この野国総管と言うのはですね、嘉手納町の字野国という所の出身なんですよ。野国というのは、地域の名前ね。今もそこにあの墓があるんですけど、海のすぐ近くなんですよね。この人が生まれたのも今から400年前の人だから、すぐ海の近くだったので、小さい時からこの人は、泳ぎの練習したりして、お魚捕ったりなんかして海で遊ぶことが、好きであったわけ。だから、こう成人するまでも、泳ぎと言ったら、誰にも負けないぐらいのねえ。今だったら水泳の選手になっていたかもしれないけど、あの頃はそういうのないでしょ。とても泳ぎも上手だったそうですよ。それで、泳ぎも上手だし今度また船を操るのもサバニと言ってほら、昔は小さい木で作った一人乗りのボートさ。そういう物なんかのね、これしょっちゅう海を行ったり来たりしているから、その操るのがとても上手だったらしいね。で、成人すると、それまでにはもうもっとこの技術がこの人は、泳ぎから、船の操りからね、上達して、もう村中に広まるような腕を持っていたわけですよ。そして、この人が成人してから、これがやっぱり殿様の耳に聞こえて、「野国という村にね、こういった船を操るのが上手な人がいるそうだよう。」と言って。そしたら、今度、その琉球王は、中国と貿易をしているので、その船を操る人が欲しいわけですよね。してそれまでは、この人がこの野国総管分からないうちは、侍達が船でしょっちゅう中国に貿易に行ったり来たりね、したけれども、400年前のことですから、途中であの時化にあったり、いろんなのがあったりして船が故障したり、これは直しきれなかったりして、海に沈んでいった人も、たくさんいた。その後から、この野国の青年が船を操るのが上手だと知ってからは、これも成人しているから、この子をまた呼んで、「じゃ、今度の中国貿易にね、一緒に参加してくれ。」というふうにして、参加させたそうですよ。そしたらやはりこの人は、案の上技術が旨くて、そのどんな時化にあっても、どこにどう避難しておけば、どうのこうのっていうのも分かるしね、じぇんじぇんそういうあの事故がなくして、無事にその侍達をね、送り向かいしてくれたわけよ。それが、殿様には、気にいって、そんで、ちょっと中国との貿易にね、この人が船の船長さんみたいに、使われたわけですよ。で、この人は一緒に行ったある年、結局、沖縄にその前に、日照りがあったわけね。日照りがあってみんなが非常に生活に苦しんでいる時によ、何もないから、みんな飢え死にする人が多い時代。それをすまして、この人が、中国に貿易に行った時に、この人は中国行ってから、考えたわけですよ。「何かこっちにね、その自分が持ち帰って、自分の沖縄でためになるような事はないかしら。」と言って、考えてる所へ、その侍達が用事を済ましている間は、その頃のほら用事って一日、二日で済ますんじゃなくして半年ぐらいも掛かるでしょう。そうするとこの人は、船持ちだから船で退屈するさあね。で、その間にこの人は今度は、自分は中国をみんな周って来て、その地域を歩いて周ったら、そこに畑一面に、このかずらがね、いっぱいにしているのを見て、「これ何ですか。」って、そこの中国の人に質問したんですって。そしたらこれは食べ物だと。「どんなふうにして、生えているんですか。」っていちいち、見たらね、して、「これは芋というもんだよう。」と言って、で、こんなってく土の中にね、こうして芋が出来て、この芋は煮ても食べられるし、生でも食べられるし、それから天ぷらにしても食べられるし、でんぷんにしても食べられるし、色々この用途がたくさんあったみたい。そして台風に強いとその中国人から習ったから、そしたら、沖縄台風があの頃しょっしゅうあったから、「よし、台風に強い食物ったらこれだ。」と思い付いて、そして、これは、「どのぐらいの期間で出来ますか。」て、全部いちいち質問したら、「半年でこれは下にこんなにして芋が出来る。」と。そして、この芋でだけでなしに、「芋の葉っぱも、これは今度はまた、動物の飼料にもなると。捨てるものが一つもない。」と言った説明を聞いて、「ようし、これだ。」と言ってね。その頃、ほら、そういう植物の持ち出しは、今でもいろんな検査があるでしょう。それみたいに検査があるから、今度この青年は、「じゃ、これどうしたら持ち帰ったらいいかねえ。」って、考えたら、そこの人がね、「あの芋の葉っぱ、これを鉢植えにして持って帰りなさい。」