西塘の話は前にも申し上げていますけれども、これは今から約五百年近く前でしょうね。そのときにもう
西塘さんは竹富の生まれの人で、大変賢く生まれておられたので、あるとき大浜のオヤケ赤蜂が大変このワ
ンマンで、「これでどうしても征伐しないといけない。」ということで、那覇からお役人たちが、大変大勢来られて、オヤケ赤蜂を征伐した後、その征伐をした親方が竹富視察に来られた時に、もう竹富の住民は、「偉いお役人たちがお見えになった。みんなどきなさい。」ということで、もうたいがい家に隠れたり、あるいは向こうから見えると横道にそれたりしておった。けれども、西塘さんは、幼い子ではあったが、大胆にも役人が来るのをじいっと見ておったら、役人がどんどん来られたもんだから、木に登って上から見ていたところ、下を通られた時に、この偉い役人が、西塘さんを見つけて、「危ないから下りてきなさい。」と言われて、下に降りると、「幾つになった。」と聞かれた時、「私は今七歳です。」と答えて、もう子供だけれども役人の話を聞いたり、返事もしたりするもんだから、「この子は本当に賢い子だな。」と思って、自分たち持って来た蜜柑を一個渡したら、西塘さんはこれを二つに割ってですね、これも食べたりこれも食べたりこうして食べていた。そうしたら、役人さんが、「あんたこの蜜柑は、左の手の蜜柑と右の手の蜜柑はどれがおいしかったか。」ということを聞かれた。あのときにこの西塘さんは、子供だったけども、大胆に話を聞いておって、自分でぴゃっと手を打って、「役人さん、私の手は右と左どっちが鳴りましたか。」というようにすぐ聞き返したというんですね。あれからもう役人もびっくりして、「この子はもうただ者ではない。すばらしい才能の持ち主じゃないか。」と誉められて、いろいろ話して、可愛がったらしい。 それから西塘さんもう成長すると、もう沖縄の首里城のお役人が、「ぜひこの西塘を沖縄に呼んで、いろいろと事業させてみたい。」と西塘を呼んで、首里城の城壁の石積みをやらせたら、きれいにやったから、園比屋武御嶽(そなやんうたき)の石積みもなかなか見事にやるらしいんですね。それでもう首里でだいたい一人前になって、それから、竹富出身であるだけに、「あんたは、八重山に行って八重山の政治を司りなさい。」と八重山の頭役に任命されて、八重山に帰された。それで、八重山に帰って、この竹富島の皆治原(かいじばる)に蔵元を置いてですね、八重山の行政を司どったといういわれがあります。しかし、もう皆治原に蔵元を置いて頭役をやっていたけれども、やっぱり八重山は、沢山の島々で、また大きな島が石垣にもあるから、「どうしても八重山全島を治めるには、交通の不便もある。もう石垣に移そう。」というわけで、蔵元を石垣の新川に移されて、向こうで政治を執られていた。その蔵元は、西塘さんが亡くなって、後は現在の支庁舎の所に移られて、それから、元の蔵元の所に新しく建築しようとして、蔵元跡を掘ったら、いろいろ昔の蔵元の遺跡がどんどんでるそうですね。そういうわけで、今あの支庁舎場所も、向こうには造らないで、大浜の前の保健所の近くで、戦後八重山病院があった後に八重山支庁が出来るように、今度は変更されるようになりました。今は、昔の蔵元の遺跡を今後どうするかと言ってますよ。
こういう訳で竹富では、西塘さんに見習って皆が成長するようにということで、ここの西塘御嶽で年に二回大きなお祭りをやって、もう島守りの神であり、また島の本当に大成功者だというわけで、ぜひ西塘さんにあやかって皆が偉くなるようにと、盆、正月にも皆ここを参拝しているわけですね。
・新川‥‥石垣島南西部に位置する。石垣港に隣接する地域で、石垣四箇の一つ。集落は市街地の一画を形成する。現字域は、石垣島南西部の富崎(観音崎)を含む。
| レコード番号 | 47O200214 |
|---|---|
| CD番号 | 47O20C012 |
| 決定題名 | 西塘(共通語) |
| 話者がつけた題名 | - |
| 話者名 | 高那石吉 |
| 話者名かな | たかないしきち |
| 生年月日 | 19080714 |
| 性別 | 男 |
| 出身地 | 沖縄県八重山郡竹富町字竹富 |
| 記録日 | 19950322 |
| 記録者の所属組織 | 沖縄口承文芸学術調査団 |
| 元テープ番号 | 竹富町字竹富T1A01 |
