だから、一番なき、城(じょう)、城(ぐしく)が古いもんはね、今帰仁城、このあまみ、アスミの御嶽に上陸やった人がね、そして、西海岸を、通って、古宇利島通って、古宇利島ではね、あまり、農作物もまだアマミキヨの一行だから、初めてのことだからね、なぁ、海の魚やらなんやら、また、稲(いな)、稲や出来ないところに、水はない、あ、あまりないから、古宇利島はね、えぇっと、ながむちやるわんぐまちわんやる、うたびみそうりうっちん加那志ゆうたこともあるらしいよ、うたびみそうりとうとうめぇ、と言って、この一行だっただろうと思う、西海岸も、辺戸岬から西海岸通って、えぇ、もう(・・聞き取り不能・・)そして、これから、古宇利島を、過(しゅ)、過(しゅ)ぎてね、もう本部崎を、あんに、もと、山原本部に来てね、本部の、具志堅に浜に上、上陸するわけさぁ、この一行は。そして、この具志堅に浜に上陸した人が、今の今帰仁城の、なら支障はない、この当時、クボー御嶽と言ってね、こっちで住まいをやったわけさぁ。そって、こっちで住まいをやって、子孫を沢、広げてね、こっちでもう地盤を固めてね、もう子孫が沢山なったから、そって、このときに、二千三百年前に今帰仁城はできるわけさぁ。
これもうまぁ、本土ぉからも、貝塚専門の方々がいらっさってね、鑑定して、これもう出したらしいよ、これはもうあっちの浜から上陸して、そうして、今帰仁城造(ちゅ)った、天孫氏、あ、あ、アマミキヨ、シネリキヨ一行が、だから、こっちではねぇ、まっ、東(あがり)回(まぁい)と言って、各全琉の門中(むんちゅう)が、東(あがり)回(まぁい)の海岸づたい、住まいりやる、もっ、この当時は、すっ、まっ、自然の材料で、自然のまた洞窟で、生活(くゎつ)やりながら、生活を、今の子孫を作ってきているさぁ。だから、このときは、に、拝むが、今の東(あがり)回(まぁい)、東(あがり)回(まぁい)、みん、皆、全琉のね、しっ、祖先代、代のね、子孫になっているわけさぁ、ふたちんになっているわけさぁ、今帰仁天孫氏ね、今帰仁(・・聞き取り不能・・)屋部から辺戸岬に上陸した、千七百年から二千六百年前、そして、千九百年前は、い、い、与論島に上陸して、中頭に比嘉、比嘉、比嘉島に上陸して、あれから久高に渡って、そして、斎場御嶽そして斎場(せぇば)御嶽で、若層青年(にぃせぇ)たぁが、やじんをやりながら、こっちをもうどう、こっちのようていをさぐいなかで、こっちの大きな、島で、生活をできそうだねぇと言って、ずっと南に行ったら、チニムイウカ、チニムイウカァと言ってね、水の豊富の、沢山あるね、あっちで、初めて、種を、種を蒔いてね、稲を作って、豊富に出来たもんだから、これをまた持ち帰って、久高島にもういるから、こうして、もう食べてやったりしているが、これではいかんと言ってね、もう久高島からもうい、大移動するわけさぁ。大移動すっ、斎場御嶽に来るとゆう計画が、だぁ、であるが、風の、もう冬がかいになっているかも知らんね、北風が強くて、このまま作用によって、筏船でね、作用によって、今の玉城百名(はくな)、下のヤハラジカサに上陸するわけさぁ。ヤハラジカサ、そして、ヤハラジカサに上陸やって、龍宮の神様に、あぁ、無事に到着、神様の方、神々、あぁ、ゆうれぇまんれぇの子孫かいぐうのぉ忘しぃびらん、このときに拝んだ天孫氏、えぇ、アマミキヨ、シネリキヨのね、拝んだもんが今でも、ハマリ拝みがあるわけさぁ、ヤハラジカサ。そうしてこっちから上陸して、こっち、上に上がったら、もう岩が、くりれぇ、かかてぇ、あぁ、もう大きな石で、屋敷のまんま、こっちは、もう冬でも、ある程度寒さも防がれるようにしてあるわけさぁね、こっちで、生活(くゎつ)するわけさぁ。