と言うから、この人は、これを鉢植えにして、沖縄持って来たんですよ。そして、鉢植えにしたかずらをね、自分の家の畑に植えたら、どんどんどんどん広がっていって、これ自然に広がるんですよ。また、葉っぱが生えてきたら、またその先を切ってまた植えれば、またどんどん伸びるから、また切ってからまた植えて、あっちにも、れがどんどんどんどん増えた。そしたら、二つや三つからまた何日間かしたら全部伸びて行くでしょう。伸びたらまたそれを挿し木みたいにさ、切ったらまたすぐ植えられるの。こっちからも切ったらまた植えられるから、どんどん自分はね、畑一杯にその芋と言うのを植えたわけ。そしたら、これが半年して、収穫が出来るようになった。収穫が出来るようになったら、始めて食べるから、おいしいでしょう。こんなに大きい芋がね下にこんなに出来ていて、そいで、んなにたくさんの用途が出来ると言う事も聞いて、そして自分の家だけでもこんなに、食べきれないぐらいこんな畑いっぱいにあるから、で、それをみんなにも分け与えたら、みんな、「これ何かあ、何かあ。」してね、喜んで。「これは、芋というものだ。」と。そしたら、「あい、じゃあ、これはどんなしてやるか。自分達にも分けて、分けて。」と言ってね。隣近所が来るし、あれはもう今度村中になって。「私達にもこの葉っぱちょうだい。」と言って。「じゃ、私達もちょうだい。」って、隣からみんなま聞きづてに聞いて来て、みんな、「私達もちょうだい、ちょうだい。」して。したら隣の部落は北谷町の今の砂辺ですよね。そこの部落の人も、「あの嘉手納にはね、とってもおいしいのが植物が来てるんだってよ。行って貰ってこよう。」と行ってまたみんなそこに貰いに来るようになって、で、それでもどんどんその葉っぱから、どんどんどんどん増えて行くから、何処から来てもこの人も遠慮なしに全部にみんなに貰いに来る人みんなに分け与えたわけさ。それが、今度はね、那覇の真和志にいる儀間真常と言う人が、これ儀間真常と言うのはまた侍なんですよ。殿様に伝えて、一緒に中国の貿易に行ったり来たりした人で、友達なんだから。で、この儀間真常が、「あんたの所にその、おいしいのがあると言うんじゃないか、僕の所にもその苗をねえ、分けてくれ。」というふうにして、「ああ、いいですよ。」と言って、でその植え方やいろいろなもの教えて、今度この儀間真常の地域にもね、全部広まるようになって、「ああ、これはみな素晴らしいとこれはもう非常にもう大切な物である。」と言うことをそこのまた地域の人達もみんな分かって、そしてこの儀間真常が侍だから、殿様にまた申し上げたわけね。「こう言うようなね、沖縄に素晴らしいその食べ物が出来ている。これは野国の青年が良く分かる。」と言って。「よし、それじゃあね、野菜もないから、沖縄中のみんなが困っている。それを助けるために、沖縄中に、御前達二人でね、これを広めなさい。」と。そして、この野国の青年は学問はないから、この儀間真常は侍だから少し学もあるわけでしょ。で、二人で歩き回ってね、沖縄中に芋を普及して、で、みんなは、「芋大主、芋大主。」と言って、もうこの人は、非常に崇められたわけ。芋大主と言うのは芋の大主って書いて、もう大きな人という意味さあね。で、この人が来たらもう芋大主、大主ってみんながねえ、非常に崇めて、沖縄中をね、貧困から救い出して、やったけれども、次にその殿様が、「それじゃ君また今度ねえ中国に連れて行くから、その時の今度あんた、この機関士操るのが上手だから、あんたは野国の人だから野国総管という位を与えよう。」と言って。この中国に行く時にこの野国総管という名前をいただいたわけですよ。そうやって、何回かこの人は、殿様のお使いで、中国に行ったり来たりして、この芋は、この人が初めに持って来たから、野国総管は芋の恩人と。で、それが鹿児島の青木昆陽ですか、鹿児島の歴史の人物が青木昆陽っているでしょ。この人はまた沖縄に来て、「沖縄にね、こんな素晴らしいのがある。」と話を聞いて来て、こっちから芋を鹿児島に持ち帰って広めたのに、今度あっちではね、鹿児島はほら、薩摩だから、薩摩芋って付けたの。だから歴史はほら、本当は、こっちに最初に持って来たのはこの野国総管だけど、今度は、青木昆陽が鹿児島から貰いに来て、そして青木昆陽は鹿児島に広めたから、薩摩芋は青木昆陽が広めたというふうな解釈をしているところもある。