〔方言原話〕 謝名親方(じゃなうぇーかた)んでぃ言(い)みせーる人(ちょー)、薩摩(さちま)ぬ琉球(りゆちゅー)んかい攻(し)みてぃ来(ちゃ)る時(ばー)いぬ、琉球(りゆちゅー)ぬ戦ぬ大将(てーそー)やみせーたんでぃ。あんし、琉球(りゆちゅー)ぬ負(ま)きたくとぅ、尚寧王(しょうねいをー)とぅ一緒(まじゅん)薩摩(さちま)んかい御用(ぐゆー)さりみそーち、うぬ後(あとぅ)、尚寧王(しょうねいをー)や琉球(りゆちゅー)んかい帰(けー)とーみせーしが、うぬ時(ばー)ぬ、詫びとぅ、罰(ちみ)ぬ決(き)みー方んかい反対しみそーち、謀叛人(むふんにん)とぅし残(ぬく)さりみそーち、後(あとぅ)、沸(わ)ち立(た)ちゅる熱湯(あちゆー)んかい入(いっ)てぃ殺(くる)する罰(ちみ)当(あ)てぃららてぃさくとぅ、「私(わん)にん琉球(りゆちゅー)ぬ武士やくとぅ、釜(なーび)ぬ側(すば)までー薩摩(さちま)ぬ武士、陸(あぎ)ぬ大将(てーそー)、海ぬ大将(てーそー)二人(たい)や、御供(うとぅむ)付(ち)きり。」んち、さくとぅ、「くむん。」でぃる事(くとぅ)んかいなてぃ、二人(たい)ぬ御供(うとぅむ)そーてぃ、釜(なーび)ぬ側(すば)んかい行(いん)ぢさくとぅ、右(にぢり)とぅ、左(ふぃざい)ぬ片手(かたでぃー)なーさーに、二人(たい)が帯(うーび)掴(かち)みてぃ、二人(たい)や自分(どぅー)やか先(さち)、熱湯(あちゆー)んかい投(な)ぎ入(ん)ち、自分(どぅー)や後(あとぅ)から飛(とぅ)び込(く)でぃさくとぅ、三人(みっちゃい)、大釜(うふなーび)ぬ中(なーか)うてぃ、ぐるぐる回(まー)とーたんでぃ。うぬ後(あとぅ)、謝名親方(じゃなうぇーかたー)、琉球(りゆちゅー)ぬ忠臣でぃち左御紋(ふぃざいぐむん)や、三人(みっちゃい)が廻(みぐ)とーる型、王(をー)ぬ御紋(ぐむん)なとーんでぃ。うぬ後(あとぅ)、謝名親方(じゃなうぇーかた)ぬ子供達(くゎぬちゃー)三人(みっちゃい)男子(いきがんぐゎ)居(う)しが、武勇優(すぐ)りとーる人達(こんか)なてぃさくとぅ、三人(みっちゃい)し、薩摩(さちま)んかいぬ仇討ち申し出(んぢ)てぃさくとぅ、首里城(すいぐしく)うてー、薩摩(さちまー)琉球(りゆちゅー)やかん広(ふぃる)さぬ、武士(さむれー)ん沢山(だちぇーん)居(う)くとぅ、琉球(りゆちゅー)ぬ強者(ちゅーばー)まかすらー行(いん)ぢしむん、でぃる事(くとぅ)んかいなてぃさくとぅ、うぬ相手(いぇーてぃ)すせー、豊見城親(てぃみぐしくぬひゃー)んでぃる武士やしが、兄弟(ちょーでー)三人(みっちゃい)とぅ、うぬ豊見城親(てぃみぐしくぬひゃー)とー、いーぬ師匠(しそー)から武芸(ぶじー)習(なら)とーしが、兄(しーじゃ)とぅ、豊見城親(てぃみぐしくぬひゃー)とー、二人共(たいなむん)いーぬあたい、誰(たー)ん負(ま)きらあたいぬ腕(うでぃ)やたんでぃ。あんさくとぅ、立ち合(いぇー)前(めー)なたくとぅ、師匠(しそー)ぬ、なーだ誰(たー)にん教(ならー)ちぇーねーらん奥手(うくぬてぃー)ぬ、節落(ふしう)とぅしんでぃし、豊見城親(てぃみぐしくぬひゃー)んかい教(ならー)ちさんでぃ。節落(ふしう)とぅしんでぃせー、鍔(ふしかくし)しーてぃし、指(いーび)ぬ節、全部(むる)切(ち)り落(う)とぅする技やしが、師匠(しそー)ぬ奥手(うくでぃ)るやくとぅ、他(ふか)ぬ人(ちゅ)ねー教(ならー)さん、自分(どぅー)ぬ自身(どぅー)守(まむ)いる技やしが、うり、豊見城(てぃみぐしく)まかしみーる考(かんげ)えし、うり一人(ちゅい)んかい教(ならー)ちぇーるばー。