〔方言原話〕 字上勢頭(あざうぃーしーどぅ)ぬ稲嶺組(んなみぐみ)とぅ、田仲組ぬ間(たばさ)なかい、シー小(ぐゎ)んち、岩(しー)ぬ拝所(うがんじゅ)なてぃあしが、後(あとぅ)から、ビジュルんでぃ言ゅるぐとぅなとぉーん、うぬシー小(ぐゎ)ぬ話(はな)しい。稲嶺組(んなみぐみ)なかい、勢頭稲嶺(しどぅんなみ)んち、今帰仁(なちぢん)からめんそうちょーる。裕福家(うぇーきんちゅ)ぬめんせえーしが、うまぬ翁氏(をーうじ)、十世(じゅうでぇー)、稲嶺里主親雲上盛用(んなみさとぅぬしぺーちんせいよう)さのー、嫡子や幼子(ゆうすー)そういに死亡(まー)ち、男子(いきがんぐゎ)ぬうらんなたくとぅ、普天間権現(ふてぃまぐんじん)ぬんまーんうがでぃん、男子(いきがんぐゎ)ぬさじかりらんなたくとぅ、後(あとぉー)、易判断所(いちはんじ)ぬ所(とぅくま)んかいんぢ、ちちゃくとぅ、「屋敷(やしち)ぬ南側(ふぇーむてぃ)んかい、崇高(たきだか)さる霊地岩(ふんししー)ぬあくとぅ、うまんかい、拝所(うがんじゅ)ちゅくてぃうがみいねえー、男子(いきがんぐゎ)ぬさじかいん。」でぃちならーさったくとぅ、次男、十世(じゅうでぇー)、稲嶺里主親雲上盛富(んなみさとぅぬしぺーちんせいふー)とぅ相談し、「二人(たい)男子(いきがんぐゎ)ぬうらんしが、私(わん)ねえーなー、身体(からだ)ぬよーとぉーくとぅ、今(なま)からー男子(いきがんぐゎー)ぬずまらんしが、二人(たい)しちゅくやーなかい、二人(たい)しうがまな。」んちさーに、二人(たい)し拝所(うがんじゅ)ちゅくてぃ、うがだくとぅ、盛富(せいふー)さぬんかい、男子(いきがんぐゎ)ぬ生まりてぃ、うぬ人(ちゅ)が盛猷(せいゆう)さん。あんし、盛猷(せいゆう)さんぬ嫡子が盛吉(せいきち)さん、次男が盛昌(せいしょう)さんやしが、くぬ人(ちょー)、本家(うふや)ぬ盛用(せいよう)さんぬ養子なてぃ、後(あとぅ)ちぢょーみせーい。三男(さんな)の昇(のぼる)さんやしが、皆(んな)繁盛そうみせーん。あんさくとぅ、後(あとぉー)うぬシー小(ぐゎ)や、崇高(しじだか)さる拝所(うがんじゅ)んでぃ言ゃーなかい、稲嶺組(んなみぐみ)ぬ人達(ちゅぬちゃー)皆(んな)しうがむるぐとぅなやーに、また旧(きゅ)ぬ二月二日(にんぐゎちふちか)とぅ、旧(きゅ)ぬ九月九日(くんぐゎちくにち)にん、皆(んな)しうがむるぐとぅなたくとぅ、ビジュルんちそうしが、腰休(くすっくいー)ぬ時(ばー)ねえー、他(ふか)ぬ組(く)めえー、旧(きゅ)ぬ二月二日(にんぐゎちふちか)、一日(ふぃっちー)なーるやしが、稲嶺組(んなみぐめー)二日(ふちか)とぅ三日(さんにち)ぬ二日祭(ふちかむい)やたん。二日(ふちか)ぬ日(ふぃー)ねえー、今(なま)までぃぬ頭(かしら)ぬ家(やー)から、新頭(みーかしら)ぬ家(やー)んかい、頭(ちぢ)わたいすしが、うぬ時(ばー)ねえー、今(なま)までぃぬ頭(かしら)ぬ家(やー)から、御馳走(くゎっちー)んむっち、旗頭(はたがしら)んむっち、道々(みちなーでぃー)盆踊(やいさー)ぬ道ずねーいぬぐとぅしすねーてぃ、三味線(さんし)ぬんふぃち、太鼓(てぇーく)ん打っち、シー小(ぐゎ)んかいんぢ、下(しちゃ)ぬ毛(もー)ぬ拝所(うがんじょ)うてぃうがみし後(あとぉー)、空手棒術(てぃーぼー)ちかたい、舞(もう)たいしから、新頭(みーかしら)ぬ家(やー)んかい行ちゅん。