そして、これまた今度沖縄では、儀間真常が広めたっていう人もいるわけ。なぜならばこの人は学問がなかったから、自分をピーアールすること出来ないでしょ。もうただ一生懸命働くだけしか分からんから。そしたら相手はもう儀間真常は学はあるし、そう言うのはよし僕が広めたにしようって言ったかそれは分からんないけど、この後世になって、今度はまたその儀間真常の出身の人達は、「儀間真常が芋持って来たってよ。」と言う人もいる。「何を言うか。これは何で野国総管って名前が付いているかあ。これは嘉手納町のあくまでも、野国の出身で、学がなかっただけであって、最初に持って来たり、この人がその気持ちがあったから持って来たんでしょ。その自分達の島の人をね、救いたいために中国を回り歩いて持って来たんだから、この人に本当のその力があった。」と言うのをね、今、嘉手納(かでなー)の人はこれを見直して、野国総管祭りなんかやっているんですよ。総管と言うのなんかその船の地位ね、位の名前だそうですね。で、この人はほら、昔は何か、まちゅーかさんらーか何か分からんけど、幼名があったはずだけど、そういうあれじゃなくして、昔の人は、そこの地域の名前を取るから、例えばこっち屋良だったら、屋良按司とかって言う名前付けるさ。地域の名前を取って、だからあの人は、野国に生まれたから、野国、そして総管はこの船持ちの位を付けて野国総管って付けたらしいですよ。これは、教科書にもねえ、芋持って来た人って、沖縄の三大恩人の中に数えられている。これが野国総管にまつわる話です。
| レコード番号 | 47O416552 |
|---|---|
| CD番号 | 47O41C347 |
| 決定題名 | 野国総管(共通語) |
| 話者がつけた題名 | - |
| 話者名 | 宮城巳知子 |
| 話者名かな | みやぎみちこ |
| 生年月日 | 19260412 |
| 性別 | 女 |
| 出身地 | 嘉手納町屋良 |
| 記録日 | 19940919 |
| 記録者の所属組織 | 沖縄国際大学口承研 |
| 元テープ番号 | 嘉手納T50A02 |
| 元テープ管理者 | 沖縄伝承話資料センター |
| 分類 | 伝説 |
| 発句(ほっく) | - |
| 伝承事情 | - |
| 文字化資料 | かでなの民話P138 |
| キーワード | 野国総管,琉球王は、中国と貿易,芋 |
| 梗概(こうがい) | この野国総管と言うのはですね、嘉手納町の字野国という所の出身なんですよ。野国というのは、地域の名前ね。今もそこにあの墓があるんですけど、海のすぐ近くなんですよね。この人が生まれたのも今から400年前の人だから、すぐ海の近くだったので、小さい時からこの人は、泳ぎの練習したりして、お魚捕ったりなんかして海で遊ぶことが、好きであったわけ。だから、こう成人するまでも、泳ぎと言ったら、誰にも負けないぐらいのねえ。今だったら水泳の選手になっていたかもしれないけど、あの頃はそういうのないでしょ。とても泳ぎも上手だったそうですよ。それで、泳ぎも上手だし今度また船を操るのもサバニと言ってほら、昔は小さい木で作った一人乗りのボートさ。そういう物なんかのね、これしょっちゅう海を行ったり来たりしているから、その操るのがとても上手だったらしいね。で、成人すると、それまでにはもうもっとこの技術がこの人は、泳ぎから、船の操りからね、上達して、もう村中に広まるような腕を持っていたわけですよ。そして、この人が成人してから、これがやっぱり殿様の耳に聞こえて、「野国という村にね、こういった船を操るのが上手な人がいるそうだよう。」と言って。そしたら、今度、その琉球王は、中国と貿易をしているので、その船を操る人が欲しいわけですよね。してそれまでは、この人がこの野国総管分からないうちは、侍達が船でしょっちゅう中国に貿易に行ったり来たりね、したけれども、400年前のことですから、途中であの時化にあったり、いろんなのがあったりして船が故障したり、これは直しきれなかったりして、海に沈んでいった人も、たくさんいた。その後から、この野国の青年が船を操るのが上手だと知ってからは、これも成人しているから、この子をまた呼んで、「じゃ、今度の中国貿易にね、一緒に参加してくれ。」