あんし、立ち合(いぇー)ぬ日(ふぃ)なたくとぅ、豊見城親(てぃみぐしくぬひゃー)が馬(んま)んかい乗(ぬ)てぃ、出(んぢー)んちさくとぅ、妻(とぅぢ)ぬ、「首巻(くびまち)忘(わし)とーみせーん。」ち、首巻(くびまち)持(むっ)ちちゃくとぅ、馬竹(んまぶち)後(くし)んかいねーてぃ取(とぅ)やーに、首んかい巻(ま)ち行(い)ちゅたんでぃ。あんし、立ち合(いぇー)なたくとぅ、次男、三男(さんな)のーまかち、切(ち)り捨(し)てぃたしが、いーぬあたい稽古(ちーく)そーる長男(しーじゃ)とー、ちりちりみんぐゎーし誰(たー)ん負(ま)きらんなたくとぅ、うり見(んー)ちょーたる師匠(しそー)や、煙管(ちしり)さーに煙草盆(たばくぶん)ポンポンみかち、二回(たーけーん)打(う)ちゃーに、「節(ふー)よー、節(ふー)。」んでぃ言(い)みそーちゃくとぅ、今(なま)までぃ二人(たい)倒(とー)ち、三人目(みっちゃいみー)や、自分(どぅー)とぅいーぬ腕(うでぃ)持(むっ)ちょーなやーに、節(ふし)落(う)とぅせーちー忘(わし)とーたしが、思(うび)出(んぢゃ)さーに、謝名(じゃな)ぬ兄(しーじゃ)ぬ、鍔(ふしかくし)とぅ指(いーび)ぬ節(ふー)、全部(むる)切(ち)り落(う)ちゃくとぅ、うぬ兄(しーじゃー)、落(う)てぃーる刀(たち)ぬ柄(ちか)ぬ先(さち)、足(ふぃさ)ぬ親指(うふいーばー)し挟(はさ)まーに、豊見城(てぃみぐしく)ぬ喉(ぬーでぃー)んかい刀(たちぇー)蹴(き)り投(な)ぎたくとぅ、豊見城(てぃみぐしこー)首巻(ま)ちし逃(ぬがー)てぃそーしが、三人(みっちゃい)倒(とー)ちゃくとぅ、師匠(しそー)ぬ降(う)りてぃめんそーち、「したい、一人前男(ちゅいいきが)。」んち、背中(なぎに)たっしたくとぅ、んまんかい瘡(かさ)ぬ出(んぢ)てぃそーしが、琉球(りゆちゅー)んかえー初(はじ)みてぃぬ瘡(かさ)なやーに、治療法(とぅいあてぃ)ぬねーらんなてぃ、豊見城親(てぃみぐしくぬひゃー)やまーちょーみせーたんでぃしが、謝名兄弟(じゃなちょーでー)や、自分(どぅー)習(なれー)ぬ強(ちゅー)さぬ、豊見城(てぃみぐしく)やかねー上手(うわてぃ)なやーに、合死(いぇーじ)にすしやたんでぃ。うぬ後(あとぅ)、「したい、一人前男(ちゅいいきが)。」んでぃ言(い)ちゃたくとぅ、豊見城(てぃみぐしく)ぬ屋(やー)や、男子(いきがんぐゎー)一人(ちゅい)なーしか生(ん)まりらんなてぃ、多(うふ)こーならんたんでぃる話い。あんし、初(はじ)みてぃ出(んぢ)たる瘡(かさー)、首里(すい)上国(うぇーぐに)から出(んぢ)とーる瘡(かさ)なやーに、上瘡(うぃーがさ)んでぃち名(なー)付(ち)きらっとーんでぃさ。また、倒(とー)りたる三人(みっちゃい)や、天(てぃぬ)んかい昇(ぬぶ)てぃ三星(みちぶし)なてぃ、謝名親方(じゃなうぇーかた)、七星(ななちぶし)なてぃ、天(てぃん)から琉球(りゆちゅー)ぬ行(い)ちゅる先(さち)、見(みー)守(まん)とーみせーんでぃる話い。〔共通語訳〕 謝名親方(じゃなうぇーかた)というお方は、薩摩が琉球に攻めてきた時に琉球の国の戦の総大将であった方である。そして負けますと、千六百九年、尚寧王(しょうねいおう)二十一年、尚寧王と一緒に薩摩に御用になったお方です。その後尚寧王は琉球にお帰りになったのですが、その時の詫びを罰の決め方に反対なされましたので、謀叛人として、後は沸き立っている熱湯に入れて殺すという罰にあたられました。すると、「私は琉球の武士である。