うぬシー小(ぐゎ)や、元(むとぉー)、勢頭稲嶺(しいどぅ)ぬ 土地(ぢー)やしが、上方(うゎーび)にん毛(もー)ぬあてぃ、下(しちゃ)にん毛(もー)ぬあてぃ、また南(ふぇー)とぅ北(にし)んかえー、大松(まぎまーち)ぬみーてぃ、上下(うぃーしちゃ)ぬ毛(もー)うすとぉーくとぅ、夜(ゆる)なてぃん、露(ちよー)うてぃらん。上(うぃ)ぬ毛(もー)や七月(しちぐゎち)ぬ、ヤイサーならたい、旧(きゅ)ぬ八月十日(はちぐゎちとぅか)ぬヨーカビないねえー、皆(んな)あちまてぃ、タマガイんーちゃいし、いー場所(とぅくる)やん。また、下(しちゃ)ぬ毛(もー)とぅ、上(うぃ)ぬ毛(もー)ぬ間(たばさ)んかいや、まぎさる岩(しー)ぬあてぃ、うぬ根方(にーぐい)ぬ所(とぅくま)んかい洞窟(がま)ぐゎぬあてぃ、うぬ前(めー)や、石さーにちゅくてぇーる二段ぬ横長段(ゆくながーだん)ぬあしが、神様(かめー)、洞窟(がま)ぐゎーぬ奥(なーか)んかいまちらっとぉーん。うぬ拝所(うがんじょー)まささみせーんでぃち、んぢゃる戦ねえー、字(あざ)ぬ人達(ちゅぬちゃー)や、武運ちょーきゅーとぅ、無事帰還(ぶじきくゎん)ぬうにげーさんでぃ。うぬ拝所(うがんじゅ)ん、今(なま)アメリカーぬ軍用地ぬ中(なーか)なてぃ、字有地(あざゆうーち)なとぉーしが、郷友会(きゅうゆうくゎい)ぬ人達(ちゅぬちゃー)が、旧(きゅ)ぬ二月二日(にんぐゎちふちか)とぅ、旧(きゅ)ぬ九月九日(くんぐゎちくにち)ねえー、今(なま)ん、毎年(めーにん)うがみーが行ちゅん。昔(んかし)ぬ大松(うふまーちぇー)二本(たーち)けー枯りてぃ、今(なまー)ねえーらん、岩(しー)とぅ拝所(うがんじゅ)とぅ、上下(うぃーしちゃ)ぬ毛(もー)やうぬままぬくとぉーん。昭和七年頃(しょうわしちにんぐる)ぬ事(くとぅ)やしが、うぬ岩(しー)ぬ頂上(ちぢ)んかい、校長瑞慶覧(こーちょーぢきらん)ぬ朝公(ちょーこー)兄さんとぅ、瑞慶覧(ぢきらん)ぐゎーぬ朝栄(ちょーえい)兄さんが、ぬぶてぃあしばがなー、うぬ岩(しー)ぬ頂上(ちぢ)から、ビジュルぬ上(うぃ)んかい、小便(しーばい)ちきてぃさくとぅ、うぬ後(あとぅ)、うまぬ松(まーち)うてぃ、烏(がらさー)ぬとぅでぃち鳴ちゅたんでぃが、ちゅてぇーさくとぅ、旧(きゅ)ぬ七月十六日(しちぐゎちじゅるくにち)、ヤイサーなてぃさくとぅ、私達(わったー)や皆(んな)、エイサーうーてぃあっちゃーに、うたたくとぅ、私達(わったー)家(やー)ぬ前(めー)ぬガジマルんかいぬぶてぃあしどぉーしが、うぬ時(ばー)に朝栄(ちょーえい)兄さのー、大枝(うふえだ)ぬ上(うぃ)んかいにんてぃそうしが、郡道(ぐんどぉー)から別(びち)ぬヤイサーぬとぅーたくとぅ、私達(わったー)がうりんーぢぃがんぢょー時(ばー)に、朝栄(ちょーえい)兄さのー下(しちゃ)んかいけーうてぃやーなかい、気絶(ぶちくん)なたくとぅ、物音(むぬうとぅ)ちちゃーなかい、私達(わったー)母(あんまー)がんーぢゃがちゃーなかい、息(いーち)けーらち、うふゎさーに、朝栄(ちょーえい)兄さん達(たー)家(やー)までぃそーてぃんぢゃしが。