というふうにして、参加させたそうですよ。そしたらやはりこの人は、案の上技術が旨くて、そのどんな時化にあっても、どこにどう避難しておけば、どうのこうのっていうのも分かるしね、じぇんじぇんそういうあの事故がなくして、無事にその侍達をね、送り向かいしてくれたわけよ。それが、殿様には、気にいって、そんで、ちょっと中国との貿易にね、この人が船の船長さんみたいに、使われたわけですよ。で、この人は一緒に行ったある年、結局、沖縄にその前に、日照りがあったわけね。日照りがあってみんなが非常に生活に苦しんでいる時によ、何もないから、みんな飢え死にする人が多い時代。それをすまして、この人が、中国に貿易に行った時に、この人は中国行ってから、考えたわけですよ。「何かこっちにね、その自分が持ち帰って、自分の沖縄でためになるような事はないかしら。」と言って、考えてる所へ、その侍達が用事を済ましている間は、その頃のほら用事って一日、二日で済ますんじゃなくして半年ぐらいも掛かるでしょう。そうするとこの人は、船持ちだから船で退屈するさあね。で、その間にこの人は今度は、自分は中国をみんな周って来て、その地域を歩いて周ったら、そこに畑一面に、このかずらがね、いっぱいにしているのを見て、「これ何ですか。」って、そこの中国の人に質問したんですって。そしたらこれは食べ物だと。「どんなふうにして、生えているんですか。」っていちいち、見たらね、して、「これは芋というもんだよう。」と言って、で、こんなってく土の中にね、こうして芋が出来て、この芋は煮ても食べられるし、生でも食べられるし、それから天ぷらにしても食べられるし、でんぷんにしても食べられるし、色々この用途がたくさんあったみたい。そして台風に強いとその中国人から習ったから、そしたら、沖縄台風があの頃しょっしゅうあったから、「よし、台風に強い食物ったらこれだ。」と思い付いて、そして、これは、「どのぐらいの期間で出来ますか。」て、全部いちいち質問したら、「半年でこれは下にこんなにして芋が出来る。」と。そして、この芋でだけでなしに、「芋の葉っぱも、これは今度はまた、動物の飼料にもなると。捨てるものが一つもない。」と言った説明を聞いて、「ようし、これだ。」と言ってね。その頃、ほら、そういう植物の持ち出しは、今でもいろんな検査があるでしょう。それみたいに検査があるから、今度この青年は、「じゃ、これどうしたら持ち帰ったらいいかねえ。」って、考えたら、そこの人がね、「あの芋の葉っぱ、これを鉢植えにして持って帰りなさい。」と言うから、この人は、これを鉢植えにして、沖縄持って来たんですよ。そして、鉢植えにしたかずらをね、自分の家の畑に植えたら、どんどんどんどん広がっていって、これ自然に広がるんですよ。また、葉っぱが生えてきたら、またその先を切ってまた植えれば、またどんどん伸びるから、また切ってからまた植えて、あっちにも、れがどんどんどんどん増えた。そしたら、二つや三つからまた何日間かしたら全部伸びて行くでしょう。伸びたらまたそれを挿し木みたいにさ、切ったらまたすぐ植えられるの。こっちからも切ったらまた植えられるから、どんどん自分はね、畑一杯にその芋と言うのを植えたわけ。そしたら、これが半年して、収穫が出来るようになった。収穫が出来るようになったら、始めて食べるから、おいしいでしょう。こんなに大きい芋がね下にこんなに出来ていて、そいで、んなにたくさんの用途が出来ると言う事も聞いて、そして自分の家だけでもこんなに、食べきれないぐらいこんな畑いっぱいにあるから、で、それをみんなにも分け与えたら、みんな、「これ何かあ、何かあ。」してね、喜んで。「これは、芋というものだ。」と。そしたら、「あい、じゃあ、これはどんなしてやるか。自分達にも分けて、分けて。」と言ってね。隣近所が来るし、あれはもう今度村中になって。「私達にもこの葉っぱちょうだい。」と言って。「じゃ、私達もちょうだい。」って、隣からみんなま聞きづてに聞いて来て、みんな、「私達もちょうだい、ちょうだい。」して。したら隣の部落は北谷町の今の砂辺ですよね。そこの部落の人も、「あの嘉手納にはね、とってもおいしいのが植物が来てるんだってよ。行って貰ってこよう。」と行ってまたみんなそこに貰いに来るようになって、で、それでもどんどんその葉っぱから、どんどんどんどん増えて行くから、何処から来てもこの人も遠慮なしに全部にみんなに貰いに来る人みんなに分け与えたわけさ。