豊見親井戸(共通語)

概要

今水道のタンクができているこの島では一番高い所に、豊見親城(トゥールングスク)という城があって、宮古の豊見親がいたんだそうですが、そこは、水が不自由だったもんだから、向こうのすぐ近くに、井戸を掘ったそうです。それで、井戸掘って水も出かかって、井戸掘りの工事が終わろうとしているときに、宮古の方から豊見親の親が危篤だという話が来たもんだから、「せっかく自分が今まで汗水を流して掘った井戸から水が出たから、どうしても自分の掘った井戸の水を持っていかんといかん。」というわけ、豊見親は、壺にここの水を取って宮古に持って行ったと。持ってって、「これは自分が掘った井戸の水だから、召し上がって下さ。」ということでこれを親に飲ましたら、これを飲まれてから、そのまま息を引き取られたらしいです。
 それで、竹富島ではですね、そこの井戸からはね、人が亡くなったときの水を汲んでもう顔を拭いたり、水を浴びさせたりして、こういう葬式の場合にはあの井戸の水を使ったから、これは死水を取る井戸だっていうんです。そこの水は、水の質もいいし、量も多いもんだがもう向こうはまた汲みに行く人がなくて、今でもまだありますけれどもね、今はあまり使わなくてもう草ぼうぼうになって危なくて側には寄り付けられません。また、仲筋井戸はもうまたおめでたい井戸であって、元日の朝には必ず朝早く仲筋井戸から水を汲んで来て、顔を洗ったり、手を洗ったりして、元日の朝のお雑煮をいただいたんですね。また、仲筋井戸の水はもう子供が生まれても一番最初あれで水浴びさせ、命名式にも使いますよ。この豊見親城(トゥールングスク)という所は、今は、ただもう自然に丘があるだけですが、終戦直後にアメリカ軍が水道のタンクを付けてやろうというわけで、向こうにタンクを造ってポンプで豊見親の水を上げてですね、そして、部落に配管していたんですよ。ところがもうそれも古くなって、今度は側の高い所に櫓をかけてタンクを造ってあります。
・豊見親城跡(とうとんぐすく)‥‥竹富小中学校の東側約百メートルのところに位置する。現在はぎんねむで覆われ一目では分かりにくい。・宮古の豊見親‥‥宮古の英雄仲宗根豊見親玄雅のことと思われる。仲宗根豊見親玄雅は、忠導氏家譜によると、天順年間(一四五七~六四)の生まれで、一六世紀初期に死去とある。童名(わらびなー)は空広(そらびろ)。幼少の頃から才能非凡と言われ、尚真王にオヤケ赤蜂の反乱を訴え、八重山征伐軍で、宮古軍を率いて先鋒として参加し、見事これをおされた。また与那国の鬼虎征伐を行って宮古の英雄となる。豊見親(とぅんみゃあ)は、一二世紀~一五世紀にかけての宮古島の豪族の呼称で、「鳴響む親(とよむおや)」の意とされるが、語源の詳細は不明。支配者の中でも名高い人物を称している。・宮古‥‥沖縄本島からおよそ三〇〇キロの南西海上に位置し、石垣島からおよそ一三〇キロの距離をへだてた所にある。地形はほぼ三角形で、おおむね平坦な台地をなし、最も高い野原岳で一〇八メートルである。なお、宮古諸島は、宮古島・伊良部島・下地島・栗間島・多良間島・池間島・大神島・水納島の八島からなる。・豊見親井戸(とぅんなーか)‥‥宮古の豊見親が豊見親城の乾の方角に掘った井戸。自分の掘った井戸の初水は死人が始めて使用したので、この井戸の名を忌中井戸(ウーリカー)と名付け、島人に死人が出た場合はこの井戸水を使用してくれと伝えたという。明治時代までは、ウワズイモの葉で柄杓を作り七花(ななさい)の水として、甕に詰めて葬式の日から七日間使用したという七日忌屋(なのうやー)の習慣があった。竹富小中学校の東側約百メートルのところに位置する。・命名式‥‥生後四日、八日、一〇日目をシラヨイと言って、子どもの守り神、生身神の前に酒、花米、マカグ(御飯)二膳、シュナイ(サブナ、マンジュマイ、モヤシ、ツノマタなどをまぜた味噌あえ)二膳を供えて、産児を水の花(ミジヌハナ)という清水で拭きながら、火の神と祖先の霊の前で命名の祈願をする。