浜川(がぁ)の御嶽、この当時は浜川(がぁ)の御嶽とは言わないよ、自然のもうこっちで生活、今はこの、お、この後を去って後、拝んむん所になって浜川(がぁ)の御嶽になるわけさぁ。うちの祖先代々のね、住まいた屋敷の跡だから、浜のちかいのね、川原がちょいちょい流れ、流れるからね、浜川(がぁ)の御嶽と付(ちゅ)けるわけさぁ。そうして、西(にしぃ)に行ったら受水走水と言ってね、田んぼも、平地だからね、こっちで、一応は田んぼを耕して、稲作りをするわけさぁ。そうして、こっちの、ミフゥダァと言ってあるがね、ミフゥダァ、こね、から、今からあれすっさぁ、あれだねぇ、丁度(ちょうろ)、今帰仁(なちじん)系、今帰仁(なちじん)城の按司の系統が、伊波按司(あんじ)と言ってね、もういるが、この伊波按司(あんじ)の四男が、もうこの、この当時からもうあれよう、もうツウカンも、時代(じでぇ)はツウカンの程度になっている、えっと六百五十年ぐらいだね。
レコード番号 | 47O378755 |
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CD番号 | 47O37C367 |
決定題名 | 稲作の始まり(共通語) |
話者がつけた題名 | - |
話者名 | 大城紀浩 |
話者名かな | おおしろきこう |
生年月日 | 19311230 |
性別 | 男 |
出身地 | 南風原町津嘉山 |
記録日 | 19910825 |
記録者の所属組織 | 南風原町口承文芸調査団 |
元テープ番号 | 南風原町T146B05 |
元テープ管理者 | 沖縄伝承話資料センター |
分類 | 本格昔話 |
発句(ほっく) | - |
伝承事情 | - |
文字化資料 | - |
キーワード | 今帰仁城,奄美,西海岸,古宇利島,農作物,アマミキヨ,海の魚,稲,辺戸岬,本部崎,山原本部,具志堅,クボー御嶽,東(あがり)回(まぁい)と言って、各全琉の門中(むんちゅう)が、東回い,与論島,中頭,比嘉島,、斎場御嶽,種,久高島,玉城百名,ヤハラジカサ,天孫氏,シネリキヨ,浜川の御嶽,田んぼ,稲作り,ミフゥダァ,城の按司の系統,伊波按司 |
梗概(こうがい) | だから、一番なき、城(じょう)、城(ぐしく)が古いもんはね、今帰仁城、このあまみ、アスミの御嶽に上陸やった人がね、そして、西海岸を、通って、古宇利島通って、古宇利島ではね、あまり、農作物もまだアマミキヨの一行だから、初めてのことだからね、なぁ、海の魚やらなんやら、また、稲(いな)、稲や出来ないところに、水はない、あ、あまりないから、古宇利島はね、えぇっと、ながむちやるわんぐまちわんやる、うたびみそうりうっちん加那志ゆうたこともあるらしいよ、うたびみそうりとうとうめぇ、と言って、この一行だっただろうと思う、西海岸も、辺戸岬から西海岸通って、えぇ、もう(・・聞き取り不能・・)そして、これから、古宇利島を、過(しゅ)、過(しゅ)ぎてね、もう本部崎を、あんに、もと、山原本部に来てね、本部の、具志堅に浜に上、上陸するわけさぁ、この一行は。そして、この具志堅に浜に上陸した人が、今の今帰仁城の、なら支障はない、この当時、クボー御嶽と言ってね、こっちで住まいをやったわけさぁ。そって、こっちで住まいをやって、子孫を沢、広げてね、こっちでもう地盤を固めてね、もう子孫が沢山なったから、そって、このときに、二千三百年前に今帰仁城はできるわけさぁ。 