釜の側まで薩摩の武将、陸の武将、海の武将の二人をお供に付けろ。」と言いますと、「良かろう。」ということになり二人のお供を連れて釜の側まで行きますと、右と左片腕づつで二人の帯を掴み、二人は自分より先に熱湯に投げ入れて、自分は後から飛び込みますと、三人は大釜の中でぐるぐると廻ったのです。その後、謝名親方は琉球の忠臣として、左御紋は三人が廻っている型で王家の御紋となったのです。その後、謝名親方の子供達三人、男の子がおりますが、三人とも武勇に優れた人達なので、三人で薩摩に仇討ちをするからと首里城(しゅりじょう)に申し出たのです。すると、「薩摩は琉球より大きな国だ、武士も沢山いる。琉球の強者に勝たならば、行っても良い。」という事になりますと、その相手する武士は豊見城(とみぐしく)という武士である。だが、兄弟三人とその豊見城とは同じ師匠の元で武芸を習っているが、兄と豊見城とは二人とも同等の腕前で、誰にも負けないぐらいの強さである。そして、いよいよ、立ち合いの日が近くなると、師匠は未だ誰にも教えていない奥の手、節落としの技を豊見城に教えたのである。節落としと言うのは鍔(つば)を割り、柄を掴んでいる指もろとも切り落とす技であるが、師匠の奥の手だから他人には教えず、自分自身を守る技だが、豊見城を勝たせるために彼一人に教えたのである。そして、いざ立ち合いの日になると、豊見城が馬に乗って出掛けようとすると、妻が、「首巻を忘れていますよ。」と首巻を持ってきますと、馬の尻をたたく鞭を後に差し出して、それで受け取り、自分の首に巻いて出掛けたのである。そして立ち合いになると、次男、三男には勝手切り捨てたのだが、同じぐらい稽古をしている長男とは、ぐるぐる廻りで誰も負けないでいると、それを見ていた師匠は煙管で煙草盆をぽんぽんと二回打って、「節だよ、節。」と言いますと、今まで二人を倒し、三人目は自分と同じ腕前なので、節落としを忘れていたことを思い出して、謝名の兄は鍔と指の節をみな切り落とされますと、その兄は落ちる刀の柄先を、足の親指と他の指の間に挟み、豊見城の喉元目掛けて蹴り投げたのです。だが、豊見城は首巻をしているのでその場を逃れたのです。三人倒したので師匠が降りて来られて、「よくやった、一人前男。」と背を軽く叩きました。すると、そこに瘡(かさ)ができましたが、琉球には初めての瘡で治療法がわからず、豊見城は死亡したとの事ですが、謝名兄弟は修行の面では豊見城より上手であって強かったそうです。それで、本当は合い死にする筈だったそうです。その後、「よくやった、一人前男。」と言われた故に、豊見城家には男の子は一人づつしか生まれなくなり、多くはならなかった、という話である。そして、初めてできた瘡は首里(すい)上国から出た瘡なので、上瘡という名が付いたそうです。また、倒れた三人は天に昇って三つ星となり、謝名親方は七つ星となって、天から琉球の行く末を見守っているとの事です。平成9年2月17日 高江洲亮翻字 T4A3
| レコード番号 | 47O170031 |
|---|---|
| CD番号 | 47O17C004 |
| 決定題名 | 謝名親方鄭迥(方言) |
| 話者がつけた題名 | 謝名親方鄭迥 |
| 話者名 | 阿波根昌栄 |
| 話者名かな | あはごんしょうえい |
| 生年月日 | 19210309 |
| 性別 | 男 |
| 出身地 | 沖縄県中頭郡北谷町字上勢頭 |
| 記録日 | 19970217 |
| 記録者の所属組織 | 沖縄口承文芸学術調査団 |
| 元テープ番号 | T04A03 |