再生時間:1:27

民話詳細DATA

レコード番号 47O200222
CD番号 47O20C013
決定題名 豊見親井戸(共通語)
話者がつけた題名
話者名 高那石吉
話者名かな たかないしきち
生年月日 19080714
性別
出身地 沖縄県八重山郡竹富町字竹富
記録日 19950322
記録者の所属組織 沖縄口承文芸学術調査団
元テープ番号 竹富町字竹富T1A09
元テープ管理者 沖縄伝承話資料センター
分類 伝説
発句(ほっく)
伝承事情
文字化資料 沖国大国文学科平成8度卒業論文 竹富島の民話 p21
キーワード 死水
梗概(こうがい) 今水道のタンクができているこの島では一番高い所に、豊見親城(トゥールングスク)という城があって、宮古の豊見親がいたんだそうですが、そこは、水が不自由だったもんだから、向こうのすぐ近くに、井戸を掘ったそうです。それで、井戸掘って水も出かかって、井戸掘りの工事が終わろうとしているときに、宮古の方から豊見親の親が危篤だという話が来たもんだから、「せっかく自分が今まで汗水を流して掘った井戸から水が出たから、どうしても自分の掘った井戸の水を持っていかんといかん。」というわけ、豊見親は、壺にここの水を取って宮古に持って行ったと。持ってって、「これは自分が掘った井戸の水だから、召し上がって下さ。」ということでこれを親に飲ましたら、これを飲まれてから、そのまま息を引き取られたらしいです。  それで、竹富島ではですね、そこの井戸からはね、人が亡くなったときの水を汲んでもう顔を拭いたり、水を浴びさせたりして、こういう葬式の場合にはあの井戸の水を使ったから、これは死水を取る井戸だっていうんです。そこの水は、水の質もいいし、量も多いもんだがもう向こうはまた汲みに行く人がなくて、今でもまだありますけれどもね、今はあまり使わなくてもう草ぼうぼうになって危なくて側には寄り付けられません。また、仲筋井戸はもうまたおめでたい井戸であって、元日の朝には必ず朝早く仲筋井戸から水を汲んで来て、顔を洗ったり、手を洗ったりして、元日の朝のお雑煮をいただいたんですね。また、仲筋井戸の水はもう子供が生まれても一番最初あれで水浴びさせ、命名式にも使いますよ。この豊見親城(トゥールングスク)という所は、今は、ただもう自然に丘があるだけですが、終戦直後にアメリカ軍が水道のタンクを付けてやろうというわけで、向こうにタンクを造ってポンプで豊見親の水を上げてですね、そして、部落に配管していたんですよ。ところがもうそれも古くなって、今度は側の高い所に櫓をかけてタンクを造ってあります。 ・豊見親城跡(とうとんぐすく)‥‥竹富小中学校の東側約百メートルのところに位置する。現在はぎんねむで覆われ一目では分かりにくい。・宮古の豊見親‥‥宮古の英雄仲宗根豊見親玄雅のことと思われる。仲宗根豊見親玄雅は、忠導氏家譜によると、天順年間(一四五七~六四)の生まれで、一六世紀初期に死去とある。童名(わらびなー)は空広(そらびろ)。幼少の頃から才能非凡と言われ、尚真王にオヤケ赤蜂の反乱を訴え、八重山征伐軍で、宮古軍を率いて先鋒として参加し、見事これをおされた。また与那国の鬼虎征伐を行って宮古の英雄となる。豊見親(とぅんみゃあ)は、一二世紀~一五世紀にかけての宮古島の豪族の呼称で、「鳴響む親(とよむおや)」の意とされるが、語源の詳細は不明。支配者の中でも名高い人物を称している。・宮古‥‥沖縄本島からおよそ三〇〇キロの南西海上に位置し、石垣島からおよそ一三〇キロの距離をへだてた所にある。地形はほぼ三角形で、おおむね平坦な台地をなし、最も高い野原岳で一〇八メートルである。なお、宮古諸島は、宮古島・伊良部島・下地島・栗間島・多良間島・池間島・大神島・水納島の八島からなる。・豊見親井戸(とぅんなーか)‥‥宮古の豊見親が豊見親城の乾の方角に掘った井戸。自分の掘った井戸の初水は死人が始めて使用したので、この井戸の名を忌中井戸(ウーリカー)と名付け、島人に死人が出た場合はこの井戸水を使用してくれと伝えたという。明治時代までは、ウワズイモの葉で柄杓を作り七花(ななさい)の水として、甕に詰めて葬式の日から七日間使用したという七日忌屋(なのうやー)の習慣があった。竹富小中学校の東側約百メートルのところに位置する。・命名式‥‥生後四日、八日、一〇日目をシラヨイと言って、子どもの守り神、生身神の前に酒、花米、マカグ(御飯)二膳、シュナイ(サブナ、マンジュマイ、モヤシ、ツノマタなどをまぜた味噌あえ)二膳を供えて、産児を水の花(ミジヌハナ)という清水で拭きながら、火の神と祖先の霊の前で命名の祈願をする。
全体の記録時間数 1:35
物語の時間数 1:27
言語識別 共通語
音源の質 ×
テープ番号
予備項目1

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