宮平の始まりと善綱大屋子(共通語)

概要

我が琉球の国の始まり、舜天から始まるんですよね。舜天が即位したのが、大体約八百年前です。八百年、約ね。それから舜天の王の三代続いて、その後は武寧王がたつんですがね。で武寧王の後に英祖王がたつんですよ。その英祖王の子供の、えぇ、これが大体、八百年、七百何年かですがね。その英祖王の子供に米須按司(くみしあんじ)〔 えっ。〕米須(くみし)。〔 米須按司。〕米須按司(くみしあんじ)と言うのが、おられてね、その子供に、その子供に、この米須按司(くみしあんじ)の五男に善綱大屋子(ゆくちなうふやく)、善綱大屋子(ゆくちなうふやく)と言うのが生まれてる。これは五、五男で、これの兄弟、あっちこっちに拡がってる、おりますがな。例えば久米島の(・・聞き取り不能・・)久米島になか、仲村、祖先ですが、えぇ善綱大屋子(ゆくちなうふやく)は五男ですが。これの、これがこっちの善綱嶽(ゆくちなだき)に来て、そこに居をかまえて、今善綱嶽(ゆくちなだき)ってありますね。居をかまえて、そして当時はタンパク質がないですからねぇ、釣りに、魚なんかタンパク質を(・・聞き取り不能・・)食べたんです。そこの魚釣りはねぇ、ずっと与那原の、うぃ、与那原のあっち西原境まで行って、そこの海岸にね、そこの海岸いて釣りをして、して帰って来て、それを家で食べるということですが。ある日釣りをしている時に大きな亀、亀ねぇ亀、亀が寄って来てね。これを釣ったわけ、そうしたら、これ、「大変な大事な物を捕った。」と言ってね。この大屋子(うふやく)はこれを、背負ってね、大きいから背負って、家に帰ったわけ、(・・聞き取り不能・・)帰ったら、与那原から与那覇、次の部落は与那覇ですよ。与那覇部落過ぎて宮平ですがね。そこの途中で亀に噛まれて、噛まれてね、死んだ、死んだわけです。そうしたら子孫の者は、そのいがらを、亡くなった死体を善綱嶽(ゆくちなだき)に葬った。それはお墓があったよ。お墓が、お墓がありました。私はそれ覚えてるんです。もう今の人は、あんた方は、〔 うん、覚えてます。〕覚えてる。墓があった。その墓の所へすすむが、いわゆるナーチャミーと言ってね。何回もナーチャミー行くんですよ。昔は。このナーチャミーの所へお見舞いに行ったら、いがらがない。墓開けたら。そうしたら上に、蚊が鳴いてね。ブーブーして鳴いた。そして子孫が上を見たらねぇ、「心配するな。私のいがらは天に昇天してるんだ。」と、「天に昇って神になってるから、心配するな。」と言うこと、言うてね。その話はそこで切れるんです。今僕等は神として祀ってね、善綱嶽(ゆくちなだき)に。その墓ぐゎぁは、あの頃はあったんですがね。終戦まで、今は無くなって、今は碑文を建ててあるんです。建てたその碑文に書いてありますよ。で、行ってみられれば分かりますが。そこの善綱大屋子(ゆくちなうふやく)が、ま、最初にここに来たと言うことなってますがねぇ。それと同時に大城(おおぐすく)、大城(うふぐすく)と言ってね、えぇ東大城(あがりうふぐすく)〔 東大城。〕今、今無いですがね。〔 えっ。〕今無いですがね、あぁこれ東大城(あがりうふぐすく)、東大城(あがりうふぐすく)、〔 東大城。〕〔 はい。〕そこに、それずっとあっちの、あぼ部落の上の方にあります。そこへ来て、それ善綱大屋子(ゆくちなうふやく)と同時頃に、こっちに来ておられる。来て何年居ったか分からんが、彼は(・・聞き取り不能・・)勝連(かっちん)に、あの行ってしまったようだ。(・・聞き取り不能・・)そこにも行ってしまって、ここに居なくなった。結局、善綱大屋子(ゆくちなうふやく)は亡くなったが、そこの子孫がここの農業を皆で守ったわけですよね。あの頃はここの農民はたした人じゃないですよ。(・・聞き取り不能・・)してこれぐらいかな、よくそこは私もはっきりしないんだが、そこの部落に残った者の農業を指導して、そしてそこを皆、ここの部落の前は田圃だったようですよ。田圃。善綱嶽(ゆくちなだき)の下に今度は、善綱井(ゆくちながぁ)と言う、古い井(かぁ)があって、今はそこは崇めてますけどねぇ、この井(かぁ)は、今も湧き水出るんですよ。そこは、あの辺の部落民は全部そこから水は飲んでおった。飲み水でもあったわけです。所が今はもう今は(・・聞き取り不能・・)だな。