うりからかんげえいねえー、シー小(ぐゎ)ぬ御神(うかめー)まささみせーん。〔共通語訳〕 字上勢頭の稲嶺組と田仲組の境界の道の側に、シー小(しーぐゎ)という山形の巖山の拝所があるが、そこは後に、ビジュルという様になっているが、そのシー小(しーぐゎ)の話。稲嶺組には、勢頭稲嶺という、今帰仁から移動してこられた資産家がいられるが、そこの翁氏、十世、稲嶺里主親雲上盛用(いなみねさとぬしぺーちんせいよう)さんは、長男は幼い時に亡くなり、男の子がいなくなったので、普天間権現など、方々を拝んで廻っても男の子が授かりませんので、後は易判断に行って話を聞いてみますと、その易者は、「貴方の屋敷の南の方に、崇高な霊地の巖山があるから、そこに拝所を造って拝めば、男の子が授かる。」と教えてくれましたので、次男、十世、稲嶺里主親雲上盛富(いなみねさとぬしぺーちんせいふ)と相談して、「二人とも男の子がいないのだが、私はもう身体が弱くなっているので、今から男の子は望めないから、二人で造って、二人で拝もう。」と話し合って、二人で拝所を造り拝んでますと、盛富(せいふ)さんの方に男の子が生まれて、その人が盛融(せいゆう)さんであり、そして盛融(せいゆう)さんの長男が盛吉(せいきち)さん、次男が盛昌(せいしょう)さんだが、この人は本家盛用(せいよう)さんの養子になり、跡を継いでいる。三男は昇(のぼる)さんですが、皆さん大変繁盛なさっておられる。そうすると、後は、そのシー小(しーぐゎ)は崇高な拝所という事になり、稲嶺組の人達みんなで拝む様になり、また旧の二月二日と九月九日にも、みんなで拝む様になりますと、ビジュルとしておりますが、腰休めの時には、他の組は、旧二月二日の一日だけですが、稲嶺組は二日と三日の二日祭でした。二日の日は、今までの頭の家でお祝いをして、三日の日には、今度は新しく頭の家になる新頭(にーがしら)の家に頭渡りをするが、その時には、今までの頭の家から御馳走等を持って旗頭を持ち、道々を盆踊りの道行きの様にして練り歩く。三味線を弾き、太鼓を叩いてシー小(しーぐゎ)に行き、下の毛の拝所で拝みをした後、空手や棒術を奉納し、舞等もしてから新しい家に行くが。そのシー小(しーぐゎ)、元は勢頭稲嶺の土地なんだが、上の方にも毛があり、下の方にも毛があって、また南の方と北の方に大きな松の木が生えていて、上、下の毛を覆っているので、夜になっても露が降りない。上の毛は、七月のヤイサーの練習をしたり、旧八月十日の妖怪日(よーかび)には、皆が集まって兆候魂(たまがい)を見るのに良い場所である。また下の毛と上の毛との間に巨大な巖山があり、その根方の所に小さな洞窟があり、その前に石で造った二段の横に長い段があるが、神様はその洞窟に祀られている。その拝所は、霊権現かただという事で、去った戦争の時には、字の人達は、武運長久や、無事帰還を祈願したとの事である。その拝所も今はアマリカ軍用地の中になり、字有地になっているが、郷友会の人達が今でも毎年、旧二月二日と旧九月九日には、お参りをして拝みに行く。昔の松の大木は、二本とも枯れて今は無く、巖山と拝所と上、下の毛はそのまま残っている。