| 元テープ管理者 | 沖縄伝承話資料センター |
| 分類 | 本格昔話、 伝説 |
| 発句(ほっく) | - |
| 伝承事情 | - |
| 文字化資料 | 『想い出の昔話』 |
| キーワード | 薩摩,琉球,尚寧王,釜茹で,左御紋,武士豊見城,疱瘡,三つ星,七つ星 |
| 梗概(こうがい) | 〔方言原話〕 謝名親方(じゃなうぇーかた)んでぃ言(い)みせーる人(ちょー)、薩摩(さちま)ぬ琉球(りゆちゅー)んかい攻(し)みてぃ来(ちゃ)る時(ばー)いぬ、琉球(りゆちゅー)ぬ戦ぬ大将(てーそー)やみせーたんでぃ。あんし、琉球(りゆちゅー)ぬ負(ま)きたくとぅ、尚寧王(しょうねいをー)とぅ一緒(まじゅん)薩摩(さちま)んかい御用(ぐゆー)さりみそーち、うぬ後(あとぅ)、尚寧王(しょうねいをー)や琉球(りゆちゅー)んかい帰(けー)とーみせーしが、うぬ時(ばー)ぬ、詫びとぅ、罰(ちみ)ぬ決(き)みー方んかい反対しみそーち、謀叛人(むふんにん)とぅし残(ぬく)さりみそーち、後(あとぅ)、沸(わ)ち立(た)ちゅる熱湯(あちゆー)んかい入(いっ)てぃ殺(くる)する罰(ちみ)当(あ)てぃららてぃさくとぅ、「私(わん)にん琉球(りゆちゅー)ぬ武士やくとぅ、釜(なーび)ぬ側(すば)までー薩摩(さちま)ぬ武士、陸(あぎ)ぬ大将(てーそー)、海ぬ大将(てーそー)二人(たい)や、御供(うとぅむ)付(ち)きり。」んち、さくとぅ、「くむん。」でぃる事(くとぅ)んかいなてぃ、二人(たい)ぬ御供(うとぅむ)そーてぃ、釜(なーび)ぬ側(すば)んかい行(いん)ぢさくとぅ、右(にぢり)とぅ、左(ふぃざい)ぬ片手(かたでぃー)なーさーに、二人(たい)が帯(うーび)掴(かち)みてぃ、二人(たい)や自分(どぅー)やか先(さち)、熱湯(あちゆー)んかい投(な)ぎ入(ん)ち、自分(どぅー)や後(あとぅ)から飛(とぅ)び込(く)でぃさくとぅ、三人(みっちゃい)、大釜(うふなーび)ぬ中(なーか)うてぃ、ぐるぐる回(まー)とーたんでぃ。うぬ後(あとぅ)、謝名親方(じゃなうぇーかたー)、琉球(りゆちゅー)ぬ忠臣でぃち左御紋(ふぃざいぐむん)や、三人(みっちゃい)が廻(みぐ)とーる型、王(をー)ぬ御紋(ぐむん)なとーんでぃ。うぬ後(あとぅ)、謝名親方(じゃなうぇーかた)ぬ子供達(くゎぬちゃー)三人(みっちゃい)男子(いきがんぐゎ)居(う)しが、武勇優(すぐ)りとーる人達(こんか)なてぃさくとぅ、三人(みっちゃい)し、薩摩(さちま)んかいぬ仇討ち申し出(んぢ)てぃさくとぅ、首里城(すいぐしく)うてー、薩摩(さちまー)琉球(りゆちゅー)やかん広(ふぃる)さぬ、武士(さむれー)ん沢山(だちぇーん)居(う)くとぅ、琉球(りゆちゅー)ぬ強者(ちゅーばー)まかすらー行(いん)ぢしむん、でぃる事(くとぅ)んかいなてぃさくとぅ、うぬ相手(いぇーてぃ)すせー、豊見城親(てぃみぐしくぬひゃー)んでぃる武士やしが、兄弟(ちょーでー)三人(みっちゃい)とぅ、うぬ豊見城親(てぃみぐしくぬひゃー)とー、いーぬ師匠(しそー)から武芸(ぶじー)習(なら)とーしが、兄(しーじゃ)とぅ、豊見城親(てぃみぐしくぬひゃー)とー、二人共(たいなむん)いーぬあたい、誰(たー)ん負(ま)きらあたいぬ腕(うでぃ)やたんでぃ。あんさくとぅ、立ち合(いぇー)前(めー)なたくとぅ、師匠(しそー)ぬ、なーだ誰(たー)にん教(ならー)ちぇーねーらん奥手(うくぬてぃー)ぬ、節落(ふしう)とぅしんでぃし、豊見城親(てぃみぐしくぬひゃー)んかい教(ならー)ちさんでぃ。