それが、今度はね、那覇の真和志にいる儀間真常と言う人が、これ儀間真常と言うのはまた侍なんですよ。殿様に伝えて、一緒に中国の貿易に行ったり来たりした人で、友達なんだから。で、この儀間真常が、「あんたの所にその、おいしいのがあると言うんじゃないか、僕の所にもその苗をねえ、分けてくれ。」というふうにして、「ああ、いいですよ。」と言って、でその植え方やいろいろなもの教えて、今度この儀間真常の地域にもね、全部広まるようになって、「ああ、これはみな素晴らしいとこれはもう非常にもう大切な物である。」と言うことをそこのまた地域の人達もみんな分かって、そしてこの儀間真常が侍だから、殿様にまた申し上げたわけね。「こう言うようなね、沖縄に素晴らしいその食べ物が出来ている。これは野国の青年が良く分かる。」と言って。「よし、それじゃあね、野菜もないから、沖縄中のみんなが困っている。それを助けるために、沖縄中に、御前達二人でね、これを広めなさい。」と。そして、この野国の青年は学問はないから、この儀間真常は侍だから少し学もあるわけでしょ。で、二人で歩き回ってね、沖縄中に芋を普及して、で、みんなは、「芋大主、芋大主。」と言って、もうこの人は、非常に崇められたわけ。芋大主と言うのは芋の大主って書いて、もう大きな人という意味さあね。で、この人が来たらもう芋大主、大主ってみんながねえ、非常に崇めて、沖縄中をね、貧困から救い出して、やったけれども、次にその殿様が、「それじゃ君また今度ねえ中国に連れて行くから、その時の今度あんた、この機関士操るのが上手だから、あんたは野国の人だから野国総管という位を与えよう。」と言って。この中国に行く時にこの野国総管という名前をいただいたわけですよ。そうやって、何回かこの人は、殿様のお使いで、中国に行ったり来たりして、この芋は、この人が初めに持って来たから、野国総管は芋の恩人と。で、それが鹿児島の青木昆陽ですか、鹿児島の歴史の人物が青木昆陽っているでしょ。この人はまた沖縄に来て、「沖縄にね、こんな素晴らしいのがある。」と話を聞いて来て、こっちから芋を鹿児島に持ち帰って広めたのに、今度あっちではね、鹿児島はほら、薩摩だから、薩摩芋って付けたの。だから歴史はほら、本当は、こっちに最初に持って来たのはこの野国総管だけど、今度は、青木昆陽が鹿児島から貰いに来て、そして青木昆陽は鹿児島に広めたから、薩摩芋は青木昆陽が広めたというふうな解釈をしているところもある。そして、これまた今度沖縄では、儀間真常が広めたっていう人もいるわけ。なぜならばこの人は学問がなかったから、自分をピーアールすること出来ないでしょ。もうただ一生懸命働くだけしか分からんから。そしたら相手はもう儀間真常は学はあるし、そう言うのはよし僕が広めたにしようって言ったかそれは分からんないけど、この後世になって、今度はまたその儀間真常の出身の人達は、「儀間真常が芋持って来たってよ。」と言う人もいる。「何を言うか。これは何で野国総管って名前が付いているかあ。これは嘉手納町のあくまでも、野国の出身で、学がなかっただけであって、最初に持って来たり、この人がその気持ちがあったから持って来たんでしょ。その自分達の島の人をね、救いたいために中国を回り歩いて持って来たんだから、この人に本当のその力があった。」と言うのをね、今、嘉手納(かでなー)の人はこれを見直して、野国総管祭りなんかやっているんですよ。総管と言うのなんかその船の地位ね、位の名前だそうですね。で、この人はほら、昔は何か、まちゅーかさんらーか何か分からんけど、幼名があったはずだけど、そういうあれじゃなくして、昔の人は、そこの地域の名前を取るから、例えばこっち屋良だったら、屋良按司とかって言う名前付けるさ。地域の名前を取って、だからあの人は、野国に生まれたから、野国、そして総管はこの船持ちの位を付けて野国総管って付けたらしいですよ。これは、教科書にもねえ、芋持って来た人って、沖縄の三大恩人の中に数えられている。これが野国総管にまつわる話です。 |
| 全体の記録時間数 | 14:54 |
| 物語の時間数 | 14:45 |
| 言語識別 | 共通語 |
| 音源の質 | ○ |
| テープ番号 | - |
| 予備項目1 | - |