根人と言ってね、屋良に始めて入った根の人だと言われているがね、二、三箇所あってねえ、はっきりしないなあ。多分名前がねえ、根人だから、屋良に入った住民のねえ、一番先の人じゃないかと、そして、屋良の村作りしてね、ずっと、一番後ろの方に根家があって、だんだんだん子孫が繁盛して、前の方に発展していったと。南にずっと伸びた形跡があるから、多分それが本当じゃないかとなあ。屋良の一番地、二番地、三番地はね、この根人のね、地番だから、そういうことで、根人は、三番地と言う。方言では根人と言うがね、名前は知念だけど、どこから来たのか、そこが分からない。それで、屋良の住民は、どっから来たかということはね、なかなかねえ、解明出来ないですよ。我々が知っているのは、屋良に住んでおった後の住民であってね。ずうっと、祖先の住民は我々分からない。多分、人が住むということは、やっぱり海から来るはずだがねえ、海の所には住まない。川の中流ぐらいに泉を頼ってね、そこに住む。そうやって、畑のある所は、不思議に川の中流ぐらいに泉のある所だけにね、なっているんですよね。そういうことで、多分道は、この比謝川のね、中間にあるんですよ。そこにあのヒージャー井といってね、どんな旱魃でもね、水の枯れない大きな泉があるんですよ。そこに、多分海岸から来てね、そこに下りて住んだんじゃないかなあと予想されるわけでね。首領時代って言うんか、人間の初めね、その時にはその辺の周辺のね、あの八重山や、川は少しはあるから山や、山でね、色んな木の実や、けだものを捕まえてね、首領時代は食べたんじゃないかと。そして、それがだんだんだん、農耕時代になって、南に広い屋良平野があるからね、後で農耕の始まりのときは、そこで、農耕をやって耕すようになってから、ずっと南に発展していったんじゃないかなあと。そして、おほん。ずっと屋良の部落の形成がねえ、ずっと比謝川の、大川城と、そこに、大川城と言って城があるんですよね。この城が出来たのは、ずっと後のことだがね、この城を中心としてね、ずっと南の方に広がっていった。按司と分かる人が住むのは、今から四、五百年前の話だが、大川按司は、今帰仁から伊波に来てね、それから具志川、具志川から屋良に来て、大川の城主になった。そうやって、それからまあ按司時代でね、その按司が屋良を治めておったと。そして、按司時代が終わってから、屋良は、たくさんの住民がおって、そこで、何と言うか、区長制がですか、現代でも区長がいるが、按司時代はあっちこっちに按司がたくさん出ると、戦争が絶えないということでね、尚何王かな、この王様が按司を全部首里に集めたんです。首里に集めて、そして、自然に、天川城もなくなったわけです。だからまあ、首里の王様の時代から、その王様の配下になったから、地方の役人をこう置いてきて、その役人のうち、間切の百姓のね一番の大将を地頭代っていって、その地頭代を置いた。これは、今の村長さ。だから、屋良には、二、三箇所ぐらい地頭代家というのがあったんだがね、子孫は、今も実在しておるがね、こうして、立派な屋良も出来たんだが、その後全部字制になっていたが、戦後は区制になった。
| レコード番号 | 47O416561 |
|---|---|
| CD番号 | 47O41C348 |
| 決定題名 | 屋良の始まり(共通語) |
| 話者がつけた題名 | - |
| 話者名 | 池原吉助 |
| 話者名かな | いけはらきちすけ |
| 生年月日 | 19221220 |
| 性別 | 男 |
| 出身地 | 嘉手納町屋良 |
| 記録日 | 19940918 |
| 記録者の所属組織 | 沖縄国際大学口承研 |
| 元テープ番号 | 嘉手納T51A03 |
| 元テープ管理者 | 沖縄伝承話資料センター |
| 分類 | 伝説 |
| 発句(ほっく) | - |
| 伝承事情 | - |
| 文字化資料 | かでなの民話P4 |
| キーワード | 根人,根家,ヒージャー井,屋良平野,今帰仁,伊波,具志川,大川の城主 |
| 梗概(こうがい) | 根人と言ってね、屋良に始めて入った根の人だと言われているがね、二、三箇所あってねえ、はっきりしないなあ。多分名前がねえ、根人だから、屋良に入った住民のねえ、一番先の人じゃないかと、そして、屋良の村作りしてね、ずっと、一番後ろの方に根家があって、だんだんだん子孫が繁盛して、前の方に発展していったと。南にずっと伸びた形跡があるから、多分それが本当じゃないかとなあ。屋良の一番地、二番地、三番地はね、この根人のね、地番だから、そういうことで、根人は、三番地と言う。方言では根人と言うがね、名前は知念だけど、どこから来たのか、そこが分からない。それで、屋良の住民は、どっから来たかということはね、なかなかねえ、解明出来ないですよ。我々が知っているのは、屋良に住んでおった後の住民であってね。ずうっと、祖先の住民は我々分からない。多分、人が住むということは、やっぱり海から来るはずだがねえ、海の所には住まない。川の中流ぐらいに泉を頼ってね、そこに住む。そうやって、畑のある所は、不思議に川の中流ぐらいに泉のある所だけにね、なっているんですよね。そういうことで、多分道は、この比謝川のね、中間にあるんですよ。そこにあのヒージャー井といってね、どんな旱魃でもね、水の枯れない大きな泉があるんですよ。そこに、多分海岸から来てね、そこに下りて住んだんじゃないかなあと予想されるわけでね。首領時代って言うんか、人間の初めね、その時にはその辺の周辺のね、あの八重山や、川は少しはあるから山や、山でね、色んな木の実や、けだものを捕まえてね、首領時代は食べたんじゃないかと。そして、それがだんだんだん、農耕時代になって、南に広い屋良平野があるからね、後で農耕の始まりのときは、そこで、農耕をやって耕すようになってから、ずっと南に発展していったんじゃないかなあと。そして、おほん。ずっと屋良の部落の形成がねえ、ずっと比謝川の、大川城と、そこに、大川城と言って城があるんですよね。この城が出来たのは、ずっと後のことだがね、この城を中心としてね、ずっと南の方に広がっていった。按司と分かる人が住むのは、今から四、五百年前の話だが、大川按司は、今帰仁から伊波に来てね、それから具志川、具志川から屋良に来て、大川の城主になった。そうやって、それからまあ按司時代でね、その按司が屋良を治めておったと。そして、按司時代が終わってから、屋良は、たくさんの住民がおって、そこで、何と言うか、区長制がですか、現代でも区長がいるが、按司時代はあっちこっちに按司がたくさん出ると、戦争が絶えないということでね、尚何王かな、この王様が按司を全部首里に集めたんです。首里に集めて、そして、自然に、天川城もなくなったわけです。だからまあ、首里の王様の時代から、その王様の配下になったから、地方の役人をこう置いてきて、その役人のうち、間切の百姓のね一番の大将を地頭代っていって、その地頭代を置いた。これは、今の村長さ。だから、屋良には、二、三箇所ぐらい地頭代家というのがあったんだがね、子孫は、今も実在しておるがね、こうして、立派な屋良も出来たんだが、その後全部字制になっていたが、戦後は区制になった。 |
| 全体の記録時間数 | 6:56 |
| 物語の時間数 | 6:53 |
| 言語識別 | 共通語 |
| 音源の質 | △ |
| テープ番号 | - |
| 予備項目1 | - |