節落(ふしう)とぅしんでぃせー、鍔(ふしかくし)しーてぃし、指(いーび)ぬ節、全部(むる)切(ち)り落(う)とぅする技やしが、師匠(しそー)ぬ奥手(うくでぃ)るやくとぅ、他(ふか)ぬ人(ちゅ)ねー教(ならー)さん、自分(どぅー)ぬ自身(どぅー)守(まむ)いる技やしが、うり、豊見城(てぃみぐしく)まかしみーる考(かんげ)えし、うり一人(ちゅい)んかい教(ならー)ちぇーるばー。あんし、立ち合(いぇー)ぬ日(ふぃ)なたくとぅ、豊見城親(てぃみぐしくぬひゃー)が馬(んま)んかい乗(ぬ)てぃ、出(んぢー)んちさくとぅ、妻(とぅぢ)ぬ、「首巻(くびまち)忘(わし)とーみせーん。」ち、首巻(くびまち)持(むっ)ちちゃくとぅ、馬竹(んまぶち)後(くし)んかいねーてぃ取(とぅ)やーに、首んかい巻(ま)ち行(い)ちゅたんでぃ。あんし、立ち合(いぇー)なたくとぅ、次男、三男(さんな)のーまかち、切(ち)り捨(し)てぃたしが、いーぬあたい稽古(ちーく)そーる長男(しーじゃ)とー、ちりちりみんぐゎーし誰(たー)ん負(ま)きらんなたくとぅ、うり見(んー)ちょーたる師匠(しそー)や、煙管(ちしり)さーに煙草盆(たばくぶん)ポンポンみかち、二回(たーけーん)打(う)ちゃーに、「節(ふー)よー、節(ふー)。」んでぃ言(い)みそーちゃくとぅ、今(なま)までぃ二人(たい)倒(とー)ち、三人目(みっちゃいみー)や、自分(どぅー)とぅいーぬ腕(うでぃ)持(むっ)ちょーなやーに、節(ふし)落(う)とぅせーちー忘(わし)とーたしが、思(うび)出(んぢゃ)さーに、謝名(じゃな)ぬ兄(しーじゃ)ぬ、鍔(ふしかくし)とぅ指(いーび)ぬ節(ふー)、全部(むる)切(ち)り落(う)ちゃくとぅ、うぬ兄(しーじゃー)、落(う)てぃーる刀(たち)ぬ柄(ちか)ぬ先(さち)、足(ふぃさ)ぬ親指(うふいーばー)し挟(はさ)まーに、豊見城(てぃみぐしく)ぬ喉(ぬーでぃー)んかい刀(たちぇー)蹴(き)り投(な)ぎたくとぅ、豊見城(てぃみぐしこー)首巻(ま)ちし逃(ぬがー)てぃそーしが、三人(みっちゃい)倒(とー)ちゃくとぅ、師匠(しそー)ぬ降(う)りてぃめんそーち、「したい、一人前男(ちゅいいきが)。」んち、背中(なぎに)たっしたくとぅ、んまんかい瘡(かさ)ぬ出(んぢ)てぃそーしが、琉球(りゆちゅー)んかえー初(はじ)みてぃぬ瘡(かさ)なやーに、治療法(とぅいあてぃ)ぬねーらんなてぃ、豊見城親(てぃみぐしくぬひゃー)やまーちょーみせーたんでぃしが、謝名兄弟(じゃなちょーでー)や、自分(どぅー)習(なれー)ぬ強(ちゅー)さぬ、豊見城(てぃみぐしく)やかねー上手(うわてぃ)なやーに、合死(いぇーじ)にすしやたんでぃ。うぬ後(あとぅ)、「したい、一人前男(ちゅいいきが)。」んでぃ言(い)ちゃたくとぅ、豊見城(てぃみぐしく)ぬ屋(やー)や、男子(いきがんぐゎー)一人(ちゅい)なーしか生(ん)まりらんなてぃ、多(うふ)こーならんたんでぃる話い。あんし、初(はじ)みてぃ出(んぢ)たる瘡(かさー)、首里(すい)上国(うぇーぐに)から出(んぢ)とーる瘡(かさ)なやーに、上瘡(うぃーがさ)んでぃち名(なー)付(ち)きらっとーんでぃさ。また、倒(とー)りたる三人(みっちゃい)や、天(てぃぬ)んかい昇(ぬぶ)てぃ三星(みちぶし)なてぃ、謝名親方(じゃなうぇーかた)、七星(ななちぶし)なてぃ、天(てぃん)から琉球(りゆちゅー)ぬ行(い)ちゅる先(さち)、見(みー)守(まん)とーみせーんでぃる話い。〔共通語訳〕 謝名親方(じゃなうぇーかた)というお方は、薩摩が琉球に攻めてきた時に琉球の国の戦の総大将であった方である。