昭和七年頃の事なんだが、その巖山の頂上に、校長瑞慶覧の朝公(ちょうこう)兄さんと、瑞慶覧小の朝栄(ちょうえい)兄さんが、登って遊びながらその巖山の頂上から、ビジュルの上に小便をひっかけてしまいますと、その後、そこの松の木に烏がきて鳴いていたそうですが、しばらくして旧七月十六日のエイサーになりまして、私達みんなでエイサーを追って歩いたのですが、疲れたので私達の家の前のカジマルに登って遊んでいたのですが、その時に朝栄(ちょうえい)兄さんは、大きな枝の上に寝ていたのですが、郡道の方に別のエイサーが通りかかりましたので、私達がそれを見に行っている時に、朝栄(ちょうえい)兄さんは下に落ちてしまって気絶しているのを、物音を聞いて見にきた私の母が見つけて、息を吹き返させて朝栄(ちょうえい)兄さんを背負い、朝栄(ちょうえい)兄さんの家まで連れていったのだが、それを考えると、シー小(しーぐゎ)の神様は霊権現かたである。平成9年2月17日 識名隆人翻字 T6B4
| レコード番号 | 47O170053 |
|---|---|
| CD番号 | 47O17C006 |
| 決定題名 | シー小(方言) |
| 話者がつけた題名 | シー小(シーグヮー) |
| 話者名 | 阿波根昌栄 |
| 話者名かな | あはごんしょうえい |
| 生年月日 | 19210309 |
| 性別 | 男 |
| 出身地 | 沖縄県中頭郡北谷町字上勢頭 |
| 記録日 | 19970217 |
| 記録者の所属組織 | 沖縄口承文芸学術調査団 |
| 元テープ番号 | T06B04 |
| 元テープ管理者 | 沖縄伝承話資料センター |
| 分類 | 俗信 |
| 発句(ほっく) | - |
| 伝承事情 | - |
| 文字化資料 | 『想い出の昔話』 |
| キーワード | 拝所,ビジュル |
| 梗概(こうがい) | 〔方言原話〕 字上勢頭(あざうぃーしーどぅ)ぬ稲嶺組(んなみぐみ)とぅ、田仲組ぬ間(たばさ)なかい、シー小(ぐゎ)んち、岩(しー)ぬ拝所(うがんじゅ)なてぃあしが、後(あとぅ)から、ビジュルんでぃ言ゅるぐとぅなとぉーん、うぬシー小(ぐゎ)ぬ話(はな)しい。稲嶺組(んなみぐみ)なかい、勢頭稲嶺(しどぅんなみ)んち、今帰仁(なちぢん)からめんそうちょーる。裕福家(うぇーきんちゅ)ぬめんせえーしが、うまぬ翁氏(をーうじ)、十世(じゅうでぇー)、稲嶺里主親雲上盛用(んなみさとぅぬしぺーちんせいよう)さのー、嫡子や幼子(ゆうすー)そういに死亡(まー)ち、男子(いきがんぐゎ)ぬうらんなたくとぅ、普天間権現(ふてぃまぐんじん)ぬんまーんうがでぃん、男子(いきがんぐゎ)ぬさじかりらんなたくとぅ、後(あとぉー)、易判断所(いちはんじ)ぬ所(とぅくま)んかいんぢ、ちちゃくとぅ、「屋敷(やしち)ぬ南側(ふぇーむてぃ)んかい、崇高(たきだか)さる霊地岩(ふんししー)ぬあくとぅ、うまんかい、拝所(うがんじゅ)ちゅくてぃうがみいねえー、男子(いきがんぐゎ)ぬさじかいん。」