再生時間:14:10

民話詳細DATA

レコード番号 47O378309
CD番号 47O37C343
決定題名 宮平の始まりと善綱大屋子(共通語)
話者がつけた題名
話者名 中村義永
話者名かな なかむらぎえい
生年月日 19120515
性別
出身地 南風原町宮平
記録日 19910828
記録者の所属組織 南風原町口承文芸調査団
元テープ番号 南風原町T110A02
元テープ管理者 沖縄伝承話資料センター
分類 伝説
発句(ほっく)
伝承事情
文字化資料
キーワード 琉球の国の始まり,舜天,武寧王,英祖王,米須按司,五男に善綱大屋子,久米島,仲村、,善綱嶽,魚釣り,与那原,大きな亀,墓,るナーチャミー,蚊,飲み水
梗概(こうがい) 我が琉球の国の始まり、舜天から始まるんですよね。舜天が即位したのが、大体約八百年前です。八百年、約ね。それから舜天の王の三代続いて、その後は武寧王がたつんですがね。で武寧王の後に英祖王がたつんですよ。その英祖王の子供の、えぇ、これが大体、八百年、七百何年かですがね。その英祖王の子供に米須按司(くみしあんじ)〔 えっ。〕米須(くみし)。〔 米須按司。〕米須按司(くみしあんじ)と言うのが、おられてね、その子供に、その子供に、この米須按司(くみしあんじ)の五男に善綱大屋子(ゆくちなうふやく)、善綱大屋子(ゆくちなうふやく)と言うのが生まれてる。これは五、五男で、これの兄弟、あっちこっちに拡がってる、おりますがな。例えば久米島の(・・聞き取り不能・・)久米島になか、仲村、祖先ですが、えぇ善綱大屋子(ゆくちなうふやく)は五男ですが。これの、これがこっちの善綱嶽(ゆくちなだき)に来て、そこに居をかまえて、今善綱嶽(ゆくちなだき)ってありますね。居をかまえて、そして当時はタンパク質がないですからねぇ、釣りに、魚なんかタンパク質を(・・聞き取り不能・・)食べたんです。そこの魚釣りはねぇ、ずっと与那原の、うぃ、与那原のあっち西原境まで行って、そこの海岸にね、そこの海岸いて釣りをして、して帰って来て、それを家で食べるということですが。ある日釣りをしている時に大きな亀、亀ねぇ亀、亀が寄って来てね。これを釣ったわけ、そうしたら、これ、「大変な大事な物を捕った。」と言ってね。この大屋子(うふやく)はこれを、背負ってね、大きいから背負って、家に帰ったわけ、(・・聞き取り不能・・)帰ったら、与那原から与那覇、次の部落は与那覇ですよ。与那覇部落過ぎて宮平ですがね。そこの途中で亀に噛まれて、噛まれてね、死んだ、死んだわけです。そうしたら子孫の者は、そのいがらを、亡くなった死体を善綱嶽(ゆくちなだき)に葬った。それはお墓があったよ。お墓が、お墓がありました。私はそれ覚えてるんです。もう今の人は、あんた方は、〔 うん、覚えてます。〕覚えてる。墓があった。その墓の所へすすむが、いわゆるナーチャミーと言ってね。何回もナーチャミー行くんですよ。昔は。このナーチャミーの所へお見舞いに行ったら、いがらがない。墓開けたら。そうしたら上に、蚊が鳴いてね。ブーブーして鳴いた。そして子孫が上を見たらねぇ、「心配するな。私のいがらは天に昇天してるんだ。」と、「天に昇って神になってるから、心配するな。」と言うこと、言うてね。その話はそこで切れるんです。今僕等は神として祀ってね、善綱嶽(ゆくちなだき)に。その墓ぐゎぁは、あの頃はあったんですがね。終戦まで、今は無くなって、今は碑文を建ててあるんです。建てたその碑文に書いてありますよ。で、行ってみられれば分かりますが。そこの善綱大屋子(ゆくちなうふやく)が、ま、最初にここに来たと言うことなってますがねぇ。それと同時に大城(おおぐすく)、大城(うふぐすく)と言ってね、えぇ東大城(あがりうふぐすく)〔 東大城。〕今、今無いですがね。〔 えっ。〕今無いですがね、あぁこれ東大城(あがりうふぐすく)、東大城(あがりうふぐすく)、〔 東大城。〕〔 はい。〕そこに、それずっとあっちの、あぼ部落の上の方にあります。そこへ来て、それ善綱大屋子(ゆくちなうふやく)と同時頃に、こっちに来ておられる。来て何年居ったか分からんが、彼は(・・聞き取り不能・・)勝連(かっちん)に、あの行ってしまったようだ。(・・聞き取り不能・・)そこにも行ってしまって、ここに居なくなった。結局、善綱大屋子(ゆくちなうふやく)は亡くなったが、そこの子孫がここの農業を皆で守ったわけですよね。あの頃はここの農民はたした人じゃないですよ。(・・聞き取り不能・・)してこれぐらいかな、よくそこは私もはっきりしないんだが、そこの部落に残った者の農業を指導して、そしてそこを皆、ここの部落の前は田圃だったようですよ。田圃。善綱嶽(ゆくちなだき)の下に今度は、善綱井(ゆくちながぁ)と言う、古い井(かぁ)があって、今はそこは崇めてますけどねぇ、この井(かぁ)は、今も湧き水出るんですよ。そこは、あの辺の部落民は全部そこから水は飲んでおった。飲み水でもあったわけです。所が今はもう今は(・・聞き取り不能・・)だな。
全体の記録時間数 14:16
物語の時間数 14:10
言語識別 共通語
音源の質
テープ番号
予備項目1

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