これもうまぁ、本土ぉからも、貝塚専門の方々がいらっさってね、鑑定して、これもう出したらしいよ、これはもうあっちの浜から上陸して、そうして、今帰仁城造(ちゅ)った、天孫氏、あ、あ、アマミキヨ、シネリキヨ一行が、だから、こっちではねぇ、まっ、東(あがり)回(まぁい)と言って、各全琉の門中(むんちゅう)が、東(あがり)回(まぁい)の海岸づたい、住まいりやる、もっ、この当時は、すっ、まっ、自然の材料で、自然のまた洞窟で、生活(くゎつ)やりながら、生活を、今の子孫を作ってきているさぁ。だから、このときは、に、拝むが、今の東(あがり)回(まぁい)、東(あがり)回(まぁい)、みん、皆、全琉のね、しっ、祖先代、代のね、子孫になっているわけさぁ、ふたちんになっているわけさぁ、今帰仁天孫氏ね、今帰仁(・・聞き取り不能・・)屋部から辺戸岬に上陸した、千七百年から二千六百年前、そして、千九百年前は、い、い、与論島に上陸して、中頭に比嘉、比嘉、比嘉島に上陸して、あれから久高に渡って、そして、斎場御嶽そして斎場(せぇば)御嶽で、若層青年(にぃせぇ)たぁが、やじんをやりながら、こっちをもうどう、こっちのようていをさぐいなかで、こっちの大きな、島で、生活をできそうだねぇと言って、ずっと南に行ったら、チニムイウカ、チニムイウカァと言ってね、水の豊富の、沢山あるね、あっちで、初めて、種を、種を蒔いてね、稲を作って、豊富に出来たもんだから、これをまた持ち帰って、久高島にもういるから、こうして、もう食べてやったりしているが、これではいかんと言ってね、もう久高島からもうい、大移動するわけさぁ。大移動すっ、斎場御嶽に来るとゆう計画が、だぁ、であるが、風の、もう冬がかいになっているかも知らんね、北風が強くて、このまま作用によって、筏船でね、作用によって、今の玉城百名(はくな)、下のヤハラジカサに上陸するわけさぁ。ヤハラジカサ、そして、ヤハラジカサに上陸やって、龍宮の神様に、あぁ、無事に到着、神様の方、神々、あぁ、ゆうれぇまんれぇの子孫かいぐうのぉ忘しぃびらん、このときに拝んだ天孫氏、えぇ、アマミキヨ、シネリキヨのね、拝んだもんが今でも、ハマリ拝みがあるわけさぁ、ヤハラジカサ。そうしてこっちから上陸して、こっち、上に上がったら、もう岩が、くりれぇ、かかてぇ、あぁ、もう大きな石で、屋敷のまんま、こっちは、もう冬でも、ある程度寒さも防がれるようにしてあるわけさぁね、こっちで、生活(くゎつ)するわけさぁ。浜川(がぁ)の御嶽、この当時は浜川(がぁ)の御嶽とは言わないよ、自然のもうこっちで生活、今はこの、お、この後を去って後、拝んむん所になって浜川(がぁ)の御嶽になるわけさぁ。うちの祖先代々のね、住まいた屋敷の跡だから、浜のちかいのね、川原がちょいちょい流れ、流れるからね、浜川(がぁ)の御嶽と付(ちゅ)けるわけさぁ。そうして、西(にしぃ)に行ったら受水走水と言ってね、田んぼも、平地だからね、こっちで、一応は田んぼを耕して、稲作りをするわけさぁ。そうして、こっちの、ミフゥダァと言ってあるがね、ミフゥダァ、こね、から、今からあれすっさぁ、あれだねぇ、丁度(ちょうろ)、今帰仁(なちじん)系、今帰仁(なちじん)城の按司の系統が、伊波按司(あんじ)と言ってね、もういるが、この伊波按司(あんじ)の四男が、もうこの、この当時からもうあれよう、もうツウカンも、時代(じでぇ)はツウカンの程度になっている、えっと六百五十年ぐらいだね。 |
全体の記録時間数 | 18:18 |
物語の時間数 | 18:18 |
言語識別 | 共通語 |
音源の質 | ◎ |
テープ番号 | - |
予備項目1 | - |