でぃちならーさったくとぅ、次男、十世(じゅうでぇー)、稲嶺里主親雲上盛富(んなみさとぅぬしぺーちんせいふー)とぅ相談し、「二人(たい)男子(いきがんぐゎ)ぬうらんしが、私(わん)ねえーなー、身体(からだ)ぬよーとぉーくとぅ、今(なま)からー男子(いきがんぐゎー)ぬずまらんしが、二人(たい)しちゅくやーなかい、二人(たい)しうがまな。」んちさーに、二人(たい)し拝所(うがんじゅ)ちゅくてぃ、うがだくとぅ、盛富(せいふー)さぬんかい、男子(いきがんぐゎ)ぬ生まりてぃ、うぬ人(ちゅ)が盛猷(せいゆう)さん。あんし、盛猷(せいゆう)さんぬ嫡子が盛吉(せいきち)さん、次男が盛昌(せいしょう)さんやしが、くぬ人(ちょー)、本家(うふや)ぬ盛用(せいよう)さんぬ養子なてぃ、後(あとぅ)ちぢょーみせーい。三男(さんな)の昇(のぼる)さんやしが、皆(んな)繁盛そうみせーん。あんさくとぅ、後(あとぉー)うぬシー小(ぐゎ)や、崇高(しじだか)さる拝所(うがんじゅ)んでぃ言ゃーなかい、稲嶺組(んなみぐみ)ぬ人達(ちゅぬちゃー)皆(んな)しうがむるぐとぅなやーに、また旧(きゅ)ぬ二月二日(にんぐゎちふちか)とぅ、旧(きゅ)ぬ九月九日(くんぐゎちくにち)にん、皆(んな)しうがむるぐとぅなたくとぅ、ビジュルんちそうしが、腰休(くすっくいー)ぬ時(ばー)ねえー、他(ふか)ぬ組(く)めえー、旧(きゅ)ぬ二月二日(にんぐゎちふちか)、一日(ふぃっちー)なーるやしが、稲嶺組(んなみぐめー)二日(ふちか)とぅ三日(さんにち)ぬ二日祭(ふちかむい)やたん。二日(ふちか)ぬ日(ふぃー)ねえー、今(なま)までぃぬ頭(かしら)ぬ家(やー)から、新頭(みーかしら)ぬ家(やー)んかい、頭(ちぢ)わたいすしが、うぬ時(ばー)ねえー、今(なま)までぃぬ頭(かしら)ぬ家(やー)から、御馳走(くゎっちー)んむっち、旗頭(はたがしら)んむっち、道々(みちなーでぃー)盆踊(やいさー)ぬ道ずねーいぬぐとぅしすねーてぃ、三味線(さんし)ぬんふぃち、太鼓(てぇーく)ん打っち、シー小(ぐゎ)んかいんぢ、下(しちゃ)ぬ毛(もー)ぬ拝所(うがんじょ)うてぃうがみし後(あとぉー)、空手棒術(てぃーぼー)ちかたい、舞(もう)たいしから、新頭(みーかしら)ぬ家(やー)んかい行ちゅん。うぬシー小(ぐゎ)や、元(むとぉー)、勢頭稲嶺(しいどぅ)ぬ 土地(ぢー)やしが、上方(うゎーび)にん毛(もー)ぬあてぃ、下(しちゃ)にん毛(もー)ぬあてぃ、また南(ふぇー)とぅ北(にし)んかえー、大松(まぎまーち)ぬみーてぃ、上下(うぃーしちゃ)ぬ毛(もー)うすとぉーくとぅ、夜(ゆる)なてぃん、露(ちよー)うてぃらん。上(うぃ)ぬ毛(もー)や七月(しちぐゎち)ぬ、ヤイサーならたい、旧(きゅ)ぬ八月十日(はちぐゎちとぅか)ぬヨーカビないねえー、皆(んな)あちまてぃ、タマガイんーちゃいし、いー場所(とぅくる)やん。また、下(しちゃ)ぬ毛(もー)とぅ、上(うぃ)ぬ毛(もー)ぬ間(たばさ)んかいや、まぎさる岩(しー)ぬあてぃ、うぬ根方(にーぐい)ぬ所(とぅくま)んかい洞窟(がま)ぐゎぬあてぃ、うぬ前(めー)や、石さーにちゅくてぇーる二段ぬ横長段(ゆくながーだん)ぬあしが、神様(かめー)、洞窟(がま)ぐゎーぬ奥(なーか)んかいまちらっとぉーん。