| 元テープ管理者 | 沖縄伝承話資料センター |
| 分類 | 伝説 |
| 発句(ほっく) | - |
| 伝承事情 | - |
| 文字化資料 | 沖国大国文学科平成8度卒業論文 竹富島の民話 p59 |
| キーワード | オヤケ赤蜂,蜜柑,右,左,園比屋武御嶽, |
| 梗概(こうがい) | 西塘の話は前にも申し上げていますけれども、これは今から約五百年近く前でしょうね。そのときにもう 西塘さんは竹富の生まれの人で、大変賢く生まれておられたので、あるとき大浜のオヤケ赤蜂が大変このワ ンマンで、「これでどうしても征伐しないといけない。」ということで、那覇からお役人たちが、大変大勢来られて、オヤケ赤蜂を征伐した後、その征伐をした親方が竹富視察に来られた時に、もう竹富の住民は、「偉いお役人たちがお見えになった。みんなどきなさい。」ということで、もうたいがい家に隠れたり、あるいは向こうから見えると横道にそれたりしておった。けれども、西塘さんは、幼い子ではあったが、大胆にも役人が来るのをじいっと見ておったら、役人がどんどん来られたもんだから、木に登って上から見ていたところ、下を通られた時に、この偉い役人が、西塘さんを見つけて、「危ないから下りてきなさい。」と言われて、下に降りると、「幾つになった。」と聞かれた時、「私は今七歳です。」と答えて、もう子供だけれども役人の話を聞いたり、返事もしたりするもんだから、「この子は本当に賢い子だな。」と思って、自分たち持って来た蜜柑を一個渡したら、西塘さんはこれを二つに割ってですね、これも食べたりこれも食べたりこうして食べていた。そうしたら、役人さんが、「あんたこの蜜柑は、左の手の蜜柑と右の手の蜜柑はどれがおいしかったか。」ということを聞かれた。あのときにこの西塘さんは、子供だったけども、大胆に話を聞いておって、自分でぴゃっと手を打って、「役人さん、私の手は右と左どっちが鳴りましたか。」というようにすぐ聞き返したというんですね。あれからもう役人もびっくりして、「この子はもうただ者ではない。すばらしい才能の持ち主じゃないか。」と誉められて、いろいろ話して、可愛がったらしい。 それから西塘さんもう成長すると、もう沖縄の首里城のお役人が、「ぜひこの西塘を沖縄に呼んで、いろいろと事業させてみたい。」と西塘を呼んで、首里城の城壁の石積みをやらせたら、きれいにやったから、園比屋武御嶽(そなやんうたき)の石積みもなかなか見事にやるらしいんですね。それでもう首里でだいたい一人前になって、それから、竹富出身であるだけに、「あんたは、八重山に行って八重山の政治を司りなさい。」と八重山の頭役に任命されて、八重山に帰された。それで、八重山に帰って、この竹富島の皆治原(かいじばる)に蔵元を置いてですね、八重山の行政を司どったといういわれがあります。しかし、もう皆治原に蔵元を置いて頭役をやっていたけれども、やっぱり八重山は、沢山の島々で、また大きな島が石垣にもあるから、「どうしても八重山全島を治めるには、交通の不便もある。もう石垣に移そう。」というわけで、蔵元を石垣の新川に移されて、向こうで政治を執られていた。その蔵元は、西塘さんが亡くなって、後は現在の支庁舎の所に移られて、それから、元の蔵元の所に新しく建築しようとして、蔵元跡を掘ったら、いろいろ昔の蔵元の遺跡がどんどんでるそうですね。そういうわけで、今あの支庁舎場所も、向こうには造らないで、大浜の前の保健所の近くで、戦後八重山病院があった後に八重山支庁が出来るように、今度は変更されるようになりました。今は、昔の蔵元の遺跡を今後どうするかと言ってますよ。 こういう訳で竹富では、西塘さんに見習って皆が成長するようにということで、ここの西塘御嶽で年に二回大きなお祭りをやって、もう島守りの神であり、また島の本当に大成功者だというわけで、ぜひ西塘さんにあやかって皆が偉くなるようにと、盆、正月にも皆ここを参拝しているわけですね。 ・新川‥‥石垣島南西部に位置する。石垣港に隣接する地域で、石垣四箇の一つ。集落は市街地の一画を形成する。現字域は、石垣島南西部の富崎(観音崎)を含む。 |
| 全体の記録時間数 | 6:33 |
| 物語の時間数 | 5:40 |
| 言語識別 | 共通語 |
| 音源の質 | × |
| テープ番号 | - |
| 予備項目1 | - |