そして負けますと、千六百九年、尚寧王(しょうねいおう)二十一年、尚寧王と一緒に薩摩に御用になったお方です。その後尚寧王は琉球にお帰りになったのですが、その時の詫びを罰の決め方に反対なされましたので、謀叛人として、後は沸き立っている熱湯に入れて殺すという罰にあたられました。すると、「私は琉球の武士である。釜の側まで薩摩の武将、陸の武将、海の武将の二人をお供に付けろ。」と言いますと、「良かろう。」ということになり二人のお供を連れて釜の側まで行きますと、右と左片腕づつで二人の帯を掴み、二人は自分より先に熱湯に投げ入れて、自分は後から飛び込みますと、三人は大釜の中でぐるぐると廻ったのです。その後、謝名親方は琉球の忠臣として、左御紋は三人が廻っている型で王家の御紋となったのです。その後、謝名親方の子供達三人、男の子がおりますが、三人とも武勇に優れた人達なので、三人で薩摩に仇討ちをするからと首里城(しゅりじょう)に申し出たのです。すると、「薩摩は琉球より大きな国だ、武士も沢山いる。琉球の強者に勝たならば、行っても良い。」という事になりますと、その相手する武士は豊見城(とみぐしく)という武士である。だが、兄弟三人とその豊見城とは同じ師匠の元で武芸を習っているが、兄と豊見城とは二人とも同等の腕前で、誰にも負けないぐらいの強さである。そして、いよいよ、立ち合いの日が近くなると、師匠は未だ誰にも教えていない奥の手、節落としの技を豊見城に教えたのである。節落としと言うのは鍔(つば)を割り、柄を掴んでいる指もろとも切り落とす技であるが、師匠の奥の手だから他人には教えず、自分自身を守る技だが、豊見城を勝たせるために彼一人に教えたのである。そして、いざ立ち合いの日になると、豊見城が馬に乗って出掛けようとすると、妻が、「首巻を忘れていますよ。」と首巻を持ってきますと、馬の尻をたたく鞭を後に差し出して、それで受け取り、自分の首に巻いて出掛けたのである。そして立ち合いになると、次男、三男には勝手切り捨てたのだが、同じぐらい稽古をしている長男とは、ぐるぐる廻りで誰も負けないでいると、それを見ていた師匠は煙管で煙草盆をぽんぽんと二回打って、「節だよ、節。」と言いますと、今まで二人を倒し、三人目は自分と同じ腕前なので、節落としを忘れていたことを思い出して、謝名の兄は鍔と指の節をみな切り落とされますと、その兄は落ちる刀の柄先を、足の親指と他の指の間に挟み、豊見城の喉元目掛けて蹴り投げたのです。だが、豊見城は首巻をしているのでその場を逃れたのです。三人倒したので師匠が降りて来られて、「よくやった、一人前男。」と背を軽く叩きました。すると、そこに瘡(かさ)ができましたが、琉球には初めての瘡で治療法がわからず、豊見城は死亡したとの事ですが、謝名兄弟は修行の面では豊見城より上手であって強かったそうです。それで、本当は合い死にする筈だったそうです。その後、「よくやった、一人前男。」と言われた故に、豊見城家には男の子は一人づつしか生まれなくなり、多くはならなかった、という話である。そして、初めてできた瘡は首里(すい)上国から出た瘡なので、上瘡という名が付いたそうです。また、倒れた三人は天に昇って三つ星となり、謝名親方は七つ星となって、天から琉球の行く末を見守っているとの事です。平成9年2月17日 高江洲亮翻字 T4A3 |
| 全体の記録時間数 | 5:22 |
| 物語の時間数 | 5:22 |
| 言語識別 | 方言 |
| 音源の質 | ◎ |
| テープ番号 | - |
| 予備項目1 | - |