うぬ拝所(うがんじょー)まささみせーんでぃち、んぢゃる戦ねえー、字(あざ)ぬ人達(ちゅぬちゃー)や、武運ちょーきゅーとぅ、無事帰還(ぶじきくゎん)ぬうにげーさんでぃ。うぬ拝所(うがんじゅ)ん、今(なま)アメリカーぬ軍用地ぬ中(なーか)なてぃ、字有地(あざゆうーち)なとぉーしが、郷友会(きゅうゆうくゎい)ぬ人達(ちゅぬちゃー)が、旧(きゅ)ぬ二月二日(にんぐゎちふちか)とぅ、旧(きゅ)ぬ九月九日(くんぐゎちくにち)ねえー、今(なま)ん、毎年(めーにん)うがみーが行ちゅん。昔(んかし)ぬ大松(うふまーちぇー)二本(たーち)けー枯りてぃ、今(なまー)ねえーらん、岩(しー)とぅ拝所(うがんじゅ)とぅ、上下(うぃーしちゃ)ぬ毛(もー)やうぬままぬくとぉーん。昭和七年頃(しょうわしちにんぐる)ぬ事(くとぅ)やしが、うぬ岩(しー)ぬ頂上(ちぢ)んかい、校長瑞慶覧(こーちょーぢきらん)ぬ朝公(ちょーこー)兄さんとぅ、瑞慶覧(ぢきらん)ぐゎーぬ朝栄(ちょーえい)兄さんが、ぬぶてぃあしばがなー、うぬ岩(しー)ぬ頂上(ちぢ)から、ビジュルぬ上(うぃ)んかい、小便(しーばい)ちきてぃさくとぅ、うぬ後(あとぅ)、うまぬ松(まーち)うてぃ、烏(がらさー)ぬとぅでぃち鳴ちゅたんでぃが、ちゅてぇーさくとぅ、旧(きゅ)ぬ七月十六日(しちぐゎちじゅるくにち)、ヤイサーなてぃさくとぅ、私達(わったー)や皆(んな)、エイサーうーてぃあっちゃーに、うたたくとぅ、私達(わったー)家(やー)ぬ前(めー)ぬガジマルんかいぬぶてぃあしどぉーしが、うぬ時(ばー)に朝栄(ちょーえい)兄さのー、大枝(うふえだ)ぬ上(うぃ)んかいにんてぃそうしが、郡道(ぐんどぉー)から別(びち)ぬヤイサーぬとぅーたくとぅ、私達(わったー)がうりんーぢぃがんぢょー時(ばー)に、朝栄(ちょーえい)兄さのー下(しちゃ)んかいけーうてぃやーなかい、気絶(ぶちくん)なたくとぅ、物音(むぬうとぅ)ちちゃーなかい、私達(わったー)母(あんまー)がんーぢゃがちゃーなかい、息(いーち)けーらち、うふゎさーに、朝栄(ちょーえい)兄さん達(たー)家(やー)までぃそーてぃんぢゃしが。うりからかんげえいねえー、シー小(ぐゎ)ぬ御神(うかめー)まささみせーん。〔共通語訳〕 字上勢頭の稲嶺組と田仲組の境界の道の側に、シー小(しーぐゎ)という山形の巖山の拝所があるが、そこは後に、ビジュルという様になっているが、そのシー小(しーぐゎ)の話。稲嶺組には、勢頭稲嶺という、今帰仁から移動してこられた資産家がいられるが、そこの翁氏、十世、稲嶺里主親雲上盛用(いなみねさとぬしぺーちんせいよう)さんは、長男は幼い時に亡くなり、男の子がいなくなったので、普天間権現など、方々を拝んで廻っても男の子が授かりませんので、後は易判断に行って話を聞いてみますと、その易者は、「貴方の屋敷の南の方に、崇高な霊地の巖山があるから、そこに拝所を造って拝めば、男の子が授かる。」と教えてくれましたので、次男、十世、稲嶺里主親雲上盛富(いなみねさとぬしぺーちんせいふ)と相談して、「二人とも男の子がいないのだが、私はもう身体が弱くなっているので、今から男の子は望めないから、二人で造って、二人で拝もう。」