昔、首里の大里の大将がオヤケ赤蜂を退治して、その後にその一行がこの島にきたんですね。そのとき、「人を殺す人が竹富に入ってくるから、竹富の人は全部逃げてどっか見えない所に隠れなさい。」と命令があって、そして、その一行がこう入って来たところが、ちょうど今の小城盛(くすくもり)の西側の向こうに親見世(おーせー)と言って、昔の役所さ。その東側のところに、昔は蜜柑の木があったって言いす。その蜜柑の木の下をくぐろうとすると、この西塘さんだけがその蜜柑の木の上に乗っていたの。そのときに西塘さんは、八つ歳だった。その木から蜜柑を一つ折って、そして半分は左手に、もう半分は右手に取って、これを食べたり、これ食べたりするのを、大里大将が見て、「これとこれとどっちが味がいいか。」と聞いたら、それの答えが、ぽんと両手を打って、どっちが鳴ったか。」と聞いたら、大里大将は答えられなかったって。その二五年後に、首里城を築くということになって、その時に大里大将から認められていたから、西塘さんは、首里城を築きに行って、首里城を築いて、それがね、二五年間かかって作ったという記録がありますよ。その時、向こうで二十五年間、自分で御飯炊いて生活して、そしてやっぱり工事技師として成功されたんだが、あの時は、時代が時代ですから、まだコンロとかガスと何もないから、石を三つ置いて、そこに鍋をかけて二十五年間炊いて食べたから、「このありがたさを忘れない。」と言うことで、その時に食事を炊いた三つ石の火の神をですね、この島に持って来て、竹富の国仲御嶽(くになかおたけ)にちゃんと祀っておられるんです。その祭りを西塘祭っていう。また、首里城を築いた後で石が一個だけ残ったんです。そしたら、「首里王様とあんたとは一緒に死んでも一緒だから。」と言われたから、その残った石をわざわざこの島まで持ってきて、こっちの西塘様の後ろにある墓石になったんですね。その西塘さんが残した一番大切な言葉は、「賢くさや、打組(うつぐみ)どぅまさる。」と言う教訓で、打組(うつぐみ)っていうのは、妥協と協力し合うことですね。この言葉が入っている「しきだ盆(むん)」という歌だけは、竹富島に生まれた人は、今も全部持っています。「人間は、どういうことがあっても、何でも協力しなければならない。そのことを忘れてしまえば、絶対に島は栄えることは出来ないよ。」と言うユイマールの精神が、この歌にはあるんです。この歌は、竹富の年中一大行事の種取り祭りのときにやるんですけど、三味線で歌ってに四十分ぐらいかけて踊るんですよ。
・小城盛‥‥火番所。尚賢王の時代(一七世紀中頃)、進貢船、接貢船等の航海路に、諸離島に命じて烽火(のろし)を挙げる火番所として建設された。村番所から遠見役を配置して海上の監視をさせ、烽火をあげて冠船、外国船等の入港を蔵元に通報する大きな役目を果たしていた。昭和四七年八月三○日、竹富町指定文化財に指定された。・親見世(おーせ)‥‥村番所のこと。・ユイマール‥‥賃金の支払いをともわない相互扶助的な労働慣行。
| レコード番号 | 47O200216 |
|---|---|
| CD番号 | 47O20C013 |
| 決定題名 | 西塘(共通語) |
| 話者がつけた題名 | - |
| 話者名 | 大山貞雄 |
| 話者名かな | おおやまさだお |
| 生年月日 | 19041107 |
| 性別 | 男 |
| 出身地 | 沖縄県八重山郡竹富町字竹富 |
| 記録日 | 19950322 |
| 記録者の所属組織 | 沖縄口承文芸学術調査団 |
| 元テープ番号 | 竹富町字竹富T1A03 |
| 元テープ管理者 | 沖縄伝承話資料センター |
| 分類 | 伝説 |
| 発句(ほっく) | むかし |
| 伝承事情 | - |
| 文字化資料 | 沖国大国文学科平成8度卒業論文 竹富島の民話 p61 |
| キーワード | 蜜柑,右手,左手,首里城,大里大将,打組 |
| 梗概(こうがい) | 昔、首里の大里の大将がオヤケ赤蜂を退治して、その後にその一行がこの島にきたんですね。そのとき、「人を殺す人が竹富に入ってくるから、竹富の人は全部逃げてどっか見えない所に隠れなさい。」と命令があって、そして、その一行がこう入って来たところが、ちょうど今の小城盛(くすくもり)の西側の向こうに親見世(おーせー)と言って、昔の役所さ。その東側のところに、昔は蜜柑の木があったって言いす。その蜜柑の木の下をくぐろうとすると、この西塘さんだけがその蜜柑の木の上に乗っていたの。そのときに西塘さんは、八つ歳だった。その木から蜜柑を一つ折って、そして半分は左手に、もう半分は右手に取って、これを食べたり、これ食べたりするのを、大里大将が見て、「これとこれとどっちが味がいいか。」と聞いたら、それの答えが、ぽんと両手を打って、どっちが鳴ったか。」と聞いたら、大里大将は答えられなかったって。その二五年後に、首里城を築くということになって、その時に大里大将から認められていたから、西塘さんは、首里城を築きに行って、首里城を築いて、それがね、二五年間かかって作ったという記録がありますよ。その時、向こうで二十五年間、自分で御飯炊いて生活して、そしてやっぱり工事技師として成功されたんだが、あの時は、時代が時代ですから、まだコンロとかガスと何もないから、石を三つ置いて、そこに鍋をかけて二十五年間炊いて食べたから、「このありがたさを忘れない。」と言うことで、その時に食事を炊いた三つ石の火の神をですね、この島に持って来て、竹富の国仲御嶽(くになかおたけ)にちゃんと祀っておられるんです。その祭りを西塘祭っていう。また、首里城を築いた後で石が一個だけ残ったんです。そしたら、「首里王様とあんたとは一緒に死んでも一緒だから。」と言われたから、その残った石をわざわざこの島まで持ってきて、こっちの西塘様の後ろにある墓石になったんですね。その西塘さんが残した一番大切な言葉は、「賢くさや、打組(うつぐみ)どぅまさる。」と言う教訓で、打組(うつぐみ)っていうのは、妥協と協力し合うことですね。この言葉が入っている「しきだ盆(むん)」という歌だけは、竹富島に生まれた人は、今も全部持っています。「人間は、どういうことがあっても、何でも協力しなければならない。そのことを忘れてしまえば、絶対に島は栄えることは出来ないよ。」と言うユイマールの精神が、この歌にはあるんです。この歌は、竹富の年中一大行事の種取り祭りのときにやるんですけど、三味線で歌ってに四十分ぐらいかけて踊るんですよ。 ・小城盛‥‥火番所。尚賢王の時代(一七世紀中頃)、進貢船、接貢船等の航海路に、諸離島に命じて烽火(のろし)を挙げる火番所として建設された。村番所から遠見役を配置して海上の監視をさせ、烽火をあげて冠船、外国船等の入港を蔵元に通報する大きな役目を果たしていた。昭和四七年八月三○日、竹富町指定文化財に指定された。・親見世(おーせ)‥‥村番所のこと。・ユイマール‥‥賃金の支払いをともわない相互扶助的な労働慣行。 |
| 全体の記録時間数 | 3:17 |
| 物語の時間数 | 3:12 |
| 言語識別 | 共通語 |
| 音源の質 | × |
| テープ番号 | - |
| 予備項目1 | - |