ぶんですよ。うちの婆ちゃんなんかは、オヤケ赤蜂をウランダ人と言ってました。                                                                                  このオランダ人(うらんだじん)のオヤケ赤蜂は、波照間から流れてきたというけど、昔だから船でもってこう来て、ここに流れて来たんじゃないですか。この島の真直ぐ東の方に行くとね、こっちに一番東の浜は、アイヤルというけど、そこにこんな大きな岩がこうって、そこで降りたら、そこは、洞穴みたいにあんなところがあったから、そこの岩の下で住んで、すぐには部落に上がらないで、漁をしていたってね。それで、あっちで漁をして、食べたりして暮らしておったけど、あっちは、水が不自由なのよね。だから、もうこっち部落に上がって来て、私、この公民館のすぐ後のこっちに今新しい家が作ってるの見なさった。そこの集会所とこっち瓦家(かわらやー)見えてるけど、そこのすぐ東隣で、この御嶽の後ろが私が実家になる家です。それで、オヤケ赤蜂は、そこの屋敷にね、こんな小さく家作って、そこに住んで農業したり、釣りをしたりしていたんです。それでね、この屋敷にオヤケ赤蜂が住んでいたから、私の実家は大山という家だけど屋号を波照間屋敷(はてろうやしき)って言われたの。そのうちに、この人は、ここに金蔵も建てたみたいですよ。だから、私のお婆ちゃんがいつもね、あの戦争の後、私達が台湾から引き揚げて来た時、いつも三つ、四つなっている私の息子によ、「こっちにはね、波照間からオランダ人の偉い人がいらして、この屋敷に住んでたんだよ。その人はとっても立派な金蔵をこの屋敷に造っていたからね、あんたも大きくなったら偉くなって蔵を建てなさいよ。」とよく言ったんです。またね、その隣の前には、このオヤケ赤蜂が漁に使う網を洗ってね、網を干した大きな石があるんです。その石の真ん中にね、この位の深い穴が開いてる。この穴には、雨が降ると水が溜まるんです。うちなんか小さい時には、よくあっちに登ってね、ままごと遊びして、こっちは私のもの、こっちは私のと言って、その水を汲んではね、今そのままほっといています。  で、そこの家に住んでおったんだけど、やっぱしこの島は小さいし、思うように出世出来ないから、ここから大浜に行ったみたいですね。それから、このオヤケ赤蜂は、沖縄から首里の役人が石垣に来ていたけど、大浜で農民や貧しい人の味方になって内乱起こして、石垣と戦争をしたとかね、とても随分戦って、後は殺されたけど、この人はいろんな活躍しているでしょ。でも、こっちにオヤケ赤蜂の墓があるんですよ。 私がこの島に帰って来たのは、十二、三年前ですが、そしたら、よく大浜の女と男の人がこっち来てよくね、大きな石があるんですが、それを拝みに来てるんです。それで、聞いたら、何か自分の祖先がこっちに住んでおっとったということで、拝みに来たと言うんです。 ・波照間‥‥沖縄県の最南端、八重山初等の竹富町に属し、石垣島の西方海上四二キロの海上にある。有人島としては日本最南端の島。現在、五つの集落があり、島の中央部に北、南、前、名石、西方に離れて冨嘉の五つである。島は東西に楕円形の形をしており、竹富町では西表島についで大きい島である。御嶽は八カ所あり、神行事も多い。オヤケ赤蜂、長田大主ともにこの島で生まれたと伝えられており、集落内にオヤケ赤蜂、長田大主の碑がある。近年、飛行場や港湾も整備され、交通は画期的に改善された。主産業はサトウキビによる含蜜糖の生産である。・オヤケ赤蜂‥‥一五世紀末、八重山石垣島の大浜村にあって豪勇で知られ、近隣を制圧して宮古勢とも対立、貢物を絶って首里王府に反旗を翻し、王府征討軍によって誅伐された人物。波照間島出身で、若い頃大浜村に出てきた。生年未詳、一五〇〇年にオヤケ赤蜂の反乱で首里王府に倒された。その出生・幼少時の詳細は不明。波照間島に伝わる話では、島によく漂着したオランダ船の乗組員と、島の司との間に生まれた子どもだと伝えられている。しかし、この島の司が赤蜂を産んだという話は本来島の禁忌であるが、赤蜂が波照間の獅子嘉殿を部下に命じて殺させた事により、赤蜂へ腹いせとして赤蜂の出生をもらしたとされる。・アイヤル‥‥竹富島東方にある浜で、星砂の浜として知られる。また、オヤケ赤蜂はこの浜の右側にある岩に住み着いていたといわれる。・波照間屋敷‥‥現在の細原千代さん宅。赤蜂の網洗い石は現在あいのた会館向かい、大きなデイゴの木の下にある。石は幅約三メートル、高さ約一メートルで、今この石の上の穴は落ち葉でつまっている。・屋号‥‥ヤーンナーともいう。村落など地域社会において家族や個人の識別に大きな機能を果たした。・大浜‥‥石垣市の字。石垣市街から約四キロ。大正二年に大浜村として、平久保・伊原間・野底・桃里・白保・盛山・宮良・大浜・真栄里・平得の一〇字を編成。その後、町を経て、昭和二二年に石垣市に合併された。字内にある崎原公園には、「オヤケ赤蜂の碑」が建ち、その近くの海岸ではの赤蜂の足跡を見ることが出来る。
全体の記録時間数 6:50
物語の時間数 6:38
言語識別 共通語
音源の質
テープ番号
予備項目1

トップに戻る

TOP