と話し合って、二人で拝所を造り拝んでますと、盛富(せいふ)さんの方に男の子が生まれて、その人が盛融(せいゆう)さんであり、そして盛融(せいゆう)さんの長男が盛吉(せいきち)さん、次男が盛昌(せいしょう)さんだが、この人は本家盛用(せいよう)さんの養子になり、跡を継いでいる。三男は昇(のぼる)さんですが、皆さん大変繁盛なさっておられる。そうすると、後は、そのシー小(しーぐゎ)は崇高な拝所という事になり、稲嶺組の人達みんなで拝む様になり、また旧の二月二日と九月九日にも、みんなで拝む様になりますと、ビジュルとしておりますが、腰休めの時には、他の組は、旧二月二日の一日だけですが、稲嶺組は二日と三日の二日祭でした。二日の日は、今までの頭の家でお祝いをして、三日の日には、今度は新しく頭の家になる新頭(にーがしら)の家に頭渡りをするが、その時には、今までの頭の家から御馳走等を持って旗頭を持ち、道々を盆踊りの道行きの様にして練り歩く。三味線を弾き、太鼓を叩いてシー小(しーぐゎ)に行き、下の毛の拝所で拝みをした後、空手や棒術を奉納し、舞等もしてから新しい家に行くが。そのシー小(しーぐゎ)、元は勢頭稲嶺の土地なんだが、上の方にも毛があり、下の方にも毛があって、また南の方と北の方に大きな松の木が生えていて、上、下の毛を覆っているので、夜になっても露が降りない。上の毛は、七月のヤイサーの練習をしたり、旧八月十日の妖怪日(よーかび)には、皆が集まって兆候魂(たまがい)を見るのに良い場所である。また下の毛と上の毛との間に巨大な巖山があり、その根方の所に小さな洞窟があり、その前に石で造った二段の横に長い段があるが、神様はその洞窟に祀られている。その拝所は、霊権現かただという事で、去った戦争の時には、字の人達は、武運長久や、無事帰還を祈願したとの事である。その拝所も今はアマリカ軍用地の中になり、字有地になっているが、郷友会の人達が今でも毎年、旧二月二日と旧九月九日には、お参りをして拝みに行く。昔の松の大木は、二本とも枯れて今は無く、巖山と拝所と上、下の毛はそのまま残っている。昭和七年頃の事なんだが、その巖山の頂上に、校長瑞慶覧の朝公(ちょうこう)兄さんと、瑞慶覧小の朝栄(ちょうえい)兄さんが、登って遊びながらその巖山の頂上から、ビジュルの上に小便をひっかけてしまいますと、その後、そこの松の木に烏がきて鳴いていたそうですが、しばらくして旧七月十六日のエイサーになりまして、私達みんなでエイサーを追って歩いたのですが、疲れたので私達の家の前のカジマルに登って遊んでいたのですが、その時に朝栄(ちょうえい)兄さんは、大きな枝の上に寝ていたのですが、郡道の方に別のエイサーが通りかかりましたので、私達がそれを見に行っている時に、朝栄(ちょうえい)兄さんは下に落ちてしまって気絶しているのを、物音を聞いて見にきた私の母が見つけて、息を吹き返させて朝栄(ちょうえい)兄さんを背負い、朝栄(ちょうえい)兄さんの家まで連れていったのだが、それを考えると、シー小(しーぐゎ)の神様は霊権現かたである。平成9年2月17日 識名隆人翻字 T6B4 |
| 全体の記録時間数 | 5:47 |
| 物語の時間数 | 5:47 |
| 言語識別 | 方言 |
| 音源の質 | ◎ |
| テープ番号 | - |
| 予備項目1 | - |